今日の熊本日々新聞は、天草キリシタン館で二年振りに本物の「天草四郎陣中旗」が公開されることを報じている。
http://kumanichi.com/osusume/odekake/kiji/20120131002.shtml
2/1~2/7までのわずかの期間だが、これは史料保存の意味から文化庁が年間の公開日数を30日に限定させていることによるらしい。
絶好の機会だとは思うのだが、私はというとちょっと行けそうにないのだが・・・・・どなたかレポートをいただけると有難い。
細川忠利公逝去後荼毘にふされたのが、岫雲院春日寺である。殉死した諸士の御位牌なども祀られていた。妙解寺とは地続きの西側の丘陵地にある。
しかしながら檀家のないお寺だから経営に難儀されたらしく、建物は悲惨な状態となり一二のブログでその状態が紹介されたりしていた。
http://blogs.yahoo.co.jp/ktoshi7414room/5879674.html
http://members3.jcom.home.ne.jp/iwaya_koke/kikuchi/kasugaji.html
つい最近この春日寺が全面的に解体されて更地になってしまった。再建のための解体であると信じたいのだが、現況その真意が判らない。
詳しいことは承知しないが、このお寺はもともとは別のところに在ったらしい。距離的にもそう遠くない場所らしいが、JRの新幹線・在来線工事に伴う周辺地域の整備に伴い、その旧春日寺跡地の発掘調査が行われるらしい。先の解体工事と連動しているとは考えにくいが、どうだろうか。
歴史的に由緒あるお寺なのだが、所詮はその経営は檀家なくしては成り立たないものだし、行政もその故をもって助成というのも難しいのであろう。
今後の推移を見守りたい。
■講演会
日時/平成24年2月4日(土)14:00~15:30
演題/「大名細川家を救った男 松井康之」
講師/林千寿(当館学芸員)
場所/博物館講義室 ※聴講無料
これは現在八代の未来の森ミュージアムで行われている、「松井康之没後400年記念・戦国武将 松井康之の軌跡」展に関連した講演会である。
スケジュールを調整して、是非とも出かけたいと思っている。
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平成24年1月17日(火)~3月18日(日)
会場/八代市立博物館未来の森ミュージアム第2常設展示室
細川家を支えた名家老の実力を見よ!
松井康之(1550~1612)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、八代城主松井家の始祖。もともと将軍足利義輝に仕えていましたが、義輝没後は細川藤孝に仕え、家老として大名細川家を支えました。また、優れた茶人でもあり、千利休・古田織部と交流がありました。本展では康之没後400年を記念し、康之ゆかりの品々20点あまりを展示します。
http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/pdf/yasuyuki.pdf
http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/pdf/yasu@.pdf
■休館日 毎週月曜日
■開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
■入館料 一般 300円(320円) 高大生 200円(240円)
*( )内は20名以上の団体(2割引) *中学生以下は無料
勝ち組、負け組と分けると細川藩は前者ではなかろうし、細川藩に於ける実学党、学校等を考えると、前者が勝ち者・後者が負け組ということになるのだろう。高祖父・上田久兵衛などはまさしく後者であろうし、私は判官贔屓の人間だから高杉晋作や坂本龍馬を単純に好きだという人とは対極に居る。
「もうひとつの明治維新」はそんな意味では後者に位置する人たちを語っているのだが、このような本が多くの人たちに読んでいただけることを大いに願うものである。
もうひとつの明治維新―幕末史の再検討 (大阪経済大学日本経済史研究所研究叢書 -第16冊) |
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有志舎 |
鸚鵡籠中記で取り上げられた細川綱利に係るものは、粗方にクエッションマークがついている。柳沢吉保の三男を養子に迎える話や、藩主押し込めの話などである。これに関する事はいわゆる噂話をまとめたものであろう(すべてがそうだとは言わないが)が、一級資料とはなりえないのであろう。一級資料とは何らかの形で「裏」が取れるということであろうが、これらの話もひょっとすると本当かもしれないのであって、歴史の真実を知る上での史料の取捨選択がもつ「危険性」も一方にはあり、そのことを十分認識しておく必要がある。
ある人物を論ずるとき、一級資料であるにもかかわらず、不利とおもわれる史料についてはまったく取り上げられることがないという事例があり、かえってその事がその人物の真実を知る上で悪く作用するのではないかと思われることがある。学者先生たちはこの史料をご存じないのか、あえてさけて通られているのか、学問とは不思議な一面も見せる。(一級資料ではないという認識もあるのかもしれない・・これが逃げ道か)
私ごときの単なる市井の歴史好き人間は、一級だろうが二・三級だろうが「候由」の文章だろうが、新たな資料に出くわすとワクワクしてしまうのだが、やはりそのことを大いに認識して発言したり文章にしたりするべきだと思っている。
「先祖附」の研究を究極のものにしたいと思っているのだが、私は一級資料にこだわっていない。「候由」なる史料もまた史料であれば、その旨を記しながらまとめ上げようと思っている。
NHKの大河ドラマは、去年の「江」から今年の「清盛」にいたるまで、まったく見る気がしないで居る。ドラマとはいえいささか許容範囲をこえた歴史の捉え方に合点がいかないのである。せいぜい「候由」といった範囲の噂話の範中で収めてもらいたいものだ。
最近とみに有名になったのが熊本県・美里町の二俣橋、石造のアーチ橋なのだが、11月から2月頃の午前11時半頃から約30分ほどある現象が起こり、観光客で賑わっている。何度も訪ねた場所なのだが残念ながらタイミングを失して、いまだ見たことがない。
http://yuttari.diy-sound.net/?eid=808
全国のカップルの皆さん、ここを訪ねられると愛の成就間違いなしですよ・・・・・・(ふたまた橋というのが引っかかりますけど・・・)
http://www.youtube.com/watch?v=uUOcGkZDxcE
「千夜千冊」の中野正剛氏が鴨下信一氏の「忘れられた名文たち」を取り上げている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0329.html
この本は読んだことはないのだが、文中に出てくる「よみうり寸評」を書いたという細川忠雄氏なる人のことが気になっていた。
上記鴨下氏が「細川忠雄の『よみうり寸評』にひとつの完成体を見る」 としていることに、中野氏も合点している。
興味ある人たちの名前が並んでいるが、私の親しんでいる本の著者の名前も見えて喜ばしい。
過日ヤフーオークションを見ていたら、細川忠雄氏の「零落園春秋」という本が出ていたので、慎重に応札して手に入れることができた。
当然のことながら熊本細川家に係りある方だとおもっていたのだが、詳細なことはわからない。
巻頭の高橋信吉氏の言に「バロン細川」とか「 徳川家ご家人」とかいう言葉を見ると、そうではないかと思っているのだが・・・・・・
しかしこの本を一読するとそんなことはどうでもいいことだと思い知らされた。読売新聞のコラムニストとして高名な方らしいが、心血を注がれたという文章はまさに鴨下氏の言葉で表されている。
先のブログ「生誕450年記念・上田宗箇-武将茶人の世界展」図録・・・つづきに関し、東京のTY様から再度のご教示をいただいた。
お許しを頂きご紹介する。
国立公文書館の「デジタルアーカイブ」による検索方法は「詳細検索画面」→「内閣文庫」→「和書」→「和書(多門櫓文書を除く)」として
検索窓口に「中根」と入れ 更に「画像等閲覧可能なデータ」で絞り込みます
請求番号「156-0017」 冊次「92」 マイクロフィルム「021700」 開始コマ「0134」
これで「中根・中島」の「略譜」(原本は「畧譜」と表記)PDFでも閲覧可能です(印刷も可能)
全168コマ中
中根越中守信照二男康政からの略譜は 62コマから67コマ
重要な織田信照こと中根新兵衛尉可賢からの略譜は 67コマから74コマです
この中根可賢と本多忠勝に殉死した中根忠實とは同一人物と推察されます
参考・・本多家・岡崎藩・分限帳(PDF)二冊目(忠勝様御代の中根氏)
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103280851-001.pdf
上記タイトルは下記参照
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/18.html
実は小生高祖父の母方である紀伊藩士・坂部惣太夫の家は本多家附人の一人・長坂甚平(天正18年6月24日・武州岩槻にて討死)
討死した甚平の子供は母親の胎内におり のち26歳の時には本多美濃守忠政の元で大坂の役を迎え功名を挙げました
その後 母方の名字である坂部氏を名乗り紀伊藩士となりました(多分・本多家のリストラが原因と思われます・初め300石・後代1000~2000石)
本多家の中根氏はよくぞ「姫路城内曲輪絵図」「古河城関係史料…下総古河城本丸地図など」等を残したものだと感心致します
さらに中根忠實は どうやら本多忠勝の妹を娶ったらしい…
http://www.city.okazaki.aichi.jp/MUSEUM/DB/KKP/H13-09-15/Ky00801.htm
また 織田信秀が熱田の商家の娘を奪って妾にし生まれたのが信照という。
この娘(信照の母)は織田信秀死後、水野信元の側室となり三子をもうけたとある。(W)… という説もあります
水野元信の娘に はじめ松平大学「某」に嫁し、夫の死後に内蔵助「重信」に再嫁。重信の戦死の後は「伝通院」に仕え、「一木」の名を与えられる。家康の関東入封につき従い、江戸城内、紅葉山に住んだとの「寛政譜」の記述がある(新訂18巻10項「鈴木」)。内蔵助「重信」との間に杢之助「重政」(杢之助重次)をもうけ、その子孫は旗本となっている。なお、「寛政譜」が意図した「一木」の読みは「ひとつぎ」と思われる。同書はその名の由来を、杢之助「重政」の采地が三河国高橋庄の一木郷であったことにもとめており(同15項の按文)、この「一木」の地名を「ひとつぎ」と記している。・・・ この旗本の家は 小生の知友である松平氏(旗本・鈴木氏で明治に松平氏に復した)です 思えば いろいろと面白い縁があるものです。
ただいま3,800円 あと三日 応札者ただいま6人です・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ただいま26,009円 あと9時間 応札者39人となりました。(1月29日 12:28)
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肥後は歴史の舞台にそれほど多くのスターは出していません。しかし、わき役に面白いキャラクターを輩出しています。どこか個性的で癖がある「いひゅうもん」たちです。本紙に平成13年から10年近く連載された「近代肥後異風者伝」を軸に、新たに徳冨蘆花、高群逸枝を書き下ろしました。本書に登場する異才の人々は95人。彼らを通して描く、ユニークな肥後の意外史です。 著者紹介 昭和19年、福岡県八女市生まれ。熊本大学法文学部卒業後、佐賀新聞社を経て、熊本日日新聞社に入社。阿蘇総局長、文化部長、編集委員室長などを務め、平成22年8月から熊本近代文学館長。著書に『九州・沖縄シネマ風土記』、自然と文化・阿蘇選書5『豊肥線と阿蘇』、『お伽衆宮本武蔵』(共著)などがある。 |
過日、以下のようなサイトを運営されておられる上坂眞信様からご丁寧なメールを頂戴した。
讃岐は足利将軍家の後胤・尾池玄蕃(西山氏・後細川家臣)が一時期身をおいた地として知られ、西山氏を調べる上では避けて通れない。
又、細川家家臣に生駒氏の名前も存在している。いろいろご教示いただくことが多かろうと思っているが、ご丁寧な御会釈に恐縮している。
上坂氏顕彰会 讃岐生駒藩藩政史料
http://kousakashikenshoukai.blogspot.com/
上坂氏顕彰会 所蔵手写本
http://shozoushushahon.blogspot.com/
上坂氏顕彰会 理想日本リプリント
http://idealjapanreprint.blogspot.com/
讃州生駒家家臣団 家分け史料
http://iewake.blogspot.com/
生駒家家臣団 史料の収集と公開
http://www1.ezbbs.net/28/masanobu/
理想日本 (Ideal Japan)
http://idealjapan.blogspot.com/
観音寺
http://kanonji.blogspot.com/
金毘羅参詣名所図会
http://konpira.blogspot.com/
中世の合田氏
http://goudashi.blogspot.com/
気になる書冊
http://japanesebibliophile.blogspot.com/
讃岐うどん (Sanuki Udon)
http://sanukinoudon.blogspot.com/
公武合体派の公家方の主要なる人物の一人として知られる一条忠香の父君は前関白准三宮忠良である。母君である細川齊茲女邰姫について、「一条忠香日記抄」は、「母従三位源富子・左少将源齊茲朝臣女」と記す。忠香・富子夫妻の娘美子は明治天皇の皇后(昭憲皇太后)である。細川家の血は皇室に入った。養女・峯姫は細川韶邦室であり、同じく養女・美賀子は徳川家喜に嫁した。また韶邦女・勇姫は越前松平藩の松平春嶽(慶永)に嫁いでおり、忠香の息・実良を含め公武合体派の人物が一条家・細川家の血によりつながったことになる。「一条忠香日記抄」はこの時期の公武合体派の活動を知る上で貴重な資料である。
山田康弘氏の「細川幽齋の養父について」は大方の認知をえて、その後発表される幽齋に係る論考においては避けて通れない状況になっている。
綿考輯録における編者・小野武次郎の説明はいかにも苦し紛れである。それにしても九十を過ぎた老女の記憶にたよるだけのこの論争には、山田康弘氏の御説にも確固たる証拠建てで補強が必要であろう。
東大史料編纂所の金子拓先生の御著「記録の歴史学」に、ガラシャ夫人の死に係る証言の書・霜女覚書について、「実は老女の記録というきわめて不安定な地盤の上にたっている」とされる。ガラシャ夫人が二人の御子を殺害された上で生害されたという説は、この霜なる老女の一通の文書により打ち消されてしまったといってもよかろう。最近HNぴえーるさんは、新たな資料を発見されてブログでコメントされた。
また、霜女覚書とは状況をことにする「小須賀覚書」なども存在するのだが、一部の識者がその存在を承知するのみで内容の評価については無視されているといってよい。真実はまさに闇の中である。
幽齋公の養父についての証言や、ガラシャ夫人生害に関しての霜女の証言など、金子先生のご指摘のように「一人の老女の証言」のみにより論ぜられることに歴史の危うさを感じざるを得ない。