永青文庫には「明治十年御子様方所々御立退中日記」なるものが残されている。
この文書をもとに、熊本大学の三澤純准教授が「お姫様たちの西南戦争--史料の解題と紹介」を発表されている。
これは護久公の三人の姫様が西南戦争の戦火を逃れようと、二月十九日熊本城下に火がつけられる(射界の清掃)数時間前に北岡邸を脱出、四月廿六日まで両軍の戦いの場をを避けながらの逃避行(?)の記録である。
この時期北岡邸に在った家扶・高見武之は同家の先祖附に明治23年までに至る記録を残している。 高見武之家の明治 (一) (二) (三) (四)
神風連の暴動や西南の役の際のこれらの御姫様方の動きが、わずかながら記録されている。
そして神風連の暴動の際にも、宇土細川家の別邸・桂原(邸)へ避難していることが判る。
同年(明治九年)十月廿四日神風連百餘人突然鎮臺營乱入
其外縣官舎等初所々乱入宿所之放火炮撃夥敷
玉如雨放火益盛ニ相成候ニ付
御子様方乱玉為御用心宇土桂原御末家之御別邸江
御立除被遊候節御供申上候處翌日ニ到り鎮静ニ相成ニ付
廿六日御帰邸被遊候其後當前之御奉公相勤居申候
同(明治)十年二月縣地変動ニ付
御子様方處々御立除御供申上城兵打出矢部郷迄
進撃■漸クニ四月廿六日北岡江御帰邸被遊候ニ付而御供ニ而
帰宅仕候
「市政100周年記念・熊本歴史と魅力」から
2月19日家扶や女中その他総勢21人で北岡邸を脱出、22・23日の両日は熊本城籠城軍と薩摩軍との間で激しい戦闘が行われた。
立田邸(泰勝寺)に三日滞在後、阿蘇郡錦野村→上益城郡白旗村→同岩下町→同下早川村→同砥河村→阿蘇郡河原村→同久木野村→菊池郡陣内村(現大津町)等を転々として4月26日北岡邸に帰館された。