慶長18年7月 朔日大坂を船出した延俊は五日の四つ時には日出に着いている。九日には無二(宮本武蔵としている)の兵法を御覧。
・七日、中津(内記居城=忠利)より飛脚参り候。小倉(忠興居城)へも茂左衛門を遣はされ候。
・十二日中務殿(細川孝之)へ御うつぼ(空穂)遣わされ候。
・十九日、小倉へ飛脚遣わされ候。松(松井)右近、益(益田)蔵人所へ御状。
・廿九日、助太夫ヲ中津(内記)へ遣はされ候。中津よりも御状共参り候。
8月 ・十三日、細内記殿へ飛脚遣はされ候。
・十四日、越中様(忠興)へ遣はされし人帰り申候。
9月 ・ニ日、朝御状遊ばされ、小倉へ遣はされ候。
・三日、内記さまへ遣はされ候飛脚、八つ時分に罷り帰り候。
・六日、細内記殿へ飛脚遣はされ候。
・八日、小倉へ鷹ヲ遣ハされ候。
・九日、細内記さまへ御状を遣はされ候。
・十二日、四つ時分ニ小倉より伝七郎罷り帰り候、越中様より御返事。
・十三日、内記さまへ御状二つ参り申候。但し、一つハやねふき遣わされ候。
・十四日、内記さまより御鷹一本(もと)、□り一つ参り申候。
・十五日、内記さまへ鷹の礼状を遣はされ候。
・十六日、(たばこを)御ぶんさま・・・内記(敬称脱)へ遣はされ候。
・十八日、稲葉四郎(一通)殿御内儀(忠興女・多羅)御果て候由ヲ申し来り候。則ち中津へも夜に使いを遣はされ候。
・十九日、小倉へ与右衛門を遣わされ候。松右近・かが隼人・益蔵人・松式部何もへ御状遣はされ候也。
・廿六日、羽越中(忠興)さまへ柿一籠御音信成され候。
・廿七日、今朝ハ細内記さまへ柿の髪籠を遣はされ候。
・廿九日、今朝細内記さまより飛脚帰り候。
昨日は一日10号台風の行方を気にしながらまんじりともせず過ごしたが、幸いなことに健軍川は川幅いっぱいの流れになることもなく、大風が吹き荒れることもなく今朝を迎えた。
鹿児島の薩摩川内あたりでいったん上陸した台風は、八代海ー有明海と進み、雲仙あたりを転向点として熊本県玉名市あたりに上陸し北北東に進路を取り、まだ九州を離れていない。
非常にゆっくりとした台風で、あまり前例のない迷惑台風である。
専門家の進路予想がことごとくはずれたのも珍しいのではないか・・・
懸念された強風が吹き荒れることもなく、一番心配された停電などもなく我が家周辺では拍子抜けの台風であった。
この後雨が降るのかもしれないが、大風が吹くことはなさそうで大いに安心して今日の朝を迎えた。
被害に遭われた皆様には心よりお見舞いを申し上げる。
慶應◆戦国~江戸初期随一の文化人【細川幽斎】真筆 紙本墨画 茶杓図に賛(狂歌一首) 横物掛軸 時代表装
歌に添えられて、茶杓と茶杓入れが描かれている。
す
寿つり
と おく 幽齋
堂きの の
かい 茶杓能
可以あらハ の
す 我後乃
世を春くい
たまへや
二年前の2022:9:17日■台風節近中、31年前を想うを書いているが、この台風は私が知る限りで熊本を通過した台風で一番被害をもたらした台風のことである。
県下の家屋被害はすさまじく、我々建築士は数か月その被害調査に駆り出されたが、最大の被害は各地で電柱が倒れ、熊本市内でも1週間~10日ほどの停電はざらであった。
今回の10号台風は鹿児島の西海上を北上する風が、天草の南の沖あたりを転向点として33年前(平成3年9月27日)の台風19号と同じようなルートをたどるのではないかという不気味さがある。
私は昭和28年の熊本大水害、平成3年の台風19号、そして平成28年の熊本大地震と、それぞれトップクラスの大災害を経験したが、私が生きている間には記録更新は願い下げである。
久しぶりにクーラーを切って窓を開けて風を通しているが、やはり自然の風が断然良い。台風の方もなるだけ穏やかに、あまり被害をもたらさないでお通りいただきたいものだ。
無信心者には神様にも仏さまにもすがれないが、後は台風さまにお願いするしか方法がない。
「肥後讀史総覧」の上巻に「儒学系図」が掲載されている。日本国に於けるそれぞれの始祖に連なる熊本の学統の流れである。
程朱学(三系統)、陽明学(二系統)、敬議学、復古学、古注学(三系統)が並んでいる。
その中でも程朱学の佐藤一齋は木下韡村の師として知られるが、陽明学に於いても佐久間象山や熊本の澤村西陂の師として紹介されている。
井上毅(梧陰)は木下韡村の弟子としている。
横井小楠や元田永孚が師と仰いだ大塚退野も陽明学から朱子学に転じた人だが、熊本の西依成齋や草野潜渓といった人たちの師ともされるが、草野潜渓は林家の流れである佐藤竹塢-固庵の弟子でもある。
そして藩校・時習館の設立に関わり初代教授となった秋山玉山は、朱子学の正統・林家の流れであり、多くの弟子を輩出している。
綱利代、異学徒として追放された陽明学の北嶋雪山は中江藤樹-熊澤藩山の学統であり、朝山自全の師石川常庵は中江藤樹の弟子と紹介されている。
次回その系図をご紹介したい。熊本県関係者
程朱学
藤原惺窩ーーー+ーーー郡波活所
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+ーーー林 羅山ーーー林 鷲峰ーーー+ーーー林 鳳岡ーーー+ーーー秋山玉山ーーー+ーーー村井琴山
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| | +ーーー辛島青渓ーーー辛島塩井
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| | +ーーー渋江松石
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| | +ーーー池辺蘭陵 +ーーー安東節庵
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| | +ーーー高本紫溟ーーー+ーーー桜井東門
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| | +ーーー千葉芸閣 +ーーー嵯峨朝来
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| +ーーー林 榴岡 ーーー+ーーー林 鳳谷
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| +ーーー 渋井太室ーーー林 述齋ーーー+ーーー佐藤一齋 ーーー木下韡村ーーー+ーーー井上梧陰
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| +ーーー松崎慊堂 +ーーー坂田警軒
+ーーー佐藤竹塢ーーー佐藤固庵ーーー草野潜渓
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+ーーー林 三陽
まんもく なび はき
「二百十日の風と雨と煙りは 満目の草を埋め尽くして、一丁先は 靡く姿さえ、 判然と見えぬようになった。」
夏目漱石の「二百十日」の書き出しである。
余りにも毎日暑いので少々不謹慎だが、台風十号のおこぼれを頂戴して熊本にも少々雨が欲しいと思ったりしていたら、その不謹慎が祟ったのか向きを
変えて九州上陸、熊本通過の公算が大きくなった。
今の子供さんたちは「二百十日」等という言葉も、ひょっとするとご存知ないかもしれないが、私らが子供の時にはこの時期になるとやや構えたものだった。
TVもなかった時代、ラジオから流れる台風情報を聞いたものだが、これは予防にも何もなりはせず、気が付いたときにはあちらこちら被害が出ているという
ような状態だった。
そもそも台風という言葉は、明治の末に気象台によって使われ始めた気象用語である。
それまでは「大風」などと表現していたのだろうが、「野分」という優雅な言葉がある。
阿蘇のススキが原を風が自在に走り廻る様は、まさに「野分」という言葉がふさわしいと思えるが、木が倒れ屋根が吹き飛び家が倒壊する様などは、そんな
優雅な言葉で一からげにはできないように思える。言葉の限界だろう。
二百十日とは立春を起算日としているから、ほぼ9月1日前後となるが、今年は8月31日になるようだ。
気配りの台風10号は速度を緩めながら、まさに二百十日に合わせるかのようにやってきた。
熊本は30日に通貨予定だが、雨も風も被害が出ないようにほどほどにしてお通り願いたいものだ。
二百十日は俳句の世界では「厄日」ともいう。熊本を題材にした大島民部という方の句がある。
をかぼ
火の国の厄日過ぎたる陸稲の香
コメ不足と云われる中、こちらも被害が出ないように大いに願いたいものだ。
i69◆諏訪大社◆権祝 矢嶋左京・神長官 守矢◆肉筆 花押入り 書状◆当本社建替 寄附 折紙 神職 社家 神道 神社 信州 長野県@古文書/書簡
建築設計を生業にしていた私にとって、「神長官・守矢家」と聞くと、藤森照信教授(当時 東京大学生産技術研究所助教授・現 東京大学名誉教授)が、初めて設計して世間をあっと言わせた作品として記憶している。
正式には「神長官守矢史料館」というが、長野県茅野市の守矢家の広い敷地の中に建設されている。
さてこのオークションに出品された文書は、当時諏訪大社本社建て替えに関する資料らしい。
權祝・矢嶋左京と守矢主殿の連名でお役人中様宛となっている。大変興味深い資料だが、「神長官守矢資料館」が平成四年当時発表されたときの驚きを懐かしく思い出す。
茅野市の資料からその写真を引用させてご紹介する。
そして近くにはこんな作品もある。https://www.youtube.com/watch?v=wMhEdwFZp4U
藤森教授の独特なデザインによる作品は、湯河原の細川邸「不東庵」の敷地の中にある茶室「一夜亭」や作陶の工房などでも知られている(湯河原だより|細川護熙 公式ホームページ)が、どの作品も非常にユニークなものである。
先日近所のスーパーで米を購入したが、いつも山住に平置きされている米の嵩がやけに低い。
あまり気にもかけずにいたが、友人の電話で「コメ不足」の状態にあるのだという。
そういえば、東北地方の「コシヒカリ」の収穫が壊滅的に減少しているという話を聞いたような気がした。
最近ではタイ國が、この機に乗じてタイ産米の輸出に積極的だとメディアが報じている。
新米がそろそろ出てくる時期だから、そう深刻な話ではないのだろうが、今年の異常な暑さが出穂期に影響しているらしいとも聞く。
「コメ騒動状態」だと友人は言う。確かにスーパーのおコメの嵩は減ってはいるが、少々過剰反応ではないかと思ったりもする。
大量消費している「お弁当屋さん」等は、のうのうとはしておられず、つてを頼って調達に走り廻っているともきく。
そうであれば、特別な品種のコメはともかく、粗方100%国内自給出来ていたのに異常事態ではある。
朝のトーストを焼きながら、友人の口吻ぶりをちょっと信じて、「御飯」は「お弁当屋さん」から調達しようかとふと思ったりした。
我がマンションの下を流れる健軍川はなかなか面白い。今日も14:30分過ぎ雷鳴がとどろき健軍川上流の方向が暗くなってきた。
これは干上がっている川に水が戻るぞと思っていたら、約20分ばかりしたら川幅いっぱいとはいかないが水位が1m程上がった流れが復元した。
我が家周辺も一瞬ザーッときたがそれでおしまい。健軍川は最近こんな状態を何度も起こしている。
どうやら日本は亜熱帯化したのではないかとさえ思わせる。台風十号が列島を襲いそうだが、例年お決まりの九州コースの台風が発生していない。
今日もそろそろ近所のスーパーへ出かける予定だが、34℃くらいの気温らしい。
例年ならば「9月中旬の藤崎宮の秋の例大祭を迎えると、熊本は随兵寒合といって朝夕は涼しさが増して・・」などと書くのだが、どうやら今年はそうも
いかないのではないか。10月に成らねば、休止中の朝の散歩も再開には至らないようだ。
PCを叩く私の定位置で顔を上げると、ベランダのわずかの隙間から、健軍川の流れが100m程が縦方向に都合よく収まって見える。
濁流はまだ収まっていないが、東の方に空も明るくなって雷鳴も聞こえなくなったから、あと一時間もするとこの流れも少々深みのある水たまりをいくつ
か作って途切れてしまうことになる。
いつも思うのだが、100mほど上流にある「堰」で止まっていた小魚たちが、こんな増水が来ると流されてしまうが、水たまりに取り残されてアオサギや
カラスの餌食になっている。江津湖迄すっかり下り切りなさいと声を懸けたくなる。
一、慶長五年八月廿五日、岐阜より赤坂へ御押詰、忠興君初之御陳所大垣江向ひたる田端ニて大垣へ之道有之候間、西郡大炊助・
住江小左衛門両人物見ニ被遣、道筋の体御聞届被成、陳小屋の様子等被仰付候
西郡・住江か物見の次第御意に叶ひ、御褒美として西郡ニ備中宗次、住江ニ粟田口藤馬之允則国の御腰物を被下候、
西郡か家の申伝に、右物見被仰付候節、彼辺の地利・敵方の様子等諸将とり/\御噂之中に、両人罷帰詳く申上候処、
忠興君思召之通候哉、よく見申たるとの御意ニて、御機嫌能御座候よしなり、右宗次之御腰物今以持伝申候
武徳安民記ニハ、岐阜を攻し東国勢悉く赤坂に進て岡山の四方に屯を張る、中務太輔籠けるを、細川・黒田の両
将是を襲ふ中略、中務砦を棄て大垣に帰ると云々、いまた詳く不考
扨しのひを入て敵の形成を窺はせられ候中にも玄蕃殿江御談合ニて、田伏八右衛門と申忍の巧者を被遣候ニ、無程罷帰、
大垣江入たる証拠に頭を取腰差を添持帰候、腰差は嶋津家の紋なり、一ニ鈴と脇差を取帰ると有
(綿考輯録から)
最近歌手・白鳥英美子さんの「愛燦々」の歌唱にとりこになっている。偶然Youtubeで見つけたものだ。
この曲はいわずもがな小椋佳氏の作詞作曲によるものだが、白鳥さんの素晴らしい歌唱力と声質がマッチして、この曲には一番の適任者ではないかと思ったりする。
此のところ「漢字」や「言葉」に興味があって、いろんな本を読んだりしているが、この「愛燦々」は小椋氏の造語だと聞いたことがある。
一番から「雨潸々」、二番は「風散々(さんざん)」、三番が「愛燦々」と、韻をふまえた言葉を各章の頭に据えたレトリックが大変印象深いが、「散々」はともかく「潸々」や「燦々」という言葉は、その文字さえ日頃はあまりお目にかからないもので、小椋氏の並々ならぬ語彙力でもって成された詩であることが判る。
潸・燦など云う字は改まって詳しく眺めてみないと、書けと言われて正確な文字を書くことさえできない。
考えてみると古文書の世界でも、私は今まで出会っていないように思う。
時々白文の漢詩などを読んでみようとチャレンジしたりしてみるが、日本では使われていないだろうと思われる漢字が度々登場して、太刀打ちできる話ではない。
早々に白旗を掲げて退散することになる。
「言霊(ことだま)」という言葉があるが、小椋氏の詩や歌の世界はまさに言葉が命を宿して昇華して、そして最高のメロディーがそえられて高みへ至った。
白鳥さんの歌声を聞くと、自ら望んで歌いたいと思われたであろう確信が見て取れる。詩と曲が人を呼んだ。
82にもなる爺様が時々口ずさんだりしているが、小椋佳氏は私より二歳と一日お若い。まだまだのご活躍をお祈りしたい。
細川内記(忠利)は慶長18年の正月は江戸で迎えている。義叔父(忠興妹・加賀の婿)の日出藩主・木下延俊、義弟の稲葉一通(妹・多羅の婿)の父で臼杵藩主の稲葉彦六(典通)などと江戸での生活を助け合っている。
正月の末帰国の御暇が出ると三人はそろって帰国の途に就き、京都までの道中は宿場町を同じくするなど、さらなる交流を深めている。
京都で延俊は、豊臣秀頼や叔母に当たる高台院(秀吉正室・ねね)などに面会するなどしてしばらく滞在している。
細川内記は帰国の途に就いた。
慶長18年
3月29日ー細内記殿より御使者並びに御樽肴参り候。
4月19日ー高台院さまへ御ぶん(豊ー細川加賀二女)さま、かつじき様御出候。
29日ー津田平左衛門尉殿へ細川内記殿の御状を遣はされ候。
5月 6日ー長岡中将(中務ー細川孝之=幽齋四男)より御使者。
7日ー(大徳寺高桐院)玉甫様(三淵氏・幽齋実弟)へ二郎兵へヲ遣はされ候。
26日ー玉甫様へ御見廻成され候。
6月 1日ー晩ニ内記さまノ(御使者)三郎四郎、江戸より罷り上り御対面成され候。
17日ー長岡中務(孝之)殿より使者参り候。
18日ー大徳寺玉甫様御はて成され候。
(延俊は28日には京都を離れ大阪へ向かった。29日には秀頼へ御礼、織田有楽斎の茶湯に出席、7月1日帰国の途に就く)
■池邉吉十郎・上田久兵衛宛西郷隆盛書簡etc
【模写】【伝来】ek8136〈西郷隆盛〉書簡巻物 池辺吉十郎・久田休兵衛宛て 極箱 3枚貼交 薩摩藩士 明治維新の指導者 明治時代 武士 士族 こういう西郷隆......
ちょうど一年前、高祖父・上田久兵衛に係る文書だから大いなる興味を持って読んだ書簡(1)である。
久兵衛は西南の役においては、局外中立の立場を貫いて川尻町が戦火に巻き込まれるのを防いだ。
一時期そのことで表彰さえ受けているが、その後西郷隆盛・池邉吉十郎に加担したとして斬首の刑に処せられた。
戦時裁判に於ける判決文を読むとそのようなことが書かれており、久兵衛はこれを認めた形になっている。
東京大学史料編纂所教授の宮地正人先生が「上田家文書」をまとめられた、「幕末京都の政局と朝廷」によると、西郷と久兵衛は「公武合体」の強力な推進者としての久兵衛の立場をして、お互いを大いに非難しあう関係にあった。
しかし上の書簡は、西南戦争に当たっては西郷と久兵衛の関係が埒外のものではないことを示している。
親族としてはこんな書簡の存在は、大いに頭を悩ませるものである。
今日という日は21年前(2003年)我がサイトが産声を上げた日である。大いなる難産ではあったが、まがりなりにも順調に成長してきたように思う。
私が61歳の年齢での誕生である。友人たちがデータの信ぴょう性を高めるために、出典の表示をしろとやかましくいってくれた。
「肥後細川藩侍帳」が何といってもメインなのだが、いまだに新たな発見があって書き込みを加えながら進化している。
今年の課題は、そろそろこれを改訂版としてUPさせることである。
そしてこれを何とか長く皆様にご覧いただけるようにいなければならないと考えている。
ドメインとサーバーのレンタル期間を長期契約しておけば、もしものことがあっても契約期間中はサイトでご覧いただける。
書籍化を考えたこともあるが、校訂がすこぶる難儀であり、人様の手を借りることもままならず、これはほぼあきらめ気味である。
ブログの方は私の単なる暇つぶしのようなものだから、これは「もう駄目だ」と思ったらすっぱり止めるつもりでいる。
まさかこんなに長期間、全国の皆様にご愛顧を蒙るとは思ってもみなかったし、これが励みとなって続けてこられた。皆様に絶え間なくガソリン補給をしていただいた。
過日ウイルスか何か原因が判らないが、ブログに不具合が起きたときに、カウンターが亡くなってしまったことに暫く気づかなかった。
復旧は可能なのだが、余り数字にこだわらずにのびのび行こうと、そのままにしている。
ボケもせずに??ここまで来たから、米寿くらいまでは何とか頑張ろうと思っている。あと6年・・ちょうど2030年です。
皆様のお力添えに深甚なる感謝を申し上げます。