先に■藩債処分という大盤振舞いを書いたが、各藩の負債1/3は切り捨て、2/3は明治新政府が引き取って長期に返済するという驚くべき話である。
そして藩主は実高の1/10を頂戴するというのだから、藩主の権利をはく奪されるとはいえ抵抗の余地はない。
一方では当時、藩には貸金が当然存在しているが、これはどう処分されたのだろうか。
例えば、嘉永~安政期、矢部手永の惣庄屋・布田保之助が計画立案して、矢部の白糸地区の灌漑の為に造った「吹上臺目鑑橋(通潤橋)」は、「町在」の史料に在る決算報告書によると、総額 銀・711貫306匁という膨大な費用が掛かっているが、藩が383貫306匁(約54%)を融資していることが判る。
某ブログで「通潤橋資料館」は「橋本体工事費銀319貫400匁6分、付帯工事費銀375貫403匁2分、(計・694貫803匁8分)現在の金額に換算すると、通潤橋建築費が約17億5千万円、付帯工事である水路の建築費が約20億6千万円ですね。付帯の水路工事がいかに大変だったかが分かります」とし、総事業費として現代に換算して38.1億と試算している。
「町在」の資料との誤差は、「諸間拝借などの利払い=16貫496匁8分」が入れられていないことによる。
銀60匁=1両だから115,800両、即ち1両を32,900円ほどで換算しているが、1両の換算値が妥当かどうかは疑問である。
この時期の米価からすると10,000円もしくはそれ以下とされるが、大工・石工の日当から算出されているのかもしれない。
この大事業は、布田保之助の綿密で巧妙な計画で事業計画書が作られ、これに郡代の上妻半右衛門が全面的に助言協力して郡奉行に提出されている。
大奉行から家老の決済を得て巨大な融資を受けた。
この灌漑のための通水施設を持つ橋の完成で、白糸地区の米の増収は驚くべき結果を生んだ。
そして返済資金は一部の田畑がその為に充当されている。「新井手修繕料開」として返済用の徳米12.8石余を確保している。布田保之助が考えた妙案である。
この徳米をもって50年賦位で返済しようとしたらしい。
通潤橋の完成は1年8ヶ月という短時間で、嘉永7(安政元年改元・1854)年8月に完成しているから、50年と言えば1904年に突入する。
明治も37年であり、県の債務として引き継がれたのだろうか?この辺りに触れた史料が見当たらない。
一方自己資金である矢部手永の会所官銭の返済も同時並行で行われている。約18億円と言う膨大な金額であるが、これがいわゆる一分半米の蓄積であるということからすると、この課税が農民にとっては大変負担であったことはうなずける。
明治三年に熊本に到来した維新の中で、熊本の実学党政権は上米やこの一分半米などの雑税を免除して農民の喝采を受けたが、これが近隣諸所の一揆を誘発する原因となり、中央政権の進出を余儀なくし、政権崩壊となったことは皮肉である。
この会所官銭は新政府により、旧手永管理から郡に移され「郷備金」と名前を変えるが、明治10年に至ると西南役勃発に呼応するようにこの「郷備金」の返還を求める農民一揆がおきている。
熊大永青文庫研究センターの今村直樹准教授の「肥後藩の「遺産」相続争いー肥後の民衆と郷備金」に詳しい。
この郷備金は一部村民に返還されたが微々たる金額であり、相当額は新政府の収納する処となり、後には裁判となったが返還されることはなかった。
通潤橋建設に関わる旧藩からの借入金の返済などがその後どう解決されたのかは承知しないが、明治三年にやってきた熊本の維新政権が解決しておくべき重大案件であったように思える。