かって熊本史談会では荒木敬右衛門の相州警備に赴く道中日記を取り上げたことがある。
途中で亀山あたりで安政の大地震に遭遇しており、その詳細が記されていた。
このブログでも取り上げたがこれが御縁となり、今般その原本がこの展覧会で展示された。所蔵されている大牟田在の荒木様のご厚意に感謝申し上げる。 以下荒木様からお送りいただいた展覧会の様子である。
細川藩においては家老の直属機関として「機密の間」がある。その長は「佐貮役」と称するが、さしずめ秘書課長といったところか。
宝暦期に至ると奉行丸に奉行所が設けられ、月番家老以下が出勤してここで政務が行われた。ここには広い「機密の間」が設けられている。
細川家の居館・花畑邸には家老達や一門衆が詰める建物がある。「御花畑御絵図」によると、能舞台を中心にして北に藩主の居館が広がり、能舞台の裏手・南側にこの建物がある。「御奉行の間」があり「機密の間」が存在する。
能舞台は元禄八年に造られているから、綱利公の時代である。綱利は側近衆を重用しそれらの意見を政務に反映させたという。
「新熊本市史 通史編・第三巻 近世Ⅰ」は、「熊本藩法と政治」から引用して、「藩主側近の御側方が独自の政治的権限を持ち、綱利が花畑屋敷で政務をとり始めた。奉行が御花畑当番として詰めるようになる。延宝期には奉行寄合での審議報告を花畑屋敷における御前会議で決定するようになっている」と記す。
絵図が語る一つの時代である。
以前御奉行所の発足を書いた。ここでご紹介した絵図の場所は、現在の奉行丸のあるところである。(下図中央 田中兵庫 加藤平左衛門中屋敷)
この場所には加藤家治世の時代には加藤平左衛門の中屋敷があった。平左衛門の屋敷は城内にもあったが、細川氏肥後入国に際して解体されどうやら八代へ持っていかれたらしい。
忠利の肥後入国後城下の屋敷割が為されたのは、寛永十年正月中旬だとされる。その原図には「上々」「中」などの書き込みが為されており、これらをもとに上級家臣の屋敷割が行われたのだろう。さて平左衛門の中屋敷跡には「田中兵庫」の名前が書き込まれている。
松井氏以下三卿家老はいわゆる二の丸に屋敷が振り分けられるが、奉行丸は「西大手門」「南大手門」の内に位置する。
この田中兵庫とは豊前時代からの「惣奉行」田中兵庫助(氏次)であり、寛永十三年の奉書(七月二十六日)に「兵庫屋敷、御奉行所に仰せ付けられべく候間、なわばりの事」とある。( 新熊本市史・通史編第三巻・近世Ⅰ p407)
三卿をさておき城内に田中氏の屋敷が置かれたことは、「御奉行所」=「惣奉行の役宅」として選ばれたと考えるのが妥当であろう。
田中家は兵庫の子・左兵衛(氏久)の代に至り光尚付として出頭し、又天草島原の乱における「幻の一番鑓」としての高名も手伝い都合四千五百石の大身となり、肥後藩初の城代職(慶安元年十二月~延宝四年一月)に就いている。
後年に至ると田中家の屋敷は二の丸の現在熊本県立美術館があるあたりに移っている。
宝暦に至り奉行丸の屋敷は完全なる藩庁として機能する奉行所(政府)庁舎として整備された。
田中兵庫の時代から奉行所の庁舎に至る間の、この建物に誰が住みどう利用されていたのか興味が尽きないところである。
●0.24 隆文館 【古書 肥後文献叢書 1~6巻 計6冊】 1909年
随分安いので応札しようかと思いましたが、私は昭和46年(1971)歴史図書社出版のものをもっていますからやめることにしました。
箱がないのが残念ですが状態は良いようですね。如何ですか・・・・・
又こんなものも出ていました。 明治27年稿本肥後先哲偉蹟 巻一 武藤巌男林三陽佐藤固庵秋山玉山 (2,000円)
台風12号にはちょっと構えていましたが、随分西の海上を通り現在は長崎あたりを通過しているのでしょうか・・・・
たいした風も吹かず雨も御湿り程度ですんで、ひとまず安心しています。
台風一過で梅雨明けもまじかでしょう。その後の暑さが思いやられますが・・・・・・・・・
ふと思い立って、木下順二の戯曲「風浪」を読んでいる。
明治初期の様々な対立が織りなす青年の生きざまを、熊本の方言を通じて描く木下順二の初の作品である。
舞台となる古い家は、大江義塾(現徳富記念館)の建物をモデルにしていることで知られている。なるほどと納得させられる。
公演の噂は全く聞かないが、一度は見てみたいものだと思う。熊本弁をこなすのは至難の業であろうが・・・・・
哲学者・鶴見俊輔氏が亡くなられた。肥後実学党の雄・熊本藩士安場保和のDNAを受け継いでおられる。
安場保吉氏の著書「安場保和伝」について、鶴見俊輔氏が藤原書店PR誌『機』2006年4月号に「安場咬菜管見」という小文を載せている。保和の二女・和子の婿が後藤新平であり、その娘婿が鶴見祐輔、その子が俊輔氏である。出版社のうたい文句には【「岩倉使節団唯一の失敗者」「反民権的県令」との通説を覆し、小楠四天王の一人として、鉄道、治水など地域開発に尽力、後藤新平を見出し、頭山満をして「岩倉や伊藤より偉かった」と言わしめた、安場の全貌に迫る初の評伝!】とある。鶴見氏は「咬菜」なる文字をもって、安場保和を語っている。
溝口家七代目・武啓太(養子 実・五代政勝末子 権之助、蔵人・貞直)
文政十一年九月跡目相続、中着座、番頭、大目付、大奉行、中老職、家老職
文久元年八月致仕・号孤雲 家老職再任 明治五年三月十三日歿・六十四歳
天保三年五月~天保四年九月 用人
天保四年九月~天保八年六月 大御目付
天保八年六月~安政五年九月 大奉行
天保十三年八月~嘉永五年十一月 中老
嘉永五年十一月~万延元年十二月 家老
万延元年十一月~万延元年十二月 大奉行
孤雲 慶応三年三月~明治元年七月 家老(隠居後・再任)
溝口孤雲 名は貞直、初は蔵人と称し、後孤雲と称す。竹雨、鳳屋等の号あり。食禄三千石、
中老より家老に進み大奉行を兼ぬ。維新の際は藩公に代りて出京し斡旋大に力む。
後召されて参与となり徴士に挙げらる。
明治五年三月十三日没す。年六十四。墓は北岡安国寺。後従五位を贈らる。
熊本博物館の木山貴満様から「史料紹介・吉田如雪の明治十年の日記について」を御恵贈いただいた。厚く御礼申し上げる。
吉田家の貴重な文書が熊本博物館に寄贈されていることは承知していた。■熊本博物館所蔵の吉田家文書
又木山氏の論考■吉田家文書・上京公私諸控も拝見していた。
昨年10月「鳩太郎がゆく!肥後藩士 吉田鳩太郎が見た幕末維新」展が同博物館で催され、最終日に展観させていただき、ずうずうしく如雪日記の原本のコピーをいただけないかとお願いをした。
当然のことながら思いはかなわなかったが、今般このような形で如雪日記の全貌を知ることが出来、感激の至りである。
明治初期 細川韶邦 内田九一 古写真 肥後 熊本 大名 本物
明治初期に撮影された韶邦公だとする写真、貴重な写真だが・・・・高い?
我々が良く知る韶邦公像とは顔つきが随分違って見える。明治九年43歳で亡くなっておられる。
韶邦公
ちなみに御弟・細川護久公、上の写真と撮影場所は一所みたいですね・・・・
(なんだかオークションの写真、護久公ではないのかと思えてきましたけど???)
今朝ほどのフジTVのワイドショーで「京丹後地方」の方言が取り上げられていた。
「赤い→アキャー」「えらい→エリャー」「おまえ→オミャー」などと云う方言を聞くと、それ名古屋じゃないのと思ってしまう。
丹後地方と東海地方では言語の共通するところが多いといい、それは細川氏の影響だとコメントしており細川幽齋公の画像まで登場した。
大変説明不足なところがあり、細川氏は関係ないと思うのだが、東海地方の人たちが京丹後へ移動したことによるということであれば、それはそれで納得できるのだが・・・・・・
方言が縁となった交流も生まれているそうだし、「丹後・東海地方の文化方言等調査事業報告書」 なるものも刊行されている。
細川氏がなぜ取り上げられたのか、納得いかない話である。
昨日出かけた折に近所の本屋さんを覗いてみた。今盛り上がっている芥川賞受賞作「火花」を人並みに読んでみようと思ったのだが・・・売り切れていた。
入荷は何時に成るのか正確なところは判らないという。
「報道ステーション」の古舘伊知郎氏がまた余計なコメントをして物議をかもしているようだが、今日あたり何か言い訳をするのかな・・・・・
作者が漫才師であったのが気にくわないのか・・・、受賞した所以は才能ただ一点であり、そのことのみを称えてあげればよいのだが、才能がおありの御自身からすると相容れないものがあるのだろう。一口多い御仁ではある。
手ぶらで帰って本棚を見回すと、本屋大賞作家冲方丁の「光圀伝」を購入したまま完読していないことに気付いた。
本気に精読してみようと上下巻を机の上に取り出しておいた。
「芥川賞と本屋大賞の区分けがだんだんなくなってきた」と古舘伊知郎は云う。
それは明らかに違うでしょう・・・・いずれにしても本に親しむ人間としては、この人は「判っていない」と申上げるのみ・・・・
「報道ステーション」も見たくなくなりますね。
情熱大陸 http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/others/p0a48a51492764e321a5fb07202d2b25b
昨晩の「ぶらタモリ」では、東京駅周辺丸の内・八重洲・銀座界隈の複雑に入り組んだ地下街が紹介されていた。
そんな中に「常盤橋」が紹介されていたが、3:11大地震での被害を受けての復元が行われているようだ。
細川家辰の口邸にほど近い場所にあり、橋と共に常盤橋御門があった。奥州口へ至る御門だという。江戸の面影を残す貴重な遺跡である。
細川家が九州入りした最初の封地小倉にも「常盤橋」がある。
当時は紫川に二つしかなかった橋のその一つ、小倉城下の河口に架かる重要な橋だが、現在は木造橋として往時を偲ばせている。
当然のことながら人様専用の橋である。
長崎街道・豊前街道(薩摩街道)が通る参勤交代の行列も行き交った要衝の地である。