津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■通潤橋建設費の藩借入金の返済の行方

2023-07-31 06:39:12 | 歴史

 先に■藩債処分という大盤振舞いを書いたが、各藩の負債1/3は切り捨て、2/3は明治新政府が引き取って長期に返済するという驚くべき話である。
そして藩主は実高の1/10を頂戴するというのだから、藩主の権利をはく奪されるとはいえ抵抗の余地はない。
一方では当時、藩には貸金が当然存在しているが、これはどう処分されたのだろうか。

 例えば、嘉永~安政期、矢部手永の惣庄屋・布田保之助が計画立案して、矢部の白糸地区の灌漑の為に造った「吹上臺目鑑橋(通潤橋)」は、「町在」の史料に在る決算報告書によると、総額 銀・711貫306匁という膨大な費用が掛かっているが、藩が383貫306匁(約54%)を融資していることが判る。

某ブログで「通潤橋資料館」は「橋本体工事費銀319貫400匁6分、付帯工事費銀375貫403匁2分、(計・694貫803匁8分)現在の金額に換算すると、通潤橋建築費が約17億5千万円、付帯工事である水路の建築費が約20億6千万円ですね。付帯の水路工事がいかに大変だったかが分かります」とし、総事業費として現代に換算して38.1億と試算している。
「町在」の資料との誤差は、「諸間拝借などの利払い=16貫496匁8分」が入れられていないことによる。
銀60匁=1両だから115,800両、即ち1両を32,900円ほどで換算しているが、1両の換算値が妥当かどうかは疑問である。
この時期の米価からすると10,000円もしくはそれ以下とされるが、大工・石工の日当から算出されているのかもしれない。


 この大事業は、布田保之助の綿密で巧妙な計画で事業計画書が作られ、これに郡代の上妻半右衛門が全面的に助言協力して郡奉行に提出されている。
大奉行から家老の決済を得て巨大な融資を受けた。

この灌漑のための通水施設を持つ橋の完成で、白糸地区の米の増収は驚くべき結果を生んだ。
そして返済資金は一部の田畑がその為に充当されている。「新井手修繕料開」として返済用の徳米12.8石余を確保している。布田保之助が考えた妙案である。

この徳米をもって50年賦位で返済しようとしたらしい。
通潤橋の完成は1年8ヶ月という短時間で、嘉永7(安政元年改元・1854)年8月に完成しているから、50年と言えば1904年に突入する。
明治も37年であり、県の債務として引き継がれたのだろうか?この辺りに触れた史料が見当たらない。

 一方自己資金である矢部手永の会所官銭の返済も同時並行で行われている。約18億円と言う膨大な金額であるが、これがいわゆる一分半米の蓄積であるということからすると、この課税が農民にとっては大変負担であったことはうなずける。
明治三年に熊本に到来した維新の中で、熊本の実学党政権は上米やこの一分半米などの雑税を免除して農民の喝采を受けたが、これが近隣諸所の一揆を誘発する原因となり、中央政権の進出を余儀なくし、政権崩壊となったことは皮肉である。
この会所官銭は新政府により、旧手永管理から郡に移され「郷備金」と名前を変えるが、明治10年に至ると西南役勃発に呼応するようにこの「郷備金」の返還を求める農民一揆がおきている。
熊大永青文庫研究センターの今村直樹准教授の「肥後藩の「遺産」相続争いー肥後の民衆と郷備金」に詳しい。
この郷備金は一部村民に返還されたが微々たる金額であり、相当額は新政府の収納する処となり、後には裁判となったが返還されることはなかった。
通潤橋建設に関わる旧藩からの借入金の返済などがその後どう解決されたのかは承知しないが、明治三年にやってきた熊本の維新政権が解決しておくべき重大案件であったように思える。

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■お出かけはしたものの・・

2023-07-30 08:13:00 | 徒然

 先に■お出かけは取りやめ・・を書いたが、その続編。どうも81爺様はおかしい???
さあ29日の夕方7:30開演に遅刻しないようにと、時間を調整してバス・電車を乗り継ぎ熊本駅前の「くまもと森都心プラザ5Fホール」に出かける。
5分ほど前に会場に入ると時間通り上映が始まった。見ているとM氏の役どころが登場するような映画だとはとても思えない内容である。

 出演者は二人の女の子だが、自転車で移動する二人の主人公をドローンで大俯瞰に撮影する印象的なシーンからはじまり、多くのシーンが同様の手法で撮影されている。
双子の妹を亡くした女子と、病で動けなり介護を続けた父の自死を自分が殺したと自らを責める女子の不思議な旅を描いているが。
特別メロディーをもつ音楽もない。重たい筋がきに逢わせるように単調な打楽器の音が全編を通しているが、クライマックスで壮大な演奏とかわる。粋な演出である。

これが熊本の制作スタッフで完成されたとは驚きであった。

 途中でこれはM氏が登場する映画ではないと思い至り、パンフを取り出して眺めていたらやはりそうだった。
開始時間が夕・7:30ではなく、17時30分の映画だった。まずい、M氏に合わせる顔がない・・・
違うはずだよ、M氏の役柄は「子供ギャング団の頭目」だとお聞きしていたから・・・

10時前までお付き合いをして、熊本駅前の夜の景色を跡にしてまた電車・バスにゆられて帰宅。
バスの中では座ることが出来ず、今朝がたは左足の脛の痛みが激しくて目が覚める有様・・・

どうも爺様はおかしい・・おかしすぎる・・・どうした爺様・・・

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■勝海舟の俳句

2023-07-30 06:28:45 | 俳句

 勝海舟の「氷川清話」には、海舟の幾つかの俳句が紹介されている。それぞれが大変興味深く御紹介してみようと思う。

■この中の「文芸評論」の中に「俳諧のはなし」という項が立てられており、数種の句が披露されている。
 ・時鳥不如帰遂に蜀魂
   蜀魂(しょっこん)は、蜀の望帝の魂が化してこの鳥になったという伝説からホトトギスの漢名。
   ゆえに「ほととぎす、ほととぎす遂にほととぎす」と読む。それぞれが少壮・中年から初老・そして晩年の意で「十七文字の中に人
   生
を一括したのさ」と解説するが、周りの人たちは「どうも先生の句はわからない」と言う人がいた。

 ・昼顔のとがまを漏れてさきにけり
   この句は其角の「道の辺の木槿は馬に食われけり」という句から思い付いたという。とがまは「利鎌」とも書くがよく切れる鎌の
   事。人名にもよく使われた。刈り取られることを逃れた一輪の昼顔の花の情景が浮かぶ。
うまいなと感心した。

 ・稲妻やまたたくひまの人一世
   この句は「稲妻の行く先見たり不破の関」(芭蕉の句らしいとされるが??)という句を読んで大いに感心して作句したものであ
   る。
維新の大業が為されるなかで有名無名の人々が命を落としている。大業を為さんとした人々の命のやり取りの一瞬だろうか。
   そして新しい時代を迎えての感慨であろう。

 ・外の雪草鞋もぬかで子を思う
   少々しんみりとした句だが、「少し調子が卑しい」などと云っている。「調子が卑しい」が理解できない。

 ・車引き車引きつつすぎにけり
   随分長く車引きの仕事をしてきたが、新しい時代になったから商売を替えようと思いつつも、未だに車を引いていて、一生このまま
   
過ごすのだろかという感慨である。明治の大改革では不器用な人には生きにくい時代であった。

 ・米櫃に一夜つかるる老鼠
   貧乏士族を鼠に見立てた句である。これも上の車引きと同様、次代に翻弄されて米櫃の底に残る米を心配しながら生きる人間の悲哀
   を
詠んでいる。

   そして今の人たちの俳諧は「みな規模が小さくて、小天地の間にせこせこしている」といって次の句を披露している。

 ・雲の峰すぐに向こうは揚子江
   「詩でも山陽の「雲耶山耶」などは、まだまだ小さいよ」と言って作った自画自賛の句だが、皆様はどうお感じだろうか。
   熊本ゆかりの「泊天草洋」と題する頼山陽のあの「雲か山か呉か越か」でしられる詩に対抗している。

■また「太田道灌」という項では次の句が見える
 ・咲く花を散らさで祝え田舎人
   どうやらいろんな役職に誘われるらしいが、生活に苦しい人々を見ていると、華やかに騒ぎ立てるのではなく静かに生きていきた
   い
という思いが強いようだ。

 上野飛鳥都の花となりけり
   正岡子規の句に「つらつらと上野飛鳥の夏木立」とある。「飛鳥」は飛鳥山と思うが、徳川吉宗が享保の改革の施策のひとつとして、
   飛鳥山を桜の名所にし、行楽の地としたことで知られるが、上野に並ぶ東京の名所になったなあという感慨か

   また、詩も紹介している。
 ・たちかえるわが古里の隅田川昔忘れぬ花の色かな
   これは徳川幕臣たちが江戸を離れ静岡に引き払うときに、当然海舟もそうしているがその時に詠んだ「つねにだも住ままくほし
   き
隅田川わが故郷となりにけるかな」と前後照応していると説明している。

■「日本の下層階級」という項では三句が披露されている。
 ・新米や玉を炊ぐのおもひあり
 ・落栗やしうとと孫の糧二日
 ・唐茄子に一日は飢をいやしけり

   それぞれに悲しい情景が伺える句である。あちこちの戦いでの悲惨な状況や、新たな時代になっても底辺の生活を強いられる人々
   の代弁者としての詩であろうか。

■そして「西郷の礼儀正しさと肝の大きさ」では、今は亡き西郷を回顧している。
 江戸城の無血開城における会談に際しての、幕府の臣に対しても敬礼を失わず、終始座を正して手を膝のうえに乗せて、戦勝の威光
 を以て敗軍の将を軽蔑するというような素振りは無かったと述懐する。

 次の句はいつの頃のものかは判らないが、上野に西郷の銅像が出来たころのものであろうか。
 西郷夫人と久闊をあたため、いろんな会話が為されたのであろう。素直な句である。

 ・南洲の後家と話すや夢のあと

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■楽天理

2023-07-29 13:47:28 | 書籍・読書

 引越に際し書籍類は荷解きをしてとにもかくにも本棚に押し込んだ。
さて落ち着いて本を探す段になると、どこに入れたのやら判らずに大事することになる。
以前の様にある程度系統立てて並べ替えようと思うが、これも81爺にとっては一仕事となる。
まずは文庫本だけをまとめて並べることから初めて、どうやら形が付いた。

 そんな中に随分古い勝海舟の「氷川清話」が顔を出した。昭和47年の第5判である。
パラパラめくっていると折り目を立てた跡がある頁が出て来た。「末路に処する工夫」とある。
そして記事の中にある「楽天理」という言葉に朱線をひいているのを見付け、瞬時に記憶がよみがえった。

       

 徳川幕府最後の将軍慶喜が明治30年静岡での謹慎生活を切り上げ東京へ出て来る。
「朝敵」の負い目を負ったままの慶喜が、天皇に初めて拝謁したのは明治31年3月2日のことである。
徳川慶喜の母は有栖川宮織仁親王の12女という関係から、有栖川宮威仁親王がその実現にむけ尽力され、勝海舟にも相談があったようで「内々奔走した」とある。
天皇には大変ご鄭重な待遇に預かり、皇后からはいろいろな拝領物を下賜された。
翌日慶喜は海舟を訪ねて来たという。海舟は「品位をお保ちになって、昔の小大名などとはあまりご交際なさるな、(中略)自ら品位を落とすもとである。馬車などには乗らず、一人引きの車でどこへでもおいでなさい。時々はご徒歩でもって市中の様子でもご覧になるがよろしい」と申し上げた。
天皇拝謁は果たしたものの「朝敵」の負い目を抱えていたのだろう慶喜に対し、海舟は「品位を保つこと」を盛んに言っている。

慶喜は「天恩の優渥なるを記し奉って、祖宗の祭りを絶たないようにする」とし、海舟に対し、布に「楽天理」と揮毫を依頼し海舟も涙を流してこれに応えたという。
「楽天理」とは、天の理に身を託して余生を静かに生きて行こうという意であろう。
天皇拝謁という一つの節目を迎えた慶喜の感慨が伺える。
明治13年には罪を許され、大政奉還の功によって将軍時代の正二位に復位、続いて従一位に叙されたが、爵位は与えられなかった。
明治35年、慶喜は宗家を離れて別家を興し公爵を授爵された。一橋家の家臣であった渋沢栄一などの尽力があった。
ちなみに海舟は嫡子・小鹿が早世すると伯爵家の後継ぎとして、慶喜に頼み込み末子・を養嗣子に迎えている。

 

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■明治天皇を胴上げ?

2023-07-29 06:45:00 | 人物

                  侍従長・米田虎雄

 先に触れた元田永孚は文政元年(1818)10月1日の生まれ、「明治4年(1871)1月に藩命で上京し宣教使・参事を兼任、5月30日に藩命および大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し、明治8年1月には明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって」天皇の側近として仕えた。(「 」部分、ウイキペディアより引用)
実学党坪井派の出身である。

 その実学党坪井派を率いたのが、細川藩三卿家老の米田家10代の是容である。11代が是豪、12代が弟の虎之助是保だが米田虎雄の方が知られているかもしれない。
米田も元田同様明治天皇の側近としてお仕えしたが、天保10年(1839)3月10日の生まれだから、元田より21歳も若い。

戊辰戦争においては藩兵を率いて東北各地に転戦した。明治2年8月(1869)熊本藩大参事に就任。その後、権大参事として実学党による藩政改革を行った
「明治6年(1873)1月9日、宮内省に転じ侍従番長に就任。(中略)明治11年(1878)12月24日、陸軍中佐兼侍従長に就任。(中略)明治41年(1908)主猟頭となり、同年11月7日宮中顧問官を依願免官となる。」(「 」部分、ウイキペディアより引用)

 つまり、明治天皇のお側近くに熊本藩出身の元田永孚と米田虎雄がお仕えしていた。
米田は明治六年に侍従番長となっているが、これは「武官長」のことであろうか。
明治維新という新しい夜明けの中で、以降二人が上げた功績は多大である。
明治天皇ご自身の痛恨事は「日清戦争」「日露戦争」の開戦であろうが、立憲君主制の体制の中では「朕が志にあらず」としながらも、抗える状況ではなかった。
日清戦争開戦後の「平壌大会戰」での勝利の報が届くと、天皇は一方ならず安堵されたと推察される。
天皇周辺に於いては「上下頗る気色あり」と言う状況にあふれたというが、なかでも米田虎雄は「天皇を胴上げしよう」と言い出したらしい。
「今回の戦争は朕素より不本意なり」と吐露された明治天皇の深いお心内は、周辺の気色とはかけ離れたところにあったのだろう。


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■重賢公 VS 建築屋の蘊蓄「雁木」

2023-07-28 09:37:59 | 建築

 清成八十郎の「聞くまゝ乃記」に「雁木」にかんする記述がある。重賢公の参勤の途中の話として次のようにある
遥か向こうの山にお宮があるのにお気づきになり、「あれはどのような御宮であるか」とお尋ねになったので「あの高い雁木のある御宮でございますか」と申上げたところ、「このように石で付けた段は石段という、木で付けたのを雁木というのだ」と仰せられたという。
本妙寺にある「胸突き(急な)雁木」は石の階段だし、川尻の船着き場に在る石の階段も雁木と言う。
これをお読みになる方も、少々違和感を感じられるであろう。これには「元々は」と言う言葉をつけるべきだと思うが如何だろうか。

 重賢公の話は矛盾することになるが、「板雁木」という建築用語が有りどうもこの辺りを指して居られるのだろう。
寝殿造りの「階(きざはし)」と呼ばれるような形式の古いものをいう。
これをさらにさかのぼると高床式の倉庫に丸太の一木を刻んだ原始的な階段を「雁木」(左下図)と呼んでいる。
建築様式に「鴈行(がんこう)型建築」(右下図=二条城)があるが 、これは鴈が飛んでいく形から来ている。
高床式建築の「鴈木」も、この飛行する「鴈」の形から来ていると考えるのが妥当か?
  
               


しかし、雪の多い地方に「雪除けの歩道」を「がんぎ」と呼び「雁木」としているようだが、これはまた違う言葉の由来があるのだろう。
日本の言葉はその由来を遡ると誠に含蓄が有り、奥が深い。(参考:建築大辞典)

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■細川藩家臣・平川氏資料

2023-07-28 05:52:07 | オークション

         

    

       ■ 平川弥丈(ヤタケ)  (南東53-17)
        1、奥左衛門
    左図➡ 2、奥左衛門
        3、七左衛門   十番与 百石
    右図➡ 4、浅之丞(奥左衛門)
        5、丈助   御知行取諸御目付御奉行触・御奉行所根取 百石
               
細川斎樹公御書出(文化九年)百石
               細川斎護公御書出(弘化四年)百五十石
           
平川丈助 名は惟延、武勇にして忠孝を心とし邊幅を修めず、気象灑然、桜花を絶愛し
                咲花居士と号す。頗る狂歌を善し、口を衝いて出づ。
                嘉永五年二月二十日没す。年七十八。

        6、丈太郎(丈左衛門・弥丈) 御本丸御座敷支配役 百五十石

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■お出かけは取りやめ・・

2023-07-27 17:38:08 | 徒然

 今晩は熊本史談会の会員M氏が出演されているという映画を鑑賞する予定だった。19時半の開演である。
         千年映画祭「密室」
夕方5時過ぎ雷と共に猛烈な夕立である。瞬く間に水無川の水位があがり濁流になり始めた。
こりゃ~バス停に行くまでにびしょぬれになるぞと思いながら、M氏から送られてきたパンフを再確認してみる。
なんと・・29日とある。エッと思いカレンダーを確認すると今日は27日、ああ間違っていた。
そろそろ出かける準備をしようかと思った時のことで、一人で笑ってしまった。
数日前から27日は夕食はいらないと奥方に言っていたから、慌てて報告、すっかり馬鹿にされてしまった。
「お茶漬けでもいいよ」と言ったことである。それにしても確認してよかった。
熊本駅前の新都心プラザで右往左往して挙句がっくりするところだった。

最近どうも右目がおかしい。視野の下のあたりが雲がかかったようになる。白内障かもしれないなと思ったりして眼科検診を受けようと考えているが、29日を27日と見間違えたのはそのせいかもしれない・・としておく。
雨のお陰で外気温が5・6度以上確実に落ちたようだ。

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■「ゐ」「ゑ」と言う文字

2023-07-27 10:38:54 | 徒然

 古文書を読んでいると「ゐ」「ゑ」と言う文字が結構登場する。

 私が子供の頃だって「ゐ」とか「ゑ」とか言う文字は、読めてはいても使ってはいないと思うが・・どうなのだろうか。
ある本を読んでいたら「あれは猪(い)の鼻の穴の形から来ている」と、いうくだりがあり、「おいおい本気かい」と笑ってしまった。
神社仏閣などでみられる彫刻に「猪の目」と呼ばれる形の模様があるが、これは猪の目そのものだというが、これとて信憑性は確かではない。
数年前のお正月のお詣りで健軍神社を訪れた時「猪の目」を見付て嬉しかったことを思い出す。
■健軍神社の懸魚

「ゐ」は漢字の「為」の草書「「為」の草書の画像」から来ているが、ア行の「い」とワ行の「ゐ」の違いは発音の違いであったという。
「い」は「i」、「ゐ」は「wi」であった。
「ゑ」は「恵」の草書体からきている。これも「e」「we」という発音の違いによる。

こうなってくると、古文書における使い分けが気に成るではないか。遡って調べる元気はないが、今後は大いに気を付けてそれぞれがどのように使い分けされているのかを調べてみようと思う。


その区別を「いろはにほへと ちりぬるを・・・(色はにほへど、散りぬるを・・・)」で知ることが出来る。

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■元田永孚と井上毅

2023-07-27 06:31:24 | 人物

 二人の名前を挙げたものの、私は明治以降の歴史にはとんと疎い。
ただ、二人とも幕末の実学党派の人物であること、元田永孚は天皇の側近として名をなし、井上毅は大久保利通や伊藤博文の側近として、教育勅語や明治憲法の制定に尽力したことくらいは辛うじて承知している。
熊本が産んだ二人の偉人でありながら、その詳しい所を知りたいと思い勉強を始めている。

 二人は実学党派ではあるが、元田永孚は横井小楠の沼山津派系、井上毅は陪臣で坪井派の家老・米田是容の家臣である。
また二人は、大久保利通の推挙でそれぞれの道を歩き出している。

元田は一貫して明治天皇の側にあってその生涯を閉じた。井上は外国語学研鑽の結果西欧使節団の一員となりフランスやドイツの憲法を学び帰国後はその実績を以て一連の諸法の策定に力を尽くした。
二人はある時期、或る局面で直接対峙している。それは明治新政府の方向性を決定する教育勅語や・明治憲法制定のうえで決着がついた。
元田永孚は天皇側近として「天皇親政」を目指し、井上毅は伊藤博文の「君主機関説」の強力な牽引車となった。
元田は如何にも保守的・儒教的な「忠孝」をとき、井上は新しい国家観として「国家・国民」を加えた。
明治新政府の新しい方向性は、井上毅の働きが大いに影響している。

「元田永孚と井上毅」という内容に特定して、どなたか講演して頂ける方はいないだろうかと考えている。 



 

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■「開結」でご大身

2023-07-26 08:02:04 | 歴史

 「開結」という難しい言葉がある。「御赦免開で開発した開地(開墾地)を藩に差上げて知行高に繰り込むこと」をいう。
細川家の表高は54万石の侭だが、この開結によって藩の実高は増加したことになる。
元禄九年・寺本兵右衛門が552石もの「開結」をしたという記録が残るがこれが一番か?
単純に1石を収穫する為の農地面積を1反とするなら、552反(165,600坪)を開墾したという事になる。
膨大な労力を費やしたことになる。

宝永六年には一村家3代目の200石・弥三兵衛が420石を開結して一気に家禄が増加した。
  3代・弥三兵衛  御詰衆・四番横山藤左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
            開結四百二十石(村数五拾ケ村)を知行として願い出・・・地方宛行とした
                         (松本寿三郎著「近世の領主支配と村落」p292)
620石取りとなった一村家は弥三兵衛の息・市郎兵衛の代にいたり宝暦六年には鉄炮廿挺頭になり、更に「天明八年十一月(三拾挺頭)~寛政二年二月(依願免)鉄炮五十挺頭」となっている。
開結による家禄の増加が御役をもたらしたことが判る。処でこの「開結」は何故か享保年間には禁止されて、家禄を増やすという事はなくなっている。

一村家は天草島原の乱に於いては細川家家臣ではなく、浪人者として参陣しているが大きな働きが認められて召し出しとなっている。
綿考輯録(巻五十)は、その一村家召し出しの経緯を次のように記している。

    有馬にて手首尾能働候、熊本ニて浪人御振廻之節弥三兵衛ハ洩候処、即晩為御内意
    今日ハ思召有之候而之事也 御国を出候体ニ仕御国内ニ居候へと御懇之御意有之、諸
    浪人不残罷立候跡にて有馬之功を以弐百石拝領

 


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■「人間の証明」を読む

2023-07-25 10:33:24 | 書籍・読書

            森村誠一氏が亡くなられた。ご冥福をお祈り申し上げる。

 そこで本棚に唯一残っている森村作品の珠玉「人間の証明」を読もうと思い至った。
なんべんも読んだ光文社のカッパノベルの「人間の証明」だが、初版は昭和52年(1977)の3月5日私が所持しているのは第45刷でその年の9月26日である。
僅か半年で45刷とは大ヒットの跡が伺えるが、770万部と言うものすごい記録だそうだし、ジョー中山の出演映画も大ヒットしたし彼の主題歌も耳に残っている
氏は確か前職はホテルマンだったと記憶する。
この小説の書き出しはホテルのエレベーター内での刺殺遺体をエレベーターガールが発見した事からはじまるが、いかにもホテル関係者であったことが伺える綿密な描写が連なる。
20世紀の23年間と21世紀の23年間、世紀をまたいだ今でも心に残る名作だが、映画も改めてみてみたいものだ。
森村誠一氏の細身の端正な顔立ちが思い出される。

今日も暑い一日になりそう。はたして今日一日で読めるかどうか、冷房の下でページをめくっていこう。

 

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■いつになる梅雨明け??

2023-07-25 06:46:13 | 熊本

 昨日は昼から夕方にかけて雷と共に強い雨が降り出し、水無川は瞬く間に水位が1.5m程上昇した。
メディアは気温が10度下がったと報じていた。そろそろ8月だというのに、こんな不安定な按配だから九州北部は梅雨明けに至らない。
もっとも昭和28年の水害のあとの2年目くらいに、我が家は又床上浸水に襲われたりしたから、まだ安心はできないのか。

 私の部屋時は東向きで、朝からまともに太陽が照り付け、陽の光が部屋いっぱいに差し込んで温度が急上昇する。
今朝は昨日の雨のせいで気温が下がっていたから冷房無しで就寝していたから、太陽に起こされてしまった。
5時過ぎから次第に山の端が茜色に染まり始め、5時半日の出となった。正月ならずとも日の出はいつも神々しい。
天気予報を見ると、今日も明日も昨日と同じ時間帯に雷予報が出ている。また雨が降るのかもしれず、今年の梅雨明けはまだまだ先かもしれない。

                             

 14:30追記
今日午前、「梅雨が明けたらしい宣言」がありましたが、昨日同様14時前頃から雷が鳴りだし、暫くすると雨が降り出しました。

ちょっと「はやまった」感がありますが、昨日みたいな水無川の水位を1.5mも上げるようなそんな激しい雨ではありません。
このくらいは「梅雨明け」以降の許容範囲なのでしょうか。 

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■勤務時間の倍増

2023-07-25 06:12:20 | 熊本

 定食もなくぶらぶらと遊び暮らす者、無為徒食の者をののしっていう言葉に「ごくつぶし=穀潰し」がある。
随分以前ある人と話していたら、「侍もごくつぶしのようなものですな~。」「石潰し」だと云われたのを今でもよく覚えている。
人口のわずか5%ほどを武士が占めていたが、非効率・非生産的なこの世界にはそう指摘されても仕方のない部分が透けて見える。
熊本に於ける「宝暦の改革」の中で、「勤務時間の倍増」というのがある。
そしてそれまでは、役宅で行われていた仕事が、奉行所を設けたことで出勤という形態が誕生した。

        時の鐘突き候儀殿様御工夫ニ而朝之鐘を段々夜之内へ繰
        昼ノ四ツを五ツニ突かせ被成候 八ツをのべて七ツニ御突
        かせ被成候 是ハ四ツゟ八ツ迄之勤方二日之役を一日ニ相
        仕廻候様之御工夫と申候 夫故肥後國ハ諸奉公人百姓ニよ
        らず朝厳敷晩を詰申候

 これはそれまでの4時間勤務を8時間勤務に倍加させるという達しである。
すなわち役所の始業の鐘を一ト時(2時間)早く打ち、終業の鐘を一ト時(2時間)遅くしたというのである。
現代人からすれば、改変前の4時間勤務というのに驚かされるが、当時のお侍からしたら「仕事がない」という状態が生まれたのかもしれない。
そして他藩がどうであったのかは資料を見つけ出し得ない。

     

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■綱利弟・細川利重書状

2023-07-24 06:47:57 | オークション

                  【深和】細川利重 書状 紀州徳川家附家老・水野重上宛 十月二十四日付 真筆

説明書きには「紀州徳川家附家老・水野重上に宛て、内々に寒牡丹を調達して頂いたことを謝し、中納言様(徳川光貞)の屋敷の玄関まで再度御礼に伺いたい旨を伝えた書です。
尚々書からも茶の湯の初座を無事に勤め上げた旨が知られ、江戸住まいの大名たちの茶を通じた交流が窺える逸品です。」とあり、書状の内容が具体的に説明されているとともに、釈文が添付されている。この釈文如何?

      

                                                    尚々、初座之砌
                                                 弥無事御勤珍重
                                                 候以上
             御芳札殊ニ内々申遣候乳母
             早々も仰上為期被下、さて
             /\別而忝奉在候故候、御礼
             御仰上可被下候、此御礼ニハ遣而被在
             御見廻役伺公 中納言様之
             御玄関ニ而在随而御礼可申上候、
             夫迄之内御礼之深可然様ニ
             貴様頼入御座候、恐惶謹言

              十月廿八日    重利(花押)
                     細川若狭守

             (端裏書)
                「(墨引) 水野土佐守御報 重」

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