津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本地震から8年

2024-04-16 06:06:27 | 熊本地震

 8年前の今日の未明、2時34分熊本地震の本震が起きた。前震とされる14日から2日目というが、14日の21時過ぎからす
ると約28時間ほどしか経っていない。

前震が強かったから、余震はあっても次に地震が来てもそう大きなものは来るまいという油断があった。
猛烈な揺れは住んでいたマンションの壁構造の厚い壁を外が見えるように引き割り大きな亀裂が走った。
数日間夜は車の中で過ごしたが、早々に帰宅して、水が出ないガスが使えない部屋で約一月を過ごした。
暫くすると緊急的な配管で、1階入口に水が出るようになり、毎日バスタブ一杯になるほどを、階段をつかって2階に汲み
上げ
るのが私の仕事となった。76歳ながらまだ元気だったが、おかげで5~6㌔やせた。
トイレと洗濯機をまかなったが、食事はガスが使えないから配給のもので一月をくらした。
奥方は毎日とはいかないが、お風呂に入りたいとあちこち駆け回っていたが、私は行水で過ごした。
大規模半壊の指定を受けたため、退居の要請が出た。
5月に入り奥方が走り回り、3LDKの部屋を見つけて引っ越したのが前の住まいでここに7年過ごした。
ここを終の棲家でも良いと思っていたが、昨年1部屋多い今のマンションへと引っ越した。

地震の際ののマンションは解体されて更地になっているが、まだそのままのように聞く。

 能登における大地震や、台湾の地震などを見るにつけ、同じ苦しみの中にあって再興へむけて頑張っておられる皆さまに、
最大なる敬意をこめてエールを送りたい。

地球のプレートが元気に動き回っている。地球の営みにはあがらうことはできない。
私が生きているうちにはまた経験することはないとは思うが、地球のちょっとした遊び心はいつ起こるかわからない。
油断大敵、準備におさおさ怠りなきように、肝に銘ずべし。

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■図書館コピーで肩を痛めました

2023-12-08 16:14:34 | 熊本地震

 今日はよい天気で風もなく少々コピーをしたいものがあって昼食後図書館行き・・・
都合2.5家の先祖附を61枚コピーした。2.5家というのは最後の1家は途中でやめてしまったからだ。
というのは原本が約500頁ある重たいものを、1頁ずつコピーするためにその都度ひっくり返さなければならない。
ここ一両日なんとなく調子が良かった肩の具合が、途中で悪くなりあと30ページほどは次回と相成った。
江津湖散歩もせず痛みに耐えながらアシスト自転車を漕いで帰宅したが、我が家に着くころには耐えがたいくらいに痛くて仕方がない。
最近の症状は筋肉痛的なものではなく、整形外科的な痛さで温めると少しは痛みが和らぐ。
そこで頭髪用のドライヤーを肩にあてて、洋服の上から1~2分熱くなるくらいに温めて手で押さえているとそこそこ痛みが和らぐ。
肩が痛いと首にきて、首が痛くなるとやや体が前のめりになって爺様スタイルとなる。
掛け声をかけるわけではないが、よっこらしょと気合を入れた姿勢を正すことになる。
すっかり賞味期限(?)がすぎた、下着の上から貼り付けるホカホカカイロを張り付けてみたりしている。
次のコピーはいつにしようかと思案している。

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■黄門忌と細川綱利

2023-12-06 13:22:28 | 熊本地震

 元禄13(1700)年の今日12月6日は、あの黄門様・水戸光圀公のご命日である。
公は徳川御三家水戸家の徳川頼房公の二男であるが、水戸家の跡を継がれた。父公が将軍に光圀公を先にお目見えさせたせいで光圀公が継嗣子となったと理解しているが、「何故?」という思いはある。
同母兄の松平頼重が讃岐国高松藩の初代藩主となったため、光圀公は自らの嫡男を兄・頼重の養嗣子とし、水戸家三代目は頼重の嫡男を養嗣子として迎えた。
長序の礼を尽くされたことでも知られる。
そんなお二人の妹が細川綱利の正室・久姫(本源院)、松平頼重の養女として細川家に嫁がれた。これは将軍家綱の意によるものであった。
つまり、綱利は徳川家康の孫女聟であり、頼重・光圀とは義兄弟ということになる。
親しい交流を示す書簡も存在するようだ。

さてTVでおなじみの「水戸黄門」の助さん(佐々助三郎)が熊本へ入ったときは、綱利が色々便宜を図るように指示したようだが、熊本では唯一「日本紀竟宴和歌全二巻」(現・国指定重要文化財)を見つけ、「扨々見事成物ニ御座候」と大感激をしている。

  

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■細川三斎の葬儀と殉死者

2023-12-05 13:20:48 | 熊本地震

 正保2年12月2日に死去した細川三齋の葬儀は、今日12月5日に泰勝院(泰勝寺)で執り行われた。
施主である孫の光尚は、父・忠利については妙解時を建立して墓所としたが、祖父・三斎は三斎自身が建立した父・藤孝(幽齋)が眠る泰勝寺に葬った。

 蓑田平七正元、久野与右衛門宗直、小野伝兵衛友次、宝泉院勝延、興津彌五右衛門の五人の殉死者が出たが、この日、そのうちの二名蓑田平七宝泉院勝延がそれぞれの地で、殉死した。
その一人蓑田平七の介錯を頼まれたのが、当家初代の兄・磯部長五郎である。

   綿孝輯録・巻二十五(第三巻 忠興公・下 P323)では、三齋歿後の三齋御附衆の去就が次のように記されている。
三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛 半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候 何れも御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井戸(井門)文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿勤も有之、御暇申候も有之、熊本被召候も有之候、八代は長岡勘解由・丹羽亀之允・伊丹半弥等差越候間、御城引渡思ひ々々に立去り申候

 【参考】
 正保二年十二月二日申ノ刻、於八代御城御逝去
    同  十二月五日、於泰勝院 今之泰厳寺之地、其節之泰勝院也 御葬礼有之、追々殉死の面々都合五人左之通
   ・十二月五日 蓑田平七正元(23歳)
   ・十二月八日 久野与右衛門宗直
   ・十二月某日 小野伝兵衛友次(25歳)
   ・十二月五日 宝泉院勝延
   ・正保四年十二月二日 於京都大徳寺 興津弥五右衛門景吉(54歳)
  

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■本日の馬具櫓

2022-01-15 14:43:40 | 熊本地震

                 

 史談会例会の帰り道で、坪井川越しに馬具櫓を撮影。
熊本市の「報道資料」にある、スケジュール表を見ると今月いっぱいか、来月中旬まで調査が行われ、10月いっぱいには解体工事が終了するようですね。
現況は大きな鉄の梁に乗せられて、完全に石垣から外れて足場の上まで移動しているようです。これからも見守っていきたいと思います。

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■熊本城・行幸坂のこと

2021-07-17 11:43:51 | 熊本地震

 昨日の熊本のメディアは、熊本地震で被害を受けた行幸坂の復旧に際し現れた旧南坂の跡が、メディア公開されたことを報じていた。
行幸坂を元・南坂という人や文献などを見受けるが、私は別物だと解釈している。
行幸坂は明治末期に明治天皇の行幸の際に乗り物が緩やかに登れるようにと、南坂の脇に新たに作られた坂である。
右手は空堀りになっており、かっての南坂には南門の石垣の脇には本丸側に回り込めないように塀が設けられていた。
行幸坂は南坂を若干削って南門の脇塀を壊して直進することになるが、それだけでは幅が確保されないため、一部空堀を埋めなければできなかったろうと考える。
緩やかな坂道(行幸坂)にするために、南門石垣東側の足元は覆土が削られたのではないか?(現在ではコンクリートで固められているかもしれないが・・・)

 話が遠回りしたが、今回現れた南坂であったとされる遺構は数十センチ切り取られた跡ということだろう。
TVで見る限りかなり厚めの盤築であったように思えるが、一日でも一般市民も見学出来たらよかったのに・・・
空堀側に亀裂が見られたコンクリート歩道(巾1.8m)は、遺構を残すためにずいぶん厚く大きなコンクリート板を敷きこむらしい。
使用開始は秋になるらしいが、来年の桜の時期には間に合った。
大小天守は出来上がって見学が可能になったが、肝心の行幸坂が開通すればまた人の動きも活発になる事だろう。

 

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■メダカ水槽の水面が大きく揺れました

2019-01-26 14:17:41 | 熊本地震

 14:16 地震です。震度2位でしょうか? 震源は先の6弱の地震があった和水(ナゴミ)町、又震度5弱の地震だったようです。
メダカの水槽をのぞき込んでいたら、水面が大きく揺れたのでメダカが大暴れです。

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■朝の地震

2019-01-18 05:54:16 | 熊本地震

 今朝5時前ぐらりと揺れて、建具や家具がガタガタなって目が覚めた。
昨日は阪神淡路大地震から17年目の鎮魂の一日だったという事もあって、ベッドの中で身構えてしまった。
2くらいの震度に感じたが、正解だったようだ。先の6弱の震源からすると少々西南寄りになるようだ。
全国のあちこちで地震やら、火山の爆発やらが続いているが、地球の長い営みを考えると、コホンと小さな責をしたという感じだろうがまさに活動期の真っただ中にあるのだろう。
長い期間余震を経験はしてきたが、それでも老人には心臓に応える。眠れないままベッドの中で過ごしたが、朝の散歩のために少々早めの起床。
PCを開いてこの小文をしたため、これから散歩に出かけます。

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■地震御見舞い御礼

2019-01-04 09:50:00 | 熊本地震

             泰平の眠りを覚ます大地震 ナマズの仕業に夜も寝られず  津々

 昨日の地震は久しぶりの感じで、少々驚いて身構えてしまいました。お正月気分もすっかり抜けた気分です。
震源地あたりでも家屋の倒壊などもないようですし、人的被害もないようで大した被害も聞かれずこれは何よりでした。
それでもすぐさま避難場所などが設けられ、ここで一夜を過ごした方も居られるようです。
お正月早々、寒い中毛布一枚でお休みにもなれなかったでしょう。
これは余震ではないかと考えられる方も居られるようで、しばらくは緊張の日々が続きそうでお気の毒な事です。

6弱を記録した熊本県和水町とは、平成18年3月に旧菊水町と三加和町が合併してできた町ですが、今年の大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三の出身地でしられるところです。
ナマズが前宣伝をしたわけではないでしょうが・・・

私共は何事もありませんが、御見舞いを頂戴し恐縮致しております。有難うございました。

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■震度4

2018-07-25 08:19:34 | 熊本地震

 朝の散歩から帰りPCをUP させて、ブログUPの準備をしていたところにぐらりと来た。(7:31)
思わず本棚を見上げるが、落ちてくるような気配はない。朝食を準備している奥方が思わず声を上げている。
もういい加減勘弁してほしいものだ。

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■「景観形成建造物・景観重要建造物」の解体消失

2017-12-23 15:32:15 | 熊本地震

 熊本地震から間もなく(現在地に移転後)親戚のY氏がわざわざ当家を訪ねてきてくれた。
私の母と、彼の祖母様が従姉妹の関係という縁戚なのだが、長い付き合いである。
奥様も一緒においでいただいたが、奥様のお姉さまが古町の旧中村小児科医院跡にお住まいと聞いて驚いてしまった。
この建物は熊本市の「景観形成建造物・景観重要建造物」に指定されている建物である。
多大な被害をうけ、大掛かりな補修工事が必要だとその時お聞きしたが、今年の夏には解体されてしまったことを知った。
改修費が2億円という金額で、所有者負担が1/3だというから大変なことではある。
まさかこのような事態になるとは思いもよらず、建築を生業としてきた私としては、一度詳細に拝見したいと願っていたのだが、遅きに失してしまった。
こんな現実が続いている地震後の熊本である。大いなるむなしさを感じざるを得ない。

                P1140857

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■雑色草書(8)

2017-11-20 13:17:18 | 熊本地震

 四一
一盗物之儀月て、廻役より質屋/\聞合候ハヽ、即刻遂吟味、質ニ取置候ハヽ委ク書付遣、御町方えも其段可相違
 候、右之趣ハ御吟味筋ニ拘り、相違之儀有之ては難相濟候條、其旨屹ト可相心得候
一廻役より品付を以相答置候品、追て質入ニ來り不審之躰ニ見へ候ハヽ、購候て留置、早速向寄之廻役え可申出候
一惣て質物・賣物共ニ持参之者不相應之品ニ候ハヽ、容易二質取・買物不致、前々より被仰付置候通入念可申候、
 盗賊被召捕候上、糾明之上ハ相分り申事ニ付、紛飾品と乍心付、質取・買取候者ハ屹ト可被仰付候
一何品によらす、品不相應、各別下直ニ賣渡候者有之節は、前條之通可相心得候
 右之通、堅相守り候様及達候事
  右安永元年五月日帳

 四二
一町方ニ間ニハ御町方と調、或馬を賣不申処ニ何馬場と調候、町ニ御ノ字を用不申、馬を不賣所を馬場と調申間敷
 旨被遊御意候事
  右安永元年七月日帳

 四三
                    新古川町
                       丁子屋
                         武 七
 右武七儀、天草廻船惣問屋之儀、願之通被仰付置候、然處去ル廿七日より右之商賣いたし度由、可為勝手次第段
 達之事
  但、願書ハ諸願扣ニ記
  右安永元年八月日帳

 四四
  「御家中家來末々之者、於町家間々買い物ニ事寄不届之儀有之之様子ニ付、安永五年十二月及達候趣先ニ記ス」
一御家中家來/\、諸事相慎候様ニ主人/\より被申付候儀ハ勿論ニ候、別て御家老中ハ御役柄ニ付、兼て厳敷申
 付有之事ニは候へとも、間ニハ心得違之者も可有之哉、外向ニて之儀ハ屋敷/\えハ不相知儀m候條、町在其外
 何方ニても萬一法外之事候ハヽ、刀指たり共無用捨手強ク取計、事ニより押置、屋敷え知せ候ハヽ、早速役人罷
 出引取せ可申候、輕き事たりとも相替儀、善悪ニよらす所之役方より内々知せ候様、御役柄迚遠慮可仕譯ハ無
 之候條、此段内意申聞置候様御家老中被仰聞候ニ付、寶暦九年及達置候處、今以間ニ酒店等ニて御家中手廻躰之
 者理不盡之取計有之、甚迷惑之筋も候得共、屋敷柄ニ對シ内分にて押移候様子ニ相聞心得違ニ候、右躰之儀、
 致増長候てハ一統之風俗引亂候事ニ付、先年被仰付置候通相心得、其節之趣次第町方根取迄申出候様ニも可仕候
 此段尚又申聞置候様及達候事
  右安永元年八月日帳

 四五
一六所宮御祭禮ニ付、例年歌舞伎芝居興行有之來候處相止候、依之來ル九日より十一日迄両座より囃子興行被仰付
 候、右付て委キ儀ハ、寺社方諸願扣、又ハ見せ物芝居帳記有之候事
  右安永元年九月日帳
 

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■明治の改名

2017-11-19 22:35:35 | 熊本地震

 あちこちのお宅の先祖附を読んできたが、最後のご当主についてその名が官名や国名に由来している方々は、一斉に名前を変えられている。
簡単な所では「衛門」「大夫」「兵衛」等々である。「助」等もある。いろいろあるが 百官名 をご覧いただきたい。
明治三年十一月十九日の太政官布告(第845)の「国名並びに旧官名をもって通称に相用い候儀停められ候事」による。

現在あるお宅の先祖附を見つけている。「改正禄高等調」での名は「次」とあるのだが、この方の先祖附が存在しない。
家禄250石のお宅の先祖附が存在しないのはおかしい。処が細川家家臣略系譜を見ると同姓で「右衛門・兵衛」と名乗っておられるお宅がある。
官名等の使用が出来なくなり「次」と改名された可能性は大いにある。
図書館に出かけ「先祖附」を拝見すると、最後の当主(明治三年)と改正禄高等調にある明治七年当時の当主の名前が一致しない。
さて困った。家禄・家紋などからすると同じお宅であることは間違いないのだが、同一人物でなければ親子か兄弟か・・・困った。

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■雑色草書(4)

2017-11-16 10:02:53 | 熊本地震

 二一
鬮(クジ)講と唱、大勢組合致出銅様子ニ候、前々より之講と違仰山ニ付急度可被指留處、左候ては鬮末之者可迷惑哉
 ニ付、當十二月迄ニ相仕舞可申候ニ、新ニ仕立候儀企立候ハヽ、急度可被仰付段達之事
  右明和三年五月日帳

 二二
                  古米屋町壹丁目
                     旅人問屋
                        肥前屋
                          権左衛門
 右は五ヶ庄宿相勤來候處、當時宇土御使者宿も仕候、然處一同ニ参着有之候てハ、難成候間、五ヶ庄宿ハ脇方ニ
 被仰付被下候様願出候、権左衛門儀數年五ヶ庄宿相勤様子も能存知居、外々ニは五ヶ庄宿可相勤者も無之、旁、
 先今迄之通相勤、若差合候節は、五ヶ庄面々ハ左之吉左衛門所へ引受可申旨

                    中唐人町長崎屋
                          吉左衛門
 右吉左衛門儀、忰長兵衛え旅人問屋被成御免被下候様願出、如願被成御免候、吉左衛門宅ハ外々問屋よりも少ハ
 手廣キ由ニ付、前条權左衛門方差支候節は、五ヶ庄之面々ハ吉左衛門拓え引受、尤権左衛門所ニて之様子得斗承
 合相勤候様
 右之通及達候事
  右明和三年三月日帳

 二三
一御出之御通筋麁抹ニ無之様ニとの趣ハ、兼て及達置候、然處一駄橋近邊ニ不浄之物抔捨置候様子ニ候、捨不申候
 て難叶品は川え流し、橋近邊ニ捨置不申様ニ細工町・西古町・中古町え及達候事
  右明和三年六月日帳

 二四
一町在ニて質を取候者ハ、兼て不相知候ては盗物等吟味之筋紛敷筋有之候條、以來は都て札被渡置筈ニ候、依之質
 を取候儀存立候ハヽ札相願候上取可申候、無札ニて取候ハヽ、急度迷惑可被仰付段達之事
  但、此節、名付帳調出候様及達
  右明和三年十一月日帳

 二五
 「花火之儀に付、寶暦八年八月、別當共え申聞候儀、幷同十三年七月一統御觸有之候趣ハ、先ニ記置候事」
一御曲輪内近邊ニて花火上ヶ候様子ニ候、町家之者、携り可申様ハ無之候得とも、若心得違之者も可有之哉、勿
 論野邊ニおいても、花火等上候儀、堅不仕様急度及達候事
  右明和四年五月日帳

 二六
一町家之者、在人數之者を養子ニいたし、名目計ニて別宅ニ居候者も有之由心得違ニ候、依之以來ハ、願書之外ニ
 養父同居家相續無紛段、五人組より請合書差出候様、家相續不仕養子願ハ指出間敷段達之事
  但、請合書文案相渡
  右明和五年正月日帳 

 

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■雑色草書(2)

2017-11-13 20:22:19 | 熊本地震

 一一
一御領内之銅唐金等之古地金他國え持出候付、古地金拂細工指支候段、町中きせる屋共より依願他國出被指留
 候事
  但、四ヶ所町え達之文章ハ、右町諸達帳ニ有之候、熊本町え之達日帳ニハ見兼候、きせる屋共より願之書付
  ハ記有之候也
  右明和元年閏十二月

 一二
一鳥打ニ子供大勢付廻妨ニ成候様子ニ付、以來付廻不申様堅可申付段達之事
  右明和二年三月

 一三
  「安永七年正月日帳
 此五銅貮銅之儀、年々暮ニ至り相納來候處、以來ハ翌正月廿日より廿九日迄之内、無間違相納候様及達候事」
一町中掛/\ニ聊宛之用銀仕立候様被仰付候、右之旨趣ハ後年米穀高直之年柄も有之、末方急飢之者取救之為之
 用銀ニ被仰付候、家持一軒より一ヶ月五銅宛之出銭、右之取立ニて若不同も有之候ハヽ、取計之趣次第ニハ戸口
 ニ懸候て之申談も、勝手次第之段達之事
  但、十二月ニ至り納帳之下書相渡、尤當六月より
  右明和二年五月日帳

 一四
一御花畑近火、又ハ火間候ても風並次第ニは一掛り之人數、早速表御門前ニ馳付可申候
  請持左之通
  安永元年三月
  此四懸御奉行中え馳付ハ御免
     西古町     中古町
     東古町     新坪井町
  「寛政元年二月日帳
  此馳付東古町・新坪井町ハ隔月受持ニ相成、且又失火之方角次第ニ馳付申筈ニ相究候事」
 右一ヶ月受持輪番相定、以来無間違様可申付置旨及達、尤右之趣、御小姓幷御廣間御番えも知せ置候事
  右明和二年七月日帳
  但、同七年閏六月ニ掛宛ニ成ル

 一五
一九十歳以上達之儀、前年十二月中達來候得共、以來ハ九月十日を限可相達旨申付候事
  右明和二年七月日帳

 一六
一相撲取共、於他國身持不宜、修行おこたりわざもつのり不申、第一風俗にかヽり御國之儀も評判可致哉、此所を
 存、平日身持相慎相撲之修行出精可仕候、自然相背候者も候ハヽ、重て他國へ出シ申間敷旨達之事
  右明和二年十一月日帳

 一七
  「此一夜宿明和八年十一月被指止候、天明三年三月新坪井町米屋惣吉被仰付候儀先ニ記ス」
一他所之飛脚又ハ廻國之僧俗等一宿之儀、旅人問屋中輪番請持ニて候處、色々難澁之趣相聞候、依之右躰之者一宿
 之儀、呉服三丁目十右衛門相願定宿被仰付候、右付て問屋中より一ヶ月貮拾貮銅宛十右衛門え相渡候様及達候事
  右明和二年十二月日帳

 一八
  御使者宿
                        古米屋町壹丁目
                           旅人問屋
                              肥前屋
                                権左衛門

                        西唐人町
                           右同
                              和泉屋
                                茂平次

                        呉服貮丁目
                           右同
                              薩摩屋
                                善 七
                              「忰 政七」



                        呉服壹丁目
                              銭屋
                              穀物問屋善十郎

                        呉服壹丁目
                           旅人問屋
                              綿屋
                                次郎左衛門
    「中唐人町      古魚屋三町目
       茶屋助三郎     米屋緫右衛門
      古川町      新古川町
       八代屋栄助     日向屋亦右衛門
      紺屋町
       油屋甚五郎
    天明三年九月日帳
     右之者共御使者宿増人被仰付候事」
   
此儀使者宿、萬屋太郎左衛門、佐賀屋武二郎へ被仰付候も先ニ記ス
   右銭屋善十郎以上四人幷長崎屋傳次郎、都合五人ニて御使者宿相勤來候處、其後一統打込ニ被仰付候得共、馬會
   所方角ニ付脇方えハ遣不申、前々より勤來候事故右五軒ニ遣候由、先年御使者宿被仰付候節ハ、通懸り之一宿、
   大工宿共被指免置候とも、一宿之儀惣打込ニ成候已後ハ、大工宿も一統ニ仕候、五軒之内長崎屋は去々年客帳
   上ヶ置候付、當時四軒ニて相勤候間、今度右綿屋次郎左衛門被指加被下候ハヽ、前々之通五軒ニて相勤可申由、
   銭屋善十郎ハ願筋御免被成候付、此節之願ハ除キ候様申由ニて、右権左衛門・茂平次・善七三人より次郎左衛門
   共ニ四軒ハ大工宿之儀御免被下候様ニとの趣願出候ニ付、傳次郎代ニハ次郎左衛門相勤候様、外々之一宿ハ呉
   服三丁目十右衛門え被仰付候、大工宿ハ平生無之、且宿賃も依願被増下候事ニ付、先今迄之通心得候様及達候事
    右明和三年五月日帳
                   

 

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