津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

真っ只中

2006-07-31 23:53:22 | 徒然
 芥川龍之介は「悲劇とはみずから羞ずる所業をあえてしなければならぬことである」と言っている。であれば、私は今悲劇の真っ只中にある。問題はその苦痛に耐えうる気力が持続するかということである。
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いま命あるはありがたし

2006-07-30 23:02:10 | 徒然
 月初め一寸した事件があって落ち込んでしまった。月半ばから、気疲れから狭心症の発作を度々起こした。我が家は浄土宗だが、お寺様から頂戴した「月訓カレンダー」の文字が目に飛び込んできた。気持ちに余裕が無いから、一ト月の間気がつかなかったのだが、七月の言葉は・・・「いま命あるはありがたし」・・・マイナス思考の私に、「喝」を入れてくださったような気がする。
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越中守の名乗り

2006-07-01 22:45:08 | 歴史
 ぴえーるさんはご自分のブログで、「細川忠興の官位を考える」として、忠興の越中守叙任の時期について考察されている。「寛政重修諸家譜」は文禄二年~三年、「系図纂要」は文禄二年六月、「藩翰譜」は天正十三年だとし、「山上宗二記」に長岡越中守とあり宗二記の編年から天正期に間違いないだろうとされ、又大谷由己の「柴田合戦記」(奥書天正十一年)に長岡越中守忠興とある、と指摘される。
(いつもながら、いろいろお詳しいことに驚嘆する)

 綿考輯録をひもとくと、「越中守」が正式に見えるのは、天正十二年五月十一日付け、小牧の戦いで活躍した西川与助・山本又三郎に秀吉が与えた感状に、「長岡越中守殿手」とあるのが初見だと思われる。翌天正十三年七月十一日秀吉は関白に叙任されるが、この時忠興は「叙従四位下被任侍従」羽柴姓を賜り「羽柴越中守」となったと記している。慶長五年細川姓に復し、羽柴の名乗りは15年でついえた。

 最近ぴえーるさんはBBSを閉鎖された。為に、あえてここにご紹介するものである。
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藪内匠・米子中村家出奔の訳

2006-07-01 13:05:24 | 歴史
 熊本藩士・藪氏の旧主は中村一氏とされる。中村一氏は慶長五年(1600)病没している。嫡子一忠は当時十ニ歳、父一氏の妹壻、横田内膳村詮が徳川家康により後見家老として派遣される。米子における内膳の評判は頗るよくない。内膳の専横に憤って、藪内匠らが中村家を退身する。慶長八年十一月、幼主一忠は同士十一人と密議を重ね、伯母壻にあたる内膳を暗殺するのである。慶長十四年五月一忠死去、継嗣なく米子中村家は断絶する。内匠は忠興に召し出されて一万石、慶長六年七月七日項にその名前を見ることができるから、召出しはその年の初めということになろうか。娘は長岡信友(織田信雄五男)に嫁す。信友の其の後の消息は先に書いた。
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