掛軸R4-6-52B[細川興彭(隼人 青丘)]『古文書』紙本 書いたもの 木箱/書状 書簡 消息 古書 古筆 小堀十一郎 熊本
細川刑部家嫡家の6代当主興彭は、細川宗家の出、細川重賢の異母弟である。異腹の兄弟ながら大変仲の良い兄弟で親しい交流があったと伝えられている。
宛先は茶道頭の小堀全順、現・肥後古流小堀流家元家の四代目である。
大きく拡大してプリントアウトして勉強をさせて戴こうと思う。
掛軸R4-6-52B[細川興彭(隼人 青丘)]『古文書』紙本 書いたもの 木箱/書状 書簡 消息 古書 古筆 小堀十一郎 熊本
細川刑部家嫡家の6代当主興彭は、細川宗家の出、細川重賢の異母弟である。異腹の兄弟ながら大変仲の良い兄弟で親しい交流があったと伝えられている。
宛先は茶道頭の小堀全順、現・肥後古流小堀流家元家の四代目である。
大きく拡大してプリントアウトして勉強をさせて戴こうと思う。
新・肥後細川藩侍帳【う】の部 ■ ■ ■ ■ ■はそれぞれの同族である。
■氏家熊三郎は、美濃三人衆の一人で大垣城主、永禄七年織田信長に属し数度戦功有 姉川合戦の刻浅井斎助列討取、勝利を得、
元亀二年五月十二日勢洲長島陣の折殿(しんがり)をつとめ討死した常陸介藤原友国入道卜全を祖とする。
(南東30-1) 氏家甚左衛門家の11代・熊太郎・元穀 家紋は「左巴紋」
■氏家久左衛門は、本家2代元高の二男元知を初代とする(南東30-2)氏家祥助家の6代目・鷹之允・頼房(養子 実・吉田平兵衛弟 久左衛門)
家紋は本家同様である。
■上羽四郎大夫は、(南東30-18)上羽 蔀家の8代目で高橋町奉行を務めた牧之允(四郎大夫・蔀)
家紋は「隅切り平角に毬寄せ陰紋」
■上羽左大夫は、(南東30-19)上羽弥八郎家の5代目才次郎(左大夫・新助)か。家紋は本家と同じ
■上田卯助は、(南東31-1)上田新兵衛家の8代・常之進(養子 新兵衛・卯助・新兵衛)か。家紋は「杏葉紋」
■上田英八は、(南東31-5)上田久兵衛家の8代(6代男)、家紋は「丸に四つ結紋」「 ? 」
■上田弥兵衛は、(南東31-2)上田軍次家の6代岩之丞(弥兵衛)、家紋は「丸に抱き柊紋」「 ? 」
■上田十蔵は、(南東31-3)上田箶矢郎家の6代。家紋は「丸に三つ星」「 ? 」
■上野武七郎は、【丹後以来】(南東31-6)上野惣右衛門家の8代目。玉名・小国・久重などの郡代を務めた。家紋は「隅切り平角に三つ柏紋}
■上野平八は、【丹後以来】(南東31-7)上野善右衛門家の7代目勘平(平八)。家紋は「丸に隅立一つ目角」
■上野弥嘉良は、(南東31-9)上野堅五家の7代・屯(弥嘉良・弥佳良)。家紋は「左三つ巴紋」
■上野彦左衛門は、(南東31-10)上野多源太家の5代目。家紋は不詳。
■上野貞右衛門は、(南東31-12)上野鼎次郎家、5・6・7代目が貞右衛門を名乗り人物の特定は出来ない。
家紋は「黒丸に隅立平角に隅立四つ目」???
■上村理右衛門は、【丹後以来】(南東30-14)上村源造家の5代目藤喜(理右衛門)か。家紋は「三つ扇紋」「水車紋」
■上村権九郎は、【丹後以来】(南東30-11)上村甚之助家の9代目?。家紋は「丸に三つ菱紋」
■上村角右衛門は、【丹後以来】(南東30-13)上村角助家の3代目。郡代などを務めた。「隅切り立角に■■」「丸に五つ■■」
■上村多角は、【丹後以来】(南東30-12)上村又十郎家の6代多学(角)。家紋は「子持ち隅切り立角に梶の葉紋」「三つ扇紋」
同じ著書を二冊持っているというのは結構ある。一冊は保存用、一冊は書き込み用と言った感じだが、中には贈答の爲という本もある。
山本博文氏著「江戸城の宮廷政治」などは何冊買ったか・・現在でも4冊ある。
処が気が付かないうちにというのがこの二冊である。両方ともそう古くはないと思う。
一冊はデスク脇に積み上げた資料を整理する中で発見した。
一冊は熊本城関係の四冊の内の一冊として、別の所に積み上げてある。
熊本県立図書館には確か四冊所蔵しているが、貸し出し用は一冊しかなく、いつも「貸し出し中」だったので仕方なく古書を見付て購入した覚えがある。
新しい方は今年に入ってからかもしれない。
8件の論考が紹介されているが、夫々が面白い。この本はお薦めである。
これは傘寿爺様の耄碌のなせる業である事は間違いない。
数日前の夜間の突然の頭痛は熱中症の前触れだったろうと思う。
以来、脱水状態にならないようビールとコーヒーを摂生し、水を飲むことにしている。
2017-8-3に■熱中症?を書いているが、あんな苦い思いをしないようにとの思いである。
自分の居る位置がわからず携帯で位置を確認するも、どちらへ行けば我が家に帰れるのかが判らないという有様だった。
典型的な熱中症で今でも記憶に新しい。5年前だから75歳の時だが、今であれば倒れていたかもしれない。
九州は節電の話は出ていないが、やはりクーラーは一日中の必需品だと痛感している。
昨晩は寝る時にクーラーを消し、サッシュを開放して網戸として寝たが寝苦しい。28度くらいはあったのだろう。
今朝がたは毛布を引っ張り上げたが、朝から温度は急上昇、朝の散歩もゴミ出しのみにてやめてしまった。
このような感じでは朝散歩は出来そうにない。起きてすぐ出かける早朝散歩にしなければならないようだ。
そして、今日からクーラーも24時間運転にしようと思う。(摂生地区の皆さん、ごめんなさい)
熱中症で死んだなんて事は願い下げにしたい。
ある史料に殿様の初命日の法要に際しての香典の額が示されている。
今度御法事に付差上られ候香典員数左の通
一、鳥目百匹宛 御一門衆・御家老中・御中老中
一、同五十匹宛 御備頭・御留守居頭・大尾目附
一、同二十匹宛又三十匹宛 組外並に着座
一、御郡代以下御知行取御中小姓は一列一列、又は一組限鳥目百匹宛御寺納有之、
尤も組合小人数の面々は五十匹又は三十匹宛御寺納可有之事、
一、旅詰の面々は御香典被差上候に不及候事
鳥目(穴あき銭)の「匹」とは儀礼のためのもので、一匹(百文)の束、いわゆる「銭百文さし」が藁差しであるのに対し、白緒としたものである。
これを「白台(三方台)にのせ」名札を添える。組でまとめる場合は連名とし、上包みをかけ「覺」と記する。
これを忌日の前々日に泰勝寺に納めた。
■村藤猪左衛門は、(南東41-6)武藤猪造家、1・2・4・5・7代が猪左衛門を名乗り人物の特定が出来ない。
家紋不詳、ご教示願いたい。
■武藤小太郎は、(南東41-14)武藤喜平家の5代目か。家紋は「子持六角に唐花紋」
■宗像嘉一郎は、【殉死の家】(南東41-4)宗像加兵衛家の8代目加一郎・景知とも。初代清兵衛は切腹仰せ付けられる。
2代嘉兵衛・景定が忠利に殉死した。家紋は紹介されていないが「肥陽諸士鑑」に紹介あるが「頭合せ三つ州浜」か?
■宗像英太は、【殉死の家】(南東41-17)宗像三右衛門家の9代栄太(八助)。こちらは初代吉大夫・景好(嘉兵衛弟)
が忠利に殉死。家紋は同上
■村上善九郎は、村上水軍の一族(南東41-11)村上助之進家の7代目。家紋は「隅切り立角に上文字紋」
■村上次郎助は、同上(南東41-21)村上市右衛門家の7代目。家紋は「丸に上文字紋」
■村上七右衛門は、同上(南東41-19)村上鹿之助家の5代目八弥(七右衛門)。家紋は同上。
■村山甚助は、(南東41-1)村山傳左衛門 家の9代目。家紋は「細対い巴紋」
■村松長右衛門は、(南東41-3)村松市之助家の7代目市之進(長右衛門)。
家紋の紹介はないが「肥陽諸士鑑」には記載あるも、図が小さくて判読できない「丸に■■紋」
■村松岩吉は、(南東41-8)村松尉助家の4代目。家紋は「丸に違い丁子」
■村井永八は、(南東41-2)村井 猛家の4代目。家紋は「 」「 」
■村川作蔵は、(南東41-20)村川作左衛門家の7代目。家紋は「丸に桔梗紋」
■椋梨角兵衛は、(南東41-16)椋梨郡次家の6代圓太(角兵衛)。宝暦期ながく郡代を務めた。
家紋は「陰丸に一文字に三つ星」「亀甲に左巴紋」
■椋梨信八は、(南東41-9)椋梨丈右衛門家の4代目。家紋は「亀甲に左巴紋」で同上分家。
■梅原善内は、(南東41-15)梅原善之助家の7代膳内(善之助)、八代郡代などを務めた。
初代九兵衛は長曾我部一族にして名は政親、九兵衛と称す。細川侯に仕へ御使番組、御宝蔵預、御留守居役御目付などを勤め、
食禄六百石を賜はり、又有馬の役に功あり。尚細川綱利襲封の時珠功ありし故を以て袖引梅原の異名を得たり。
家紋は「隅立平角に違い矢紋」
■梅田藤大夫は、【丹後以来】 (南東41-13)梅田文之允 家の7代目辰次(藤大夫・甚右衛門)。家紋は「隅切り立角に梅鉢紋」
■村松藤八は、御馬方 (南東59-17 茶・鷹・馬)村松藤八家の3代目。家紋は「丸に違い丁子紋」
■村井椿寿は、(南東56-17 医)村井雲臺家の9代 椿寿(琴山)
名は■(木篇に屯)、字は大年、椿壽と称し、琴山と号す。見朴の長子なり。古医方を唱へ西藩其風に嚮ふ。稟禄百五十石、
再春館医員となり又侍医を兼ぬ。蓋し異数なり著書数十部あり。
家紋は「隅入り立角に違い鷹羽紋」初代が菊地肥後守藤原武包であることによる。
ウイキペディアより引用
■村井藤十郎は、(南東41-26)村井十右衛門家の初代。同上椿寿の弟で創家が許された。家紋同上
昨日は各地で「梅雨明け」宣言がなされたが、何故か熊本(九州北部地区)は入っていなかった。
近所で工事中の人たちがそのことを話している中で、「うっちょかれ(打ち置かれ)てしもうた」との声をきいた。
他の地域と何が違って「うっちょかれた」のか理解に苦しむが、どうやら今日には一日遅れの「梅雨明け」宣言が行われそうだ。
随分早い感じがするが、あと一週間くらい続いてもいいけどと、勝手に思ったりもする。
昨晩は寝る前に窓を開け放し、クーラーを切って寝たが、2時前頭痛で目が覚めて起き上がったが、晩酌と暑さのせいだったようだ。
脱水症状をきたしたようで、洗面所で顔や腕を洗い、冷たい水を多めに飲み、団扇をさがして再び就寝、何度も/\目を覚まし睡眠不足の朝を迎えた。
朝シャワーをして、クーラーをつけ、冷たい水を飲んで一息ついてこのタイピングをしている。
今の時間もうかんかん照り、遠くで蝉の合唱が聞こえる。うっちょかれたけれど、梅雨明け間違いなし・・・
そして今日からは脱水しないよう、利尿作用のあるコーヒー・ビールを慎むことにしました。
皆様も水分補給にお気を付けください。
今日もすでに30度近くになっている。昨日の事、「夏の間は散歩は止めにしたら」と奥方が云う。
傘寿になってからの今年は、この暑さが随分体に応えて、体力の衰えを大いに感じている。
それでも「ゴミ捨てお願いね」といわれるから、「電力節約しろ、熱中症予防にクーラーを付けろ」と同じ言い方だなとふと思いながら、ゴミ捨てがてらの散歩に出た。
9時前出発で小一時間、3.4㌔の自衛隊一周コースである。この時間になると太陽がかなり上がって、木陰が少ない。
汗びっしょりになって帰ってくると、わがAPの入り口にこの「カミキリムシ」が鎮座していた。
私の36.5度ばかりの体温で長時間捕まえていると、熱で虫は疲れてしまうからこれをとらえて、急ぎ足で帰宅しベランダの植物に放ってやった。
毎年この時期になると捕まえているような気がするが、今年のカミキリムシは「地味系」だった。
昨晩9:44 久しぶりの地震、隣の部屋から奥方の「震度3」という声が飛んでくる。最大「震度5弱」と報じられた。
震源からすると日奈久断層の横ずれだ。もう6年2ヶ月経過するが、一連の熊本大地震は未だ収束していないことを伺わせた。
ギシ/\と音をたてる本棚にすぐ目がいったが、落ちてくるような気配はない。まずは安心と思い、椅子に腰かけたまま揺れが終わるのを待つ。
5~6秒くらいの横揺れだ。感じとしては「4」くらいかと思ったが、奥方の勘が当たった。
奥方が「地震があると必ずこの引き出しが飛び出すのよね」といいながら、台所の収納棚のいくつかの引き出しを閉めている。
熊本大地震の時は、こんなことが長い間毎日十回以上あって、この位の揺れではあまり驚きはしなくなった。
メダカの水槽が波打ってメダカ達がパニックになっている。
ベッド脇にかけた額縁や、頭元の棚に積んだ資料が気に成ったが、そのままベッドに入ったら即寝入ってしまった。
今朝改めて本棚を見てみると、心なしか最上部の袋に入れた資料たちの並びが不ぞろいが気に成った・・・
■長塩角太夫は、(南東26-5)長塩新兵衛家の7代目小源太(角大夫)である。下の小源太と同名異人である。
家紋は「丸に左上文字紋」
■長塩小源太は、(南東28-5)長塩平格家の4代目。同上家の分家。家紋も同上
■長尾平太夫は、加藤清正に仕えた4,600石同義正を遠祖とする6代目平大夫(安右衛門)。家紋は「亀甲に剣花菱紋」及び「三つ頭合山型紋」
■長瀬七郎平は、(南東28-17)長瀬兵右衛門家の5代目で名は眞幸、通称七郎平、田廬と号す。家紋は「 」「隅立平角に隅立角」
■長沼十郎助は、(南東28-19)長沼英之助家の5代貞九郎(十郎助)。家紋は「右一つ巴紋」
■成田左五右衛門は、(南東26-11)成田十左衛門家の7代目左五右衛門(源兵衛)。家紋は「違い角紋」
■成田宇平太は、(南東28-4)成田清右衛門家の6代目。初代清兵衛は四天流居合、剣術、組討三芸の元祖にして其師範たり。家紋は「隅立角に丸紋」
■鳴海慶次は、【代々御中小姓】(南東28-21)成海源之助家の8代目。家紋は「子持垂れ角紋」「五つ木の字丸に■■」
■成瀬喜久馬は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。家紋は「細輪紋」「左巴紋」
■成瀬角兵衛は、(南東37-28 ま)成瀬(松井)了平家の4代目伊八郎(角兵衛)。家紋は「丸に■■」「隅切り立角に左巴紋」
■成瀬吉司は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。「隅立平角に左巴紋」
■成瀬伝兵衛は、(南東28-14)成瀬尉助家の4代目。江戸浜町定府。家紋は「丸に■■」
■南部五左衛門は、(南東28-2)南部仙之助家の栄馬か?「御知行被召上候(上知帳)文政二年三月七日 高三百五十石」の記録が残る。
家紋は「丸に六つ丁子」もしくは「鉄仙」???
■中嶋宇藤次は、(南東29-24)中島ニ平家の4代目・道彦(右藤次・二平)か?。家紋は「子持隅切り平角に六つ丁子」もしくは「鉄仙」???
■内藤九郎兵衛は、(南東29-10)内藤三之助家の4代目。家紋は「隅入り立角に地紙紋」
■中西格助は、【丹後以来】【代々御中小姓】(南東28-24)中西太兵衛家の6代亀之允(養子 実・志水牛右衛門長房三男 格助)。
名は安福、格助と称し、大閑と号す。藩に仕へ食禄百石、近習目付、郡方目付及び郡代を勤む。性亢直にして果敢決断の人なり。
又義父に仕へて善く孝養を盡せり。文政十一年正月に十五日没す。家紋は「毬寄せ」
■武藤長兵衛は、(南東41-12)武藤長兵衛家の7代目・猪津太(長兵衛)。家紋は「隅切り立角に二つ巴」「薬研」
家系研究協議会の会員の皆様の投稿による機関紙「家系研究・第73号 2022年6月」をご恵贈給わった。
多くの会員の皆様のたゆまぬ努力が毎回伺えて、まことにうらやましくご同慶の至りである。
58号からお贈りいただいているが、只々感謝を申し上げると共に益々のご発展をお祈り申し上げる。
昨晩のブラタモリの「大原三千院」、私事で恐縮だが、新婚旅行でデュークエイセスの「女ひとり」の歌詞にあるお寺廻りをしたことで懐かしく拝見した。
当時のヒット曲でよく歌っていたものだが、京都に行こうと決めてから、大原三千院(及び寂光院)・栂尾高山寺・嵐山大覚寺と廻ろうという事にしたのは私の独断によるものだ。
敬愛してやまない京都洛外人にして「京都ぎらい」の著者、日本文化教育センター所長の井上章一先生がお聞きに成ったら何といわれることだろう。
その他はお決まりのコースのお寺を廻り、知恩院前のお店で湯豆腐を食べたことくらいしか覚えていないが・・・55年前の話だ。
歌詞の「恋に疲れた」というのを、しばらくは「憑かれた」と勘違いしたが・・・そんな人が一人こんなところへ行くことはないなと、間違いに気づいた。
考えてみると京都にはずいぶん行っていない。そして若狭街道を熊川(沼田家所領地)を通って小浜迄行ってみたいと思いながらも果たせていない。
時折連絡してくる悪友が先日、「おい、めいたつ橋て知っとるかい」と言ってきた。
「聞いたことがない、どこの川だ」と聞くと「白川たい」ときた。「知らん」と応えると、ヤフオクに古写真が出品されており「明辰橋」と有るのだそうな。
私も少々驚いてしまい場所は判らぬまま「明治の辰年にでも出来たっだろ」と返事をしたが、後でこれが正解だと知り驚いてしまった。
但し「めいたつ」ではなく「めいしん」が本当らしい。
色々調べてみると、明治新政府は財政に困窮し明治4年の12月に有料の橋や渡し船の許可を出して税金を取り立てたらしい。
太政官布告648号は「治水修路等ノ便利ヲ興ス者ニ税金(利用料)取立ヲ許ス」というものである。
しばらくは渡し船であったらしく、一番最初は西南の役後、二本木遊郭の入り口にあたる思案橋(現・白川橋)だというのがなかなか面白い。
その後、次々に明辰橋、代継橋、子飼橋、世安橋などの木造橋の架橋がなされたらしい。
明治の辰年(13年・1880)に作られた明辰橋は、本山渡しがあった場所に作られた。現在の泰平橋である。
お金持ちが作ったものだろうが、途中では公営となったとされるが、借用したのだろうか。
川の蛇行の具合からすると上流から写されている。下河原の河原あたりか。
大正から昭和初期まで随分にぎわったらしい。
往時の雰囲気を伺わせる貴重な写真である。そして悪友に感射。
尚々
昨日のお昼過ぎ、新日本風土記で「橋」の特集をやっていた。それぞれの土地の「橋」が語り掛ける歴史や風景が、その橋とかかわりを持つ人たちの心の中に大きく残されている。
夫々の橋に個性と主張めいたものがあり、それが相まって町の風情を作り上げている。
『伝統の架け橋を守りたい!〜住田町「松日橋」架け替えプロジェクト〜』など、うらやましくなってしまう。
これだけで全国各地から人が集まってくる。うらやましい。(TVではかけ替えたら一週間で流されたと解説していた。
かっての熊本の長六橋の無骨な鉄骨の橋などもまだ記憶の中に残るが、古写真に残る木造の長六橋は如何にも健気に見えて、往時の在の人たちが農閑期の合間に新町や古町に出かけて買い物を楽しんだことだろう。
長六橋下の処刑場で処刑(たまには火あぶり)があると、この橋の上は、見物人でごった返したという。
この写真の明辰橋もいろんな生活のためや、人との出会いなど数多くの話を産んだのだろう。
橋とはそんな橋であってほしいと思う。画一的なデザインや工法ではなく、そんな橋が増えてほしいと思う。
昨晩、ヒロミと羽田美智子さんが熊本を訪れた、BS日テレの「発見!ニッポンの神業スペシャル」が放映され、熊本城が登場した。
その中で、「二様の石垣」の建設年が、加藤忠廣の時代だとする今までの見解を覆す発言があったことは驚きだった。
これは私が長く疑問を持っていた、本丸御殿が後年に継ぎ足された石垣(富田紘一先生の第Ⅵ期説・細川時代とされてきた)の上に建っているという事実の説明がつかない事であった。
但し、これについては詳しい説明はなく、現に本丸御殿がその石垣の上に建設されているという事実に即しての、あと付けの感も否めない。
しかし、そうであるならば長く不思議に思われたこの問題は一気に解決されたことになる。
解説者は熊本博物館の学芸員(名前を忘れてしまった)の方であったが、これが熊本市の正式な見解になるのかどうか注目したい。(富田先生の学術的見解の呪縛から解き放たれたのか・・・)
又、石垣の石として「万日山の露岩」が紹介されたが、これは実物を見てみたいと思った。
全て見たわけではないが、収穫の多いよい番組だった。
細工町5丁目地先から始まる石塘、その白川筋右岸のやや上流部に残る「ごんじゃばね(権左刎)」、白川の河床が下がったためだと思われるが、現在は陸上化している。
但し、グーグルマップで眺めても100%正しい場所が判らない。これも現場まで出かけてみる必要がありそうだ。
処で、この「ごんじゃばね」権左刎と感じが充てられており、権左衛門とか権三郎とかいう人物由来ではなかろうかと考えて居るが、これとてよく判らない。どなたかご存知の方がお有りであれば、ご教示いただきたい。
ところがグーグルマップを見ていて偶然、この石塘沿いに多くの「刎」が設置されていることが判った。
「刎」は「水刎」とか「石刎」とかいわれるようだが、流れの湾曲部に良くみられる。
白川では上流の熊本大学工学部の対岸部に沢山の「刎」がある事は承知していた。まるで鮫が口を開いた感じである。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覚控」をよむと、その工事は難儀を極めたらしい。
治水のためのこの様な古い手法が現代においても受け継がれている。暴れまわる自然の驚異に対して、先人たちの驚くべき知恵と、たゆまぬ努力に敬意を表する。
この時期になると、昭和28年6月26日の熊本大水害で多くの同窓生を亡くしたことを思い出す。
如何にも梅雨を思わせる長雨がつづき、あの大水害をもたらしたが、今年はたいした雨も降らない中、某TVのお天気解説の方は、今月中には梅雨明け宣言があるかもしれないとかのご託宣である。
追記:長い間の懸案が解決しました。富田紘一先生の「古写真帖に甦る熊本城と城下町・『熊府諸景色』の物語」に、ごんじゃ刎から写したという写真があり、その説明として「川端町の権左衛門さん」が訛ったものだろうとあった。
川端町とは細工町5丁目のとなり、地図上の町の境界線は白川の中程にある。
あの俗謡「おてもやん」にある「かわばたまっつあんきゃあめぐろ」の川端町である。13:07記