一、門司源兵衛日奈久入湯の刻被召連御鑓御打太刀仕舞罷立候刻来春も江戸御供に可被召連旨被仰聞
其後又唯今御直に被 仰付候得共熊本へ御歸被成候て組頭共より觸れ申候間唯今御直に被 仰付候
事沙汰仕ましき由被 仰聞候 熊本にて奥田藤次郎組頭にて拙者も相組にて御供の御請に参候へは源
兵衛事ケ様/\と咄被申日奈久にても熊本にても此間右の御意を背方々にてよせいに咄被申候由承
候 偖々いつきよふ成事と藤次郎拙者へ咄被申候江戸にて節々出合申にもよせい咄多候つる 其後御國
にて前川與三兵衛殿・谷與三左衛門・田中次太夫・門司源兵衛・續三四郎・同五左衛門・坂井十兵衛此分御隙被
遣候 八月末と覺申候 皆共新知被為拝領候は九月十二日少前にて覺申候 其後門司御國を出江戸へ参候
由承候刻十左衛門殿へ参色々咄申内に門司なとは江戸へ参候由承候 定て鎗を申立ての望と存候 私存
候は鎗を聞及可被召抱と他所ゟ申來候共私は先祖以来代々取立被申候渡しにて剰鎗の相手に越中守前
に節々罷出候別儀にて被召出候はゝ罷出可申候 鎗を申立候ては少心に悪候儀も御座候と可申事に候
太守様御鎗殊之外御數奇被成御鎗の位も可存候 しかれは右之通に申候はゝ御心にも叶武士の道にも
叶可申候 御覧被成候得江戸へ参候ても中々今の當世はやり不申候 いか程も牢人多く亦御國へ戻候は
ゝ諸人笑可申候 昔長尾伊織と申千五百石に三拾挺御預被成病死仕候 伊織は出田作左衛門伯父子は安
右衛門と申候千石被下候故御暇申いか様銀子澤山に持申候と承申候 夫故かと申たるも覺申候 其刻長
谷川久兵衛老父へ被申候は今度安右衛門御暇申事合點不参候 如何に存候やと尋被申候 老父申候は尤
に候親跡へり堪忍ならぬ筈と申候へは久兵衛被申候は日本國をあるき候ても千五百石にて抱可申時
節にてはなく候 おれは明日にも御暇被下候はゝ三十日は牢人仕ましきと被申候へは偖々うは気成る事
大坂京江戸に参候とても三十日はかゝり申と老父申候得はいやわけか有る拙者は嶋原御褒美にて貮
百石被下候 親は武功にて千石被下候 親の知行無相違被下候は御家他家に少く候 筑後へ立退貮百石望
候て熊本程近く御座候聞に可被遣候千石被下鐡炮も預け申候 拙者さのみうつけもいたさぬは肥後に
て千石にて鐡炮頭勤候拙者を貮百石にては三十日の内に有馬殿か立花殿家からも能望候はゝ有付可
申候 安右衛門はおれ程もなき者の定て銀子澤山に持たる程に男を止町人に可成と思ふへし銀子は子
孫迄續かぬ物子孫に成たらは後悔して御家に御扶持にても被下候様に無面目参へくと被申候 其刻此
比の長尾安右衛門は未た御家に不参候 數年過候て此方に参り廿人扶持比下候 其後熊本へ参後に堀飛
騨守殿若狭守様を御頼被成五百石被下候事宮川團四郎咄承候 右の通色々咄候へはいかにも尤成る拙者
申分成れとも昔は知らす若き門司か又た江戸へ参るもにくからぬ事と十左衛門殿御申候 門司其後江
戸より歸り申候 いか様誰か出家衆頼候て御國へ戻申候と覺申候 志方玄求なとも縁者にて右の咄江戸
にて仕笑申候 是皆古人の咄承付申候 右の通に御意を背たる天罰と存候 前川谷田中は拙者別て咄申候
御暇被下候程の事に候得は常々の儀も悪敷達 御耳候哉其時分の沙汰打寄物なと給申たる由輕き事
の様に聞候へとも皆々不實より起申候 兎角實と申物なくては人柄能候ても役に立不申候
この文章に登場する前川與三兵衛(300石)・谷與三左衛門(300石)・田中次太夫(200石)・門司源兵衛(150石)・續三四郎(350石)・同五左衛門(200石)・坂井十兵衛(200石)などに、「知行被召上や御暇」の処分がなされたのは貞享二年(1685)八月十九日のことである。そのほかに「里杢之介(200石)」も含まれている。
前川・谷・田中・門司等は元禄三年(1690)・妙解院様五十回忌にあたり御勘気御免となった。その他の人の其後については判らない。
又前川與三兵衛は「旦夕覺書」によく登場する十左衛門(三渕重澄)の従弟である。
大木兼近
一、右の刻舎人殿へ参候得は側へ御呼次の者とも退御申候は今度の御暇被遣候衆何れも心安き事に候處
に拙者のかれ申事偖も/\大慶に候 偖江戸逗留中物なと給へ御法度背たる覺はなきかと尋被申候故
江戸詰の内急に御供觸仕候故其儘出申候へは間有之故心安き者の所へ参申立なから茶漬給申候儀存
出申候 夫は背たるにてはなく御供の事不苦候いや熊本より八代蜜柑に付参候牧團之允歩の御使番落付
三日と御座候に差合御法度の日數延申候私事如御存御使番勤申故なしみと存なから茶振舞申候 夫も
落付の心にて振舞候へは日數違候ても背たると申儀にてなく偖々安堵とてもの事に誓言立申せ少子
細あるそなたの為にも能きと被申候 神以暫らく案し申候は唯今右の外に覺不申候へとも數月の儀に
御座候へは此外に御座候事も思ひ出可申候 左候へは只今誓言は御免被下候へと日本大小の神立不申
候 是老父被申候儀存出申候 其後承候へは頭々に誓紙組脇なとの咄承申候 皆々古人の咄聞ぬ者は越度
とも存ましく候 昔の能侍は一言にて名を上ケ一言にて心顕れ申候 拙者にさへ誓紙を以別儀にて候得
共舎人殿へ申譯頼申候故いやケ様の事はせぬ物能可申とて差返し申候 其後御鐡炮三十挺御預候 名は
書不申候 色々役も被 仰付候折々存出おかしと存候 右の誓言御所望は舎人殿には似合不申候と存候
十左衛門殿ならは誓言御所望は有ましくと存候
前回書いた一件が「御暇」につながるのではないかと舎人(大木近兼)が痛く心配している。 「拙者(傳右衛門)のかれ申事偖も/\大慶」と安どしている。こういった一見些細に思えることが藩主の不興を買うと「知行召上げ・御暇」となるのである。まずは目出度し・・・・