最近は散歩コースが一定せず、歩きだして気分次第でどこへ向かうかを決めています。
この写真は、錦が丘中学前の欅通り(?)、新緑がまぶしい季節です。写真左手が中学校です。
今日の熊本は24~5度になりそうだというので、もっぱら緑陰を求めてのコースになりました。
まっすぐ行くと、県庁前から西部方面総監部正門前に至る幹線道路です。
途中にあるハワイアンコーヒーのお店は、いつも数十台が入れる駐車場もあって大賑わいしていますが、GW明けまで営業停止、ガランとしています。
自衛隊正門前まで行って、あとはいつもの通り自衛隊を一周、いつもより少し歩く距離は伸びたようです。
この暑さだと、そろそろ起床後すぐに歩く様に変更しなければならないようです。
江戸期 彩色写図 「肥州島原城責図」
いわゆる天草島原の乱に於ける原城の幕府軍の布陣図です。ひそかに狙っていたのですが、ついつい居眠りをしてしまい、参加さえできずに惨敗です。
落札価格は30,000円以上になったようです。
一方 4296 ジャンク 和本 島原合戦記 中下巻 2冊 天草四郎 切支丹 宝永 絵入 等も出品されていますけど・・・
(寛永四年五月)十四日~十七日
|
| 十四日 山崎伝左衛門
|
|
江戸大坂ヨリノ書 |一、夜前従江戸、御鉄炮衆谷忠兵衛与新谷作兵衛罷下候ニ、 御書・奉書、大坂ゟ、御蔵奉行衆ゟも
状 | 書状参候、御小早ニて罷下候事、
遺留ノ番袋ノ主 |一、今度御上洛之刻、御小者小性小方少七と申もの、ばん袋を御舟ニおとしおき申ニ付、御船頭岐木
| 九兵衛つミ下り、冣前も其理御奉行所へも申上置候へ共、ぬししれ不申ニ付、其儘右ノ御船頭ニ
| 預ヶ置候処ニ、少七所ゟ親かたへ申越ニ付、親かたゟ尋申候間、相渡可申由ニて、右ノ御船頭右
| ノ親同道ニて登城仕候間、慥成証拠を立させ、親ニて候ハヽ、可被相渡之由、申渡候事、
彦山当月ノ門札幷 |一、彦山ゟ当月之御祈祷のため、御紋札幷目録被差上候事、
|
|
| 十五日 加来二郎兵衛
|
医師出川作庵 |一、奥村少兵衛昨日下城仕、其儘頓ニ煩申ニ付、御医師出川作庵を付申候事、
長崎ヘノ船便 |一、白井兵助所より、長崎への御舟ハいつ比可被遣哉と被申候、初ゟ申候様ニ、来ル廿日比ニ可遣
上セ米ノ船 | 候、御米御上せ候御舟をも一艘申付候由、被申候、則伝介・新兵衛ニ被申候へと、申渡候、又船
五石加子ノ請状差 | 瀬里兵衛抱候五石加子請状之儀、今日持参可仕候へとも、不成就日にて候間、無其儀候、さり共
出ヲ不成就日ニツ | 上ヶ候へとおほしめく候ハヽ、持参可仕由被申候、持参ニ不及候間、うつしを被仕、今日被差上
キ避ク | ヶ候へと申渡候、上方へ御詰小早、明後日禍差上候、如何可有御座やと、被申候、一段可然由、
請状写ヲ上ゲシム | 申候事、
上方詰小早 |
|
| 十六日 山崎伝左衛門
|
前蔵奉行ノ切手 |一、山田次右衛門先御蔵奉行衆切手持参被仕候、則御算用聞衆相対可被仕由、申渡候事、
| (規矩郡)
普請奉行ノ報告 |一、曽根之土橋之医師かきぬけ申候、御普請を不被仰付候ハヽ、当分土俵ニ而繕可然由、牧丞太夫方被
曽根ノ土橋ノ石垣 | 申越ニ付、五人ニ明俵弐百俵持せ、明日可被遣由、余田左太夫方へ申渡候事、
ヌク 当分土俵ニ |
テ修繕 |
|
| 十七日 加来二郎兵衛
|
曽根ノ土橋石垣修 |一、曽根之土橋石かき損申候間、御普請被仰付候か、無左候ハヽ、当分土俵ニて繕可然候、牧丞太夫
繕 土俵用ニ空 | 方ゟ被申越ニ付、御長柄衆小頭共ニ六人、明俵先百俵持せ遣申候、俵不足ニ候ハヽ、取ニ此方へ可
俵百俵ヲ渡ス | 被越由、書状二て申入候事
山崎等出府ニ道中 |一、山岡書鑑・藤田宗利両人、今度江戸へ被参候ニ付、道中馬渡可被下由、被申候、先例次第たるへ
馬ヲ乞ウ | きよし、申候ニ付、書鑑儀ハ、前々ゟ壱疋宛被下たる由ニ付、其分ニ候、又宗利事ハ、前かと馬
| 被下たる儀も無之、今度がはしめニ而候由ニ付、只今難極ニ付、先かし分ニ〆、次馬一疋渡可被申
| 候、左候て、江戸御奉行衆へ、其許ニて禍被得 御諚通、可被申遣由、財津一兵衛ニ申渡候事、
|五月十六日
船ノ蔀制作用ニ薩 |一、牧丞太夫与喜多山左兵衛、さつまへ御舟ノしとミノ御用ニ、しゆろのかわかいニ遣候、御船頭ハ
摩ヘノ棕櫚ノ皮購 | 野間惣兵衛遣候事、
入ノ用 |
|
昨日宮城県知事が9月新学期を提唱された。一つの見識として大いに称えたいと思った。
これが今日の国会で早速とりあげられ、首相・文部大臣が前向きな発言をされて現実味を帯びてきた。
9月新学期は世界のスタンダードとされる。
コロナ騒動は、世界恐慌より厳しい時代を誕生させようとしている。この困難を乗り越えるためには、柔軟な思考による建設的な発想が求められる。
首相は発言の中で「前広(まえびろ)」という言葉を使われた。
この言葉は、安っぽい私の「国語辞典」には掲載されていない。サイトを開くと「歴史民俗用語」として紹介されている。
色々な資料を公開してきたが、検索を掛けても「前広」という言葉は登場していない。
大きな意味を持つ言葉が登場した。
コロナ禍で人々は外出を制限され時間を持て余し、いまではコロナ暇になってしまっている。
私ほどの爺様の生活は、以前とあまり変わっていないのだが、自由が失われてストレスがたまりつつある。
散歩に出ても、人と出会わないようなところを選んで歩く始末で、何とも淋しい。
TVをあまり見ない私は、家にこもっているとついついAmazonやヤフオクに目がいってしまい、ここ二日で三冊の本を購入したり、落札したりしている。
その一つがこの「日本の家紋大辞典」、家紋に関する本は三冊ほど持っているが、又一冊増えることになる。
あと二冊はヤフオクで入札中、落札できるかどうかは判りませんが・・・
奥方も同様で、TVショッピングをしょっちゅう眺めている。コロナ暇で無駄な金を消費している。
(寛永四年五月)十二日~十三日
|
| 十二日 奥村少兵衛
|
| 神
加藤忠広領ノ走リ |一、加藤肥後守様御領分豊後ノ内津留崎村之庄や久法と申者之下人、近年走候て御加子ニ罷出居候処
加子 | 〃〃
| ニ、今度大坂にて、肥後様ノ衆見付、仁保太兵衛方ニ被相届候、其段爰元へ、太兵衛方ゟ被申越
鶴崎へ連戻ス | (鶴崎、大分郡)
| 候ニ付、五家老衆、米田與右衛門殿いつれも相談ニて、つれさせ遣申候、豊前津留崎ニ居被申候
| 肥後様ノ衆野村忠兵衛と申仁方へ、式ア少殿・頼母殿・監物殿・民ア殿ゟ、御状被遣、歩之御小
| 性山口半次ニ、御鉄炮衆四人、御長柄衆弐人相そへ、道中時馬にて遣候事、
|一、市宮善太夫、江戸ゟ被罷下候事、
忠利ヨリ金山奉行 |一、右善太夫ニ、 御書被成下、致頂戴候、左藤安右衛門・春木金太夫へも 御印ノ御切紙弐枚成被
金山ノ段 | 下候、則御金山ノ段ニ入置候事、
| (長沢顕長室、沼田清延女)
京ヨリ長沢顕長室 |一、京都ゟいよとのへ参候しふかミ包壱つ、かミ袋壱つ、市宮善太夫被持下候を、黒瀬九郎右衛門ニ
ヘノ音信 請取 | 相渡候事 右ノ分、慥ニ請取申候、 (黒印)
| 黒瀬九郎右衛門〇
駕舁小頭病ノ後行 |一、御乗物かきの小頭助五郎、江戸道中ニて被相煩、御供不仕、于今江戸へ不参候、いかゝ走申候
方不知 | 哉、京都ニも居不申候付、かの女房しめ置可申由、小頭弥左衛門ニ申付、預ヶ置候事、
女房ヲ拘留ス |
矢師ヲ江戸へ呼ブ |一、藤田宗利儀、江戸へ可差下旨、被 仰下ニ付、則宗利ニ申渡候事、
|一、菊野伊折ゟ、主宿へノ書状、善太夫被持下候、皆川治ア方へ相渡候、右書状ニ、松井少吉ゟ伊与
| 殿へ当候書状も壱つ在之、共ニ渡候事
| (古市村庄屋)
国東郡庄屋貸付物 |一、塩木又丞ニ申渡候ハ、国東郡古市與三左衛門借付之物とも不残被取立候哉、若/\未相残候ハヽ、
ノ取立ヲ郡奉行ニ | 急度可被取立由、申渡候処ニ、御郡奉行をかわり申候ニ付、右ノ帳已下、国東郡へ召置申候由、
催促ス | 被申候ニ付、今まて御延引之段、中/\さたのかきりの仕合候、国東へ急度人を被遣、帳已下取
| ニ被遣、埒を可有御明候、於御油断可為御越度由、申渡候事、右ノ様子、中神與兵衛・金子喜左
| 衛門へも申渡、右両人ゟ仕置所へ人を被付置、急度埒を可被明由、申渡候事、
田川郡御蔵返ノ奉 |一、田川郡御蔵返御奉行仕廻被申由ニて、御奉行四人■目録持参仕、則加藤新兵衛・栗野伝助方へ
行目録持参 | 被相渡、被罷帰候事、
後藤某同与ノ間男 |一、大津留加左衛門儀、後藤権左衛門女房を盗候ニ付、今日加左衛門勿論、女房共ニ権右衛門きり申
ヲ女房共ニ成敗ス | (不破)
| 由、ふわ忠左衛門与ワキ川上長右衛門被申来候、右両人共ニふわ忠左衛門与ニて候事、
|
|
| 十三日 賀来二郎兵衛
|
| 寛三ノ
宇佐郡借米奉行ヨ |一、宇佐郡〇御借米奉行朽木五右衛門・臼杵半左衛門。中津海三右衛門・荒木五郎輔方ゟ、先御蔵奉
リ前蔵奉行吉用ノ | 行吉用切手ニ枚持せ越候を、則御さん用聞衆へ相渡、裏判を仕、被返候を、御借米奉行衆へ則
切手 | 返し申候事、
算用奉行手伝ヲ求 |一、財津惣兵衛・和田伝兵衛手前御算用之手伝不足ニ付、深野二郎右衛門惣談之上、三人今日ゟ被
ム | 召置候也、
細川七左衛門賄米 |一、細川七左衛門殿賄米不足之由ニ付、二郎右衛門相談ノ上、御米ノ内ニて、弐石かし申候事、
不足 |
船頭北国行ニツキ |一、舟瀬里兵衛北国へ被遣ニ付、三人ふち留守之飯米ニ残置由、兵介・善右衛門ニ申理置候之由候、
留守ノ飯米 | 然共、米安キ所ニ被遣ニ付、御加子衆も壱ヶ月ノ御ふなかた何も渡被遣候間、里兵衛儀も御加子
北国ハ米価安キ所 | 同前ニ、さき/\ニてかい遣可申由ニて、兵介・善右衛門御ふたかた渡不被申、里兵衛留守めい
| わく仕由申候付、三人ふちをわけ候て成共、妻子かつゑさる様ニ渡可被申由、三宅清兵衛・橋本
| 勘左衛門両人を使ニ〆、兵介・善右衛門へ申渡候事、
|一、深野二郎右衛門快気仕由ニて、今日登城被仕候事、
|
近所の水無川(健軍川)は、今日は完全に流れが途絶えて上流部に水たまりが残っている。
数日良い天気が続きそうだから、此の水たまりもすぐに干上がってしまうことだろう。
現在川底は「お花畑」状態であり、露出した石の上に石たたき(セキレイ)がやってきてなにやら啄んでいる。
雨が5㎜もふれば、周囲の側溝の水が流れ込み音を立てて濁流となる。
そんな川だから、流れがあっても小魚が居るはずもないのに、時折ゴイサギがやってくる。
以前おじさんが「この川には魚はいねえぞ」と声をかけていた。思わず笑ってしまったことが有った。
ゴイサギは漢字で書けば「五位鷺」、天皇から昇殿が許される五位の位を与えられたという故事がある。
五位鷺
むかし天王御遊覧ありし時
鷺のむれゐたるを御らんし
六位を召しあの鷺とつて参れと有し時
此鷺飛さりしかは
六位せんかたなく
ちょくでう(勅諚)なるそ
帰れ
とあれは
おり立て人にやすやすととられけるを御覧し
御かと御感のあまり
五位の爵を給はりしより
鷺をごいさきと名つけたり
ここに記されている「六位」について、昨日の事、ある資料を頂戴した。
もうずいぶん古いお付き合いになったが、東京の本郷でお茶に関する御道具を扱っておられるF様から、毎月取り扱いの御品のカタログが送られてくる。
その中にゴイサギを横にする公卿の姿が描かれた「冷泉為恭画 五位鷺図」のお軸があった。
その説明に「帝の命で六位蔵人が鷺を捕えようとした時、飛び立とうとする鷺に「宣旨ぞ」というと、鷺はおとなしく捕まえられた。帝は鷺に五位を与え、その鷺に自ら鷺の中の王たるべしと御札書き、頸にかけて放たれたという」とある。
故事にある六位蔵人が誰なのかはよくわからないが、この画を描いた為恭もまた五位蔵人であったそうだ。
時代が下って江戸後期の画人である。
(寛永四年五月)十日~十一日
|
| 十日 加来二郎兵衛
|
| (長岡孝之)
楯岡哲斎湯治 |一、楯岡哲斎湯治被成御下候事、但、中務様御乗上被成御舟ニ而被下候也、
| (無ヵ)
長岡孝之大坂着 |一、中書様も、先月廿六日ニ、大坂被成御着之由、岡田茂兵衛申候事、
阿波へ種麦ノ礼 |一、阿波へ麦の御礼、幷長谷部文左衛門頓而被罷上候、冣前も御鉄炮衆三人文左衛門ニ添被遣候、其時
| ノ御鉄炮衆弐人ハ在郷弐、壱人当地ニ有之由候、右ノ壱人ニ又何れ成共、御鉄炮衆弐人申付被置
鉄炮足軽月行事 | 候へ、日限ハ重而相定次第ニ可申渡由、月行事野田角左衛門ニ申渡候事、
| (林ヵ) (豊後速見郡)
速見郡奉行ヨリノ |一、宇野七右衛門方ゟ、先御蔵奉行ノ切手拾枚、幷後藤定性・恵良半右衛門ニ当りたる木付村御茶年
前蔵奉行ノ切手木 | 貢ノ麦ノ切手一枚被持せ越候を、則御算用聞ノ内、町市丞へ相渡、うら判をさせ、本切手ハ則七
付村茶年貢麦ノ切 | 右衛門方へ返し申候事、
手 |
西魚町門ノ鍵 |一、西魚町ノ後ノ御門ノかき持来候を、紙ノ入たる長持ニ入置候事、
|
|
| 十一日 山崎伝左衛門
|
宇佐宮永勝院死ス |一、永勝院法印一昨九日之寅ノ刻ニ被相果由、宮成掃部・到津主膳・小山田采女所より申越候事、
中津奥方ヨリ江戸 |一、中津御奥方より、江戸へ被仰進之度御用候、態以御飛脚被仰進之ほとの事ニてハ無御座候間、此
ヘノ便ヲ求メラル | 地ゟ便候ハヽ、兼而可申進之、中津御奉行衆ゟ申来候、廿日時分ニ便御座候間、被得其意、御
| 用之事可被仰越との返事仕候事、
|
加藤忠広領民走リ |一、加藤肥後守様御領分、豊後之内神崎村之善七と申もの走来候而、御加子ニ罷出居申候、然処ニ、
来リ加子トナル | 肥後様ノ衆大坂ニて見付被申、大坂御蔵本奉行衆へ戻申候様ニと、被相届候処ニ、かやうの儀差
人返シノ懸合 | 計戻申儀不罷成候、越中守家老ノものへ可被仰届由、返事被仕、其段爰元へ被申越ニ付、五家老
護送ノ人数 | 衆幷米田與右衛門殿相談之上、肥後へ可被成御返シ由ニ相極、歩之御小性両壱人、御鉄炮衆五
| 人、御長柄衆弐人相添遣可申ニ相定候事、
|
造形を極めて たんぽぽ日和かな 津々
今日は天気は快晴、風が気持ちよくマスクもつけず一人自転車で郊外へ出てみました。片道8キロを走り折り返しました。
殆んどフラットの道でしたから、なんとか爺様の体力は持ちこたえましたが、行きが50分、帰りが40分ほど、脚力がなくスピードは上がりません。
途中、何年ぶりかで空中でさえずる「ひばり」の鳴き声を聞きました。思わず「おおひばり高く又・・」と歌ってしまいました。(この歌、メンデルスゾーンの作曲でしたよね)
ちなみに、マスクを箱入りで売っている店がありました。どういうルートで入ってきたのでしょうか?
先日書いた■清田文書から「有馬陣・証拠状」において、読み解くのに何とも悩ましい文字があった。
自信がないので釈文にアンダーラインを付してご紹介してきた。
それが □ 部分の二文字である。
大いに悩んだ末、文脈から察し「(先祖ゟ之)差出扣迄持傳居申候」と読んでみた。
扣と読んでみたこの文字、「東京大学史料編纂所 所蔵データ 解析」にかけた結果98件の解析結果を得た。
その中に扣はない。迄(迠))も全く自信はない。文脈からするとそうかなと思ってのことである。
最近ITで古文書が読める時代が間近いとよく言われるが、早くそういう時代の到来を待ち焦がれている。
この二文字に三日間を要したが、100%の自信があるわけではない。
(寛永四年五月)六日~九日
|
| 六日 奥村少兵衛
|
求菩提山両子山ノ |一、求菩提山ゟ上り申御札、幷同山ゟ参候御茶五十袋、又両子山ゟ被上候御札、何も御掃除坊主良春
護符 | (皆川)
| ニ相渡、治ア殿へ被相渡候へと、申候而遣候事、
|
| 皆川治部‐‐‐ 細川幽齋室・麝香の長姉が皆川治部少輔晴宣に嫁いでいる。
| この記事にある「治ア」は時代が異なって居り、晴宣の子「勝兵衛輝宗」のことだろうか?
|
藤田弥兵衛ノ算用 |一、藤田弥兵衛宿ニ、万今度ノ諸さん用ニ入候書物在之由ニ付、取よせ、御算用聞衆二渡可被申由、
ノ書物ヲ取寄ス | 荒瀬左太右衛門ニ申渡候事、
領内浦々瀬井波石 |一、御国中浦々瀬、幷はへ吟味仕、ゑづを可仕立旨、糸川長左衛門ニ被 仰付候ゆへ、如此仕立申由
ノ絵図作製ノ命 | ニて、長左衛門絵図持参、如此下書仕候ハヽ、御ゑかきニ申付、清書させ可申由、被 仰付旨被
船頭糸川長左衛門 | (井) (矢野吉重)
ノ下絵 張付奉行 | 申候ニ付、則御はり付奉行猪谷莵右衛門ニ申付、三郎兵衛ニ書せ可被申由、申渡候、則三郎兵衛
絵師矢野吉重清書 | もよひよせ、長左衛門ニ引合、出来ノ間、長左衛門も被付置、をしへ候而、三郎兵衛ニ書せ可被
| 申由、申渡候事、
| 久助 (高月、西村)
走者町籠へ入牢 |一、福嶋八兵衛者〇走候を、人留ノ善兵衛捕、召連参候を、町籠ニ入置候事、
|
| 七日 加来二郎兵衛
| (甚)
入牢ノ蔵子煩 |一、新籠ニ被入置候御蔵子彦七煩申ニ付、御医師を被付候様ニと、御番ノ高津神左衛門申来候ニ付、
医師松野道遊診療 | 御医者松野道遊を遣申候事、
小間物奉行 |一、こま物奉行豊岡理介、今迄被仕候さしかへ、上垣鏡右衛門・野口久五郎両人申付候事、
御奉行ノ父ニ代リ |一、釘本三太郎儀、親半左衛門■■知行根付等如何仕候も不存候間、見廻申度候、半左衛門儀は御郡
知行所ノ見廻願 | ニしかと付居申候ニ付、如此ノ由、可然候、可被参由申渡候、又田川ニも、田を三反御給人衆
| ゟ半左衛門もらい被申候、是も参候而、うへ付申度由申候事、
歩小性ノ内老年幷 |一、歩之御小性ノ内としより、又ハ不立御用衆ニ御いとま被遣候衆、家之儀いかゝ可有御座候哉之由、
用ニ立ザル者ニ暇 | 波多理右衛門・大津留六左衛門被申候間、被放御扶持衆ハ家も上り家ニ可被仕由、申渡候事、
居宅ハ上リ家トス |
闕所物ノ直極 |一、大津留六左衛門・波多理右衛門被申候ハ、御けつ所物之内、直段被仰付候ハて不叶物共大分御座
直段奉行 | 候、直段奉行被仰付被下候様ニとの儀、金子・中神談合被仕、御用ニも立申候様なる物をハ、被
不用品ヲ売払ウ | 扣置、残分ハうり可被申候、長段奉行ニハ岩田新蔵・御かい物奉行森次兵衛、御よこめにハ則
買物奉行 | 渡長右衛門差出禍申候間、早々直段可被相極由、右両人ニ申渡候事、
塚原徳斎上リ家鬮 |一、塚原徳斎家、大塚四郎兵衛・沢権七両人くじ取ニ被仕候処ニ、四郎兵衛取被申候事、
取 |
蔵子入牢中塩ノミ |一、御蔵子ノ茂兵衛・喜右衛門・久左衛門・三右衛門永々籠者被 仰付、塩迄ニてめしをたへ申候ニ
ニテ飯ヲ食ス | 付、口損、今度ノ御さん用ニ出候而も役ニ立不申候間、御さん用間ハ、やと/\ゟミそを入たべ
味噌ヲ求ム | 申度由申通、御さん用聞衆四人ゟ被申越ニ付、御番衆をよひ、前々の様子を相尋候ヘハ、かやう
差入レシ者ニ毒見 | の儀ハ前かとゟ、持来候ものにどくミをさせ、入申由申候ニ付、其分ニして、御さん用聞ハ、ミ
| そを入候へと、申付候事、
|
|
| 八日 山崎伝左衛門
|
大坂米奉行帰着 |一、八木田久助今朝下着ノ由ニて、登城仕候事、
宇佐郡用水普請完 |一、宇佐郡用水御普請仕廻申由にて、吉田孫四郎今朝登城仕候事、
了 |
なへ幷かねノ端午 |一、御なへ様・御かね様端午ノ御ひとへ物、御かたひら幷御おひ、京都ゟ被差下候請取切手、御船頭
ノ単物帷子帯 | 河村喜左衛門ニ相渡候事 右ノ切手数三枚、請取申候
請取 | 河村喜左衛門(花押)
増種子米借状 |一、山崎吉左衛門知行・蓑田甚丞・宮部久三郎、此三人ノ知行、寛永三年分の御増種子借状は仕上候
| へ共、御惣庄や大村弥右衛門相果候刻、御米不相渡由書置仕候ニ付、右ノ米三人分、元利合四石三
損米 | 斗一升九合御損米ニ可被取立通、肩書仕、彦進・甚丞方へ遣候事、
大坂米請払ノ目録 |一、寛永弐年分大坂御米請払之目録、堀長兵衛被上置候を、戻シ申候事、
|
|
| 九日 奥村少兵衛
| (後・阿部弥一右衛門)
宇佐宮永勝院危篤 |一、永勝院以之外被相煩二付、御惣庄や山村弥一右衛門ゟ、御家老衆へ書状上ヶ申候、中津ゟも御医
二ツキ医師薬師派 | (下村)
遣 | 師已庵彼参、被罷居候間、爰元ゟも御くすし被遣可然由、申越二付、北村作雲被差遣候、則道中
| 次馬壱疋ノ状調遣、又道中賄ヲも可被申付通、申遣候、小者壱人之躰ニ而候ニ付、御小人弐人相
| (ママ)
| 添遣候、又為案内者ニ御鉄炮衆友田二郎兵衛与ノ梶原喜左衛門相添遣候事、
小者走ルヲ捕へ町 |一、福嶋八兵衛小者、此中走候をとらへ、町籠ニ入置候、川井権丞被申候ハ、当春抱申候、とりにけ
籠ニ入レシム | 等も不仕候、別ニにくきものと可申様子も無之由候、元来は下毛郡ノものゝ由候、御成敗可被成
にくきものニテナ | も、御免可被成も申分少も無之由候事、
シ |
船頭惣奉行舟手ノ |一、鏡善右衛門屋敷ノ裏ニ、御矢倉弐つ御座候内、壱つをかこい、御舟手ノ御算用所ニ仕度候由、兵
算用所ヲ矢倉ニ求 | 介同前ニ被申ニ付、其分可然由申渡候、就夫、かこい申道具、又ハ敷物之儀申付候事、
ム |
金山ノしまや運上 |一、御金山ニ居申候しまや弥十郎と申者御運上を負候て、走申候、彼しまや母小倉ニ居申ニ付、御金
ヲ負ヒ走ル | 山奉行佐藤安右衛門ゟ、御町奉行へ被申届、若/\弥十郎戻可申儀も可有之候間、もとり不申
金山奉行佐藤安右 | 内ハ、かの母いつかたへも不参候様ニ可被仰付由、被申候処ニ、吉田少右衛門尉登城被仕ヒ申候
衛門ノ申入レ | ハ、弥十郎母いつかたへも不参候様ニと、佐藤安右衛門方ゟ被申届候、しかしながら、今ほとハ
母親を拘留セント | 毎月十八日/\ニ御門明候而、御門女出入なとも御座候、其上御侍衆中いつれも在郷被成候へ
ス 小倉町奉行 | ハ、小倉ノ家々明申ニ付、町ニ居申ものともやしきをかり居候而、それゟいつかたへも罷越候様
吉田少右衛門申分 | ニ御座候間、預り申儀、何共成申間敷候由、被申来候事、
毎月十八日ハ御門 |
女ノ出入アリ |
侍中在郷スル故貸 |
家トス |
町奉行預リヲ拒ム |
長谷部文左衛門困 |一、長谷部文左衛門やかて阿波へ被参候、手前礑不罷成ニ付、惣談ヲ以、御米三石・銀子百五十めか
窮スルニヨリ阿波 | し申候事、
行ニ米銀ヲ貸与ス |
先程取り上げた「虎杖(いたどり)」は「スカンポ」と呼ばれるが、こちらは道端などでよくみられる「スイカンポ」である。
本名は「紫かたばみ」である。かたばみよりずっと葉が大きく、花が紫がかっている。
酢漿草(かたばみ)
私は幼いころ同年代の男子が近所におらず、七つ年上の姉の後ろについて回っていた。
遊ぶおもちゃもない時代だから、勢い遊びは自然相手である。スイカンポの葉の茎の一部を切り取って、相手に絡ませ、ちぎり落した方が勝ちという、単純な遊びがあった。
ググっていたら次のような写真が紹介されていた。
サイト「山と風のひみつきち」から引用
先にご紹介した清田家文書に久野次郎左衛門の天草島原乱に於ける働きに対する「証拠状」をご紹介した。
しかし何方が書かれたものかが判らない紙面であった。その後又古い文書をメールでお送りいただいたのが上記文書である。
これにより証拠状を認めた人物が浅山勘三郎であることが判った。
於原城久野次郎左衛門手柄證人ニ私先祖
立申候事私方江も委細ニは其知申候
書
其節取遣シ申候下諸幷ニ清田石見殿ゟ之
紙面先祖ゟ之差出扣迄傳持居申候故
写之入御披見申候
清田石見殿ゟ之紙面弐通
一今度有馬ニて久野次郎左衛門二月廿七日本丸
之出丸へ乗り申候證人
一本丸石垣ニ着石ニて打れ被申候證人ニ付貴殿を
被書出候様子具御書付早々可被差越候以上
六月廿八日 清田石見印
浅山勘三郎殿
一今度嶋原ニて久野二郎左衛門二月廿七日本丸之
出丸へ乗込申候證人に御立候様子具ニ御書付
早々可給候以上
六月廿八日 清田石見印
浅山勘三郎殿