広大な「花畑邸」の北西の片隅がわずかに現在「花畑公園」として残されている。
そこにかってはここに鎮座していたという「四木社(代継社)」の名の由来だとされる、四本の木の内の一本が元気にその姿をとどめて居る。
大クスノキである。一時枯れかかったがいろいろ手が加えられて、生き残り長寿を保っている。
脇には池の近くに在ったとされる「十三の塔」も残り、四木社の由緒を示す「代継神社跡地」の石碑が存在する。
現在は立田山に移り鎮座している代継神社の御由緒には「村上天皇の御代、応和元年(961年)に肥後の国司として紀師信公が当国赴任の際、茶臼山南麗(現花畑公園)に、肥後の国の守護神として祀り、宮城の四隅に木を植えて四木宮と称したのを創祀とします。」とある。
これが本当ならばこのクスノキは樹齢1,000年を有に超える木だということになる。
代継社と名前が変わったのは、光尚の死後わずか6歳の六丸(綱利)が無事にお世継ぎとなったことに由来しているとされる。
ところが「茶臼山ト隈本之絵図」を見ると、茶臼山の下、坪井川の川むこうに「四木社」と記されている。
だとすると、築城のころから坪井川が合流する大蛇行の白川のこぶの部分にあるべき「花畑邸」についての説明はつじつまが合わないことになる。
この絵図の真実性は大いに怪しくなる。
この絵図が本当だと仮定すると、坪井川川向うの熊本城地は、上記の絵図のようななだらかな地ではなく、のちの熊本城内の桜馬場や竹之丸の後背部には崖が切り立っていたものと思われるから、その下あたりだと私は考えている。
しかし熊本城築城に当たり御城から見下ろすのはまずいからと言って、白川を越えた本庄の地に移された。
この説明も納得いかない。この場所は築城当時から花畑邸としての整備が始められている。
都合の良い言いようで神様も為政者のご都合にはあがらえなかったようだ。
この「茶臼山ト隈本之絵図」に書かれている「四木神社」の位置、直進している白川について、ぼんくら頭の私を100%納得させるような解説を大先生方にお願いしたいものだ。
「隈本古城考」の中に、森下功先生の「茶臼山ト隈本之絵図」の絵図についてという論考が掲載されているが、なにせ発行が昭和59年(1984)のものであり、白川の大蛇行について富田先生により発表された大スクープは平成7年(1995)の事であるから、今一つ納得いかない。
皆様のお考えをご示教いただきたい。