津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「堀内傳右衛門覺書」‐(27‐了)

2024-11-30 06:59:00 | 堀内傳右衛門覺書

(126)
一逗留中、津輕越中守樣内大石無人、本多中務樣御内伊藤十郎太夫えも參逢申候、松平與右衛門樣御内内藤萬右衛門、磯谷十郎左衛門母

 柳と一所に被居申候、貞柳も十郎左衛門死去後病氣指重り、五月二十六日果被申候、病中にも見廻申候、富森助右衛門母義は、助右衛門
 舎弟半左衛門、初は麹町に居被申候、後に増上寺裏ちり屋敷と申所に被居候、助右衛門旦那寺淺草長延寺、十郎左衛門旦那寺芝寺町淸休
 寺、近松勘六甥文良被居候所は、谷中眞言宗長福寺、八丁堀松平伊豆守樣御組保生太夫近所、與力町に吉川藤次郎。同新兵衛、藤次郎は
 矢田五郎左衛門叔父に而、息作十郎、小瘡煩逢不申候、右之衆中、拙者方へも禮に被參候事
(127)
一九月二十五日、御先立にて泉岳寺へ參、金子寺納いたし、出家三人同道にて、墓所へ參候事
(128)
一十月十日、京都へ著致候處に、寺井玄渓被訊候て、音物なと有之、初て對面候、拙者も返禮に參候、子息玄達も在宿にて、ゆる/\語申
 候、玄渓被申候は、於江戸内海道億にも御知人に御成候段、扨々御深志の儀、於拙者も忝存候、内蔵之助存命之内、去極月十八日、同二
 十四日、二月三日、書狀三通に委細申越候、死後之儀共、傳右衛門殿御京著の上承候様にとくれ/\申越候、越中守樣結構成被仰付、不
 及承御馳走共、誠以冥加至極難有、手紙述かたく御座候段、此上も不可有之と申越候、扨々難有儀、私式迄乍憚難有と被申、右内蔵之助
 書狀とも見せ被申候、拙者申候は、不苦候はゞ此御狀は御寫被下候へと申候へは、安き事とて玄達寫給候、其紙面
   一筆令啓達候、兼而我々存念の通、今月十四日夜同志相催、吉良上野介殿屋敷え致推入候、家來中出合候者は、薙切に討捨、如本意
   上野介殿討取、印を泉岳寺へ持參備亡君御影前候、春以來の散鬱憤候儀、大慶御察可被下候、貴丈にも御満足と押計申候、定而先達
   而欣悦と、粗及御聞候と令推察候、御同名玄達老御登、可被相達候へとも、討入候次第、引取候樣子、玄達老も、委細御聞届有之間
   敷候に付、荒増書付進候、皆共へも御預に罷成候條、暫之餘命と存候内、生涯覺無之、他にも不承及御馳走共、誠以冥加至極、難述
   筆紙仕合に御座候、追付罪品も可被仰付と相待罷在候、段々之次第、武運にも叶候儀、本望此上不可有之候、右爲可得御意、餘命の内如此認置候、恐惶謹言
     十二月二十四日           小野寺十内
                       原惣右衛門
                       大石内蔵之助
        寺井玄渓老參

   追啓、此書付之次第、同志の者共眷属の内、若も御仕置に洩而、殘候者御座候はゞ、速に被仰聞可被下候、晩秋龜山赤穂に有之者に
   は、和田喜六より相達候樣に被仰達可被下候、將又寺坂吉右衛門儀、縦四日の晩迄有之候處に、彼屋敷には不見來候、輕者の儀、不
   及是非候、以上
   追而一札之事、無相違以時節御あみ立所庶幾無他候、爲其如此書附達候、又々申候、此狀夫々御届候はゞ、此節より便有之との儀、
   面々沙汰不仕候様に、被仰聞可被下候

   一筆令啓達候、兼而度々被仰聞候御内存之趣承届、御尤之至、別而致感心候、然は今後一同に御下り之儀は、拙者を初、同志願立候
   衆、銘々にも申談候通、御下には不及儀と存候、御志を破り候段、無本意可被思召候へとも、元來御勤方違の貴様儀候故、御同道仕
   候而は、此方より斷催候かと、萬一人口に可懸候段、互に無本意儀に候、勿論戰場え警役にて供奉之筈之儀に候、是はさすが戰場に
   て無之候、然は御止り候儀却て道理當然と存候、御身命をいとひ候て、如此申にては神以無御座候、皆共いか樣にも罷成候はゞ、跡
   にては定而世間取々毀譽可有之候、年月之寸志を能御存の貴様にて候間、其時相應之噂被成被下候儀第一之御芳志と頼存候、此段御
   聞届、是非共に御止可被成候、奥野将監も此頃の上りに貴公御噂被申候、右同前に宜相心得、拙者より可申達と、呉々被申置候、猶
   惣右衛門、傳兵衛、源五右衛門、源四郎、十内等、面談可申述候、恐惶謹言
        傳言、川村伝兵衛、進藤源四郎、此時迄将監一列也
     八月六日              大石内蔵之助
        寺井玄渓老

(129)                                                  愛欠か
一玄渓宅は、京都柳馬場押小路上ル西側にて、内匠頭樣に相勤居申候、内海道億は、江戸住居にて宕下通り居被申候由候事
(130)
一片岡源五右衛門妻子借宅は、伏見兩替丁筋銀座にて尋參候、妻之弟有之候に逢申候事
(131)
一淀川船中より上り、八幡山大西坊に尋參候、本社之後に結構成住居座敷、チウタイの間の樣成所も有之、段々馳走なと被致候、大西坊は
 二十斗と見え申候事
(132)
一大坂天満丁九丁目、茜屋次郎兵衛借宅、樋口杏庵と尋候へは、和田喜六も此所に居被申候故見廻申候、尤拙者旅宿へも被參候、是は浪人
 にて、原惣右衛門娘四人預り居被申候事
(133)
一早水藤左衛門頼之、大阪町與力大森次郎兵衛と申仁、天満與力屋敷に居被申候、潮田又之丞頼之狀も遣し申候事

 右之通候間、貴殿御奉公も相勤、若江戸罷越被申候節、此面々ゆかりと申候て、自然尋可被申事も可有之候、其時無音なと無之樣にと書
 置候也
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                       古城貞吉校
 

                 今回を持ちまして堀内傳右衛門覺書」は終了致しました。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(26)

2024-11-28 06:55:56 | 堀内傳右衛門覺書

(117)
一十七人衆切腹相濟申候場所は、芝(白金)御屋敷大書院御舞臺脇、御手水石の向にて、御小書院より御出被遊、御唐紙に御立被遊御覧
 候、扨後に御座敷清め申ため、眞藏院へ御奉行所より申參候へとも、不及其儀候、尤達 御聽候得は夫に及事は不被思召上候、其儘召置
 候へ、十七人の勇士は、御屋敷の能守神と被思召上候との御意にて候、草場の陰にても、何れも難有か被存候と感涙を流さぬ者無之候、
 殘る御三人樣にては、清め申候由、伯耆守樣などは、畳の表かへ、腰張唐紙にて御張替被成たるとの儀に候、大目附にて候へは、定て各
 別の思召も可有之候、其以後江戸中も沙汰廣く、奉譽たると承及候事
(118)
一夜に入候て、忠左衛門殿、藤兵衛殿、皆共へ被申候は、十七人衆の衣類はな紙袋、何そ書付たる物なと、夫々致吟味改候て、若不審成物
 も御座候はゞ、此方へ見せ候へとの事に候、林兵助は、泉岳寺へ參候、村井源兵衛・吉弘嘉左衛門・八木市太夫・拙者抔改、夫々に長持
 に入泉岳寺へ遣申候事
(119)
一内蔵之助著込、留理紺の段子、小手も同前、股引くさり入、源吾右衛門・十郎左衛門共に同樣にて、十郎左衛門衣類の内に、布の香袋の
 やうなる物有之候、匂ひなともなく、いな事と存候處に、後に清休寺の住持に咄申候へは、夫は血脈にて可有之候、存生の中、遠方へや
 かて參候、何方にて果可申も知不申迚、被致所望候事
(120)
一十内著込は、具足の樣に、くさり布の兩面、中かたのどんす、紋を鼠色に染、總體ケサンくさりに七ッ、殊の外重く、中男より大く、力
 もつよく有之たると承申候事
(121)
一いつれも不殘白布細くくけ、内にはくさり入たる手縧にて、衣類を結候て、銘々名札付居申候事
(122)
一甲頭布上を黑革にて、白革にて縁を取、■(革に周)付居候、内蔵之助は、表に良雄と名乘有之候、忍の緒は、大かた紅のしらへにて有
 之候事
(123)
一右念を入改候樣にとの事に候へとも、及落涙、委しく見え不申候、いつれも必死の覺悟故、むさとしたる物を入置可被申樣も無之候、浴
 衣十七有之候
   但右之通仕廻、御夜食頂戴仕候へとも、食氣も無之、湯漬なといたし給、九ッ過町宅へ歸申候
(124)
一二月六日上御屋敷へ御侍中不殘被召寄御直に被仰候は、今度御預りに付、何れも骨を折候、此屋敷に居候者共も、御番等も繁く同前に
 候、扨十七人の勇士共事は、定て 上にも色々と被思召候故、五十日程間も有之候、か樣に被仰聞候も何とやらん上を御憚被成候事、い
 かゞに被思召上候へ共、定て權現樣以來之御仕置と被思召切腹被仰付たると被思召候、尤他所の者も尋申候節、不存と可申樣は無之候へ
 とも、揃たる勇士共に思召候へば、善悪可有之とも不被思召上候、能々了簡仕候て咄なとも可仕との御意にて候、いか樣勇士共と、三度
 まて御意被遊候儀、誠皆共迄も難有草場の陰にても
さこそ難有おもひ可被申と、及落涙候事
(124)
一二月九日、江村節齋被參候而被申候は、扨今朝も於 御前御相伴被仰付候、一七日は御精進被遊由、御意被遊候は、三人の老人共、定て
 此咄計にて殘念かり可申候、いかゞと御意被遊候に付、申上候は晝夜共寄合、此咄より外無御座候と申上候へは、傳右衛門別て心安いた
 し候もの多く、たぶん寺參なと可致と被思召上候、今程は傳右衛門志にて參詣候ても、泉岳寺の出家共御名代と可奉存候、左樣之沙汰有
 之候ては、 公儀へ對し不可然儀に被思召上候間、具合候樣にとの儀に付、可申聞ために參候と被申候、拙者申候は扨は左樣に被思召上
 候哉奉畏候、明十日は一七日に相當申候間、何とそ駕にて成ともと存居候處に、今日御意の趣を承候事、誠に仕合成儀と申候へは、此御
 意の咄は、兵助・源兵衛にも申聞ましく候、傳右衛門はと計ぎょいにて候間、其心得いたし申候へと被申候事、右の趣はおもひ出し/\
 調候故、前後は可有之候へ斗mお、譯は相違無之候、尤覺悟仕候ての義に候へは、他家の御屋敷并寺又は町家共に、十七人衆存生之内、
 通し申所多く候、じゅう公義御預り被成候衆中の事故、拙者あの衆に懇にいたしたる事、萬一後御吟味に逢可申儀も有之、太守様御越度
 に成られさる樣にと、専ら心を付、若もの事も候はゞ指出可申と、如此の口上書を調、致懐中居申候、
 紙面左之通
   越中守儀、兼而奉重 公義、毎度參勤之節は、國許にて、御當地江發足仕而は、當屋敷に而、上下の侍共不殘呼出、直に申聞候
   は、 公義御代々御重恩、就中越中守は幼少より大國を御預被置、家中之者上下共に妻子相育申候、 公義之御恩と奉存候樣に、
   道中船中在江戸共に、御法度之趣堅相守候樣に、常々申付候故、今度御預り之儀は、別而入念候樣にと、家老共に度々申渡候、然
   處に私心底には、無雙の忠臣共と奉存、何れも存生之内、母兄弟息災成る事知せ申度、在所承候へは、中々不申聞候故、越中守爲
   にならぬ儀は、可被申聞樣も無之候、私之爲いかゞと被存候は、毛頭遠慮被仕間敷候、日本の大小神祇を奉懸身命を惜み不申承度
   と、切々申候故、何も歡委細咄被申、承候而、いかにも通し申候、御吟味にて、唯今罷出候へと、兼て越中守念を入申儀を背き申
   たると奉存候へは、私儀は不忠罷成候、此段不及是非奉存候、此外別に申上候儀、少も無御座候、以上
 右之通申上、果可申覺悟にて候、今度喜左衛門御使に被參、逗留被仕候へ共、喜左衛門は、御役勤居被申候故、右之趣委細に可申樣も
 無之候、荒増は二十一日に立申候に付、初て申聞候而、下著之上咄可被申候事
   日の本の名まで揚ぬる武士の緒やとはいはん四十六人              おかしく候
    未二月二十九日                            堀内傳右衛門
      堀内勝助殿へ

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■閑話休題「さむがり内蔵助」

2024-11-27 06:53:10 | 堀内傳右衛門覺書

 赤穂義士に関する三田村鳶魚の著に、「元禄快挙別録』「赤穂義士遺聞」「横から見た赤穂義士」等があるが、私は未読である。
この中で鳶魚は「大石内蔵助の切腹は見苦しいものであった」「ぶるぶる震えていた」等としているらしいが、私自身がこれらの本を読んでいないから表現が適当でないかもしれない。いろんなブログが、面白おかしくこれを引用している。
中には「大石が寒がりだったからだ」という好意的なものもある。
これは、まさしく「堀内傳右衛門覺書」をお読みになっていることを表している。
内蔵助は大変寒がりであったことを傳右衛門は特に記事にしている。「堀内傳右衛門覺書‐12」ー(49)
細川家に於ける「切腹之図」を拝見すると、内蔵助はもろ肌を表して切腹に臨んでいる。
旧暦元禄十六年二月四日はグレゴリオ暦では3月20日だが、まだ温かいとまでは行っていない時期だったろう。
切腹に臨むにあたって、綿入れの下着など着込むわけにもいかぬ。寒さを我慢しながらも耐えられず身震いしていたのだろう。
鳶魚氏の発言も、このあたりが切り捨てられてしまったのかもしれないが、「内蔵助の切腹が見苦しいものだった」とする伝聞が独り歩きしているのは、誠に気の毒ではある。
内蔵助の名誉のためにも「さむがり内蔵助」を取り上げた堀内傳右衛門に感謝である。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(25)

2024-11-26 07:32:45 | 堀内傳右衛門覺書

(107)    
(富森)助右衛門は唯今御聞被成候通、十左衛門樣内蔵之助へ御挨拶被成候は、今日吉良左兵衛事、今度之仕形不届に思召候故、領地被
 召上、諏訪安藝守樣へ被成御預候、此儀我等心得にて、御噺被成との事にて、扨々本望奉存候、乍此上老母事被附御心被下候へと被申候
 故、得貴意候と申候へは、辭世と戒名も少前に書付遣被申候
   春風獨讃       冨森助右衛門
    四日は姉の忌日なれば
   先立し人もありけり今日の日を 終の旅路のおもひでにして
(108)    
一巻紙に書付置候故不具候、其後助右衛門旦那寺、淺草の長延寺へ致參詣申候へば、位牌有之、戒名黑塗に金粉にて書付有之、日付とては
 可有之樣もなく、助右衛門存世の内節々參詣被仕、とくより調置被申候由、住持咄被仕候
   但書狀之書付、在所は播州加西郡北條に而、渡邊與右衛門と申者にて御座候、同國加古川本陣、中屋與右衛門に被仰付候へは、北條
   村へ早速相達申候、道のり加古川ゟ五里程御座候
(109)    
潮田又之丞も、辭世又は通し申所を書付、少前に遣被申候、播州加西郡北條村、同國加古川本陣、中屋與右衛門所に頼候へは、北條村へ
 卽刻通し申候事に候、加古川より北條へ五里有之候、我等下着候はゞ、直に可申聞候、其内慥成便も候はゞ可申遣候
   武士の道とはかりを一筋に 早水おもひ立ぬる死出の旅路に
(110)    
早水藤左衛
は、御家に前廉居被申候早水助兵衛、亡父と別て咄覺居申候、御暇被成候刻、古町の光明寺右助兵衛聟故、彼寺へ引取居
 候事覺居申候に付、熊本光明寺と申寺は、御存被成候哉と被申候、知人にては無御座候へとも、承り及申候と申候へは、辭世を書て給
 候
   地水火風空のうちより出し身のたとりて歸る本のすみかに
(111)    
赤埴源蔵は、此間より如御存、小瘡出來いたし、致難儀候へとも、御懇にて本道外科衆御附被成候故昨日より快、今日 上意にて切腹仕候
 段、本望奉存候、此旨土屋相模守樣御内、本間安兵衛と申者に御通被下候へと被申候、相模守樣に、今枝彌右衛門と申者、御取次相勤居
 申候は、我等縁者のものにて、其方へ相頼、早速知らせ遣し候
(112)    
奥田孫太夫は、内々御咄申候樣に、一類共へ御咄被下候へと被申候、少前に若き衆と咄居被申候、傳右衛門殿私は切腹の仕様不存候、い
 かゞ仕ものにて候哉と被申候、我等も終に見申たる事も無之候、三方に小脇差出候樣に承候、肩衣を御抜不被成内か、兎角なとゝ申内
 に、助右衛門其外若衆、扨々不入稽古、いか樣にも不苦候、唯首を受討たれたるか能可有之なと被申談止申候、夫故色々遅速、或は首
 を受て居被申候衆も有之たると後に承り候、林兵助・村井源兵衛・拙者三人は、御座敷の内に居申候、何れもへ挨拶なと仕候に付、切腹
 の場へ出不申候、十七人衆いつれも、茶たはこなと給咄被申、常に少しも替り不申、其筈之事なから感入たる事
(113)    
(矢田)五郎右衛門は、内々御咄申候樣に刀を打折申候て、相手の刀を取候て差居申候、一類共いな事と可存候間、御咄申置候間、御通
 し可被下候と被申候に付、少も被懸御意間敷候、委細に通可申と及挨拶候、御町奉行松前伊豆守樣御與力に吉川熊次郎と申仁有之候、右
 熊次郎は、五郎右衛門叔父にて、尋參候て具に咄申候へは、悅にて候、五郎右衛門子息作十郎は、御旗本衆之内縁有之幼少故參被申候事
(114)    
(大石)瀬左衛門は、大石無人子息郷右衛門父子へ、今日の首尾を御通し被下候樣に被申候、近日參咄可申と申候、其後津輕越中守樣御屋敷へ參候て、無人と郷右衛門・三平父子三人へ知人に成り咄申候事
(115)    
一右十七人座配、次第のごとく、一番に内蔵之助殿、御出候へと、吉弘嘉左衛門・八木市太夫兩人にて呼立、切腹場に伴ひ申候、内蔵助殿
 呼候時、潮田聲を懸、内蔵之助殿、何れも追參可申と被申候事
(116)    
一右之通段々に罷出被申候、嘉左衛門・市太夫、内蔵之助殿首尾よく御仕廻被成候、忠左衛門殿首尾好御仕廻被成候と、毎度申候に付、拙
 者指圖いたし候は、首尾好との事を不被申候共、唯名計御呼立可然候、介錯人も次第のごとく、待被居候故と申候へは、氏家平吉(傳
 右衛門従兄弟)承り、尤に存候、あの衆の首尾能はいらぬものとて、わらひ被申候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(24)

2024-11-25 07:06:22 | 堀内傳右衛門覺書

(96)
一鎌田軍之助・長瀬助之進我等へ被申候は、心安衆有之候て若介錯を頼被成候事も可有之候、仁柄極書付御目附衆へ出申候、其心得仕候樣
 にと被申候、然共箇樣の事頼被申候事無之候事
 
(97)
一同名平八に申談候は、何そ書置度被存候衆も可有之候、いかゞと申候へは、御目附衆へ尋候へは不苦候、料紙御出し候へ、不及申御内見
 にて、御届候へと被仰候故、料紙硯坊主衆に持せ、堀七郎兵衛罷出、御目附衆へ相伺、少も不苦候、何そ御認度儀も候はゞ、御認被成候
 樣にと、内蔵之助に向ひ被申候、其時内蔵之助何も認可申事も無之、重畳忝と被申候故、七郎兵衛引取申候、拙者も内蔵之助に、右の通
 申候へは、七郎兵衛殿にも申候通にて、此間は段々御馳走難有仕合、難申盡候と被申候に付、其本にて候はゞ、承度と申候へは、扨々忝
 存候、此夏の頃は、定て御供にて此元御立可被成候、内々御咄申候樣に、八幡を御通被成候砌、御非番にて御座候はゞ、大西坊へ御立
 寄、今日の被仰渡、天気もよく、箇樣/\と御咄被下候へ、次男共方へ通し申事に候、我等申儀は、得貴意申候、當番たりとも、傍輩共
 申合せ、立寄可申候間、御心易思召候へと申候へは、悅被申候、前以内蔵之助被申候は、大西坊は八幡山に居申候、これは譯も御座候
 間、拙者家より段々繼來候、只今の大西坊は、實は従弟にて御座候へ共、公義は私甥と申上候由申候事
(98)
吉田忠左衛門は、内々御咄申候伊藤十郎太夫と、御心安御語被下候へと被申候事
(99)
(原)惣右衛門は、大きに封したる狀を指出被申、内海道憶へ内蔵之助より之上書也
(100)
(大高)源五右衛門は、内々御咄申候朱柄の鑓、泉岳寺へ殘置候、是は先祖備前と申す者鑓にて候、生殘たるもの共へ遣度、頼被成申
 候に付、其夜林兵助、泉岳寺へ被遣候に付、咄申候へは、兼て兵助も、右之趣は存知居申候事
(101)
(間瀬)久太夫は、近頃憚成る申事に候へとも、此度腹中悪しく御座候處に快罷成候、萬一麁末成儀も可有御座候間、承置呉候樣にと
 被申候、扨々被入御念候儀共、少も御氣遣被成間敷候、慥に承置候と申候へは、悅ひ申され候事
(102)
(小野寺)十内笑ひ被申聞候は、私妻の歌、此間惣右衛門に御書せ被成候と承申候、今日之樣子、京都弓削太郎衛門迄被仰遣候へは即
 刻通し可申候と被申候に付、太郎右衛門は必易者にて候、早々可申遣と申候へは、悅被申候事
(103)
(間)喜兵衛は、何ともものは不被申、笑ひ/\指出し辭世の歌と書付給候事、歌は前條之内に書付あり
(104)
(磯貝)十郎左衛門は此間別て御心易被仰聞忝存候、老母兄弟共事被附於心被下候へと被申候、御袋様をも、私母と奉存候と申候へ
 は、悅ひ被申候事
(105)
(堀部)彌兵衛内々御咄申候樣に、同名甚之丞に御酒を給申候樣に、御下着の上、御咄可被下と、笑ひ/\被申候事
(106)    
(近松)勘六は、如御存知此間手を痛居申候處に、外科本道衆まて御付置被下、御懇意の仕合故、昨日迄に快成候て、箇樣の事誠に難
 有儀と奉存候、長福寺にて文良に御傳被下候へと被申候故、得貴意候と申候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(23)

2024-11-24 06:49:55 | 堀内傳右衛門覺書

(91)義士切腹の当日
一翌四日の朝、花を出し候へは、何れも忝り被申候、飯後に林兵介代りに參候故、拙者は何心なく代り相引取申候、四日には太守様御入被
 遊沙汰前夜より有之、依而何れも衣服改居被申候、次之間に出候へは、(富森)十郎左衛門被申候は、今日は御代り被成候由、重て御越
 被成候砌迄はいかゞ、多分其内埒仕にて可有御座候、何れも樣此間の御懇難申盡存候、就中傳右衛門殿、何れも御心易存居申候、とても
 の事に、御詰内に埒明申樣に、願申事に候と被申候に付、拙者も何の気も不付、被仰出前以承申にて可有御座候間、詰前にて無御座候
 共、罷越候て可得御意候と申候て罷立、詰所に參候へは、關惣左衛門も參居申、何とやらん急に歸候心もなく咄居申候處に、堀尾萬右衛
 門被參候て被申候は、我等へは其儘逗留にて咄候樣にと被申候に付、私宿へは同名喜左衛門罷越、逗留致居申候故歸り可申候、こなたは
 何とやら、各樣がおそろしく候と、雑談なと申候て立申候、四日には代あひにて歸候儀と、同名平八は兼て存居、其日は平八方へ他客も
 有之、精進日を能存候故、是非立寄候へと、約束いたし置候事を存出し、數奇屋橋邊にて、御借馬の仲間に時を尋候へは、九ッ半過と申
 候故、夕飯時分もと存候て、小姓并に鋏箱は町宅へ直に返し、鑓斗にて數寄屋橋御門内へ乗込候へは、向より平野丹右衛門羽織着、馬に
 乘參候にあひ、樣子尋申候へは、追付芝え上使有之候と申候故、早速草履取を町宅へ遣し、小姓鋏箱持なと參候へと申遣し、丹右衛門と
 致同道、丹右衛門は愛宕廣丁通參候、拙者は近道日影丁參り、増上寺前通にて、堀七郎兵衛に逢ひ上使有之故、御用に付參り候とて立別
 れ、夫より新堀にて鎌田軍之助に追付申、些用事御座候迚乘通り、目黒御門番に馬を預、其儘裏玄關に上り候へは、何れも麻上下着様に
 付、同名喜左衛門方へ麻上下取に遣、着用仕候より、丹右衛門なと追々參申候、夫に付兼ても申候樣に、武藝の内にても、馬は生きもの
 にて候、乘手をよく存候、兵法鑓は心の働にて候故、大體に有之候てもよく有之候、當時馬少き時節故、稽古成兼可申候へとも、心懸候
 はゞ成可申儀と亡父も度々申候、上手に成候ても武藝の名高き武士は、昔は嫌ひ申候、心懸有之事肝要と存候
   但拙者今朝代り歸候處、其儘出候はゞ、何れも不審に可被存と、指控のそき候て見申候、總體諸人の顔色、其外の樣子共、何共合點
   不被仕樣子にて、御料理給被申内にも、互に見合、早く仕廻度との樣子に見え申候、いつれも給仕廻被申候て、八木市太夫罷出、上
   使ニテ御座候間、麻上下御着用可然と申候て、黑羽二重小袖、淺黄無垢二宛、麻上下、上帶、足袋出申候、我等も罷出、十郎左衛門
   ・助右衛門なとには、袴の腰を當遣候事
(92)
一内蔵之助申候は、傳右衛門殿、もし花は御取入被成間敷哉と被申候、依之花は自身に取入申候、扨十七人衆、上の間に次第のことく着座
 有之候事
(93)
一上使御使番久永内記樣、御目附荒木十左衛門樣、御通り被成候、御跡より此方御側衆なと、段々次第のことく罷出被申候、拙者も唐紙越
 に承候、上使の趣は、淺野内匠頭儀、勅使御馳走之御用被仰付置候處に、時分柄殿中をも不憚の仕形に付、御仕置被仰付、吉良上野介
 儀、無御構被差置候處に、主人の讎を報候と申立、内匠頭家來四十六人致徒黨、上野介宅へ押込、飛道具なと持參、上野介を討取候始
 末、 公儀を不恐の段、重畳不届に候、依之切腹申付る者也と、十七人の名字共、一々御よみ被成候、内蔵之助御請に、いか樣に可被仰
 付も難計奉存候處に、すべ能切腹被仰付候段、難有仕合奉存と申候、又十左衛門樣なと何か被仰候やうに有之、内蔵之助も御返答被申候
 樣に聞え候へとも、譯はとくと不承候、總體内蔵之助は、小聲なる人にて候、其後助右衛門側に指寄申候へは、右の譯を被申聞候、助右
 衛門所に書付置候事、
(94)
一上使御立以後、我等も其儘可罷出と存候處に、宮村團之進被罷出候て、内蔵之助を呼立、何か暫被申候、堀部彌兵衛は、長瀬助之進呼
 立、是も右の通にて候、定而御意の趣有之事と存候、團之進・助之進被立候跡にて、上の間に出候へは、内蔵之助上之間に被參候て、扨
 々難有仕合、御意の趣可申候間、何れも御寄候へと被申、老人衆被申候、其譯は何も分り不申候へ共、内蔵之助落涙の體にて、段々有難
 事共と被申候、事は聞え不申候
   但右の樣子、外に見申たる衆も無之、其後江村節齋に逢咄候へは、達御聽被申候へは、何とも不被遊御意、いかにも左樣に可有之と
   の御意と申候
(95)
一御酒土器銘々に出申候、心易咄申候衆には盃所望仕候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(22)

2024-11-22 07:16:03 | 堀内傳右衛門覺書

 切腹が近づいた前々日・前日の事である。

(88)
二月二日、番代り參、早速罷出候へは、内蔵之助被申候は、先頃は内記樣(綱利二男・吉利)御出被遊、何れも御覧被成、難有仕合に候
 と、手を付候て被申候、扨は左樣に御座候や、とく罷出被申度被存候へ共、付居候者共兎角と仕、致延引候、如御覧若年に御座候へと
 も、大ちゃくなる生つきにて、當正月初て年始之御禮に被致登城候節、足袋の紐とけ申候に付、兼て心安出入仕候御城坊主に結はせ被申
 候、其節供に參候奥村安左衛門と申者承り、輕き者とても御城坊主の儀に御座候へは、重ては些遠慮被仕候樣にと申候へは、いや/\輕
 き者共に申付候へは、結句悅申候と被申候由、何も承候て笑申候と咄候へは、扨々乍憚御大家樣へ御生つき被遊候とて、皆々感入奉り候
 と被申候、内蔵之助挨拶に、内記樣被遊御覧候とは、尤成被申樣、次の間の衆も同前にて、詞のあやまても、吟味被仕候と感申事に候、
 右之御足袋の紐御結はせ被成候事、後に上御屋敷にて、野田小三郎被申候へは、初て聞被申候、萬事御附の衆中善悪共外樣には、咄申さ
 ぬ事可有之候へとも、箇條之儀は、何れもへ承せ、奉悅せ度候事
(89)
一二月二日夜五つ半過之頃、上之間へ罷出候へは、内蔵之助・惣右衛門・十郎左衛門三人、中かさにて酒飲居被申候、忠左衛門・久太夫・
 十内・彌兵衛は下戸にて甘、それを猪口にて飲居被申候へは、傳右衛門殿是へと呼被申候に付、能い所へ參候と申候へは、十郎左衛門其
 盃を、内蔵之助、傳右衛門殿へさゝれ候へと被申候故、十郎左衛門さし被申、拙者も給申候へは、内蔵之助是へ被下候へと被申候故、是
 は慮外と申候へは、是非と被申、盃さし、其れを拙者へ返し被申、又給申候時、内蔵之助被申候は、十郎左衛門へ、一つ御のませ候へと
 被申候に付、直に指候へは、一盃飲被申、又一つと申候へは、先刻より殊外給申候間、御ゆるし候と座を立被申候、内蔵之助被申候は、
 十郎左衛門は總體能給申候間、御とらへ御飲せ被成候へと被申候故、椽際へ追懸引留、是非と申候へは、誓言にて候、給醉申候間、御免
 しと有之候故、其通りにてしひ不申候、後に考候へは、右之樣子暇乞の心にても可有之候、世上の批判も能く、とかく御赦免可被成候な
 とゝ申候故、曾て切腹の心付は無く其内にも内蔵之助、又は惣頭分は、遠島にても可被仰付候やなとゝ申たる事に候、正月中には御祝
 多、いつれも江戸巧者故、二月朔日過候へは、被仰付樣の趣尋被申候、只今存當候事のみ多く、一入殘念に存候事
(90)切腹前日
一二月三日夜四過(9時)頃、吉弘嘉左衛門、拙者當番にて詰居申候處に、長瀬助之進出被申、只今上御屋敷より、如此手紙參候、明朝は花
 を兩座へ御出被成筈申來候、明朝茶道可仕候、我等兩人能挨拶いたし、花を出し候へと被申候故、御懇之儀共忝り可被申と申候處に、次
 之間の衆より、坊主を以何れも臥り不申候、御聲と承候、是へ御出被下候へと被申候故、助之進は我等え出候へと被申候に付、其儘出申
 候處に、大かたは寝所へ居被申、助右衛門・清左衛門なと、若き衆中色々咄共にて、頓て埒明可申候、御暇乞に、藝の盡しの程、懸御目
 可申とて、御番衆の見申さぬやうに、枕屏風の陰にて、堺町木挽町踊狂言の眞似を被仕、そろ/\さわき被申候、脇に奥田孫大夫・潮田
 又之丞、御ゆるし被成候へとて臥被居候、又之丞被申候は、とかくあの樣に騒き申候間、頓て埒は明可申候へとも、先命日は内蔵之助に
 申候て、手錠をおろさせ可申と笑ひ被申候、拙者存候は、助之進も跡より見可被申哉と存候て、最早夜も更申候、孫大夫殿も、御迷惑に
 て可有御座候、最早御休日成候へと申候へは、是非共に今暫と被申候へとも罷立申候、今存候へは誠に暇乞い成り別て殘念に存候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(21)

2024-11-20 06:15:17 | 堀内傳右衛門覺書

(86)
一内蔵之助へ我等申候は、大石頼母殿御跡は、いかゞと申候得は、頼母跡は譯御座候、只今御旗本に成り居申候と被申、越中守奥方本源院
 様死去之刻、爲御名代頼母殿寺へ御詰被成候を覺居申候と、物語致候事
(87)
一同名平八、御使者に罷出候刻、我等町宅へ立寄咄申候、今朝(三宅)藤兵衛殿、其外御側衆被申聞候は、不殘爲拝領候事も可有之候、殘
 三人様にも其御用意有之候様に相聞候、俄になり兼可申候間、そろ/\刀屋共に申付候て、金二三枚の札付の道具など取寄、吟味仕置
 事、刀屋共に密に申付候ても、世上多分公儀の御用の樣に沙汰可仕候間、私は不可然存候、私弟氏家平吉、同名(堀内)五郎兵衛、傳右
 衛門參居申候間、私共四人分は著替を差上、御用に立可申候、就中傳右衛門儀は、常々道具好にて、良き道具とも持居申候、乍慮外各樣
 にも左樣可思召と申候へは、兎角之返答も無之候、いかゝ存候哉と申聞候に付、扨々夫は能被申候、何かと平生申候、箇樣之時節あくみ
                                      正則
 行當り申さぬ覺悟、常々互に申事に候、扨も/\能被申候とほめ申候、我等事折節正利の刀拵させ、取寄目釘を打申候處にて、右之咄平
 八申聞候故、幸如此出來參候、三枚之札も有之候、是は内蔵之助に可被爲拝領候、中心の象眼に有之ことく、御自分に頼候て、生けさを
 落し、きれいなる出來にて候、箇樣之時節に進之、内蔵之助なとへ被爲拝領候へは、日本の神、武士之本意に叶たると存候由申候へは、
 平八も同意とて悅申候、其後横山五郎太夫被申候は、右之通平八被申候を一座にて承候、能被申候と被申候に付、我等申候は、平八中々
 左樣之思寄なと、申兼候者にて無之と笑申候、就夫昔之事を風と存出し候、長谷川故甚左衛門は、度々武功有之仁にて、直江山城守與力
 にも成候て、働き有之と承及候、妙解院様御代、八百石にて被召出、御目見被仕候時分、折節京都より、御伽之入道共も、御前に居申候
 由、右仁左衛門はかたの如く不男にて候を、我等も幼少之時分にて能覺居申候、右御伽に下り居申候京都之者共に、御意被成候は、唯今
 罷出候侍は、いかゞ存候哉と御尋之時、何れも申候は、男ぶりは乍憚下々仕候ては召抱申者は有御座候間敷候、定て能ふしにて可有御座
 候と申上候へは、御機嫌にて、八百石可被下と御約束被遊候へとも、千石被爲拝領候とて、早速御加増之御書出を頂戴仕、其上御鐵砲五
 十挺頭被仰付候、我等親とは内外出入にて、子息は久兵衛と申候、母儀も老母方へ折々被參候、三盛、仁左衛門へ被申候は、何も千石之
 體にては、今少長柄多見え申候、見申候へは、長柄十本斗と見え申候、其外之鑓數も外之衆よりは澤山に見え申候へは、能御心を被附 
 候、我等は他國者も能存居申候、自然之時浪人衆被參、召連呉候へと申時、持鑓とて夫々に渡遣ために候、長柄人用之時も、右之鑓を被
 用候樣に、方鑓、鍵鑓、多拵置候由被申候、大小身共に差替を持、自然之時、人に遣申候儀、武士之本意と咄被申候由に候、眞源院樣初
 て御國廻り被遊候時、御轡折申候、其時仁左衛門御供にて、鋏箱に入置被申候、替の轡を御用に立、殊の外御感に預候由承及候、其時拝
 領被仕候哉、拝領之馬とて、黑栗毛白き星有之候馬、幼少之時分見覺居申候、刀脇差馬共に、武士たる者の嗜にて候へとも、あしく心得
 候へは、博勞取賣なとの樣成る儀に成申候と、亡父毎被申候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(20)

2024-11-19 06:48:15 | 堀内傳右衛門覺書

(81)
一平野九郎右衛門被申候は、皆共出候へは、何れも窮屈に被存候、緩々と語り申事も遠慮に存候、此段宜敷様に挨拶を致呉候樣にと被申候
 に付、我等申候は、九郎右衛門は咄好にて候、五郎太夫も同然にて候、となたも規度御あしらひ被成候に付、御窮屈にも可被思召候、必
 々無語遠慮、御心安緩々と御咄被成候はゞ、何も悅可申と申たる事
(82)
一何れも徒然の時分のためとて、平家物語、太平記なと出申候、老人衆眼鏡を、我等へ所望被致候、其儘調候て致持參候、三國志、同名平
 八致所持候を出申候、吉田・原・磯谷なと切々見被申候事
(83)

一或時平野九郎右衛門、蓋茶碗にごまめを醤油にてにしめ、唐辛子かけ、茶うけにとて、宮村團之進持參めされ候由にて、我等へ被申候
 は、是はあの衆へ出し申候はゞ、慰に成可申哉如何と被申候に付、成程能可有御座候とて、袂に入持參仕、すそわけ仕候とて出し候へ
 は、何れも打寄、扨々是は忝、夜の藥酒被下候時分、肴に可仕とて、皆々紙に包取、悅被申候、惣體御酒も御伺被成候て、朝晩の御料理
 にも、三遍より外は成不申候故、好被申候衆は、中椀にて給被申候、右の通にて、夜は藥酒とて所望被仕候様に成り、夜給被申候衆も有
 之候事
(84)
一助右衛門被申候は、十五にか成候坊主衆、名は失念仕候、藥酒の酌に被參候刻、内蔵之助申候は、誠に此間は久々の儀にて、各にも晝夜
 御骨折忝存候、頓て埒明果可申候、乍此上其上にては、精進を頼申候と笑被申候へは、右之坊主衆泪を流され候、幼少の衆迄右之通に
 て、不淺仕合、何れも及落涙申候と被申候故、我等申候は左樣に可有御座候、度々如得御意候、初て各樣へ御意得て、心安きも不思議の
 御縁深き所、天道に叶候と申候事
(85)
一或時潮田又之丞被申聞候は、我等へ内蔵之助尋くれ候様にと申候、松平伊豫守樣へ居申候池田主水は、御出入仕候樣に承及候、御當家に
 上月名字之御衆御座候哉と御尋被申候、いかにも上月與右衛門と申候て、福島殿へ城代仕、隠なき者、只今の越中守親肥後守召抱申候、
 右與右衛門末子、上月八右衛門と申候て、番頭仕居申候、最早病死いたし、只今は孫の代にて、八代番頭申付候、池田主水殿事、譯はと
 くと不存候、いか樣當家代々心安筋も候哉、當越中守初て入國之刻より、船中主水殿領地にて候哉、下津井より水を船にて音信、使者も
 參候、此方よりも小姓組を返禮に遣申候と及返答候、其後内蔵之助、直に被申候は、扨々委細能御覺被成候、主水は私ためには伯父に
 て、只今の伊賀は従弟にて御座候と被申候故、我等申候は、上月八右衛門弟、上月三右衛門と申浪人、京都に居申候、此者の娘、主水殿
 の御親父出羽殿え進申候樣に承候と申候へは、扨々誠に能覺被成候、其三右衛門娘は、申さは拙者祖母分にて候、乍然此腹には、子は無
 御座と被申候、我等申候は右與右衛門事は、時代替り候故覺不申候、私親とは咄申候哉、與右衛門子共、いつれも心安咄、就中八右衛門
 は、近所にて、猶以心安仕候と申候へは、段々委被仰聞忝存候、拙者儀少内縁も有之候、九郎右衛門殿とは、いかやうの續にて候哉と被
 尋候、我等申候は、惣體九郎右衛門事は、遠江守樣同名にて御座候、平野氏傍輩ともにて多御座候、安藝守樣へ御座候は、九郎右衛門に
 は何程の續と申儀、不存候と及返答候、扨又序に書加置候、右池田主水祖父出羽と申、長久手之合戰に、御父子共に討死被成候、出羽は
 紀伊守樣御子にて候へとも、幼少故、御次男三左衛門輝政公、御家を被繼候て、只今の伊豫守樣迄御相續にて候、出羽は殊に御嫡子筋に
 て、三萬五千石にて、御家老相勤居申候、出羽も二代にて、初出羽は、右之通ゆゑ、蜂須賀蓬菴樣の御聟にて、松平阿波守樣御妹聟、就
 夫阿波守樣、妙解院(細川忠利)様御相聟にて、眞源院(同光尚)樣御爲に阿波守樣御伯母聟、其妹池田出羽奥方にて候へは、右之御由
 緒を以、御代々備前下津井にて、水船を出し被申事、能存居申候へとも、其譯は態とだまり、いか樣の譯か、代々心安御座候と迄及返答
 候、我等共先祖、池田の御家に居申候故承傳候、内蔵之助も能存知とは存候へ共、差扣候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(19)

2024-11-18 13:23:08 | 堀内傳右衛門覺書

(78)          豊後
堀部彌兵衛被申候は、高田鍛冶居申候處は、熊本より道の程、何程有之候やと尋被申候、三十二三里の道法と申候へは、拙者も高田行長
                      細川藩士
 重之作致所持居申候、誠に御下被成候はゞ、同名甚之丞へ御咄可被下候、拙者事兄弟九人有之候、其内酒給者両人御座候、是は仕合の
 儀、其外私も初め酒給不申、不仕合と存候、甚之丞は、随分酒を給候へと、御咄可被下候へと被申候に付、甚之丞殿は參候樣に覺申候、
                                                             細川藩士
 只今被仰聞通候はゞ、御喜可有之候、江村宗周老御縁の譯、私はしかと存不申候、甚之丞殿の聟にて御座候、堀部十蔵事はいかゝ務候哉
 と被申候故、旦那心にかなひ、懇意被召仕候、御心易思召候へと申候へは、又被申候は、十蔵は、存知居申候哉、彼者幼少の時分、私養
 子に可仕なとゝ、甚之丞方へ申遣候、前々より書通の文體なとも、慇懃に紙面も相見え候へは、手全に御奉公も相勤可申と存候由被申
 候、其後十蔵に達候て、右之趣を咄申候事
(79)         
一彌兵衛忰安兵衛従弟佐藤條右衛門と申浪人御座候、先年長崎奉行諏訪何某樣にも、浪人分にて被召連候、長崎にてくわもつ盗取候足輕之
 類三人迄、條右衛門一人にてからめ捕申候、今度内蔵之助免し不申候へは門内へは入不申候得共、私老體とて介抱仕候、中々男らしき
          見掛はイニ
 者にて御座候、乍併不男にて御座候、然れども主取候はゞ、主人の御心に叶候樣、奉公可仕者に御座候、此者事心懸りにて、不便に存候
 と被申候故、御心安思召候へ、左樣之御心底にては、男ふりは入不申候、武冥利に可被叶候、追て御知人に成可申と申候へは、殊の外被
 歡候、其後堀部十蔵、成田伊右衛門小屋に、右條右衛門被參候て、知人に成申候、則伊右衛門同道にて、同苗平八にも知人に成候様に仕
 候事
(80)
一或時上之間には、八木市太夫毛抜はさみ澤山に包持被出候、鏡ちさきをも紙に包、是は我等持出候、内蔵之助被申候は、只今も市太夫殿
 如此御持參被成候とて、我等鏡と同前に頂戴被仕、段々被爲附御心忝仕合迚、其儘差置、堀部彌兵衛は脇之方に寄臥居被申候が、其刻目
 覺被申候、内蔵之助被申候は、彌兵衛目覺候哉、是にと被申候へは、其儘はい寄り被申候時、唯今是は市太夫殿御持參、是は傳右衛門殿
 御持參にて候、頂戴被仕候へと指出被申候、彌兵衛も頂戴被仕、辱かり被申候、去人被申候は、毛を抜被申候時、又ははさみにて爪なと
 取被申候節は罷出候て居候樣にと被申候に付、我等申候は、傍輩心安きだに、先止咄申候事、禮義にて候と申候へは、然らは見え隠に居
 被申候而、身申候樣にと被申候、惣體我等は、心底に存候事は、諸人氣随者と申候段、前々より承居申候へとも、御奉公等之儀は、尚以
 心底に存候事は、少も扣不申候、天道次第と平生覺悟いたし居候事
 

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(18)

2024-11-17 07:38:33 | 堀内傳右衛門覺書

(73)                             細川藩士・用人?
一いづれもたばこを好被申候故、宣しきを被仰付候へと、堀尾萬右衛門なとへも申候へども、惣體 太守様御嫌故、御客たはこまてにて
 悪候故、それかし罷出候節は、念を入懐中仕、毎度何れも所望にて給被申候、或時間瀬久太夫、小野寺十内所望にて、たはこをすきと
 うつし取、たはこ入返し被申候て、小聲にてとかく傳右衛門殿は、當世にては無御座候、古人にて御座候、御腹は立被申間敷と被申候
 故、扨々迷惑仕候、たはこを御取被成候上、若き私を古人とは、近頃迷惑に存候と申候へは、此たはこ
入の御物好にて、いつれも左樣
 に存候と被申候故、見苦しく御座候へ共、皮がよくたはこを持候と返答仕候へは、いや/\、惣體當世にては無御座、乍慮外いつれ
 も、神以存候と被申候、あれ是たはこ入懐中の衆中、随分奇麗に新たはこ入にて、樣々の物好き多く候へとも、皮か宜御座候ゆえ、才
 覺いたし候、此たはこ入は、何れも度々手に取り申され候故、形見と存殘置候、肩きぬ譽申されたる時は、めいわくに存候か、古人と
 被申候事は、ちと太慶と存候事
(74)                         
一内蔵之助をはしめ、何れも被申候は、御番被成候御衆、其外御通被成各樣、最早久々の事にて、扨々ご苦勞千萬に存候、早く埒仕度と
 被申候、拙者申候は、皆共も代り罷歸、心を付見候へは、各樣へ朝夕料理を進候手伝い荒仕子まても、少も苦に不仕随分御馳走仕度心
 底と、日本の神見及候而、御苦に不被成候やうにと存候、右之通之儀は、偏に各様之御心故と、傍輩とも寄合御噂仕事に候と返答いた
 し候、大石主税
其砌強き風を引被申候樣に承候に付、隠岐守様御聞番に尋申候へと、同名平八に申候へは、即刻承候にもはや御快、食
 事なとも進み候由、平八咄にて、委細承候と申候へは、内蔵之助被申候は、扨々被附於心、忝次第と斗にて、仔細は尋不被申候事、
(75)                         
一正月初頃次の間にて、忠右衛門被申候は、御町宅に被成御座候ヘは、定て色々咄をも御聞可被成候、不苦御咄共承度と被申候故、舊冬
 より江戸中末々迄各樣御忠義の咄斗承候、舊冬二十七日八日頃か岡林杢之助殿と申仁、書置をして自害被仕候との沙汰承候と申候へ
 者、忠右衛門暫く案し、いかにも左樣可有御座候、杢之助は千石取番頭仕居申候、成程誠にて可有御座と被申候へは、十郎左衛門被申
 候は、傳右衛門殿御咄之通に候へは、忠左衛門殿いかゝ思召候や、おそしはやしと申ものにて候、今少見合、時節も可有之事と被申
 候、能々了簡いたし候へは、深心にて存寄有之事と見え、別て感入たる事に候事
(76)                         
一忠左衛門被申候は、傳右衛門殿、御通ひ被成候道筋は、いかゞと尋被申候故、大工町に居申候故、川岸端を通り、數寄屋橋を通候事も
 有之、又用事御座候時は、道筋かへ申候、大形右之通にて、八官町通り申候と申し候ヘは、八官町の後に三輪丁と申候て有之候、夫に
 内海道億と申、道三門弟御座候、相弟子なと、御家にも御座候樣に承及候と被申候故、成程町方にも大勢扶持なと遣置き候醫師御座候
 へ共、識人無御座、家名なとも、初て承候樣の事共御座候と申候へは、御大家にて、誠に左樣に可有御座、此道億は随分療治もよく仕
 候、内匠頭方へ居申候、一亂以後浪人にて、町宅に居申候へとも、脇々の療治を止、皆共類在江戸之者迄療治仕呉候て、志有之者にて
 候、御隙之刻、御寄りにて候へとも、御立寄御咄被成候へかしと被申候故、夫は奇特成儀に候、いつそ立寄可申と申候、其後立寄知る
 人に成、緩々御承候へは、在江戸にて、京大坂に被居候衆へは、萬事此道億へ通し合被申候由、京都に寺井玄渓父子にて、互に通し合
 被申候、以後承候、玄渓子息玄達と申候由、最期の時、内海道億樣大石内蔵之助と、上書きの大きなる書状、原惣右衛門手跡にて調申
 たるを、惣右衛門拙者へ、是を届呉候へとの頼にて、同名平八に申置歸候後、平八も道億居所不存、(三宅)藤兵衛殿へ持參之處、御
 前へ上り申候由平八申聞候、道億え見廻候節、寺井玄渓より參候書中之内、拙者言傳を切抜、見せ被申し押す蝋を寫置候、此文章略す
(77)                         
一原惣右衛門被申候は、本町呉服物共、定て大勢出入可仕候、本丁に、京都より寺井玄達と申醫師參居候、舊冬京都え歸申筈に御座候、
 いつ頃歸被申候や本丁より出入の者に、御聞被下候へと被申候故、本丁一丁目、七文字屋彌三右衛門方え居被申候寺井玄達、極月二十
 六日、京都へ歸候由承候て、惣右衛門え申達候、是は京都より内蔵之助なとへ付候て、病用に被參候由、後に承候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(17)

2024-11-15 07:06:39 | 堀内傳右衛門覺書

(71)
一堀部彌兵衛被申候は、津輕越中守樣大石無人と申候て、拙者同年七十八歳に罷成候、前廉故(浅野)采女代の勤の者にて、只今は津
 輕樣へ、大石郷右衛門御側御用人相勤居申候に懸り居申候、今度一列の同志と申候故、拙者扨々無分別、御家も替り、子に懸り居候て
 は、道理に叶不申と申候へは、得心仕候。御滯留中御隙の砌、御知人に御成候へ、故事共能覺居と被申候故、彌兵衛果被申候以後、本莊
 に被居候由尋候て罷越、無人子息郷右衛門、三平共在宅にて、緩々語、いろいろ馳走にて被歡候、無人被申候は、彌兵衛儀は、若き時
                                       細川藩士
 分より心懸よく、初て主取いたし、扶持方計にて馬を持居申候、御家に只今居申候哉、斎藤勘助とは、故采女所にては兒小姓傍輩にて勤
 居申候、勘助親又太夫大身にて御家に罷出申候故、勘助は采女手前より暇をもらひ、親一所に參候と被申候故、扨は左樣に候や、勘助は
 とく果候て、只今は孫子の代にて、無事に勤居申候と申候、無人又被申候は、今度一列の者共、刀脇差道具抔、泉岳寺より拂物に成候
 由、色々才覺を以調申者有之、内蔵之助著込は、御家之御侍衆所望の樣に承候、誰殿にて御座候哉と尋被申候、いかにも存居候へとも、
 自然所望なとも可被致と存、越中守屋敷も方々有之、侍共も諸方に居候、殊に大勢の事故、定て左樣之儀可有之候しかと承不申儀と申
 候、泉岳寺にて拂物有之段は承候へとも、偽にて可有之候、衣類之樣成物にて可有之候哉、大小武具、寺の寶物と成り其儘召置被申候、
 子孫の所望も有之節、譲り渡被申心底にて、中々拂物に成候と承り、肝をつぶし申候、拙者なとも望に存候而、殘念に存候と挨拶いたし
 候、右無人は大石同名にて、瀬左衛門大伯父と承候、内蔵之助着込は、去人泉岳寺小坊主に心安有之所望被致候、それかしは未申候、随
 分隱し、向方よりも聞付、所望も可有之候哉と、内々にて求被申候、助右衛門を頼候て、如望二枚調被申候、内一枚は、右忍の緒に替
 へ遣申候、追て右着込を求被申仁、歌の下書を被仕、此通に何とそ内蔵之助に歌を書貰候様にと被申聞候、初者拙者心も付不申候、只今
 存候へは、能こそ書せ置候と存候、是も右之仁の影と存候、右之仁は江戸定詰にて候事
(72)
一拙者肩衣に、紺の水衣有之、單にて夏中着、冬に成り古き羽織の裏に茶の形付置候を、或時着用罷出候へは、片岡源吾右衛門被申候は、
 此御肩衣は、何と申ものにて候哉と、尋被申候故、水衣とか申候樣に承候、若きものともの物好にて拵候と申候へは、扨々能き御物好
 き、裏の取合迄能御座候と、手にて探り譽被申候、神以それかし迷惑致候、總體衣類に不限、時々のはやり事致さぬものと、亡父被申聞
 置候、三齋様御眼あしく、八代え相詰居申内、細川刑部殿と申候、後に玄伯老と申候(七男・興孝)若年の時分、江戸より下着にて、八代に被
 參候節、京都より御咄伽、宗吟宗和と申者、槙嶋雲菴半之丞祖父也も被居候、刑部殿短き羽織着御出被遊御覧、御機嫌悪く、次へ被參、
 其羽織誰にそ遣候へとの御意に付、宗吟宗和申上候は、唯今かうむり道服とて、江戸御旗本衆、馬の三頭に懸らぬ樣にとて、はやり申事
 に御座候と申上候へは、三齋様御拝領の羅紗の羽織を御取寄被成、刑部小袖に、兩方五歩宛長く仕立させ候様にと、御意被成候、扨江戸
 にて何を仕居候哉と御尋被遊候、小畑勘兵衛軍法を承りたる由御申上候へは、御意に證據かなけれはいわれぬ事なれとも、雲庵是にて聞
 候、關原之時分、勘兵衛もさして替候事もなく候、われ等馬上にて働、太刀打も、雲菴、存知之通に候、三齋子越中弟なとゝ申者か、時
 々の時行とて末々の仕事無用に候、總體時行事は二十年々々には本のことく成ものにて候、ニ六時中越中軍法を習ひ、常々了簡いたし心
 を付、侍共を夫々につかひ候か、軍法を不依何事、其時の下知よく廻り申ものとの御意承り候と、毎度亡父被申聞候、扨々乍憚御尤至
 極、御名將樣の御詞、毛頭違不申候、拙者若き時は、無そりの刀脇差時行、拙者も反をのべ指たる事も有之候、只今本のことく反りたる
 に成り申候、第一に箇樣之儀承覺居申儀、當分の御用にても、即座失念仕候はゞ、迷惑可被仰付候、箇樣之御意を傳承、それ/\に嗜候
 はゝ、寔に寸志にて、冥加にかはひ可申候

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(16)

2024-11-14 06:50:37 | 堀内傳右衛門覺書

(66)                    細川藩士                                             家康公                                             
一次之間にて(富森)助右衛門被申候は、吉弘嘉左衛門殿先祖之儀、承度と被申候故、我等申候は、大友家にて吉弘嘉兵衛と申者、秀吉公
 之時、九州合戰之砌討死仕候、石垣原の戰と申候、豊後詞にて子共迄も小歌に、長い刀をシャツと抜て切てさるけばエレ/\皆はいまは
 と、諷申候と申傳候、就嘉
左衛門と心安共は、ムゝエレ/\と申て、なふり申候と申候へは、助右衛門被申候は、アレに居申候、矢田
 五郎右衛門も、嘉左衛門殿御先祖にまけ申ましく候、矢田作十郎と申候者は、隠れもなきものにて候と被申候、後に承り候へは、大村因
 幡守樣御出被成、太守様え御咄被成候は、御預り内、矢田五郎右衛門先祖作十郎は、三河にて三人之内にて、二人之子孫は、只今御旗本
 に御鐵砲頭被仰付置候、名は失念仕候、其内にても、作十郎は勝れたる武功之者と御咄被成候由承候、堀部彌兵衛事も御咄にて、今時之
 聞番之樣成るものにては無御座旨、被仰候由之事
(67)
一内蔵之助を初、何れも被申候は、度々御斷申候は如御存、私共久々浪人にて、輕き物迄を給暮し申候故、結構成御料理數日頂戴仕、殊之
 外つかへ申候、此間の麁飯戀しく成申候、何とそ御料理輕く被仰付被下候樣にと被申候、我等申候は、左樣に可有御座候、私共も逗留中
 御相伴に、次にて料理給少つかへ申候樣に覺申候、乍去菜數之儀は、旦那耳に達候て之儀故、減申事は難成と申候へは、左候はゞ、唯今
 御座候ちさ汁、なまこ鱠糟味噌汁なとゝ、心安衆は望被申候故、色々申候へとも、御料理人共、唯うまき樣に計仕、存候樣に成兼、残念
 に存候事
(68)
一助右衛門被申候は、いろ/\御馳走、誠以冥加に叶たる儀に御座候、水風呂も一人宛御かへさせ被成候事別て迷惑仕候、大勢入候跡程和
 かに能御座候旨被申候故、後は二三人にて替候様に申付候、毎度下帯なと被下候へとも、度々には替不被申候事
(69)                                                                  ほつんヵ
一上之間若き衆、大勢咄被申候處に、罷出候へは、何れも被申候は、御覧被成候へ、間喜兵衛いつとても咄不申、人の後に計つほんといた
 し居候が、如形律儀に堅き男にて御座候と被申候故、我等申候は、勝れて御實儀と承候へは、今後顯れ候と申候へは、夫はいか樣の思召
 にて、被仰候哉と被申候故、今度各様上野介殿をこそ、御心に可被懸候へとも、十次郎殿御鑓付被成候て、印を御あけ候事、喜兵衛殿御
 手に被懸候より、十次郎殿御手柄を、何程かと大慶に可被思召、冥加に御叶候事、常々喜兵衛殿之御貞心故と申候へは、何れも誠に左樣
 にと被申候、何れも喜兵衛の方を見向被申候へは、歡ばしき顔色にて、笑ひて我等に向、何共物は不被申候、忝と計之樣子にて、折入て
 時宜を被仕候、夫故か終に咄もなく、しかと言をかはしたる事無之候、最期之時、側に寄候而、何そ御口上之御方可承と申候ヘは、懐中
 より辭世を書たるを給候き
       草枕むすふ假寝の夢さめて
            常世に歸る春のあけほの
(70)
一御老中秋元但馬守樣御内に、中堂又助と申仁、(間)喜兵衛聟に御座候由に付、傳を以此辭世を又助内儀へ見せ、所望には可被思召候へ
 とも、是は拙者に給被申候故、所望は斷申とて遣見せ候へは、又助より卽刻禮状給候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(15)

2024-11-13 06:51:21 | 堀内傳右衛門覺書

(59)
一いつれもへ我等申候は、箇條に御懇意に仕るも、因縁ある事にこそ候へ、折を見繕ひ、追々各樣御一類中へ、御身分之樣子、委敷御咄
 可申と心掛居候、乍去御人に寄ては、何を申かと思召御方も可有哉、無心元候、いつれも樣御自筆にて、御手跡御親類中之御名を、御
 書付置被下候へかしと申たれは、皆々殊の外歡はれ、銘々親類縁者、御當所に被居候分は勿論、京伏見大阪其外所々、委敷書付出され
 候故、其分追々相尋、傳言之趣申通、始末も委敷咄し聞せ申候、
  (本條以下六條は異本に據り補ふ 59~64)
(60)
一或時、堀部彌兵衛能寝入て居たるか、矢聲をかけ被申候は、丑の刻比にても有たるか、我等寝ず番して居たるが、此聲に驚候、彌兵衛
 は老人故、若き人に劣る間敷との嗜にて、常々心張り居候故、寝入ても折々箇樣成事ありと咄被申候、彼仁は、飯後には何れも御免候
 へ、老人は足すくみ申とて、縁かわに出て、あなたこなたと歩行、足をならし申すとて、笑被申候事能く存候、其後夜四過比、潮田又
 之允、寝入候て歯切被仕候を、去仁參候て起し、はきりを強被成候、御氣色悪敷候哉と尋被申候由、以後又之允被申候は、先夜誰殿之
 被仰入念候て、被附御心被下候、私癖にて寝入候て間々歯切仕候、扨々入御念、忝くは存候へとも、扨々迷惑仕候と被申候に付、笑候
 て、夫は念入過し、御目覺御迷惑と申笑申候、惣體萬事入念勤候樣、毎度何れも承り申事にて候へとも、事によりたる儀と存候、名も
 又之丞被申聞候へとも、態と書付不申候、能く/\萬事心付候て、了簡可有之事と申候事
(61)
内蔵之助は、御預之翌朝より髪を結わせ候、殘之衆は、其儘にて二三日居申候、我等進め候へは、其後追々髪を結せ被申候
(62)      細川藩士(医家)
一十二月下旬、江村節齋老の孫成庵が、十七人之衆見度由、我等に頼候故、同道致候、其以前寒風強く、十七人の内には、手負い病人も
 ある事に而、御心元なく被思召、江村節齋老へ被仰付、見廻も被致候事故、此者は節齋孫にれ成庵と申候、各樣に御目に懸度由申出、
 幼年には奇特なる事に存候間、是へ召連候と申候へは、内蔵之助始、扨も々々と申、各側に寄、いくつに御成歟と被尋、十二歳にて候
 と答候、彼の衆へ被下置候菓子の有たるを、鼻紙に包、成庵に遣し、其後は折々成庵の事を申出、富森助右衛門被申候は、内蔵之助を始として、同の子供を持候者は、思出し候と噂被致候、右成庵か見に出候噂を聞傳へ、御番方并御次詰之
 衆も、追々彼の
衆を見に出被申候、いかさま後年咄しの種になり申へし

         江村節斎 名は宗悟、友精と称す。医を以て藩に仕へ、法眼に叙せらる。
              食禄七百五十石、子孫は世々医を以て仕ふ。
              享保四年七月六日歿す。年八十六。
(63)
一いつれも被申候は、舊冬より度々火事沙汰承候、此上皆様の御苦勞に相成居候間は、御近邊に火事無之樣仕度と也、我等答に、當屋敷
 廣、殊に泉水流れ、芝原も廣、樹木も茂り居候、萬一之時は、庭内に御連申筈に而、手當日申付置候と答候へは、左樣ならは、ちと御近
 火を願ひ申とて、皆々笑ひ被申候
(64)
一正月十一日、御役替有之、岩間何五郎、片山重之允、着座被仰付候、其砌私へ何れも尋被申候は、着座とは、如何樣之御座配御役儀かと
 尋被仕候、私申候は、他家にて申す番頭之類にて御座候、旦那家にても、大方は其位にて御座候、併着座と申は、先は年始の禮之節、太
 刀にて申候、着座にも段々有之候、小身にても家筋能者共は申付候、番頭より上座之着座、下座の着座と、色々御座候と挨拶仕候事
(65)
一いつれも若き衆中被申候は、堀部彌兵衛養子安兵衛、定て御聞及も可有御座候、先年高田馬場にての仕方、彌兵衛承及候而、何之由緒も
 無之候へとも養子にいたし、不思議なる事は、手跡物こし迄も、彌兵衛に能似申候と被申候故、成程承及候、感入たる儀に候と申たる事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(14)

2024-11-11 06:30:37 | 堀内傳右衛門覺書

(55)
松平安藝守(浅野綱長)樣御家中は、江戸にて馬を持不申候も道中は専牽せ申候、江戸にては借馬も有之由、道中専に牽せ候由、上田新
 兵衛咄にて候、先年道中にて我等も見申候、馬數大分に候、前々より馬宿の咄承候、本多中務樣御家中は、貮萬石以上は馬は牽かせ候、
 是も先年道中で見申候、右の通候へは、内匠頭樣も安藝樣と同前と存候、數日の儀にて、何も心安坊主共に、色々の事を尋被申候由候へ
 は、我等身の上の事も、定て尋たるにて可有之候、馬牽せ候宿の時も何となく、右之咄を得候、心底には扨々おかしく痛入候、何角に付
 小身は口惜候
(56)                 吉田
一次の間にて咄居候處に、上の間より忠左衛門參、傳右衛門殿は、毎々若き者斗と御咄被成候、御年もさのみ皆共と替りも無御座候と被申
 候故、神以追付夫へ可參と存候へ共、御咄しみ候て居候と申候へは、忠左衛門被申候は、いや左樣にても無御座候、惣體是へ參候事、内
 蔵之助心に叶不申候と存候得共、傳右衛門殿御聲仕候と、内蔵之助其外へも申候て、是へ參候、必此座がらに御はなし可被下候、此間に
 參候て御噺承候へは、氣晴快御座候と被申候、是にて内蔵之助威高き事、可有御察候事
(57)                           吉田    原     堀部
一上の間罷出候時、忠左衛門惣右衛門彌兵衛なと、我等側へ被參、傳右衛門殿は馬御数奇と、何れも咄にて承候、馬咄可仕候、總體道
 中御牽せ候馬、遠路達者不達者に可有御座候と被申候、いかにも若き時より數奇て見候に兎角馬は生質すなほに、すそ廻りよく無御座候
 へは、遠路道中なと役に立不申候、頭持能、轡うけ能、喉も前地道乘能のと申候ても、小うて延び申候か、或はそむき爪悪敷候か、とか
 く馬は惣體能候ても、右の所々に申分候へは、遠路必血落、自然の時益に立不申候と返答仕候、御番人後に詰居被申候故、われらも心の
 内おかしく、いたみ入候、若輩の時分、御馬屋に稽古に出其後定て御供にて、舎人殿就中馬好きにて、切々右之咄承居候故、取合候而返
 答いたし候、とかく何事も心を付て、人の咄は可承置事に候、武士はいか様の事かありて、大名に可成事もしれぬ事に候、昔より申傳
 候、心は身體より大きに持度事候、扨右之三人衆被申候は、扨々傳右衛門殿は、承及たるよりは馬御巧者にて候、定て御家の御馬役衆、
 其外御侍中にも御乘手多可有御座候、前廉の上田吉之允なとの樣成上手は、當世有兼可申候と、忠左衛門被申候、如仰昔之樣に勝れて乘
 候は有兼申候、馬役之者に中山九郎左衛門と申者候て、随分奇麗成る乘方にて御座候故、越中守唯今の旦那の祖父妙解院と申候、三齋子
 にて御座候、如形馬好にて、自分にも能乘被申候、馬上にて色々の事を被仕候て、慰被申候、腹中すき候時分、馬上にて湯漬なと給被申
 候由、親共咄承候、其時分は右吉之允におとらぬ上手共多く、馬役之者に永井安太夫と申ものは、皆共幼年之頃まて存命にて覺居申候、
 小男にて奇麗成乘方にて御座候、吉之允は馬上手にて、武功も有之候、一所に佐分利九之允と申仁御座候由、此佐分利同名之者共、傍輩
 に多御座候、兩人共に松平宮内大輔樣へ被召仕、九之丞は後に原城にて討死仕、石塔なと今に有之候よし、傍輩共は見申候との咄承候、
 吉之允兒小姓佐治頼母と申仁は、右吉之允、九之允働有之刻も、同前の働にて、富田信濃守殿當座之褒美に、作の鞍を給り被申候由、後
 に松平新太郎樣え被召出、千石被下、鐵炮頭被仰付候段、親共噺にて承り申候と申候へは、三人共に傳右衛門殿は、古き事を能く御覺被
 成候と被申候、近代大坂軍島原一揆之刻、御父子共に被成御座、御家中侍中討死手負、或は御褒美之書附、折々見可申候、生れぬ先の事
 も知申候、御當家之事を、御家人の不知して、他家の人尋申時、不存と申と、不心懸之事候、遠坂關内、此以前相良遠江守樣へ御振廻之
 時、御供に被參、其刻我等は歩御使番にて、腰懸に居申候、御知行取は御座敷に上り、御料理被下候節、關内え彼方御家老被申候は、前
 廉御家に居被申候而、御暇申上候早水忠兵衛と申人、松平大和守樣へ被召出、結構なる首尾にて御座候、御家にては百石被遣、御臺所頭
 被仕居候由、島原之刻、長岡佐渡殿、益田彌一右衛門殿、右御兩人之證據状持被居候て、右之通結構に被召出候由、右之通之仁を、何と
 て御暇被遣候哉と尋被申候へは、關内方返答に、成程被仰聞通に承及候、其節越中守、肥後守父子共に罷越候故、侍共過半召連候、其時
 忠兵衛は、輕き奉公をいたし、臺所廻りに役儀を勤申候者にて、働いたし候、他所へ參候ては、身體の足りにも成可申と、兩人より状を
 遣候儀も承及居申候、前々より召仕候侍とも、働多御座候故、越中守方にて、さのみ賞翫不仕候、大和守樣へなとにては、島原之働有之
 者少可有之候間、御賞翫御尤に候と返答いたし候へは、御家老とかくの事もなく、御尤と被申候由、則我等腰懸に居申候處、關内被參、
 何と存候哉、偽にもなく誠を以能返答にては無之哉と被申候、今に忘不申候、扨々能被申候樣、先祖越後守殿之名を汚さぬ樣にと、申さ
 れたるを覺居申候、關内は古き咄好にて能覺候、關内島原の時分は、未生以前か、三四歳か、夫より上にては有間敷候、皆々好たる訳
 は、わけもなき事さへ覺申事に候、貴殿心得にも成可申と、書加へ候事
(58)
忠左衛門、我等側に寄咄被申候は、拙者聟伊藤十郎太夫と申者、本多中務大輔樣御内に居申候、折節在江戸にて候、本多家譜代之者に御
 座候、親は八郎左衛門と申て、武功も有之候へとも、申度事斗申候故、小身にて今に二百石被下居申候、内記樣代或時御前へ被召出、御
 夜咄之節、酒も出段々御機嫌能、後には出頭仕候、兒小姓衆罷出、八郎左衛門に酒給せ候へとも、下戸にて常々短氣者故、頻にのませ可
 申とて、兒小姓衆戯候て、色々の事を申て、腹を立させ候へは、散々悪口を申候故、幼少之者共と申、殊に御前にて迚、御機嫌損し候由
 承及候、今に小身にて子孫も居申候、心儘に申度事斗申候へは、今に小身にて居申事と被申候、我等申候は、左樣の儀は多き事に候、苦
 にも不被存、定て一つ所を樂に存可被居候と、返答致候、又被申候は、右十郎大夫殿へ、折を以御知人に成可申と被申候、本多樣御屋敷
 は、御成橋之内にて、參り候て逢申候、存生之内にて、いか樣遠慮被仰付候哉、長髪にて些煩居申と被申候、緩々と咄、忠左衛門殿御無
 事に御座候と申候へは、扨々忝、神以御禮難申盡と被申候、忰兩人疱瘡輕く相仕廻、湯も懸り申候、其外忠左衛門忰共も、無事に居申
 候、
私妻子にも無事に居、寺坂吉右衛門無事に下り、私所にも參候段申越候と、御咄被下候へと被申候故、歸り候て忠左衛門に咄候へ
 は、扨々不淺御志難申盡とて歡被申候、吉右衛門事申出候へは、此者は不届者にて、重而は名も被仰被下間敷と被申候、吉右衛門は、其
 夜一列に一同に參候て、逐電いたし候由、兼々何れも被申候、然とも無恙仕廻申たる儀を知せ候使申付なと色々申候へ共、右之通に被申
 候事、不審に存候、實の缼落かとも存候事 

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