津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「堀内傳右衛門覺書」‐(17)

2024-11-15 07:06:39 | 堀内傳右衛門覺書

(71)
一堀部彌兵衛被申候は、津輕越中守樣大石無人と申候て、拙者同年七十八歳に罷成候、前廉故(浅野)采女代の勤の者にて、只今は津
 輕樣へ、大石郷右衛門御側御用人相勤居申候に懸り居申候、今度一列の同志と申候故、拙者扨々無分別、御家も替り、子に懸り居候て
 は、道理に叶不申と申候へは、得心仕候。御滯留中御隙の砌、御知人に御成候へ、故事共能覺居と被申候故、彌兵衛果被申候以後、本莊
 に被居候由尋候て罷越、無人子息郷右衛門、三平共在宅にて、緩々語、いろいろ馳走にて被歡候、無人被申候は、彌兵衛儀は、若き時
                                       細川藩士
 分より心懸よく、初て主取いたし、扶持方計にて馬を持居申候、御家に只今居申候哉、斎藤勘助とは、故采女所にては兒小姓傍輩にて勤
 居申候、勘助親又太夫大身にて御家に罷出申候故、勘助は采女手前より暇をもらひ、親一所に參候と被申候故、扨は左樣に候や、勘助は
 とく果候て、只今は孫子の代にて、無事に勤居申候と申候、無人又被申候は、今度一列の者共、刀脇差道具抔、泉岳寺より拂物に成候
 由、色々才覺を以調申者有之、内蔵之助著込は、御家之御侍衆所望の樣に承候、誰殿にて御座候哉と尋被申候、いかにも存居候へとも、
 自然所望なとも可被致と存、越中守屋敷も方々有之、侍共も諸方に居候、殊に大勢の事故、定て左樣之儀可有之候しかと承不申儀と申
 候、泉岳寺にて拂物有之段は承候へとも、偽にて可有之候、衣類之樣成物にて可有之候哉、大小武具、寺の寶物と成り其儘召置被申候、
 子孫の所望も有之節、譲り渡被申心底にて、中々拂物に成候と承り、肝をつぶし申候、拙者なとも望に存候而、殘念に存候と挨拶いたし
 候、右無人は大石同名にて、瀬左衛門大伯父と承候、内蔵之助着込は、去人泉岳寺小坊主に心安有之所望被致候、それかしは未申候、随
 分隱し、向方よりも聞付、所望も可有之候哉と、内々にて求被申候、助右衛門を頼候て、如望二枚調被申候、内一枚は、右忍の緒に替
 へ遣申候、追て右着込を求被申仁、歌の下書を被仕、此通に何とそ内蔵之助に歌を書貰候様にと被申聞候、初者拙者心も付不申候、只今
 存候へは、能こそ書せ置候と存候、是も右之仁の影と存候、右之仁は江戸定詰にて候事
(72)
一拙者肩衣に、紺の水衣有之、單にて夏中着、冬に成り古き羽織の裏に茶の形付置候を、或時着用罷出候へは、片岡源吾右衛門被申候は、
 此御肩衣は、何と申ものにて候哉と、尋被申候故、水衣とか申候樣に承候、若きものともの物好にて拵候と申候へは、扨々能き御物好
 き、裏の取合迄能御座候と、手にて探り譽被申候、神以それかし迷惑致候、總體衣類に不限、時々のはやり事致さぬものと、亡父被申聞
 置候、三齋様御眼あしく、八代え相詰居申内、細川刑部殿と申候、後に玄伯老と申候(七男・興孝)若年の時分、江戸より下着にて、八代に被
 參候節、京都より御咄伽、宗吟宗和と申者、槙嶋雲菴半之丞祖父也も被居候、刑部殿短き羽織着御出被遊御覧、御機嫌悪く、次へ被參、
 其羽織誰にそ遣候へとの御意に付、宗吟宗和申上候は、唯今かうむり道服とて、江戸御旗本衆、馬の三頭に懸らぬ樣にとて、はやり申事
 に御座候と申上候へは、三齋様御拝領の羅紗の羽織を御取寄被成、刑部小袖に、兩方五歩宛長く仕立させ候様にと、御意被成候、扨江戸
 にて何を仕居候哉と御尋被遊候、小畑勘兵衛軍法を承りたる由御申上候へは、御意に證據かなけれはいわれぬ事なれとも、雲庵是にて聞
 候、關原之時分、勘兵衛もさして替候事もなく候、われ等馬上にて働、太刀打も、雲菴、存知之通に候、三齋子越中弟なとゝ申者か、時
 々の時行とて末々の仕事無用に候、總體時行事は二十年々々には本のことく成ものにて候、ニ六時中越中軍法を習ひ、常々了簡いたし心
 を付、侍共を夫々につかひ候か、軍法を不依何事、其時の下知よく廻り申ものとの御意承り候と、毎度亡父被申聞候、扨々乍憚御尤至
 極、御名將樣の御詞、毛頭違不申候、拙者若き時は、無そりの刀脇差時行、拙者も反をのべ指たる事も有之候、只今本のことく反りたる
 に成り申候、第一に箇樣之儀承覺居申儀、當分の御用にても、即座失念仕候はゞ、迷惑可被仰付候、箇樣之御意を傳承、それ/\に嗜候
 はゝ、寔に寸志にて、冥加にかはひ可申候

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(16)

2024-11-14 06:50:37 | 堀内傳右衛門覺書

(66)                    細川藩士                                             家康公                                             
一次之間にて(富森)助右衛門被申候は、吉弘嘉左衛門殿先祖之儀、承度と被申候故、我等申候は、大友家にて吉弘嘉兵衛と申者、秀吉公
 之時、九州合戰之砌討死仕候、石垣原の戰と申候、豊後詞にて子共迄も小歌に、長い刀をシャツと抜て切てさるけばエレ/\皆はいまは
 と、諷申候と申傳候、就嘉
左衛門と心安共は、ムゝエレ/\と申て、なふり申候と申候へは、助右衛門被申候は、アレに居申候、矢田
 五郎右衛門も、嘉左衛門殿御先祖にまけ申ましく候、矢田作十郎と申候者は、隠れもなきものにて候と被申候、後に承り候へは、大村因
 幡守樣御出被成、太守様え御咄被成候は、御預り内、矢田五郎右衛門先祖作十郎は、三河にて三人之内にて、二人之子孫は、只今御旗本
 に御鐵砲頭被仰付置候、名は失念仕候、其内にても、作十郎は勝れたる武功之者と御咄被成候由承候、堀部彌兵衛事も御咄にて、今時之
 聞番之樣成るものにては無御座旨、被仰候由之事
(67)
一内蔵之助を初、何れも被申候は、度々御斷申候は如御存、私共久々浪人にて、輕き物迄を給暮し申候故、結構成御料理數日頂戴仕、殊之
 外つかへ申候、此間の麁飯戀しく成申候、何とそ御料理輕く被仰付被下候樣にと被申候、我等申候は、左樣に可有御座候、私共も逗留中
 御相伴に、次にて料理給少つかへ申候樣に覺申候、乍去菜數之儀は、旦那耳に達候て之儀故、減申事は難成と申候へは、左候はゞ、唯今
 御座候ちさ汁、なまこ鱠糟味噌汁なとゝ、心安衆は望被申候故、色々申候へとも、御料理人共、唯うまき樣に計仕、存候樣に成兼、残念
 に存候事
(68)
一助右衛門被申候は、いろ/\御馳走、誠以冥加に叶たる儀に御座候、水風呂も一人宛御かへさせ被成候事別て迷惑仕候、大勢入候跡程和
 かに能御座候旨被申候故、後は二三人にて替候様に申付候、毎度下帯なと被下候へとも、度々には替不被申候事
(69)                                                                  ほつんヵ
一上之間若き衆、大勢咄被申候處に、罷出候へは、何れも被申候は、御覧被成候へ、間喜兵衛いつとても咄不申、人の後に計つほんといた
 し居候が、如形律儀に堅き男にて御座候と被申候故、我等申候は、勝れて御實儀と承候へは、今後顯れ候と申候へは、夫はいか樣の思召
 にて、被仰候哉と被申候故、今度各様上野介殿をこそ、御心に可被懸候へとも、十次郎殿御鑓付被成候て、印を御あけ候事、喜兵衛殿御
 手に被懸候より、十次郎殿御手柄を、何程かと大慶に可被思召、冥加に御叶候事、常々喜兵衛殿之御貞心故と申候へは、何れも誠に左樣
 にと被申候、何れも喜兵衛の方を見向被申候へは、歡ばしき顔色にて、笑ひて我等に向、何共物は不被申候、忝と計之樣子にて、折入て
 時宜を被仕候、夫故か終に咄もなく、しかと言をかはしたる事無之候、最期之時、側に寄候而、何そ御口上之御方可承と申候ヘは、懐中
 より辭世を書たるを給候き
       草枕むすふ假寝の夢さめて
            常世に歸る春のあけほの
(70)
一御老中秋元但馬守樣御内に、中堂又助と申仁、(間)喜兵衛聟に御座候由に付、傳を以此辭世を又助内儀へ見せ、所望には可被思召候へ
 とも、是は拙者に給被申候故、所望は斷申とて遣見せ候へは、又助より卽刻禮状給候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(15)

2024-11-13 06:51:21 | 堀内傳右衛門覺書

(59)
一いつれもへ我等申候は、箇條に御懇意に仕るも、因縁ある事にこそ候へ、折を見繕ひ、追々各樣御一類中へ、御身分之樣子、委敷御咄
 可申と心掛居候、乍去御人に寄ては、何を申かと思召御方も可有哉、無心元候、いつれも樣御自筆にて、御手跡御親類中之御名を、御
 書付置被下候へかしと申たれは、皆々殊の外歡はれ、銘々親類縁者、御當所に被居候分は勿論、京伏見大阪其外所々、委敷書付出され
 候故、其分追々相尋、傳言之趣申通、始末も委敷咄し聞せ申候、
  (本條以下六條は異本に據り補ふ 59~64)
(60)
一或時、堀部彌兵衛能寝入て居たるか、矢聲をかけ被申候は、丑の刻比にても有たるか、我等寝ず番して居たるが、此聲に驚候、彌兵衛
 は老人故、若き人に劣る間敷との嗜にて、常々心張り居候故、寝入ても折々箇樣成事ありと咄被申候、彼仁は、飯後には何れも御免候
 へ、老人は足すくみ申とて、縁かわに出て、あなたこなたと歩行、足をならし申すとて、笑被申候事能く存候、其後夜四過比、潮田又
 之允、寝入候て歯切被仕候を、去仁參候て起し、はきりを強被成候、御氣色悪敷候哉と尋被申候由、以後又之允被申候は、先夜誰殿之
 被仰入念候て、被附御心被下候、私癖にて寝入候て間々歯切仕候、扨々入御念、忝くは存候へとも、扨々迷惑仕候と被申候に付、笑候
 て、夫は念入過し、御目覺御迷惑と申笑申候、惣體萬事入念勤候樣、毎度何れも承り申事にて候へとも、事によりたる儀と存候、名も
 又之丞被申聞候へとも、態と書付不申候、能く/\萬事心付候て、了簡可有之事と申候事
(61)
内蔵之助は、御預之翌朝より髪を結わせ候、殘之衆は、其儘にて二三日居申候、我等進め候へは、其後追々髪を結せ被申候
(62)      細川藩士(医家)
一十二月下旬、江村節齋老の孫成庵が、十七人之衆見度由、我等に頼候故、同道致候、其以前寒風強く、十七人の内には、手負い病人も
 ある事に而、御心元なく被思召、江村節齋老へ被仰付、見廻も被致候事故、此者は節齋孫にれ成庵と申候、各樣に御目に懸度由申出、
 幼年には奇特なる事に存候間、是へ召連候と申候へは、内蔵之助始、扨も々々と申、各側に寄、いくつに御成歟と被尋、十二歳にて候
 と答候、彼の衆へ被下置候菓子の有たるを、鼻紙に包、成庵に遣し、其後は折々成庵の事を申出、富森助右衛門被申候は、内蔵之助を始として、同の子供を持候者は、思出し候と噂被致候、右成庵か見に出候噂を聞傳へ、御番方并御次詰之
 衆も、追々彼の
衆を見に出被申候、いかさま後年咄しの種になり申へし

         江村節斎 名は宗悟、友精と称す。医を以て藩に仕へ、法眼に叙せらる。
              食禄七百五十石、子孫は世々医を以て仕ふ。
              享保四年七月六日歿す。年八十六。
(63)
一いつれも被申候は、舊冬より度々火事沙汰承候、此上皆様の御苦勞に相成居候間は、御近邊に火事無之樣仕度と也、我等答に、當屋敷
 廣、殊に泉水流れ、芝原も廣、樹木も茂り居候、萬一之時は、庭内に御連申筈に而、手當日申付置候と答候へは、左樣ならは、ちと御近
 火を願ひ申とて、皆々笑ひ被申候
(64)
一正月十一日、御役替有之、岩間何五郎、片山重之允、着座被仰付候、其砌私へ何れも尋被申候は、着座とは、如何樣之御座配御役儀かと
 尋被仕候、私申候は、他家にて申す番頭之類にて御座候、旦那家にても、大方は其位にて御座候、併着座と申は、先は年始の禮之節、太
 刀にて申候、着座にも段々有之候、小身にても家筋能者共は申付候、番頭より上座之着座、下座の着座と、色々御座候と挨拶仕候事
(65)
一いつれも若き衆中被申候は、堀部彌兵衛養子安兵衛、定て御聞及も可有御座候、先年高田馬場にての仕方、彌兵衛承及候而、何之由緒も
 無之候へとも養子にいたし、不思議なる事は、手跡物こし迄も、彌兵衛に能似申候と被申候故、成程承及候、感入たる儀に候と申たる事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(14)

2024-11-11 06:30:37 | 堀内傳右衛門覺書

(55)
松平安藝守(浅野綱長)樣御家中は、江戸にて馬を持不申候も道中は専牽せ申候、江戸にては借馬も有之由、道中専に牽せ候由、上田新
 兵衛咄にて候、先年道中にて我等も見申候、馬數大分に候、前々より馬宿の咄承候、本多中務樣御家中は、貮萬石以上は馬は牽かせ候、
 是も先年道中で見申候、右の通候へは、内匠頭樣も安藝樣と同前と存候、數日の儀にて、何も心安坊主共に、色々の事を尋被申候由候へ
 は、我等身の上の事も、定て尋たるにて可有之候、馬牽せ候宿の時も何となく、右之咄を得候、心底には扨々おかしく痛入候、何角に付
 小身は口惜候
(56)                 吉田
一次の間にて咄居候處に、上の間より忠左衛門參、傳右衛門殿は、毎々若き者斗と御咄被成候、御年もさのみ皆共と替りも無御座候と被申
 候故、神以追付夫へ可參と存候へ共、御咄しみ候て居候と申候へは、忠左衛門被申候は、いや左樣にても無御座候、惣體是へ參候事、内
 蔵之助心に叶不申候と存候得共、傳右衛門殿御聲仕候と、内蔵之助其外へも申候て、是へ參候、必此座がらに御はなし可被下候、此間に
 參候て御噺承候へは、氣晴快御座候と被申候、是にて内蔵之助威高き事、可有御察候事
(57)                           吉田    原     堀部
一上の間罷出候時、忠左衛門惣右衛門彌兵衛なと、我等側へ被參、傳右衛門殿は馬御数奇と、何れも咄にて承候、馬咄可仕候、總體道
 中御牽せ候馬、遠路達者不達者に可有御座候と被申候、いかにも若き時より數奇て見候に兎角馬は生質すなほに、すそ廻りよく無御座候
 へは、遠路道中なと役に立不申候、頭持能、轡うけ能、喉も前地道乘能のと申候ても、小うて延び申候か、或はそむき爪悪敷候か、とか
 く馬は惣體能候ても、右の所々に申分候へは、遠路必血落、自然の時益に立不申候と返答仕候、御番人後に詰居被申候故、われらも心の
 内おかしく、いたみ入候、若輩の時分、御馬屋に稽古に出其後定て御供にて、舎人殿就中馬好きにて、切々右之咄承居候故、取合候而返
 答いたし候、とかく何事も心を付て、人の咄は可承置事に候、武士はいか様の事かありて、大名に可成事もしれぬ事に候、昔より申傳
 候、心は身體より大きに持度事候、扨右之三人衆被申候は、扨々傳右衛門殿は、承及たるよりは馬御巧者にて候、定て御家の御馬役衆、
 其外御侍中にも御乘手多可有御座候、前廉の上田吉之允なとの樣成上手は、當世有兼可申候と、忠左衛門被申候、如仰昔之樣に勝れて乘
 候は有兼申候、馬役之者に中山九郎左衛門と申者候て、随分奇麗成る乘方にて御座候故、越中守唯今の旦那の祖父妙解院と申候、三齋子
 にて御座候、如形馬好にて、自分にも能乘被申候、馬上にて色々の事を被仕候て、慰被申候、腹中すき候時分、馬上にて湯漬なと給被申
 候由、親共咄承候、其時分は右吉之允におとらぬ上手共多く、馬役之者に永井安太夫と申ものは、皆共幼年之頃まて存命にて覺居申候、
 小男にて奇麗成乘方にて御座候、吉之允は馬上手にて、武功も有之候、一所に佐分利九之允と申仁御座候由、此佐分利同名之者共、傍輩
 に多御座候、兩人共に松平宮内大輔樣へ被召仕、九之丞は後に原城にて討死仕、石塔なと今に有之候よし、傍輩共は見申候との咄承候、
 吉之允兒小姓佐治頼母と申仁は、右吉之允、九之允働有之刻も、同前の働にて、富田信濃守殿當座之褒美に、作の鞍を給り被申候由、後
 に松平新太郎樣え被召出、千石被下、鐵炮頭被仰付候段、親共噺にて承り申候と申候へは、三人共に傳右衛門殿は、古き事を能く御覺被
 成候と被申候、近代大坂軍島原一揆之刻、御父子共に被成御座、御家中侍中討死手負、或は御褒美之書附、折々見可申候、生れぬ先の事
 も知申候、御當家之事を、御家人の不知して、他家の人尋申時、不存と申と、不心懸之事候、遠坂關内、此以前相良遠江守樣へ御振廻之
 時、御供に被參、其刻我等は歩御使番にて、腰懸に居申候、御知行取は御座敷に上り、御料理被下候節、關内え彼方御家老被申候は、前
 廉御家に居被申候而、御暇申上候早水忠兵衛と申人、松平大和守樣へ被召出、結構なる首尾にて御座候、御家にては百石被遣、御臺所頭
 被仕居候由、島原之刻、長岡佐渡殿、益田彌一右衛門殿、右御兩人之證據状持被居候て、右之通結構に被召出候由、右之通之仁を、何と
 て御暇被遣候哉と尋被申候へは、關内方返答に、成程被仰聞通に承及候、其節越中守、肥後守父子共に罷越候故、侍共過半召連候、其時
 忠兵衛は、輕き奉公をいたし、臺所廻りに役儀を勤申候者にて、働いたし候、他所へ參候ては、身體の足りにも成可申と、兩人より状を
 遣候儀も承及居申候、前々より召仕候侍とも、働多御座候故、越中守方にて、さのみ賞翫不仕候、大和守樣へなとにては、島原之働有之
 者少可有之候間、御賞翫御尤に候と返答いたし候へは、御家老とかくの事もなく、御尤と被申候由、則我等腰懸に居申候處、關内被參、
 何と存候哉、偽にもなく誠を以能返答にては無之哉と被申候、今に忘不申候、扨々能被申候樣、先祖越後守殿之名を汚さぬ樣にと、申さ
 れたるを覺居申候、關内は古き咄好にて能覺候、關内島原の時分は、未生以前か、三四歳か、夫より上にては有間敷候、皆々好たる訳
 は、わけもなき事さへ覺申事に候、貴殿心得にも成可申と、書加へ候事
(58)
忠左衛門、我等側に寄咄被申候は、拙者聟伊藤十郎太夫と申者、本多中務大輔樣御内に居申候、折節在江戸にて候、本多家譜代之者に御
 座候、親は八郎左衛門と申て、武功も有之候へとも、申度事斗申候故、小身にて今に二百石被下居申候、内記樣代或時御前へ被召出、御
 夜咄之節、酒も出段々御機嫌能、後には出頭仕候、兒小姓衆罷出、八郎左衛門に酒給せ候へとも、下戸にて常々短氣者故、頻にのませ可
 申とて、兒小姓衆戯候て、色々の事を申て、腹を立させ候へは、散々悪口を申候故、幼少之者共と申、殊に御前にて迚、御機嫌損し候由
 承及候、今に小身にて子孫も居申候、心儘に申度事斗申候へは、今に小身にて居申事と被申候、我等申候は、左樣の儀は多き事に候、苦
 にも不被存、定て一つ所を樂に存可被居候と、返答致候、又被申候は、右十郎大夫殿へ、折を以御知人に成可申と被申候、本多樣御屋敷
 は、御成橋之内にて、參り候て逢申候、存生之内にて、いか樣遠慮被仰付候哉、長髪にて些煩居申と被申候、緩々と咄、忠左衛門殿御無
 事に御座候と申候へは、扨々忝、神以御禮難申盡と被申候、忰兩人疱瘡輕く相仕廻、湯も懸り申候、其外忠左衛門忰共も、無事に居申
 候、
私妻子にも無事に居、寺坂吉右衛門無事に下り、私所にも參候段申越候と、御咄被下候へと被申候故、歸り候て忠左衛門に咄候へ
 は、扨々不淺御志難申盡とて歡被申候、吉右衛門事申出候へは、此者は不届者にて、重而は名も被仰被下間敷と被申候、吉右衛門は、其
 夜一列に一同に參候て、逐電いたし候由、兼々何れも被申候、然とも無恙仕廻申たる儀を知せ候使申付なと色々申候へ共、右之通に被申
 候事、不審に存候、實の缼落かとも存候事 

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(13)

2024-11-10 06:51:19 | 堀内傳右衛門覺書

 昨日の熊本史談会に於ける、日本義士会・(熊本)山鹿支部長の宮川政士氏による「日輪寺と赤穂浪士 ~忠蔵と肥後~」というお話をお聞きした。
会員以外に多くのビジターの皆様で盛会であったが、まだまだ赤穂浪士に関する興味は尽きないように見える。
それとも、赤穂義士の接待役を勤めた「堀内傳右衛門」に対する興味であったろうか?
いずれにしても、堀内傳右衛門が書き残した「旦夕覚書」や赤穂義士に関する「堀内傳右衛門覚書」「御預人記録」などの諸記録は、赤穂事件研究の基本的史料として盤石の価値を有している。
現在私はその「堀内傳右衛門覺書」をブログでご紹介しているが、自らも楽しみながら読み返したり確認したりしながらのタイピングだから、遅々として進まない。
全部で133の話でまとめられているが、ようやく前回までで49話まで終了した。少々スピードアップして何とか討ち入りの日までには終了できないかと思っている。
そしていつかこの「堀内傳右衛門覺書」を皆様にご紹介する機会があればと思っている。
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(50)
一潮田又之丞と咄居申候處に、原宗(惣)右衛門被參、何やかや歌の咄なと有之候、又之丞被申候は、小野寺十内妻の歌、御存被成候哉と
 被申候、いや不承候と申候へは、宗(惣)右衛門殿被書付候て、傳右衛門殿へ被遣候へと被申候へは、惣右衛門被申候は、十内承候はゞ
 腹
を立か申候と、笑ひながら書付給候、

     筆の跡見るに涙のしくれ來て
         いひ返すへき言の葉もなし
(51)
一片岡源吾右衛門被申候は、先頃は皆共被召置候御屋敷の釘隠、九曜の御紋を見申候て、風と存出したる儀御座候故、故采女正(長重)
 に、三齋樣より被遣候由にて、御召料の御具足、御小手はうふ小手にて、手の甲に、釘隠の御紋の大きさにて、銀の九曜御座候、惣體采
 女正武具の物好き、三齋樣を眞似被申候由、指物なとも、三本しなへかちんにて、白餅を一本に三つ宛、九曜の心にて九ッ付させ候、私
 は武具を預居申候故、能存候と被申候、扨は左樣にて候か、御先代々御心安得御意被申候樣に承及居申候、旦那奥方本源院殿先年果て被
 申候刻、寺え爲御名代、大石頼母殿御詰被成候事覺居申候、内匠頭様御家中立物なと、其身/\の物好きにても候哉、又一列にて候哉と
 尋申候へは、侍中物頭も同前に、三寸四方の金の角を向立に仕候、當音家はと被申候故、番方の侍十二組は、一より十二迄の文字に、金
 の引兩を付、色はかちんにて候、小姓組六組は左右の文字に、金の引兩同前にて候、立物は銘々物好に仕候、組付は金にて御座候、物頭
 はおもひ/\に仕候、只今御咄の三本しなへは忠小姓にさゝせ候と返答致候處に、十郎左衛門被參候へは、源吾右衛門、十郎左衛門に
 被申候は、御自分にためし進候、具足の下地縅候時分入念候へは、火を入穴をもみ申候故、ためしかならずもとり申ものにて候間、御舎
 兄達へ能く/\御咄置候哉と被申候へは、成程兩人へ能咄置候、定て縅申時分念を入申たると被申候、扨て其後野田祖三郎に、指物の事
 を咄申候へは、成程三齋樣御代は、御番方も三本しなへと承り候と被申候、拙者小三郎咄にて■(示偏に土)承候、とかく古きことは可
 承置事に候
(52)
一老人衆へ、拙者申候は、各樣御事、國本え申聞悦申越候、私も初若輩の時は、老人は益に立ぬ者と存居申候、最早私も老人に成候故、贔
 負(屓か)に存候、旦那親父肥後守(光尚)時代、福島左衛門大夫殿城代仕居申候、上月與右衛門と申者を、五千石にて召抱候砌、肥後
 守親(祖)父三齋、八代に居被申候、家老村上河内と申者に、壹万石遣置候、河内申候は、肥後守樣は、此頃高知の者被召抱候と申候へ
 は、三齋被申候は、侍に歳か可入哉、今日召抱、今日用に立は侍也、扨々うつけたることを申候とて、以の外呵り被申候由承り候、其時
 分の老人とも歡申候て、八代へ向拜み申候と申傳候由を咄候て笑ひ申候、此咄は遠阪關内へ、志水伯耆殿咄被申候由にて候事
(53)
一右の噺を、後に内藤万右衛門母義貞柳忌中見廻に參候て噺申候、拙者十郎左衛門懇意に仕候迚、悅にて候、奥平熊太郎樣御家中、万右衛
 門弟十郎左衛門ために兄にて、神谷成右衛門と申仁勤居被申候、右の衆中存寄とて、右のためし具足の下地を形身に給候、志の段不淺、
 暫留置候、貴殿へ遣可申と、返禮に刀脇差の内、札有を遣度存居申候處風と心付候は、万右衛門も成右衛門も若き仁にて、いまた妻子も
 なき由、後々妻子も出來候上、天下に名を顕し十郎左衛門事に候へは、甥達に譲り可申候儀、當然の理と存、十郎左衛門旦那寺淸休寺に
 參候て、右の心付を噺し、十郎左衛門殿事、御新參にて年數も無之に、御代々御重恩の衆中同前に、一列の御志は、別て勝れたる樣に私
 は存候、万右衛門殿、成右衛門殿御妻子も出來御成人の後、天下に名を顕候十郎左衛門殿、御具足候へは、御持傳候儀、當然の理と存
 候、私へ形見とて被下儀、日本の神、御志不淺忝存候、拙者奉へ召置可然と思召候や、道理二ッの内を尤と被思召候哉、被仰聞候へと
 申候へは、住持被申候は、段々被入御念、御志兎角を難申候、行末の事迄、御心被附候事、感入申候と被申候故、右具足、貴僧迄返進可
 申候間、貞柳、万右衛門殿、成右衛門殿へ渡被下候へと差返候、二ッ玉にて、一枚宛ためしたる跡有之量目壹貫目餘有之候、淸休寺よ
 り、右の趣三人の衆へ被申通候て遣被申候へは、三人衆歡被申候上、感心の由留置被申候、其後貞柳より、泉岳寺へ被申通、十郎左衛門
 其夜着用の肌着を乞請、我等心底不淺存候由、是を形見に仕候へとて給候、我等にては扨て/\不淺御志にて候、子孫迄十郎左衛門殿
 に、あやからせ可申と一禮を申候、白羽二重に、後に磯貝十郎左衛門正久と、自筆にて書有之候事
(54)
一十郎左衛門書被申物を見申候へは、手跡は夫程に見え不申候、歌抔書被申候假名も、同前に見申候へとも、右之肌着之書付、眞にて書御
 座候、見事に見え申候、後に万右衛門咄被申候は、十郎左衛門若年の時分は、亂舞を好、其上器用に有之、鼓太鼓萬事稽古仕候、内匠頭
 様召出候而、御嫌にて御座候由にて、透と捨申候、御學問御好にて、色々書物好にて寫、就中しんの物は見事に見え申候、好候へば成事
 と存候と、萬右衛門咄被申候、承候而、扨は私見申候眞の見事に御座候、代筆かと存候へは、右之通に而見事に見え申候、後に万右衛門
 被申候は、肌着書付申候も、御覧候へ、かなよりも能見え申候由申候事、(本條は異本に據り補ふ)

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(12)

2024-11-08 07:29:21 | 堀内傳右衛門覺書

(47)
坂崎忠左衛門殿は、いか樣の筋目にて候哉と、御尋に付、忠左衛門親清左衛門と申儀は、故越中守代、兒小姓にて、懇に召仕、段々取
 立、當越中守代にも心に叶、其後家老に被申付、以後家督を嫡子に譲り致隠居候て、病死仕候、嫡子病氣に有之、知行を上候、忠左衛
 門は二男にて、幼少より段々取立、懇に召仕候、只今は大かた親の身體程に、結構に被召仕候、三宅藤兵衛殿はと被尋候、藤兵衛儀は
 少わけ有之者にて、定て御聞及可被成候、明智日向守殿は、先祖越中守と少すうき有之、日向守殿内に明智左馬助と申候て、名高き者
 有之候、藤兵衛は其子孫にて御座候、其故樣子よく召仕候、長瀬助之進殿はと被申候、是は三齋代、小谷又右衛門と申候て名高き者有
 之候、足輕に具足を着セ、武者足輕とて五十人宛仕立、右又右衛門預申候、其末にて側に召仕申候、堀尾万右衛門殿はと尋被申候、是
 は堀尾山城守殿の末にて、幼少より心に叶、懇に側に召仕候、(宮村)團之進殿はと尋被申候、是も代々召仕候者の忰にて、幼少より
 心に叶、段々取立結構に仕候と申候へは、度々御出被成候、扨て能御辨舌、奇麗なるおし立と、ほめ被申候、横山五郎太夫殿はと被尋
 候、五郎太夫は、定て御聞及も可有御座候、島原陣場にて、板倉内膳正樣御討死の砌、祖父横山助之進と申候て、物頭仕候を、内膳正
 樣え被付置候て、一所に討死仕候、其子孫にて御座候故、懇に召仕、唯今小姓頭に申付候、助之進同前に、伊藤十之允と申者も討死仕
 候、其子孫只今伊藤又右衛門と申て、側に召仕候、平野九郎右衛門殿はと被申候、是も祖父以来代々能召仕候、只今小姓頭申付候、遠
 江樣孫の平野にて御座候、中瀬助五郎殿はと被申候、是は御聞及も可有御座候哉、三十年斗前、摂州芥川にて、十三四歳の時、親之敵
 を首尾よく討申候、少譯も有之、幼年より召仕、小姓頭勤候と、夫夫致返答候へは、扨々御大家樣と感被申候事
(48)(細川藩士)
一井上吉右衛門申候は、今度は大勢の事に候へとも、夜着ふとん小袖迄も無支、何と御大名樣にては無きかと被申候故、拙者申候は、夜
 着ふとんともに、大形日野の酒たるにて候、御大名樣と申は、常々所持支ぬやうに有之候こそ御大名樣なれ、今度は富澤町にて、調ら
 れると見え候、妙解院様御代に、長崎物下直の時分、段子しゅすの巻物、澤山に御調させ、何その御用のため、夜着ふとん百斗、坂崎
 忠左衛門殿被申付候と、親三盛申聞候と、返答いたし候へは、是は/\と手をふり、金銀少とて笑被申候、おもふ事申さねはならぬ手
 前故、前々より人に悪まれ申事も存居申候へとも、堪忍成かたく候、兎角奉公人は、大小身共に、夜日心懸、御爲と奉存候はゞ、何事
 も成間敷ものにては無之候、當座能やうに、流渡りの世中口惜候、貴殿段々御奉公可被致候 身命を惜不申心懸候はゞ夫々の生質心の
 付ぬは其通、心付きては流渡りの勤は、ぶしたるものゝ口惜き事、何その時、猶以無心元おもはれ候、能々心懸肝要にて候事
(49)
一廣き御座敷へ臥被申候故、寒可有之と存、拙者指圖にて、小屏風澤山に取よせ、枕元に立させ申候、或時さる仁被申候は、小屏風建候
 事、不入事に候、人數見え兼申候と被申候故、拙者申候は、御尤に存候、御番人多く相詰、其上あの衆の儀に候へは、氣遣之事は有之
 ましと申候へは、其分にて後々迄臥被申時建申候、助右衛門拙者え被申候、内蔵之助はさむがりにて御座候と被申候故、羽織か何そ出
 し度、あれこれに色々申談候へとも、内蔵之助斗には出されぬ事にて、埒明不申候、其後同名平八に申談候は、御側衆其外大身の面々、
 自分々々の心付のやうに、老人衆へ頭巾なと持参被申、夜々は御かぶり候へと、持参有之樣に有御座度候、上より頭巾可被爲拝領樣は
 無之候と申談候へとも、是も埒明不申、内蔵之助は、夜臥被申候時は、茶縮緬のくゝり頭巾をかぶり、間には火燵引かつき臥被申候、
 拙者儀節齋より給候新敷くゝり頭巾、外に新小袖一ツ鋏箱に入、小判も二兩ほど懐中いたし、たばこも澤山に持參いたし候へとも、わ
 けて一人に出させ候事も成かたく、箇條の時小身ものは口惜候、右頭巾と金子は、十郎左衛門母儀に、魚籃の後淸休寺を頼み遣候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(11)

2024-11-05 06:39:06 | 堀内傳右衛門覺書

(43)
一最前は御廣間二座に被召置候へ共、庭も見え不申、惣體暗く候故、御役者の間に御移被成思召にて、坂崎忠左衛門・三宅藤兵衛・宮村
 團之進、其外御側衆・御小姓頭・御聞番皆共迄も次第の如く罷出、思召之趣を十七人衆へ挨拶有之候、此間俄の事故、此座敷へ御座候
 樣に被仕候、殊の外暗く、庭も無之候間、庭なと有之所に御座候にと申付候、明日より少々繕を申付候、大工仕なといたし候故、御聽
 障りにも可被思召と御案内を申候、次の間の衆へも同前に被仰付、誠以冥加至極難有儀に奉存候、御侍中も大勢被付置、結構成儀共、
 就中堀内傳右衛門殿、別て情ら敷被仰聞、忝次第と挨拶承申候、左候而、何れも立被申候刻、團之進殿、我等へ被申候は貴樣には御名
 迄被申候、歡候と被申候、いかにても是にて承り候と申たる事候、上之間にては忠左衛門・、次の間にては助右衛門、挨拶の時分は、
 進出被申候、辨舌分明なる輩にて候、夫故仙石樣えも、此兩人被罷越候と存候、寒氣の時分故、大なる火燵に鍵をおろし、べんがら縞
 の蒲團をかけ申候、何事も御目附衆へ、御伺ひ被成候而之事と承候、煙草酒も、初一兩日は出不申候へ共、是も御出し被成度御伺と承
 候、誠に何角御心を懸けさせられ候御事、何れも有難かり、被申候事
(44)
一番人衆は、御小姓組・御忠小姓組、二座に勤被申候、尤無刀、挨拶馳走に出候衆も、同前之事に候、大小用に被参候節は、御番衆に向
 ひ手を付、時宜の樣に被仕候て、立被申候、其時々々に御番衆内一人宛、立被申候て、跡より參、大小用に被参候口迄、つき被參
 候、御番衆之内、心安き仁に申候は、定て被仰合にては可有之候へ共、毎度跡より御付添候ては、窮屈に可有之候、毎度各之方に向き
 案内之心時宜を仕候と見え候と申候へは、其儘居被申候事
(45)
一手水つかひ被申候度ことに、坊主衆を遣し候て、水をかけ申候故、殊の外迷惑かられ候、手水桶に柄杓御添可被下候、何れも自身につ
 かひ申度と被申候へは、柄杓出候事成かね申候、何事も芝御屋敷に伺申候儀故、其内龍口を仕かけ候て、出候樣に成共致度と申談たる
 事候、それは少も御時宜に不及、御かけさせ被成候へと、我等毎度挨拶申たる事
    後年、藤本志津馬が熊本に持ち帰り、現在は熊本市立花園小学校校内の置かれている手水鉢。(RKK資料引用)
(46)
一御屋敷へ參著致候夜、小袖貮ツ宛被下、歳暮に一ツ宛、帶なとも被遣候、右之品持參候坊主に、内蔵之助被申候は、此御屋敷にて、太
 守様御居間は、何方にて候哉と尋被申候、次の間衆も同樣に尋被申候、其方へ向き頂戴被仕候段を坊主衆我等へ申聞候、尤なる事に
 候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(10)

2024-11-04 07:23:33 | 堀内傳右衛門覺書

(42)
一次の間にて咄に、今度上野介殿屋敷に打入申時分、(磯貝)
十郎左衛門母儀、殊の外煩居申候、多分此頃果申たるにて可有御座候、十
 郎左衛門の心底御察可被下候、其後十郎左衛門側に寄候て、母御の在處尋候へとも、不申聞候間、某參候て内々私儀各え如申入候誓言、
 以身命惜み不申御用を承り申候と、御失念にて被申候哉、不及是非と申候へは、十郎左衛門被申候は、扨々不淺御志、兎角難申とて、
 某に咄被申候、細川主税樣なとの御相談役にて、外輪御門御預りにて候、右與右衛門様御内に、内藤万右衛門と申て、私兄居申候、母
 も一所に居申候と被申候、扨は私町宅ゟ通ひ申道筋にて候、御尋申候て、御左右可仕候、何そ印を被下候へ、咄迄にては慥に思召間敷
 と申候へは、扨は不淺仕合、然らば迚手紙之樣に認て、紙にて包、内を御覧候て、御持参被下候へと被申候、扨々被入御念御事、日本
 神、見申心底にて無之候迚、懐中いたし罷立候、右万右衛門は、與右衛門様御家老と相見え、平小屋にても廣庭も有之、路次より通
 候、座敷床も有り奇麗に候、後に承り候へは、與右衛門様折々御出と承候、十郎左衛門母儀之名前、貞柳と申候、万右衛門も在宿にて、
 兩人共に被罷出、緩々と咄居候へは、蕎麥切出申候、貞柳被申候は、十郎左衛門儀、其夜立出候而、再左右も可承樣無御座候處に、御
 出被下、無恙おとつれを承候事、誠に氏神の御引合とて歡被申候、我等惣體涙もろく、兎角返答成兼、暫候て挨拶をいたし、朝晩二汁
 五菜の料理、御酒をも出し、傍輩共寄合、思寄次第の御馳走をいたし候様にと申付、饂飩蕎麥切奈良茶なと進め候、蕎麥切も最早二三
 度も出候と覺被申候と申候へは、扨々段々の御馳走忝次第と歡被申候、扨もはや歸申候、段々御馳走忝存候、御氣色も御快然の御様子
 と見候て歸候はば、十郎左衛門殿へ咄可申候、是に罷越候刻も、印を被下候樣にと申候へは、万右衛門殿へ神包認被遣候、内を見候て
 致持参候樣にと被仰候へ共、神以見申候心底に無之候と申候て、こなたへ參り候、罷歸候ても、慥に思召のため候間、御ふみを被遣候
 へと申候へは、扨々忝存候、十郎左衛門、赤穂城籠城之心得にて罷越候刻、私へ申置候、自然日數も重り、能便なと御座候共、必ふみ
 を遣申候な、城中に女の書通はならぬ事と、くれ/\申聞候、其上私は無事にても、御ゆるし被下候へと被申候、万右衛門へ向ひ候て、
 再往申候へとも、彼入御念儀、貞柳申通に御座候へは、御免被下候へと、灯申候故、兎角を不申、責て今日の御馳走の御たはこを、持
 参可仕と、はな紙を出し包み、床の花生に梅椿有之候を、紙に包、是を印に可仕と申候て立歸、此儀十郎左衛門に咄申候へは、殊の外
 被悦候、堀部彌兵衛と、十郎左衛門亡父と、心安くいたされ候故、彌兵衛肝煎にて、十郎左衛門も、内匠頭樣へ被召出候由、貞柳被申
 候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(9)

2024-11-02 10:05:15 | 堀内傳右衛門覺書

(39)
(富森)助右衛門十九歳之時、内匠頭様御使役被仰付、卽日より馬を持可申由、先年水谷出羽守様御居城を内匠頭様御受取被成候
刻、助
 右衛門を赤穂え早使に被差越、六日ぶりに着仕候由、(原)惣右衛門噺に、傳馬丁問屋共に、兼々金銀被遣候由、定而道中筋之問屋なと
 へも、同前と存候、其故助右衛門も早着と存候、助右衛門懐中に金子二十両入置候由被申、右被仰付候節も、御廣間より直に立被申候
 由、若き面々咄申され候、他所は組付にても使役とて有之由に候事
(40)
助右衛門被申候は、上野介殿屋敷へ、毎夜代る/\申合せ参り候、平長屋、竹腰板、中塗位之壁にて透通り、燈の光如形用心の體見え候
 に付、鑓なと柄短くいたし可然と申合せ、九尺に仕候、戸障子を踏破り候へば、座敷の内も廣く覺え申候、長屋之内しか/\隔もなく、
 妻子など居申所一間にて、夜仕事など仕候、灯透渡り明く見え候迚笑被申、何れも心を盡し被申候、上野介殿居間知兼、致難儀候由、
 (磯貝)十郎左衛門などは、女にもたより見、心を盡し尋たる事も候とて、何も咄被申候事、其後の事に候、十郎左衛門母儀に逢候が、
 色々咄に十郎左衛門は、内匠頭様兒小姓に被召出、段々懇意に預、衣類なども澤山に持居被申候、傍輩中浪人して、困窮に及びたる人に
 は、右之衣類、夫々遣申たるよし、十郎左衛門儀、當夏之頃、町屋へ出居被申候内、熱病を煩被申候故、母下女を召連參候て、看病いた
 し候處、譫言申候も、兼て心底に思居一列の事を而已申候故、町宅にてあり、外に洩れ可申と、殊の外氣遣いたし候、十郎左衛門 兄共
 両人有之候、未妻も無く、兎角妻無御座候てはならぬ事とて、方々心懸頼廻候事も、手段と存候よし被申候、扨は何も被申候樣女にも心
 を盡し被申候へは此事以後一入感入候、十郎左衛門切腹之節血出兼候、いな事と被申候衆有之候、畢竟大病を久々被煩候故と存候事
(41)
潮田又之丞被申候は、松平壹岐守様御家来に、有田安菴と申醫者居申候、右之者因幡國へいつ發足仕候哉、承りくれ候へと被申候に付、
 彼御屋敷え參候て尋候得は、舊冬在郷え無恙着被仕候、左右も有之候由、又之丞へ申聞せ、悦被申候事、

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(8)

2024-10-31 06:43:11 | 堀内傳右衛門覺書

(36)
一(磯貝)十郎左衛門又被申候は、原宗右衛門足輕を預り居申候、常々足輕とも召仕候樣子、氣味能き事共多く有之、先内匠頭闘諍の刻、
 傳奏屋敷の諸道具、宗右衛門働にて、即刻埒仕候と噺被申候處、宗右衛門被参、何を御咄被成候哉と被申候故、箇樣々々と申候へは、
 宗右衛門被申候は、拙者は前廉側用人勤居申候故、道具の樣子有増存居申候に付、舟を數多借り寄、道三橋の下に付置候て、船印夫々
 に付置、諸道具片付させ、其夜早速赤穂に參候、大學申付候日より、六日ぶりに參候と被申候故、扨々夫は早い事、いか樣に被成候や
 と申候へは、惣體公儀の御法度にて候へとも、内匠頭事は、代々傳馬町問屋共に、兼て金銀を遣置候に付、右の通無滯參候、扨々無力
 早使を仕候と被申候事
(37)
一或時(富森)助右衛門被申候は、私衣類の中に、女小袖の白袖口なともせはく有之候が御座候、いな事と可被思召、是は老母著物にて
 候、其夜遠方え罷越候、殊更寒候間、下著に仕度迚借候て著仕、罷越候と被申候、扨々御尤成る御事、母の衣と書候て、母衣と申傳
 候へは、御孝心の程感入候と申候、其後寒氣強候故、何れもの枕本に、立させ可申と、御小屏風の中に、鶏の子を育申處を書たる繪を、
 助右衛門見被申、此方へ被申候は、扨々口惜事御座候、皆共はとくに果たるものにて候、今迄存命、此御屏風の繪を見候て、不圖忰事
 を存出候と被申候故、御尤至極にて候、貴様も凡夫と思召御心にて、夫程の事は御心にて御免被成候へ、各樣の御忠義、古今無雙の
 御忠臣と、末々迄奉感候事は、此頃非番の時分、遠方へ用事有之、町屋敷ゟ出駕に乘候て參候道すがら、駕舁共申候は、四十六人の
 御衆は、辨慶、忠信に増たる人がら男ぶりまて揃大男にて、就中大石主税殿と申は、若輩に候へとも、大男大力にて、其夜も大薙刀に
 て、辨慶にも増りたると承り申候と、寔にこゝろ無き其日暮しの駕舁、日雇の者まても奉感候、日本神(此處不明)屋敷出入の町人共
 も、此咄専ら仕候と申候へは、助右衛門被申候は、扨々傳右衛門殿へは、御頼母敷、何れも打寄忝きと申事に候、御身上被捨、今時の
 世上侍出家に至迄、當世のなかれ渡者多候間、能々被附御心、御噺被成候樣に、誠に大事の儀にて候と被申候故、扨々御心入忝、成程
 被仰聞候通、私も神以存居候と、返答申候事、
(38)
助右衛門一子長太郎とて、二歳にて候、愛宕下田村右京大夫様御家中、菅次右衛門と申仁の所に居被申候、同御屋敷の内に、峰宗扑と
 申御茶道有之、江村節齋小屋にて、知る人に成居申候、右宗扑小屋にて、長太郎に逢申度、兼々案内いたし置候得とも、悦にて幼少
 の人に初て逢申候故、われら町宅近所に、小西十兵衛被居候故、前夜に人形を調給候樣頼遣候得者、其儘調參候に付、鋏箱に入參候て
 長太郎に逢申候、扨も/\助右衛門に能く似たる生付にて候、其後助右衛門母儀も、此方御屋敷出入いたし候竹屋惣次郎宅にて逢申候、
 惣次郎先祖は、内匠樣御先祖、仔細有之、東國邊に暫御座候節、輕き奉公人にて候由、夫故宗次郎所の者一列の衆中用事をも承申段、
 兼て存じ申候段、若き衆中咄被申承居候故、右之通助右衛門母儀へも彼者宅にて對面申候、母儀被申候は、御尋被下初て懸御目、助右
 衛門無事に居申候段を承候儀、寔に氏神の御引合と存候、助右衛門儀、其夜出立再遭可申やうも無御座候へば、猶以左右も同前之事に
 候私の女心さへ、内匠殿は切腹、上野助殿は其儘被相置候と承り、片手打之御仕置、不及是非事と存候、助右衛門は男子に生れ、今度
 の振廻、尤成る儀と存候て罷在候私の影にて無事に居申段々結構成御馳走共に預り候へば何ぞ存殘事も有御座間敷と被申候故、神以拙
 者は、兎角の返答成兼及落涙、漸々挨拶をいたし、初對面の口上、片手打の御仕置なとゝ被申儀、珍敷女性、流石助右衛門の葉は義と
 感心申、母儀之親は、山本惣右衛門とて、何方へか千石にて、口をきゝたる侍と承候、助右衛門親父も、歴々筋の仁にて、江戸町人の
 福人にて、御用杯承候、住江仙右衛門なとゝ、一類にて候、福田浄慶咄承候、侍たる者の子は、女子なりとも、能々嗜度事に候、我等
 嫁共にも、此段可被申聞候事
 

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(7)

2024-10-29 15:08:40 | 堀内傳右衛門覺書

(32)
一或時、次の間にて咄居候時、何れも被申候は、近松勘六が小もの、甚三郎と申ものゝ儀を存出候へは、不便に存候と被申候故、いかや

 うにて候やらんと尋候へば、勘六儀、先祖以来代々近江之者にて候、在所より甚三郎を、今度江戸へ召連參候、彼者親は庄屋を仕居申
 候、代々わけあるものにて候、差返可申と存候て、其段申聞候へは、彼者申候は、此間何れも様の御樣子を見候へは、近き中思召立候
 儀有之と見及申候、私儀被召連候刻親共申聞候は、随分御奉公、精を出御爲には身命を捨申候樣に申聞候段、御聞被下候通に候、御用
 に立申間敷と思召、御返被成候事、無是非仕合とて、腹をも切申體に見え申候故、不及力其分に召置、夜討の節も供に召連申候、然共
 兼て内蔵之助申付儀は、今度の儀内匠頭え勤居候ものの親子兄弟にても、他家に居申たる者、其外内匠頭に對し譯も無き者は、同道不
 仕筈に申付置候故、其夜門外迄召連、翌朝上野介殿屋敷を出候時に罷出蜜柑餅の類を袂や懐に入、御喉の渇き可申とて、皆々へ給さ
 せ、扨々首尾能御仕廻被成候迚歡申候、定て今度伯耆守樣より、私共被召連候刻も、多分跡先に成り、辻番邊にうろたへ居申候はんと、
 不便に存候と被申候、さては左樣の者にて候哉、神明の知恵にて、後には冥加に叶可申と申候へは、唯今に成存候へは、勘六名付を
 も遣、内蔵之助に申斷、一列に加へ不申事、殘念至極と何れも被申候、某其後いかにもして、彼者心底不便に存、上野の脇谷中の入り
 口より左に往て、長福寺と申寺に、弟子文良と申出家は、勘六甥の由に付、尋參り文良に逢、勘六無恙段をも咄聞せ、且又甚三郎事を
 尋候へは、無事ニ而十二月廿四日迄逗留いたし、在所に罷歸候由、暫物語いたし、座敷を見候得は、菅谷半之允と札付居申候葛籠、其
 外にも見え申候、何れも折々參宿をも被致候やと相見え候、其後勘六に噺申候得は殊の外歡にて候事、
(33)
一或時、内蔵之助へ此方より申候は、此頃町人の噺承候へは、於京都菅野三平と申仁、書置なと被仕、自害致され候様承候と申候へは、
 内蔵之助被申候は、夫は皆共京都に居申候内之事にて、存命にて候はゝ、今度之一列にも加り可申ものにて候と、返答被致候、何れも
 の咄に、三平か父浪人して京都に居、三平を何方へそ養子に遣候て、奉公をいたさせ候と談合有之候へとも、三平志に叶不申候、右之
 通書置いたし、内匠頭様一周忌に、自害いたし候と咄被申候事
(34)
一次の間にて、若き衆中の咄に、矢頭右衛門七と申すもの、十七歳に罷成候、江戸初にて候、(磯貝)十郎左衛門引廻申候、彼者親は京
 都にて病死仕候刻、右衛門七え申聞候者、内々内蔵之助と申合たる事、志を不遂候て果候事、不及是非次第也、汝志を繼候へと申候へ
 は、奉得其意候由にて、今度の列に加り申候、叔父は松平大和守樣御家中に居申候、是に母を預置候とて、母子共に道中荒井迄參候處
 に、若輩と申初旅故、女切手を持參仕候事を不存候て、荒井より立歸申候、如御存知久々浪人にて暮し候へは、少の路銀も無之候故、
 何れも申談、母は赤穂に存候もの有之候に頼遣申候、今程は定而難儀可仕と被申候故、扨々御父子の御忠義感心仕候、神明の加護にて、
 御母儀もゆる/\御暮候樣に成可申と申候て、涙をながし申候事
(35)
一或時、(磯貝)十郎右衛門被申候は、傳右衛門殿には、古き事を能御存知にて候、(吉田)忠左衛門に古戰の噺御聞被成候へ、忠左衛
 門も歡可申と被申候へとも、(三宅)藤兵衛殿段々被申聞候趣も有之候故、所望不仕候、松平宮内大輔樣御家来、渡邊數馬、河合又五
 郎喧嘩の咄を承候處、兼々承り候よりは委く咄被申候、右喧嘩の書付一冊、前廉寫置候故、忠左衛門咄にて、御家老荒井但馬と、御老
 中樣より御穪美の事を書加へ申候、右但馬は眞源院様(光尚)の御代相模守樣を御招請なと有之、御馳走の刻、但馬も御供にて被召連
 候へとも、參候節相模守樣御次の間に被居候へは、見物被仕候樣に、眞源院樣御懇の御樣子、同名故文左衛門、其頃兒小姓相勤候砌に
 て、見被申候共迚、咄承り候、亡父なとも心易、書通なと被致候、隠居名龍雪とか申候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(6)

2024-10-28 13:27:46 | 堀内傳右衛門覺書

(30)
一、(吉田)忠左衛門被申候は、拙者は今度裏門より打入り申候、大方隠居候者は、奥座敷裏の方に建申候事、尋常に御座候故、幸と存
  吟
味仕候故、葭(あし)垣有之、雪隠の様成る處に人音仕候故、押破り参候へば、何者か其儘座敷にはいり申者有之候、大かたは臺
  所より仕込申候歟、かこひの様なる所を、兩方よりせり込み候處に、三人居申候て、皿茶碗、又は炭なと投打いたし候故、間十次
  其儘鑓付申候、上野介殿前に兩人立ふさがり、防申もの働き申候、兩人共に討果申候、上野介殿も脇差をぬき、振廻し被申候處を、
  十次郎鑓付ヶ印を揚見候へは、古疵らしき所も見え、白小袖を著にて候、得度吟味仕候へは、上野介殿に極申候、唯今迄もよく寝被
  申候と見えて、蒲団も温に有之候て、刀計有之候、左兵衛殿も、長刀にて出合被申候へとも、手を負、其儘長刀を捨、退被申候、夜
  明候て、長刀を見候へは、金具に定紋付、拵結構に有之候故、扨は左兵衛殿にて御座候と存當り、手むかひ 仕候者は討捨、迯落或
  は構はぬ者は、其儘召置候様にと、兼て内蔵之助申付候故、其通り何事も仕候、扨何れも相圖の笛を吹、惣樣集申候刻、若き者共、
  早水藤左衛門なとは、弓にて長屋の人の居申處を探、上野介殿を討取立退候が、出合申さぬかと、高聲に申候へ共、一人も出合申
  者無御座候、門の脇に家老の小屋と見えて、路地口の戸短く、上をのね板にて繼たる所、一尺計見え申候、内の明りも行燈とは見
  え申さず、蝋燭と相見え申候、早水藤左衛門と名乗懸、二筋矢を射込候へとも、物音なく候故、立退候と咄被申候、それかし答申
  候は、上野之介殿御討取被成候て、府より無縁寺に御立退被成候へとも、住持内に入れ不申候故、泉岳寺え御出のよし、寔に御心
  つかひ共に御座候、翌朝は十五日に候へは、往來と一入多く、御屋敷への辻番も、道すから多く見とかめ、何角申候て、御隙も入
  可申候、無支御出被成候事、天道の御加護と存候ヘは如仰 御登城の御衆と見え、御乘物又は馬にて、御通りの御衆も二三人、御
  目に懸り候へとも、火事場なとへ出候者歟なとゝ思召候やらん、辻番などへ出候や、何之支もなく、泉岳寺へ参候儀、いか様仕
  合なる儀と被申候
一、何れも咄の内に、高田軍兵衛と申す者、小知遣候者にて御座候、此の者は赤穂籠城と承及候由にて、大形一番に罷成申候、然共實
  なき者にて、中々一列に加り申樣成者にて無御座候、然處上野助殿討果、泉岳寺へ立退候刻、三田八幡の近所にて逢申候、何れも
  ものを不申罷通候處、堀部彌兵衛申候は、何れも如此志を遂て、上野介殿印を唯今泉岳寺え持参申候也、披見候へと申候へは、軍
  兵衛申候は、扨々いつれも御心安可被成候、私も只今三田八幡へ社參仕候而、各樣御本意を被遂候樣にとの祈願の爲にとて、立わ
  かれ申候、其後軍兵衛酒なと持參、泉岳寺の門番を頼、内蔵之助其外へ、祝心に酒を持參候、御通被下候へ、御目に懸り度由申候
  に付、若き者共、扨々にくき奴かな、幸の事、是によひ入れ、踏殺可申候、刀をよごし申事迄も無之と申候を、内蔵之助申候は、
  扨々各はあの樣成者を踏殺して、何の益やとて、軍兵衛は呼入申者にて無之候、酒も返給へと、門番に申付由被申候、それか
  し申候は、定而其仁は、平生何に被召仕候ても、能き奉公人と譽申ほどの人にて、可有御座候やと申候へば、いかにも其通にて、
  内匠頭家中にても、大形勝たるもの、何を勤させても、勤かねぬものと被申候、それかし申候は、必々左樣に萬事に能きものは、
  本心の實はなく、世渡の上手にて候、昔も今もおほく御座候、輕薄を以出頭人は、主人をたまし候事、本心の不實故と存候、

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(5)

2024-10-26 10:08:54 | 堀内傳右衛門覺書

(23)
(大石)内蔵之助大小共相州ものと相見え申候、大亂燒にて、刀の先一尺計のり付居申候、定て上野介殿留をさされたると存候、松葉先

 刃こぼれ居申候、大小共に鞘黒塗金拵にて、小刀は柄は、古き木柄に忠義の語を彫上げ有之、それかし文盲に候へは、よめ不申候事、
(24)
磯貝十郎左衛門大小鞘黒塗、こひ口二三寸朱にて、筋違にぬり、金拵にて、紫かひの口新敷下緒付申候、鼻紙袋は紫縮緬の袱紗にて包、
 右の下緒の切にて結有之、内には琴の爪一つ有之候、此事以後十郎左衛門、其外噺承候、奥に書付置候事、
(25)
近松勘六脇差は鮫鞘にて、二尺餘の大脇差にて抜ヶ不申候故、其儘召置候、夜討の時、泉水にころひ入被申候由にて、水入申たると存候
(26)
奥田孫大夫太刀は、身三尺餘有之、無地之鐵鍔懸り居申候、堅木之壹尺六七寸之柄、切柄之如く仕たる物に而候、小長刀抔の心に而、持
 参被仕たると見え候事
    (編者云本條は異本に據り補ふ)
(27)
堀部彌兵衛、鼻紙袋に竹笛有之候、相圖の笛と存候、小脇差懐中に見へ申候、其外の衆も笛見へ申候、小脇差六七腰有之候事
   但何れも大小の柄は、平打の木綿糸にて巻有之候、いか様切柄の心持にて、手の内能有たると存候、島原一揆の節、山川宗右衛門
   兼て討死の覺悟にて、大小の柄を苧縄にて巻、差被申候由、亡父咄被申候、古今とかはり候へとも、志は同前と感心の事に候、各持
   鑓の柄は、いつれも九尺計に切有之たると見へ申候、身は大振成る篠葉の形、長サ八九寸、幅も廣き所は二寸餘、古身と見へ申候、
   素肌者に能と兼々承及候大形のり付居申候、鞘は大かた無之候、白布にて結有之候、夜討の節、両袖の相印と見え、間には名を
   書付たるも有之候、何れも刀脇差は金拵にて結構に見え候、古身多く新身も有之、錆たるは無之候、いつれも咄被申候は、相手無
   之候へは、手に合不申者多く候、其上迯走候者は其儘捨置、手むかひいたし候はゞ討捨候へと、兼而内蔵之助被申候故、夫故刀脇
   差にのり付居申候は少く、鑓は大かたのり付居申候、其夜の仕合不仕合にて、手に合不申も有之たると咄被申候、一々御尤、御志
   のほとはいつれも御同前に可有之と答申候
(28)
甲府様(綱豊、後の将軍・家綱)御家老小出土佐守殿頼之段、細川桃菴老御聞繼のよし、江村節齋申候は、吉田忠左衛門え申呉候様に
 と、跡妻子の事、少も苦に致されましく候、土佐守どの家來鈴木彦右衛門に能被申付置候、此儀申通度由にて、即剋忠左衛門に申達候
 へは、忠左衛門、常々懇意候間、左様に可有御座候、忝承届との儀申達呉候様に被申候故、返事を節齋え申通候事
(29)
一或時、次之座に出候へは、何れも被申候は、奥田孫大夫に被仰聞候やらん、不存寄儀承候とて歡申候、秋元但馬守様御内に、舅居申候、
 頃日中瀬助五郎殿、太守様御供に御出候得は右之舅罷出、助五郎殿え御目に懸り、孫共何れも無事に居申候段を、孫太夫に被仰聞被下
 候様に、言傳を仕候と被申候故、扨々夫は一段の御仕合と挨拶致候、後に承候へは、右之趣を達御聽候て、言傳を申通候儀に候、助五
 郎それかしに常々心入にて候、同名文右衛門妻に付ての縁と存候、助五郎拙者に被申候は、十七人衆親子兄弟え御通候様に承候、今度
 之儀は、誠に大事に付、不及申へとも、能々御心得候て、内意を可申候御心入にて被仰聞趣、扨々忝存候、いかにも得貴意候事は、但
 馬守様御屋敷にて、右之舅それかし事を聞およひ、尤其名迄被申たるにて可有御座候、尤助五郎に、誰か左様に申たるやと尋も不致候、
 通し申事は偽にて無之、勿論覺悟いたし居申事故、少も驚申事にて無之候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(4)

2024-10-26 06:57:43 | 堀内傳右衛門覺書

(18)
一或時(富森)助右衛門と噺合居候處に、原宗右衛門立出、いつれも御咄被成哉とて被参候、其時助右衛門被申候は、赤穂にて宗右衛門、
 大野九郎兵衛を追立候様子、御聞被成ぬやと被申候に付、いか様承度と申候へは、宗右衛門申候は、扨々むさとしたる儀を、助右衛門
 は申とて、わらひ被申候故、それかし申候は、かやうに御心易得御意候私に不苦事、御咄承度と申候へは、私は赤穂にては、内蔵之助
 むかふさすに成候て、諸事申談、内蔵之助存念と、九郎兵衛所存と致相違候付、拙者九郎兵衛に申候は、先刻段々承度候へは、御自分
 の思召寄、内蔵之助とは、致齟齬、是に罷在者共、不殘内蔵之助存念同前に、了簡替へたる事に候得は、此座に御滯の事御無用候、早
 く御立候へと申候而立せ申候、其時若立兼候はゞ、其時には打果申候左候得は今度之一列之志は無に成り申候、以後了簡致候へは、扨
 々うつけを盡したると申候へは、助右衛門被聞申やうには、いや其時の様子、中々あの様成る事にてはなきとて、何れも笑ひ被申候事、
(19)
一或時矢田五郎右衛門被申候は、傳右衛門殿には、御道具數奇にて、御目利と承り候と被申候故、いかにも若き時分は數奇にて、目利い
 たし候へとも、大方はつれ候とわらひ申候へは、又々被申候は、いや御尤に候、拙者儀は目利は無調法に候、今度拙者指申候刀は新身
 にて、定て疵有之けるか、物打より後六寸下にて折れ申候、總體其夜之儀、内蔵之助兼而申付、三人宛組合申候、廣間より書院え通り
 廊下の右の隅に、何者か居候三人目の跡に拙者通り候、後より切懸候へ共、拙者は着込仕候故摺手も負不申、ふりかへり切付申候へは、
 初太刀にて倒れ二の太刀にて打折申候に付、心を付見申候へは、此者の下に火鉢有之、倒れ申候を打付候により、折申したると存候、
 夫故相手の刀を取、指替申候との物語有之候事
(20)
堀部彌兵衛被申候は、磯谷十郎左衛門事、別而御懇意被仰聞忝存候、十郎左衛門儀は、是に居申候老人共、別而不便に存居申候、仔細
 は是に罷在候者共、二代三代の勤家久敷者共にて候、拙者は三代前に浪人分にて呼出し申され、後の代に新地を賜り、内匠頭代に、物
 頭に被申付候、右之通代々重恩を受申候故、御覧の通年寄候へは、志計りにて、働も難成門番を致居申候、若き者共は随分何れも挊申
 候と被申候故、此方ゟ答に、御尤の御事、若き御衆の働と、御老體の門番と、事は同事と答申候、又被申候は、十郎左衛門事は、其身
 一代にて、拙者肝煎にて、十七歳の時、小兒姓に被召出、僅十ヶ年の内の勤にて、古き者共同前の志にて候、其朝も、仕廻候て立退候
 節、金杉橋をいつれも通り、將監橋を渡候迚近に十郎左衛門老母被居候故、立寄暇乞をも仕候へと、内蔵之助を始、何れも申候へとも、
 いかゝ存候哉立寄不申候、嗜故と存被申候故、扨々彌兵衛殿御咄にて、貴様御事承り、御嗜之程、慮外ながら感心仕候と申候得は、夫
 はて彌兵衛殿が、能様に咄を仕たで可有御座候、拙者事いかにも幼少より被召仕、別て念比にて段々被取立、江戸小屋なども廣く申付
 候て、老母も緩りと召置、古き者共の重恩におとり申事、さら/\無御座、成程立退候節、内蔵之助を始傍輩共も、立寄候て老母に逢
 候へと申候へは、先は装束も目立、第一老母居申候處は、小身とても御屋敷に對しぶしつけと存、又は暫時の間も、いか様の義か可有
 之も難計、
にて立寄不申候、唯今存候へは無何事立退候に、些後悔にも存候と笑ひ被申候、誠以別而感入候事、
(21)
(富森)助右衛門被申候は、仙石伯耆守様え参候節、今度の一巻御聞被成、被仰候者、上野介屋敷え仕懸候時、輕き者を捕へ案内致さ
 せ、蝋燭を出させ火燈させ申候儀、扨々落付たる仕方、誰にて候哉と御尋に付、磯貝十郎左衛門にて御座候と申候へば、若き人の落
 付たる義と、殊の外御感し被成候由被申候事
(22)
一或時(吉田)忠左衛門被申候は、拙者若き時分、軍法を數奇にて承候、采拜を所持いたし居申候、もはや今度果申儀にて候へは、内蔵
 之助にも隠し候て所持いたし候、御取寄被成候道具の内に可有御座候間、御焼捨させ可被下候へと、被申候、改見申候へは、柄は黒ぬ
 り、丸の内剣菱の紋、金粉にて、両方一つ宛、柄の先に三ヶ所に付、白紙に所々血付たるにて包有之候、以後いつれも道具共に不殘、
 泉岳寺へ被遣候時、右之采拜も一同に参候事、
   但十七人衆の刀、脇差、鑓、長刀、懐中の小脇差、鼻紙袋等、仙石伯耆守様より、匂坂平兵衛に御渡被成候、受取参候芝御奉行所
   にて、御側衆一覧之刻、我等も一座にて見申候通書付置申候、右刀脇差、同名平八心付にて札を付置、泉岳寺へ被遣候節の爲とて、
   大小の候刀箱、十七さゝせ、紺の木綿風呂敷にて大小を包置候事、

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(2)

2024-10-21 06:46:24 | 堀内傳右衛門覺書

(12)
一町御屋敷よりは、林兵介・村井源兵衛・堀内傳右衛門三人代合、芝御屋敷八木市太夫・吉弘真左衛門此両人共五人にて、両人宛
 代合、夜番相勤申筈被仰付候、三宅藤兵衛方被申聞候者、今度之一巻には、十七人之面々え、此方様御内より噺懸候事、堅無用
 に候、あの方より噺かけ候共、唯返答計にて相濟様子に有之候はゞ、咄止可申候、其心得にて動候やうにとの事故、其覺悟にて
 罷在候、然とも能々了簡いたし候へは、今度之事は古今不承及忠臣高名、それかし武士たる事、別而若き者共は承置度可存候、
 萬一御赦免にて、いつれも寄合申候刻、數日之御馳走、侍中大小身共罷出、如形挨拶をもいたし候得は、今度一巻を終に尋もな
 く、間には咄聞可申と被存も可有之候へとも、此方仕懸次第には、いな事とや可被存、右之通りの筋、藤兵衛方度々御申聞候、
 外之御三人様にても、夫々に思召寄かはり可申候、此儀はとかく透を御
見合、荒増の様子御聞可然存候、いかゞ思召候哉と、色
 付の御間にて、九郎右衛門、平八に噺懸候へとも両人いかにも尤に存候、承置度と晝之内は、御側方段々出被申、遂も無之、夜
 食なと過候様子なと見合可参とて、卒度罷出候へは、思ひ/\にはなしゐられ候、能時分と存、九郎右衛門、平八に只今能折か
 らと申聞候へは、其儘両人共座へ罷出、吉田忠左衛門・原宗右衛門を片脇に呼寄、閑に今度の一巻、荒増承候由被申候事、
(13)
一翌晩夜に入、原宗右衛門、紙數の物を書被申、夜更候て仕廻、翌朝とぢ被申候に、小刀無之候故、八木市太夫を頼みとぢ被申候、
 今度の一巻の書付と承申候、夜前九郎右衛門、平八一巻の荒増尋申候故、又尋の人も候
はゞ、右之書付見せ可申との事、是を御
 書所にて、市太夫とぢ被申候刻、寫取候由、
 上之御間
  四十二歳(一本四十五)  六十三歳        五十二歳         三十七歳         六十二歳
   大石内蔵之助良雄  吉田忠左衛門兼亮  原 宗右衛門元辰  片岡源五右衛門高房  間瀬久太夫正明
  六十一歳         七十九歳        六十九歳         四十歳
   小野寺十内秀和   堀部彌兵衛金丸   間 喜兵衛光延   速水藤左衛門満堯
 次之御間
  二十九歳         三十九歳        三十四歳         三十五歳         二十五歳
   磯貝十郎左衛門正久 近松勘六行重    冨森助右衛門正因  潮田又之丞高教    赤埴源蔵重賢
  五十七歳(一本五十五)  二十九歳        二十七歳
   奥田孫太夫薫森   矢田五郎右衛門助武 大石瀬左衛門信清
    但磯貝は上之御間之に候得共、速水と申合せ入替り被申候事、
(14)
一或時、富森助右衛門え参候て申候、拙者儀旦那代々召仕候ものゝ忰にて、末子にて候故輕き奉公に罷出候、江戸定供に連れ被申、
 段々取立、小知をも賜、追々加増をも申付、物頭竝に申付候、近年は年罷寄、供役・使をもゆるされ、寛々町屋に居申候、今度
 各様え
罷出、得御意候様にと被申付候、若時分より一両年以前迄、駕の明立の役を申付候、夫故江戸表の儀、あらまし存居、京
 ・大阪其外道中筋之儀も能覺申候、居屋敷に詰候ては、門の出入自由ならず、町屋敷え居候得は、晝夜共に何方へ参候事も支無
 之候、いつれも様御事に候へは、越中守為にならぬ儀は、可被仰聞様も無之、何そ被仰聞度儀も可有御座候へとも、拙者爲にな
 らぬ事と、御遠慮之氣味も有之候やうに見及申候、御忠義の御心底を察候へは、拙者身命を惜み申事、日本の神毛頭無之、御心
 安被仰聞被下候はゞ、本望武門之冥加に叶たると存候、尤貴様御一人に不限、殘御衆中御同前に存居申候、御一人御一人へ申達
 候儀も、何とやらんいなものに候、私の心底を殘る御衆中へも、御噺被下候へと申候へは、扨々御深志淺からさる儀共存候、何
 れへも申聞候はば、忝く存可申と被申、其後殘面々も、追々禮等被申候事、
 
 

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