津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■木下宇太郎記録するところの松井氏の諫言

2019-05-30 06:54:25 | 木下韡村日記

  天保十五年十二月廿八日の「木下韡村日記」に、松井氏が藩主綱利に呈した「諫言」の書を紹介している。
そしてこの諫言の書を呈したのは松井壱岐(だと紹介している。
これらは明らかな間違いであり、この「諫言」の書は松井興長が呈したものである。
こういう大先生が書残されたものだから、当初は信じ込んでしまい、大いに頭が混乱してしまった。
最末尾にその出典が記されており「續兵家」における「茶話」を「日夏繁高」が撰したとある。

       妙解院様江長岡佐渡指書二通 1

ここで紹介しているスキャン史料は、宝暦期の大奉行・堀平太左衛門が密かに書き写したとされる「秘書」だという。
上妻博之先生の書写によるものだが、上段部分とニ段目中央あたりまでが、宇太郎が書き写している諫言の部分に該当する。

後段の諫言文は松井文庫所蔵であり、図録「ザ・家老 松井康之と興長」でも紹介されている。
「木下韡村日記」の翻刻は、早稲田大学の島 善高教授のご努力によってなされたものだが、このことについてのご指摘はない。
大変影響力のある貴重な資料(日記)であるから、向後刊本になる機会があれば「頭注」にでも記していただきたいものだと考える。

 後書き部分四行の記述も大変興味深いが、「出頭(出世)用人知行取上、両人共ニ遠流」とあるものの一人は堀江勘兵衛だと思われる。
又「岩間主税(鈴)、片山典膳甚出頭」したのは事実だが、「家老と成壱万石つゝ授之」という事実もない。
家老になったのは木村豊持で、細川采女正利昌(新田支藩2代藩主)二男を養嗣子(豊章)に迎えている。
いつまでも藩主の座に縋りつく綱利に諫言して隠居させたのも、この木村豊持である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一、本庄通見煙
  細川家の長臣松井新助、其始光源院殿に奉仕し、其後細川幽斎ニ
  随身し、幽斎より長岡氏を授け、長岡佐渡守康之と改称セリ、其
  男長岡佐渡興長は三斎カ妹聟となり、後年寛永九年申肥後封国の
  時、興長八代城代と為て禄五万石(三万石)を領知し、其男佐渡寄之、其男       
  佐渡直之、其男佐渡某、元禄十年丁丑壱岐と名改、其男即今の佐
  渡某也、世々細川家第一之長臣也、図書興顕と云有、何か不知
  然るに右の壱岐之代ニ當て主人越中守綱利、行跡不冝沙汰有り、依          
  之一封之諫書呈セリ

一、御當家者御先祖幽斎公、三斎公、忠利公、於所々戦功被励、尤
  武道専一御心懸有之候故、近代迄御家風相残、諸士武藝心懸候
  處、當御代至諸御家中武藝止、遊興長日送候、是皆 殿様武藝御
  嫌有而御遊興与宗被遊候故、諸家中学之風俗悪敷罷成候事
一、昼夜酒御好被遊、終夜御酒宴之儀、御近習之士も労御養生も不
  可然候事
一、御代々忠勤励候侍者被捨置、當時任御出頭、御小姓之美麗成者
  共江ハ過分之高禄被下候事不可然候事
一、忠勤之励候も無御加増、又新参ニ無功者江ハ高知被下候故、御
  代々之侍共不快存候事
一、不相應之金銀被出、跳子被召抱、毎度之跳御見物不可然、別御
  慰も可有之事
一、近年御出頭用人致出来候而、諸事渠等申上候事御承引被成候
  故、両人中悪敷者ハ讒、又懇意成者ハ不奉公仕候而も能様ニ取成
  申上候事
一、此度御参勤之節、御側廻等に美簾殊更御小姓道中之過美、御
  代々無之儀、不宜奉存候事
一、近年之御物入、御代々無之儀御座候故、御勝手及困窮候事
一、御遊興被長、公儀之御勤愚罷成候儀不可然事
一、御奥之女中任御寵愛我侭申候、是皆 殿様女中之申次第被成候
  故、御威勢借我侭申候事
一、公儀訴訟之儀、御出頭用人江贈賄送候得□□人非公事も利有
  之様ニ申上、又不叶筋之訴訟も相叶候様ニ申上候事
一、ケ様之品々 公儀ヘ相知候者、忠利公以来之御領国危ク奉存候
  事
  右之條々御承引無御坐候ハヽ、八代之城地并私知行指上、長御暇
  拝領可仕候、恐惶謹言
      月日           長岡佐渡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→松井壱岐ではなく松井興長である。
 

  右願之通相達、綱利江も至極過分之旨ニて、則出頭用人知行取
  上、両人共ニ遠流也 但名不知、其後又岩間主税、片山典膳甚出頭、女
  人形仕隠居時、家老と成壱万石つゝ授之、而又料理人山本武左衛
  門悪人形仕甚出頭セしと也 以上、續兵家茶話日夏繁高撰

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■御名を憚り改名す

2019-05-25 06:09:16 | 木下韡村日記

 木下宇太郎は江戸在勤中は藩主齊護および世子・慶前の侍読を勤めている。
その慶前はわずか22歳という若さで、嘉永元年4月14日江戸で死去した。
慶前は父・齊護がまだ宇土藩主であった頃の子で、少々時間を要したが嫡子と認められて本家に入っている。
その跡に三人の姫が誕生しており、男子は天保六年(1835)に10歳違いの後の韶邦が誕生した。

嘉永四年(1851)十月六日の「木下韡村日記」に次の記録がある。
       若殿様先月(九月)十八日 御登城、御前御元服、御一字御拝領、
       慶順様と奉稱、従五位下御任官、 右京大夫様と奉唱候御到来有之

その年の十二月十三日の日記には宇土郎と息・宇十郎が改名の届を出している。

        ■御内意之覚  半紙折懸
       私儀今度
       若殿様御名之唱奉憚、木下真太郎と改名仕度奉存候、此段可□様
       奉頼候、以上
              月     姓名

       差出  中折々懸
       私儀、木下真太郎と改名仕度奉願候、以上
        嘉永四年十二月   木下宇太郎 〔花押〕
          佐田吉左衛門殿
          真野源之助 殿
          上野 十平 殿

        ■口上之覚 半紙折懸
       私忰木下宇十郎儀
       若殿様御名之唱奉憚、木下信
       十郎と改名仕可申候、此段御達仕
       候、以上
              月     姓名

 ここで合点がいかぬのが「宇」という文字が、御名を憚っているので「真」の字に替えるというのだが、ここでいう若殿様は当然の事ながら、慶順のことである。
この時期に替えようというのだから、今回の慶順の名乗に「宇」という文字が入っていると理解するのが順当だが、どう調べても見当たらない。
よくよく文章を見ていると「唱奉憚」(唱えをはばかりたてまつり)とあり、「宇」という字ではなく「う」という読みを憚ったのではないかと思い至った。
慶順は10月6日の記事にもあるように「右京大夫」という名を頂戴している。「右=う」である。
これで一件落着としたいところだが、こんなことが有るのだろうか? 正解かどうかはよくわからない。

ここで宇太郎は真太郎と改名するのだが、この時期御年47歳である。そして時習館に於いては訓導本役についている。
御名を憚り改名という事は諸家の先祖付けの中でもよく見受けられるが、それはほとんどが「文字が同じ」だからという理由が多い。
少々納得がいかないところだが、これ以上の深堀りはやめておこう。 

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■用意周到 姫様御名の候補

2019-05-24 06:37:58 | 木下韡村日記

 弘化三年九月廿九日の「木下韡村日記」九(一)に興味深い記述がある。

御誕生様若 御女子様ニ被為在候時之御用意ニ、御名之字撰出差
出候様於御用人間被仰付候ニ付、撰擇左之通、但シ御障り多有之
間、拾五字撰候様                        のり 御所様御名 
         温ハル 終温且惠   フチ 塞淵      ノリ 女箴幽閉之     ラン     ケイ 
   裴頠箴膏不厭
    ソテ 易不如其娣之袂     チカ 「慎愛」(朱)   ユキ 「順」(朱)   タカ    チカ 
    テル   カツ   
   絲 イト    ユキ    ノフ    アヤ    ヤス    ヤス   衍 ヤス ノブ    チカ    ヒロ
    カタ    タカ    チカ    カズ    モチ    イヱ    つた   にき    おき   すか 
     合十五(赤文字表示、実は書してある)


これらの御名がもしかして女子が生まれた時の為に準備されたものである。32文字の中から15文字が選ばれたという訳である。
宇太郎がその大事なお役目をはたしたらしい。
さてその御子は慶前(齊護嫡子)と室・茂姫(細川能登守利用女)との間に生まれる待望の第一子である。
年が変わった弘化四年正月廿五日にその御子は誕生した。準備万端整えた女子の名前は残念ながら使われることはなかった。
待望の第一子は男子であった。細川家の嫡子の名乗りである「六丸」と名付けられたが、二月三日に亡くなられる。七日程のお命であった。
慶前公はその後御子を為されることもなく、23歳の若さで亡くなられた。

どういう基準でこういったものが候補に挙がったのか、外された候補は「御障り多有之」という事で外されているが、その理由までは伺い知ることは出来ない。いずれにしても興味深い資料である。

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■「木下韡村日記」から、菊池武時のこと

2019-05-23 09:21:15 | 木下韡村日記

 韡村・木下宇太郎は、天明十五年二月廿三日 (朝晴、午時雨一陣)は侍講を勤めている
そんな中で取り上げているのが菊池家の事についてである。以下のように詳しく日記に書き記されているが、勉強不足の私は武時の姉君のことなどはとんと知らなかったが、こんな日記の記述で勉強することに相成った。

   一、武時ニ一人ノ姉アリ隆盛
     ノ女無雙の美人なりしかば、二条関白道平
     公ニ召れて姫君一人を儲く、此姫君は後醍醐天皇の安福殿女御栄
     子ト申せし也、肥後国菊池庄ハ二条関白師忠公の御封(ミふ)なり、師忠公は道平公の祖父ニましま
                 す、御封(ミふ)とは菊池郡の民戸三百戸にあれ五百戸にあれ其民の口分の租と
                 正丁中男の調庸を合せて賜ふなり、されハ租庸調は二条殿に納め、地と民とハ菊池氏の有な
                 り、依て二条家ハ領家ト称し、菊池は地主とも地頭とも云、二条家の領の下司職となりしなり
     男子十五人あり、長男肥後守武重、次男掃部助武敏、三男肥後三
     郎頼隆、四男對馬守武茂、五男八郎経重、六男阿日房隆、七男
     七郎武吉、八男豊田十郎武光、九男彦次郎武義、十男武尚、十一
     男豊田武豊、十二男肥後次郎武士、十三男肥前守武隆、十四男肥
     後守武澄、十五男武方と云 ○鎮西探題□条英時の時は博多の津
     ニ城を築て住セリと鎮西要略ニミゆ
     右玉石雜誌と云書近比ノ著撰と見へたりニ在り、柳庵栗原
     信充

武時の姉が隆盛(西郷隆盛のご先祖)に嫁してなした女子が二條関白道平に召され、其女子が「安福殿女御栄子」という事であろう。
ネットで検索すると「安福殿女御栄子」なる人物は、下記のように説明されている。
    「南北朝時代,後醍醐天皇の女御。父は二条道平。母は西園寺公顕(きんあき)の娘。正慶元=元弘2年(1332)後宮にはいり,
     女御,従三位となる。安福殿女御とよばれた。天皇の没後は出家して梅津の比丘尼(びくに)と称した。」

これ等の事は「菊池家系図」を眺めても伺い知れない。女系の情報が乏しく、韡村先生の講義をして承知することと相成った。
「木下韡村日記」に感謝・・・

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■江戸詰め家臣の「休息」

2019-05-22 06:29:41 | 木下韡村日記

 先祖附を読んでいると、江戸詰めをした人で「休息被仰付」という書き込みを度々見受ける。
当初はある一定期間お勤めを離れて休暇がとれるのかと考えていたが、いくつかの例を読んでいるとどうやら一時期国元へ帰国することを言うらしいことに気づいた。
ならばどういう条件がそろえば「休息」が得られるかというと、答を見つけることは出来ないでいた。

 最近「木下韡村日記」を読んでいるうちに、一つの事例が伺えた。
年表によると木下宇太郎(後、新太郎・韡村)は天保6年31歳の時に江戸へ召し出されている。天保11年9月から「日記」を認めているが、その間帰国しているのかどうか手元の年表では窺い知れない。
天保13年4月に至り祖母の「御憂」が知らされ、「於私情難黙止趣」(私情において黙止しがたき気持ち)になったと12日に記録している。
その故か13日には珍しく記事がない。
14日になるとその思いが昂じたのか、頭に内談すると「御国元日数五十日休息可被 仰付候」ことになり、本間盛助為る人物に案文をこしらえてもらい、そのように記して提出した。16日になって江戸詰めの中老・有吉市郎兵衛、長岡右門(刑部家別家二代)方より「當夏休息被 仰付旨」の通達を得ている。
若殿さま(齊樹嫡子・慶前、18歳)から思召を以て「金子2,000疋を被下置」れ、あちこちに帰国の挨拶を忙しく行い、19日五つ半時出立している。

その人物がどのような期間江戸に詰めているかによるのだろうが、途中帰国していなければ宇太郎(韡村)は約7年江戸詰めであることが判る。
久しく会っていない祖母(80歳)が「相煩い老衰」している状況を憂慮しての「休息」であることが判る。

途中雨による川留めなども有り、5月23日熊本着、祖母の見舞いについては詳細な記述は見受けられない。
江戸に於いてお側に仕えた若殿への講義のためにか、6月25日付「其元儀、用意済次第出府被 仰付旨」なる指示が届いている。
この間毎日忙しく立ち回っている。
そして7月22日朝四ツ過ぎに出立し、江戸へ向かった。滞在約二か月となって「御国元日数五十日休息」はゆうに越しているが・・・
8月26日五ツ比品川を発ち白金邸(下屋敷)に到着後、辰口邸(上屋敷)に参着の挨拶に出向き、夕刻に及び白金邸に帰っている。
翌日には早速林大学頭邸に出向き勉学にいそしんでいる。

4月19日江戸を発ち帰国、再度江戸へ下り8月26日江戸着、あわただしい日程は果たして「休息」となったのだろうか。
国元で親族とすごす時空間こそまさに「休息の時期」であり、江戸での勉学を思うと江戸への旅も足が軽かったに違いない。

 

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