津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■高島流砲術免許状

2016-07-31 13:39:01 | 史料

 これは高島流砲術の免許状である。熊本藩の池部啓太が弟子・井藤小太郎に対し、師い匠である高島秋帆と連名で与えている。

                中段
             西洋法高島流砲術
             年来依御執心
             今度全相傳候者也

                流祖
                 高嶋四郎太夫
                 池部啓太

              文久二年
               戌十二月十二日 春常 花押・黒印

                井藤小太郎殿
                     傳之


この免許状に関係するかどうか判然としないし、また文久二年のものかどうかも判らない次のような文書も残されている。

             弥御無矣珍重ニ御座候
             然者砲術目録御相傳
             可致筈ニ付来ル十五日朝飯後
             御出被成度此段致御意
             申候以上

               三月十二日

             木村萬之丞様内
             井藤小太郎様 池部啓太

木村萬之丞とは家老職などを務めた木村半平家の分家筋にあたる500石取りの八代当主であるが、井藤小太郎はその家臣である。
有禄士族基本帳には井藤逸記なる人物の名前が見えるが、親族であろうと思われる。

池部啓太については、平田稔氏の著「池部啓太常春」があるが、この著に関する御苦労のほどがサイトで紹介されており、並々ならぬ執念の御作であることが判る。
             「池部啓太春常」出版の裏側 

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■再び「慶長五年七月晦日 真田昌幸宛石田三成書状」

2016-07-30 10:11:46 | 歴史

 この書状は長野市松代の 真田宝物館が所蔵するものだが、幽齋の田辺城籠城にも触れられている貴重な史料である
このことについては以前に 
■真田昌幸宛石田三成書状 に記した。

サイト信州上田軍記 にはこの書状をはじめ慶長五年のいろいろな書状が紹介されているが、父子三人のそれぞれの立場が伺いしれて大変興味深い。
大河ドラマ「真田丸」で好演している俳優陣の顔が浮かんでくる。

さてこの書状は、真田昌幸が七月廿一日に使いを以て届けられた書状に対する返書である。廿七日に居城佐和山で受け取っている。
先づ以って今度の意趣、兼ねて御知せも申さざる儀、御腹立余儀なく候。然れども内府大坂にあるうち、諸侍の心如何にも計り難きに付いて、言発の儀遠慮仕り畢んぬ。なかんづく、貴殿御事とても公儀御疎略なき御身上に候の間、世間かくの如き上は、争いかでとどこほりこれあるべきか。いつれも隠密の節も申し入れ候ても、世上成り立たざるに付いては、御一人御得心候ても詮なき儀と存じ思慮す。但し今は後悔に候。御存分余儀なく候。然れどもその段もはや入らざる事に候。千言万句申し候ても、太閤様御懇意忘れ思し食されず、只今の御奉公希ふ所に候の事」とあり、西軍の戦略について昌幸が蚊帳の外に置かれ、憤慨していることが判る。
最末尾には「豆州(信幸・信之)・左衛門尉(信繁・幸村)殿に、別紙を以って申し入るべく候と雖も、貴殿御心得候て仰せ達せらるべく候。委曲御使者申し伸べらるべく候」とあるが、信之は徳川方につくことを鮮明にし七月廿四日家康の書状を得、廿七日には安堵状が発せられている。

そんな中で報告として幽齋の田邊城籠城や、禁裏による開城の斡旋のことなどを報告しているのである。
但し十七日のガラシャの死には全く触れられていない。すでに昌幸は承知のことであっただろうが・・・・
詳しく読むと大変面白い書状である。
 

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■明治元年の今日

2016-07-29 11:25:26 | 歴史

肥後新田藩はについては、慶応4年3月4日10代藩主利永を始め、藩をあげて江戸を離れ肥後国玉名郡高瀬に下り、利永と家族は高瀬御茶屋に、家臣たちは高瀬町の商家や寺院に分宿した。 
熊本藩国事資料によると、明治元年の今日7月29日高瀬藩と定めたとある。


                         「細川利永」の画像検索結果 

                     高瀬藩図(明治2年)の画像

 家臣団の屋敷は玉名女子高等学校・玉名町小学校一帯に建設されたが、陣屋は明治3年に着工されたもの本藩に併合されたため完成を見ぬままに終わった。中央の白い敷地が陣屋跡である。

 

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■松寿庵先生・第196講

2016-07-28 14:10:41 | 史料
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■尾の上

2016-07-28 08:57:21 | 徒然

 昨日ご紹介した「漱石くまもとの句200選」を読んでいたら次のような句があった。

        見上げたる尾の上に松の秋高し

「見上げた山の頂に秋の松が高々とそびえている」という意である。
私は現在熊本市尾ノ上に住んでいる。一瞬「わが町のこと?」かと驚いたのだが、この句は福岡県筑紫野市にある、道実公ゆかりの天拝山での作句らしい。「尾の上」とは山の頂の意があるとすれば、わが町尾ノ上はどうかと考えてみた。
わがやの東側は7~8m小高くなって居り、これが山の内や新外方面に続いている。
かっての健軍飛行場(現在の日赤病院周辺)から、戦時中飛行機を作っていた三菱重工の工場(現・自衛隊西部方面総監部・健軍駐屯地)へつづく広い道があったらしく、尾ノ上から山内・新外につづく小高い岡に、切り通しの道が作られたのではなかろうか。
そう考えると「尾ノ上」の町名の由来として合点がいくのだが如何だろうか。確認をしたいと思うが県立図書館はまだ閉館状態だし・・・・・ 

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■漱石くまもとの句 200選

2016-07-27 16:06:42 | 書籍・読書
 漱石くまもとの句 200選
    坪内稔典
  熊本日日新聞社

内容紹介

夏目漱石は熊本時代(明治28年~33年)に900句余りの俳句を作っている。
この本は、熊本日日新聞で357回に渡り連載された「漱石くまもとの句」から200句を選びまとめたもの。
俳人・漱石を知るためのベストな一冊といえる。

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■堀平太左衛門大奉行となる

2016-07-27 06:25:12 | 歴史

 宝暦二年の今日七月廿七日は、細川藩に於ける宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門が大奉行になった日である。
用人竹原勘十郎の推挙によるものであるが、藩主重賢がこれを受け入れた。まさに三人の度量をしてなった最高の人事であった。
太左衛門・勘十郎の業績は列挙に余りあるものであり、過去にブログでご紹介しているのでご覧いただきたい。
この年重賢公は33歳、平太左衛門は36歳、勘十郎34歳か・・・まさに働き盛りの人たちである。

   細川重賢     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%87%8D%E8%B3%A2
   堀平太左衛門   http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/38a39cd219e5711c4616981fb5c837b4 (10)迄
   竹原勘十郎     http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/15eb633942efee2d7b1941fc88c980d1 (8了)迄

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■105日目の罹災証明

2016-07-26 14:24:46 | 熊本地震

 地震発生から今日で105日、ようやく罹災証明が届いた。
実は数日前に建物全体が「大規模半壊」に認定されたとの情報を不動産会社から得てはいたのだが・・・長かった~~
明日からは一両日役所回りをして、いろいろな手続きをして回らなければならない。
地震自体の終息はまだみえないが、生活の方はこの件が一段落すれば日常の生活に戻れそうである。 

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■古今伝授行平

2016-07-26 12:42:35 | 展覧会

 先にご紹介した加来耕三氏の著作「刀の日本史」を読んでいたら、「豊後国行平」が別名の「古今伝授行平」として紹介されていた。
現在東京の永青文庫では、夏季展示として「歌仙兼定登場」と銘打って、細川家の名刀の展観が行われている。
そのなかにこの豊後国行平も展示されている。
二つとも拝見しているのだが、行平はあまり記憶に残っていない。

慶長五年のちょうど今の時期、細川幽齋は田邊城に石田三成が派遣した15,000の軍勢を迎えうち籠城している。
そんな中、古今伝授が絶えることを憂慮した後陽成天皇の勅命を受けた烏丸光広らが訪れた。
緊迫した状況の中で光広にも古今伝授とともにこの「豊後国行平」が贈られたのである。その故をもって「古今伝授行平」とも呼ばれている。

    文化遺産オンライン http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/203609

後年光広の子光賢に忠興の愛娘・万姫が嫁ぐことになるが、この時期万姫は三歳である。細川家・烏丸家の強いつながりが構築されていく。

 

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■泥絵「肥後黄金淵三軒茶屋の景」

2016-07-25 10:12:59 | 熊本地震

    


          泥絵「肥後黄金淵三軒茶屋の景」 19×26 紙本着色 太田記念美術館「どろ絵ガラス絵展」出品作

この絵は「日本の古本屋」に出品されているものである。ある本を見つけようと思い検索しているうちに発見した。
正面に煙をはく阿蘇山が見える。何処だろうと考えたが「三軒茶屋」という地名は見つからないし、「黄金淵」がたよりなのだが、これとてなかなか判らない。WEBをサーフィンしていたら、熊本大学大学院教授の小林一郎氏の「風景デザイン便り」というサイトを見つけた。
どうやら白川河畔の整備に「風景デザイン」家として、関わってこられたようだ。
その中の一文に次のようにあった。

数十年前までは、川ガキが溢れ、古式泳法の練習場も近くにあったらしい。琵琶の音・黄金淵・梅木瀬・天神淵・小淵・道覚・崩れ刎・権現淵・八幡淵などは、子飼橋付近の「白川游場一覧」である。

この絵の流れの蛇行具合からすると、現在の渡鹿堰あたりではなかろうか。左手は黒髪、右手は渡鹿といったところか?
どなたかご存じあればご教示賜りたい。 

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■さびしい頓写会

2016-07-24 08:58:34 | 熊本

 昨23日は清正公の菩提寺本妙寺に於いては例年のごとく頓写会が行われたが、仁王門が損壊するなどして通行が禁止され、夜店などの出店も見送られた。毎年10万人に近い参詣者で賑わうのだが、今年ばかりは如何ともしがたい。
10年ほど前まではすぐ近所に住んでいたので、毎年当日は友人知人が集まって、酒宴をはって賑わったものだ。いささか不敬の極みではあった。

清正公が亡くなられたのは慶長16年6月24日、翌25日に大木土佐や韓人・金官などが殉死した。
頓写会とは御逮夜にあたり法華経を一夜のうちに写経したことに由来する。
住まいが遠くなり、又、あの胸突雁木(階段)をのぼる元気もないので随分ご無沙汰している。


奇しくも昨日の史談会で、「平成肥後国誌」の編者・高田廉一先生の、本妙寺に関する原稿を現所有者のN君からかりて帰り拝読している。
これを頼りにいつか又多くの塔頭の掃苔に出かけたいと思ったりしている。
今日からこの136ページの原稿をスキャンする作業がある。(手のまがい足のまがいが有りますが・・・・・) 

日蓮宗の本妙寺は終日うちわ太鼓の音で満たされる。高田先生の原稿の書き出しには、夏目漱石の次の句が記されていた。
 

                永き日を太鼓うつ手のゆるむなり

 

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■熱中症・・?

2016-07-23 16:01:49 | 熊本地震

 今日は史談会の例会、いつもつ使わせていただいていた熊本市中央公民館が使われなくなり、今回は「くまもと交流館パレア」の10階の会議室をお借りした。熊本のど真ん中、鶴屋デパート東館の9・10Fにあるこの施設は、交通の便がよく引手数多でなかなか会場の確保がむつかしく、毎月第三土曜の午前中という条件では今年は難しいらしい。来月はまた新たな会場を見つけなければならない。

無事に終わって2時過ぎに帰宅、クーラのスイッチを入れて椅子に腰かけていたら、疲れでうとうとしてしまった。
その間クーラーが全く聞かず、送風状態であることに気づき、30度を超える部屋で寝ていたのだ。
しばらくすると、左足のすねからふくらはぎにかけて攣るような感じの鈍痛がしてきた。このままでいるとこむら返りを起こすかもしれないと思ってベッドにひっくり返った。
右足も左足ほどではないが、同様の症状がきた。そのうちに鈍痛が足の裏にまで広がった。
寝ていていろいろ考えていたのだが、ひょっとしたら熱中症じゃないのかと思い至った。
WEBで調べてみると、案の定熱中症の症状として、こむら返りや手足のしびれがあるらしい。
あわてて水をがぶ飲みし、塩昆布を食べてみる。30分ほどたつが完全に回復はしないものの、随分楽にはなった。

   http://xn--fiqz7vh6gbjsqve.com/cont1-14.html

74爺は引っ越しやら、その後の後片付けやらの疲れが抜け切れないでいる。
これは気を付けないといけないとつくづく思い至ったことであった。奥方が返ってきたが、これは内緒にしておこう・・・・

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■お安く読む・講談社現代新書「刀の日本史」

2016-07-23 15:01:16 | 書籍・読書
刀の日本史 (講談社現代新書)
   加来耕三
    講談社

武器」ではなく「美術品」になった
世界でも類を見ない日本刀をめぐる歴史物語満載!

 空前の刀剣ブームが到来している。サービス開始後、ユーザーが半月で50万人を突破したオンラインゲーム「刀剣乱舞」の影響もあり、“名刀”を収蔵・展示した博物館・美術館には、連日、多数のファンが押しかけている。
 古来、日本人は刀剣を大切にし、また愛でてきた。英傑たちは好んで名刀を求め、作らせ、現代においても、刀剣自体が美術工芸品として、高価で取り引きされている。歴史的偉人と名刀にまつわるエピソードは、枚挙にいとまがない。

 本書は、東軍流十七代宗家、タイ捨流の免許皆伝として古流剣術を稽古し、真剣を実際に扱い、歴史学の分野においても、『日本武術・武道大事典』を編纂するなど、武術と刀剣との関わりを深く研究・理解してきた著者(加来耕三)が、刀剣のおこり・発達、武人・文人に関するさまざまなエピソードを披瀝する類書なき新書である。

<主な内容>
・刀剣の殺傷率は一割にも満たなかった
・日本刀史上、最大の恩人は後鳥羽上皇だった!
・「剣豪将軍」の師・塚原卜伝が開いた鹿島新当流とは?
・日本刀はなぜ両手で持つのか?
・上杉謙信の名刀「竹俣兼光」はもともと農民が持っていた
・天下五剣「大包平」、「岡田切」を集めた刀剣マニア・織田信雄の生きざま
・織田信長が官兵衛に贈った「圧切長谷部」の因縁とは?
・加藤清正が虎退治した「槍」は花嫁道具だった!?
・名刀正宗で伊達政宗を斬った「傾奇者」とは?
・「切れ味の格付け」とはどんなものだろうか?
・佐々木小次郎の「物干竿」が敗れた理由
・日本人が大切にしてきた日本刀は、実のところ合戦で主力の武器となったことは、史上、一度もなかった

はじめに
第一章 神話と考古学の刀剣
第二章 日本刀の黎明期
第三章 日本刀の誕生
第四章 日本刀の真実
終 章 日本刀の宿命

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■「細川忠興ローマ字印判通行許可状」 & 「細川忠利ローマ字印判書状」

2016-07-22 18:14:49 | オークション

             「細川忠興ローマ字印判通行許可状」筑前小倉藩 古文書 「細川忠興ローマ字印判通行許可状」筑前小倉藩 古文書

 

             「細川忠利ローマ字印判書状」阿部一族 熊本細川藩 古文書 「細川忠利ローマ字印判書状」阿部一族 熊本細川藩 古文書

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■仲光半助の不幸なる死

2016-07-22 06:19:09 | 歴史

江戸期それぞれの家が8~10代とか続くと、中には思いがけない事件や失敗に遭遇されるお宅が出てくる。
献策が受け入れられずに中枢から排除させられたり、また身内が事件を起こしたり、火事の火元となったり・・・・人生何があるかわからない。

国衆一揆の際、佐々成政と戦い滅びた隈部一族に隈部親永(刑部允、但馬守)がある。天正十六年に自殺したが、二男親房も同時期自殺した。
この親房の孫・専祐なる人物が、熊本市古町に寺を興した。正覚寺である。
その子小内膳は元和五年の生まれ、本妙寺の日収上人に儒仏を学び、13歳で細川忠利の肥後入国時御小姓に召加えらた。13歳で500石というのだから相当優秀な人であったろうし、その出自も考慮されたのであろう。天草島原の乱(18歳)でもその武功にたいして賞せられた。忠利公の死去にあたり殉死(21)をとげた。

その子孫・八代目の半助には「御知行被召上候 天保四年二月四日 高五百五十石」という記録が残る。
その原因が奈辺にあるのか承知していなかったが、意外な事実があった。 

熊本藩年表稿の天保三年七月二十二日の項に次のようにある。
  ■物頭仲光半助、亀井村にて西瓜盗喰 里人に欧打され数日後死亡
天保二年二月四日の記録には
  ■昨年七月二十二日物頭仲光半助の事件に付、半助を病乱とし、士道に背く罪で知行召し上あとし、相手百姓の内3人刎首他は苔刑。

旧暦の七月二十二日、暑いさかりではあったろうが、盗み喰いとはおだやかではない。
仲光家にとっては誠に不名誉な事件であり、加害者にとっても不幸な結末を迎える事件となった。
半助を病乱としたというのは、藩の配慮が伺えるが、「士道に背く罪」であることは間違いない。

梅雨明けして五日目だが毎日うだるような暑さが続いている。私の今年の初すいかは二週間ほど前のことでした。

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