明治42年発行、宇野東風著「細川霊感公(重賢公)」に面白い記述を発見した。いささか長文になるが労を惜しまずに記してみると
「按(あんずるに)本藩の困窮なりし事は、上編にも既に記述せし所なるが、其の原因を察するに、単に奢侈の風に感染せるのみならず、幕府の政策として、諸侯の富を削り、江戸の邸宅参勤の費用のほか、其の身代に應じて公邉属役を命じ、金穀を徴収せしより、入費増々嵩み、且綱利公甫(はじ)めて七歳にて就封せられ、又其際は削封分知の風説もありて、一藩大に動揺せし程なりしが、特例を以て遺領相続あり、又公子二人ましましゝかど、皆早世し給ひて継嗣なく、故に当時養子の法なく、遺子なき諸侯は没収せられければ、公は自身一代との考えにて、後世子孫の計なく、万事闊達に取賄はれ、収支相償はざることとなりしに、後養子の許可ありて、同族若狭守重利公の二子宣紀公を養子とせられ・・・・・・(以下略)」
綱利には側室に二人の男子(與一郎・吉利)があったが、惜しくも14歳・18歳で亡くなっている。ここで興味深いのは、「当時養子の法なく」という記述である。二人の男子が亡くなり養子も取れないので、細川家も自分一代限りと闊達に振舞われたと、いう訳である。宣紀が養子(36歳)となるのは、確かに綱利晩年(65歳)の事である。細川家の財政は悪化の一途をたどり、宣紀の子重賢(霊感公)による宝暦の改革を待つ事になる。
「当時養子の法なく・・・」を勉強しなければならなくなった。
「按(あんずるに)本藩の困窮なりし事は、上編にも既に記述せし所なるが、其の原因を察するに、単に奢侈の風に感染せるのみならず、幕府の政策として、諸侯の富を削り、江戸の邸宅参勤の費用のほか、其の身代に應じて公邉属役を命じ、金穀を徴収せしより、入費増々嵩み、且綱利公甫(はじ)めて七歳にて就封せられ、又其際は削封分知の風説もありて、一藩大に動揺せし程なりしが、特例を以て遺領相続あり、又公子二人ましましゝかど、皆早世し給ひて継嗣なく、故に当時養子の法なく、遺子なき諸侯は没収せられければ、公は自身一代との考えにて、後世子孫の計なく、万事闊達に取賄はれ、収支相償はざることとなりしに、後養子の許可ありて、同族若狭守重利公の二子宣紀公を養子とせられ・・・・・・(以下略)」
綱利には側室に二人の男子(與一郎・吉利)があったが、惜しくも14歳・18歳で亡くなっている。ここで興味深いのは、「当時養子の法なく」という記述である。二人の男子が亡くなり養子も取れないので、細川家も自分一代限りと闊達に振舞われたと、いう訳である。宣紀が養子(36歳)となるのは、確かに綱利晩年(65歳)の事である。細川家の財政は悪化の一途をたどり、宣紀の子重賢(霊感公)による宝暦の改革を待つ事になる。
「当時養子の法なく・・・」を勉強しなければならなくなった。