天保十五年十二月廿八日の「木下韡村日記」に、松井氏が藩主綱利に呈した「諫言」の書を紹介している。
そしてこの諫言の書を呈したのは松井壱岐(だと紹介している。
これらは明らかな間違いであり、この「諫言」の書は松井興長が呈したものである。
こういう大先生が書残されたものだから、当初は信じ込んでしまい、大いに頭が混乱してしまった。
最末尾にその出典が記されており「續兵家」における「茶話」を「日夏繁高」が撰したとある。
妙解院様江長岡佐渡指書二通 1
ここで紹介しているスキャン史料は、宝暦期の大奉行・堀平太左衛門が密かに書き写したとされる「秘書」だという。
上妻博之先生の書写によるものだが、上段部分とニ段目中央あたりまでが、宇太郎が書き写している諫言の部分に該当する。
後段の諫言文は松井文庫所蔵であり、図録「ザ・家老 松井康之と興長」でも紹介されている。
「木下韡村日記」の翻刻は、早稲田大学の島 善高教授のご努力によってなされたものだが、このことについてのご指摘はない。
大変影響力のある貴重な資料(日記)であるから、向後刊本になる機会があれば「頭注」にでも記していただきたいものだと考える。
後書き部分四行の記述も大変興味深いが、「出頭(出世)用人知行取上、両人共ニ遠流」とあるものの一人は堀江勘兵衛だと思われる。
又「岩間主税(鈴)、片山典膳甚出頭」したのは事実だが、「家老と成壱万石つゝ授之」という事実もない。
家老になったのは木村豊持で、細川采女正利昌(新田支藩2代藩主)二男を養嗣子(豊章)に迎えている。
いつまでも藩主の座に縋りつく綱利に諫言して隠居させたのも、この木村豊持である。
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一、本庄通見煙
細川家の長臣松井新助、其始光源院殿に奉仕し、其後細川幽斎ニ
随身し、幽斎より長岡氏を授け、長岡佐渡守康之と改称セリ、其
男長岡佐渡興長は三斎カ妹聟となり、後年寛永九年申肥後封国の
時、興長八代城代と為て禄五万石(三万石)を領知し、其男佐渡寄之、其男
佐渡直之、其男佐渡某、元禄十年丁丑壱岐と名改、其男即今の佐
渡某也、世々細川家第一之長臣也、図書興顕と云有、何か不知
然るに右の壱岐之代ニ當て主人越中守綱利、行跡不冝沙汰有り、依
之一封之諫書呈セリ
一、御當家者御先祖幽斎公、三斎公、忠利公、於所々戦功被励、尤
武道専一御心懸有之候故、近代迄御家風相残、諸士武藝心懸候
處、當御代至諸御家中武藝止、遊興長日送候、是皆 殿様武藝御
嫌有而御遊興与宗被遊候故、諸家中学之風俗悪敷罷成候事
一、昼夜酒御好被遊、終夜御酒宴之儀、御近習之士も労御養生も不
可然候事
一、御代々忠勤励候侍者被捨置、當時任御出頭、御小姓之美麗成者
共江ハ過分之高禄被下候事不可然候事
一、忠勤之励候も無御加増、又新参ニ無功者江ハ高知被下候故、御
代々之侍共不快存候事
一、不相應之金銀被出、跳子被召抱、毎度之跳御見物不可然、別御
慰も可有之事
一、近年御出頭用人致出来候而、諸事渠等申上候事御承引被成候
故、両人中悪敷者ハ讒、又懇意成者ハ不奉公仕候而も能様ニ取成
申上候事
一、此度御参勤之節、御側廻等に美簾殊更御小姓道中之過美、御
代々無之儀、不宜奉存候事
一、近年之御物入、御代々無之儀御座候故、御勝手及困窮候事
一、御遊興被長、公儀之御勤愚罷成候儀不可然事
一、御奥之女中任御寵愛我侭申候、是皆 殿様女中之申次第被成候
故、御威勢借我侭申候事
一、公儀訴訟之儀、御出頭用人江贈賄送候得□□人非公事も利有
之様ニ申上、又不叶筋之訴訟も相叶候様ニ申上候事
一、ケ様之品々 公儀ヘ相知候者、忠利公以来之御領国危ク奉存候
事
右之條々御承引無御坐候ハヽ、八代之城地并私知行指上、長御暇
拝領可仕候、恐惶謹言
月日 長岡佐渡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→松井壱岐ではなく松井興長である。
右願之通相達、綱利江も至極過分之旨ニて、則出頭用人知行取
上、両人共ニ遠流也 但名不知、其後又岩間主税、片山典膳甚出頭、女
人形仕隠居時、家老と成壱万石つゝ授之、而又料理人山本武左衛
門悪人形仕甚出頭セしと也 以上、續兵家茶話日夏繁高撰