毎朝の食事時、我が家のベランダに二匹の雀がやってくる。プランターに頭を突っ込んで餌をついばむ姿が何とも愛らしい。
実は一ト月ほど前に始めて飛来したのをきっかけに奥方が米を撒いたが、その後は音沙汰なしであった。
それが三日おき、二日おきと間隔がちじまって現在では毎日、時によっては一日に二三回飛んでくるようになった。
決まって二匹で、でっぷり型とスレンダー型で、どうやら夫婦ではないかと思われる。
他の雀を連れてくるという事は無い。我が家のベランダはすっかり彼らの縄張りに組み込まれてしまったらしい。
彼らの食事時には驚かさない様に遠くから眺め、動くこともせずにただただ可愛らしい姿に見入って飛び立つまでの僅かな時間を楽しんでいる。
奥方が「もう我が家のペットね」と いいながら、またプランターの中に米を補給している。あの二匹の雀たちは、いつもはどこで過ごしているのだろうと思いながら、遠くの彼方を時折眺める爺様である。
「宮本武蔵 研究論文集」その他、宮本武蔵に関する多くの論考・著書を精力的に発表してこられた、熊本在住の歴史研究家の福田正秀氏が「放送大学日本史学論叢」に、「名前の変遷に見る宮本武蔵」を発表された。ご厚誼をいただいているが、このたびご恵贈を賜った。厚くお礼申し上げる。
32頁に及ぶ長論文だが、いつもながらその真摯なご研究に頭が下がる。
氏は「加藤清正妻子の研究」でも加藤清正研究の第一人者となられたが、加藤清正と宮本武蔵は氏の研究の両輪である。
今後とも更なる研究の成果を伺うことがあろうと、大変期待している。
あることを調べるために図書館に出かけ、いろいろな資料と共に平川家文書のなかに「平川家の系図と個人の記録」などを拝見したが、目指す成果は得られなかった。
その資料を眺めていたら、なんと我が家の遠祖周辺の記事があり、ながい間知りえなかった情報に遭遇しびっくりしてしまった。
遠祖磯部氏の女婿の家系だろうと思われるが、どうやら磯部家の記録が残されているらしい。
コピーが出来ない為デジカメ持参で改めて出かける事にした。感謝
南阿蘇村の大桜「一心行の桜」は村の開花情報によるとまだ蕾らしく、開花は週末といったところか。
さぞかしの賑わいを見せるのだろう。この場所は観光スポットとなり数万の観光客が訪れるというが、峰家の墓地(私有地)であり、宇土半島郡浦の矢崎城で戦死した中村伯耆守惟冬とその一党が祭られている。夫人は矢崎城で亡くなったとも、幼子をつれて阿蘇南郷の地に逃れてきたとも伝えられる。
中村伯耆守惟冬の出自は南郷の「峰氏」だとされ、この墓地は峰氏(南郷中松の峰城主)によって守られている。
郡浦の矢崎とは阿蘇氏の社領荘園であり、城(矢崎城)を築き阿蘇氏の重臣中村伯耆守惟冬を城代として派遣していた。
天正12年3月薩摩の島津勢に攻められ落城したとされるが、史料に異同が多く決定的ではない。
参考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2015/06/29 南日本新聞掲載の「さつま人国誌」から引用
これを機に、九州の勢力地図に大きな変化が生じた。六カ国守護で九州随一の大名だった大友氏が衰退し、代わって南九州の島津氏、西九州の龍造寺りゅうぞうじ氏が台頭、九州に三雄がせめぎ合う、いわば三国鼎立ていりつの状況が生まれたのである。
それに伴い、焦点となったのは肥後国の動向だった。肥後には大きな大名が存在せず、国衆が各地に割拠していた。
同八(一五八〇)年春、大友氏に服属していた城じょう親賢ちかかた(隈本くまもと城主)と名和なわ顕孝あきたか(宇土城主)が自立を策した。宗麟は離反を許さじと、大友方の国衆である阿蘇惟将これまさ(阿蘇大宮司家)とその家老・甲斐宗運そううんらが隈本城に攻め寄せた。そのため、親賢と顕孝は人質を出して島津氏に早急の支援を求めた(「旧記雑録後編一」一一三六・五七・五八号)。
島津方では、太守・義久の命で、同年六月、次弟忠平(のち義弘)の家老・鎌田寛栖かんせいと三百の兵が情勢視察のため隈本に派遣された。さらに新納忠元、伊集院久治を大将に、「数万」の軍勢が本格的な支援のために派兵されることになった。そのなかには、隈本城の守将に予定された佐多久政、川上忠智、上原尚近、宮原景晴なども含まれていた(右同書一一七六号)。
その軍勢は肥薩国境の出水郡米ノ津に集結し、船で北上した。陸路をとらなかったのは、肥後南部・求麻くま郡の相良さがら義陽よしてるが阿蘇氏と通じて敵対していたのと、天草諸島の志岐しき麟泉りんせん(志岐城主)などの国衆が島津方に帰順していたためである。
島津軍の船団数百艘そうは隈本の外港である高橋の津(現・熊本市西区高橋町か)に上陸した。翌日、隈本城に入城して、城主の城親賢父子と対面した。そして四方の情勢を探ったのち、まず隈本との連絡を妨げている宇土半島の制圧を優先すべきだと決した(右同書一一六〇・六一号)。
宇土半島には半島南側の矢崎城(現・宇城うき市三角町郡浦)に中村一大夫、北側と思われる網田城(現・宇土市下網田町か)に中村二大夫がこもっていた。二人は阿蘇氏と結んでいたので、島津方はまずこれを攻めることにした。
十月十五日、島津勢の船団は海路、宇土半島を回り、矢崎城近くの浜に上陸、同城を囲んで攻め立てた(右同書一一八〇号)。
「(島津方は)四方八方から閧ときの声をあげ、われ先にと攻め上り、射つけ火矢を散々に射させたので、火炎が天に焼き上った」
城主の一大夫はもはやこれまでと、妻子を殺害したのち、一族郎党が全員城外に打って出た。
激しい乱戦の末、酉とりの刻(午後六時ころ)になってようやく島津方が勝利した。島津方にも市来備前守、長野民部少輔みんぶのしょうなど少なからぬ戦死者が出た。
翌十六日、島津勢は網田城にも押し寄せた。すでに矢崎城の落城を知った城方が戦わずして和議を申し入れたので、城兵を阿蘇方に送るという形で開城が成った(右同書)。
かくして、宇土半島の占領がなり、島津氏は九州制覇に向けた本格的な北進政策の第一歩をしるしたのである。
今春、矢崎城跡を訪れた。地元では、城兵のみならず女性や子どもの犠牲者を悼み、供養碑や供養塔を建立してあったのが印象的だった。
御覧のように古町はお寺と商人の町である。白川に架かる長六橋が薩摩街道の基点でもあり、戦略的意味合いの深い町とも言える。
この古町界隈が城下町形成のはじまりであったとされる。
坪井川に架かる新三丁目橋をわたると、前回ご紹介した「高麗門・塩屋町」である。
古町と新町の関係は番太日記(髭爺日記)にも見えるように、「扨毎ハ新町ばかりにてハれんそくすることなし、又古町ばかりにて扨毎はとゝのハす、宝暦之比新町より古町に申遣す」関係である。「新町・古町贈答の哥」なども残されており、商人が仲良く又競い合っていた様子が伺える。
白川河岸の下河原では上・下の定芝居が設けられた。又罪人の仕置き場もこの場所であり火刑も行われた。
対岸の迎町・宝町などは、山崎の武家屋敷が手狭になったため町人町をこの場所に移転させた事に始まる。
絵図の北東部分が城内である。北東角が新一丁目御門、ここから法華坂を登り二の丸に至って西大手門へと続く。
東南に蛇行する川が坪井川、西を流れるのが井芹川、合流する所に細川家の菩提寺・妙解寺がある。
坪井川の東に掛かるのが船場橋、南に新三丁目御門がある。絵図の中央からやや左下にあるのが高麗門である。
侍屋敷と商人の町屋が混在する賑やかな町であった。
右上ブロック 藪図書下屋敷・小坂大八下屋敷・有吉清助下屋敷・小笠原一学・松崎宇平次・古原信太郎
右中ブロック 曽我浅之助・清田直借置・佐分利加左衛門・宮部瑣七郎・辛島多喜次・松井直記下屋敷・堀尉左衛門・石川内右衛門・鹿子木弥左衛門・朽木内匠
右下ブロック 井上儀左衛門・三淵大膳下屋敷・佐分利平次郎・松井直記下屋敷・牛島市郎左衛門・
朽木内匠下屋敷・松村多村・梶原小四郎・細川若狭守(宇土藩主)
西山大衛・岡田市右衛門・沢村吉之允・緒方平三郎・戸島次郎助・中根左太下屋敷・緒方助十郎・櫨方用屋敷
左上ブロック 木下嘉納 長岡和泉下屋敷・長岡中務下屋敷
正教寺・掃除方用屋敷・町牢・沼田勘解由下屋敷・松田傳右衛門・手島惣右衛門
左中ブロック 長光寺・井口呈助・柏原弥左衛門・高田幸之助・正妙寺
佐藤七之助・津田平七郎・沢村儀右衛門・荻忠右衛門
左下ブロック 順徳寺・大塚平太郎・伊藤新左衛門・三淵大膳下屋敷・藪図書下屋敷・朽木内匠・寺井惣左衛門・野之村広之助
浦上源兵衛・荻吉九郎・小篠彦右衛門・大石震之助
高麗門外 熊谷忠右衛門・吉住半右衛門・西川十郎右衛門・沢村八之進・長国寺・禅定寺・正立寺・三淵大膳下屋敷・妙立寺・桜間惣左衛門
智雄院・安国寺・妙解寺・臨流庵
ご厚誼いただいている国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏先生から、新刊のご恵贈を賜った。厚く御礼申し上げる。
昨27年は大阪城落城400年にあたり、時を得ていろいろな「稗史」に光をあてて上梓のご意向を伺っていた。
熊本藩家老有吉家の霊樹院さまは秀頼公のご息女だという伝承が残されている。このことにも興味を持たれて筆を進められて、その成果が第二章にまとめられている。誠にささやかな、お手伝いとはいいがたいお手伝いをしたが、このような立派な刊本をご恵贈を賜り感無量である。
以下発行元・岩波書店のサイトから内容その他をご紹介するが、諸兄のご一読をお願い申し上げる。
内容紹介
大坂落城の後、豊臣秀頼とその一族は九州に落ちのびたという伝承が、まことしやかに囁かれた。果たして豊臣家は本当に滅んだのか。大坂の陣を、徳川による大義名分のいくさと位置づける「正史」との緊張関係のもと、敗者たちの視点に立った、多彩な「稗史」が創られ続けた。その生成の実態に歴史学からのアプローチを試みる。
目次
序章 大坂落城—敗者たちのその後
第1章 大野主馬治房の逃亡と一類の摘発(消えた大野主馬治房
『箕浦誓願寺記』から見た大野主馬妻子の摘発
大野主馬穿鑿と妻子の摘発
大野主馬妻子潜伏の謎)
第2章 豊臣国松と霊樹院—豊臣秀頼一類の九州方面逃亡(豊後国日出藩木下家と豊臣国松伝承
熊本藩細川家家老有吉家と秀頼息女霊樹院伝承)
第3章 大坂落城の記憶と慰霊(徳川方戦死者の慰霊と供養
大坂方戦死者の慰霊と供養)
第4章 大坂落城の記憶とその変容—稗史「大坂落城異聞」の成立(大坂落城の慰霊と儀礼の変容
浄瑠璃・歌舞伎大坂落城物の成立—甦る大坂落城後の豊臣主従
稗史「大坂落城異聞」の系譜と成立)
結語 甦る敗者たち—正史と稗史の棲み分け
絵図の下方が熊本城。二の丸を抜けて新堀橋から京町台へ入り、氏家甚左衛門の屋敷を迂回して北へ進むのが豊前街道である。氏家甚左衛門屋敷裏手からそのまま東へ進むと観音坂、こちらは豊後街道へ至る。二つの街道の出口である。
氏家家の屋敷跡は後錦山神社(加藤神社)となったが、屋敷を通り抜ける道が出来京町の町屋筋の道路に一直線に繋がって国道三号線となった。
京町の出口には勢屯をはさんで家老職有吉家の下屋敷と澤村家の屋敷があり、その他有力家臣の家が甍をつらねた。
往生院裏 内藤平左衛門・沢村数衛 光永寺南 小山一太郎 出京町東側 田中九郎兵衛・香山角之助・中山金右衛門・小笠原美濃下屋敷・富田典太
東側ブロック
■有吉将監下屋敷
■ 遠坂関内・藤懸喜八郎・額田権次・荒瀬市之助・加々尾市太・佐々布左門
■富田十郎右衛門・小代五郎右衛門・奥田快・芳沢黙平・沢村数衛・財津権右衛門・吉弘加左衛門・安井準左衛門・高野文之助・林清次郎・白木大右衛門・藤原隆平・
原田小平・ ■藤掛新七郎
■筑紫弥一右衛門・牧多門助・都甲佐平・中原佐兵衛・藤本十右衛門・木下信十郎・香山角右衛門・林権之助・城十右衛門・松本助左衛門・首藤十次郎・池永喜三右衛門
■原田九郎助・山崎平之助・安藤敬之丞・平野三郎兵衛・梅原丹七・中津海仁右衛門・平野専右衛門・小川源左衛門・中村九右衛門・松野孫三郎
■松野孫三郎・河喜多助三郎・早川助作・阿蘇大宮司・大里隼之助・荒木善左衛門・加賀山太郎兵衛・平野英兵衛・平野右衛門・浜治寿平・不破太直
■佛厳寺・坂巻栄之允・岩佐善左衛門
■服部武兵衛・森本儀十郎・古賀宗貞・岩崎貞衛・伊藤十助・魚住助左衛門・山田郷之助・遠藤元俊
■牧野安之進・芦村嘉左衛門・松田九郎助
■仙勝院・和田権五郎・匂坂平右衛門
■安東弥太郎・松村十之進・瀬戸熊助・観音堂
■氏家甚左衛門・桑木又助・田中典儀・星野四郎左衛門・奥村少兵衛・吉弘貞之允・小崎十郎左衛門・横田吉次左衛門・吉村嘉善太
西側ブロック
■沢村数衛・手島荒五郎・岩瀬猶太郎・横田利兵衛
■中村進士・藤本志津馬・荒木甚四郎・猿木勘左衛門・磯谷太左衛門・村松藤八・松原五左衛門・永谷猪兵衛・菅七之助・松尾市八
■藤本学之助・上田新兵衛・垂水嘉平太・田屋治部左衛門・横井五左衛門・木原繁左衛門・小野伝丞・宇野孫太郎・永良弥角・大河原儀右衛門・狩野角左衛門・
瀬崎猪(一)郎
■渡辺作之允・遠山彦助・池辺悰右衛門・須佐美半之助・内藤庄十郎・薮田八郎左衛門・木下織部下屋敷・松岡左一右衛門・下河辺次郎太郎
(西側出張部分)
■吉田作助・中村郡助・藤崎弥右衛門 魚住武兵衛・国武大之丞・松浦治右衛門 船津東平・宮脇儀兵衛・池辺軍次・堀田権十郎・鯛瀬十左衛門
林常之允・堀田市衛・宇野甚太郎・松野孫三郎・山野平八郎・平野萬之助
吉田鳩太郎・山内佐左衛門・蒲池喜左衛門・寺尾九郎左衛門・志賀何右衛門・安野藤作・平野直太郎・平野角左衛門
平野太郎四郎・真鍋重左衛門・吉田少右衛門・郡夷則下屋敷
(中央通り西側)
■津田平助・村松尉助・築山与左衛門・三宅藤左衛門・澤村衛士添屋敷・原田十次郎
■飯銅左門・益田才右衛門・佐分利彦右衛門・一宮儀兵衛・笠喜左衛門・米田勘十郎・緒方勘右衛門・門池三七郎・朽木太郎右衛門・新居七左衛門・三宅藤右衛門下屋敷
■沢村数衛下屋敷・中路新左衛門・松岡喜兵衛・三宅藤右衛門下屋敷・釈将寺・河内山京助・河田儀右衛門・森田啓八・田屋慎右衛門・守本四郎右衛門・藤本忠次郎
(二丁目町屋裏)
■友田源之助・安田新次郎・沢村数衛下屋敷・野上文吾
■加藤元之助・田中半隋・田辺平太郎・西方寺・円光寺・米田甚右衛門借置
■宇野武一郎・浦津右衛門・板垣三郎助・狩野源内・藤掛秀雄・内藤守礼・塩山牛右衛門・池辺平太郎・内山又助・向台寺
(南西角)■吉見九郎四郎・前原大九郎・佐々半十郎・山形典十郎・源水玄門・佐藤作馬・小野呈左衛門・大里八郎次・片野安左衛門・安田市助・下津縫殿・愛染院
一、藤右衛門様御妹子様御一所に御座候 唐津にて陰山源
左衛門様ト申仁に五百石御越被成 源左衛門様ヘハ島子ニ而御働
宜敷 其後原之城夜討之節 藤右衛門様御働之場ニ而御討
死被成候 御家来高添作左衛門ト申者 於島子働宜敷敵を鑓
付候 鑓を持富岡に御供仕帰申候様子 祖母并一提能見候而
折々物語仕候 其後御妹子様御当国ニ御越被成 六ヶ村之中
ニ御在宅被成 右作左衛門御供ニ而罷越 御奉公仕 御死去被
成候御跡迄六ヶ村に居申候 法躰仕 浄蓮と名を改申候
悴高添角左衛門と申候 御当地にハ越不申 本国唐津
ニ居申候 浄連老病ニ而果申候處 六ヶ村へ罷越 浄連死
後之萬事の埒を相究 唐津へ帰り申候 近年傳へ
を以承り候得者 唐津横町と申ニ職人に罷成候而居申候
子供二人御座候 何レも武家へ奉公仕居申候由 此子共ハ浄
連ゟ五代に而可有御座候 浄連六ヶ村にて勤方宜敷
委細ハ事永ク御座候ニ付省略仕候 御妹子様被成御死去
候而 同村之中 権兵衛様百姓屋敷内ニ而四五間程之地
を自分仕置候 田開一畝程ニ替へ候而御墓を築 廻り
を不囲垣に仕候 御印に梅木を植置申候 此方の御知行庄
屋喜次左衛門屋敷中にも立福寺と申 小き阿弥陀堂御
座候 御菩提之ためと申候而 御堂ニ上置候而 田開少し付
置申候 三十三年之御法事料をも御寺に上置候而 病死
仕候 惣躰一生之様を当世の忠義之臣と申候而可有御
座候 御妹子様へ御男子御壱人御早世 御女子御壱人被成
御座候 松野四郎太夫様御祖父松野善右衛門様へ御越被成候
一、故新兵衛様御家来橋本惣右衛門ト申者 本戸ニ御供仕
能付添申敵を鑓付 血之付候鑓を富岡に持参仕候を 一提
も見申候 原之城夜討之節 能付添働申候由 此もの男無
御座 女子一人御座候に婿を取 鎌田喜近右衛門と申候 九
郎兵衛様御代迄相勤病死仕候 此者男子御座候得共
生付不調法にて妻をも持不申 中年廻り候而病死仕候
喜近右衛門娘も一人御座候 仙石被縁付仕候 此子孫御座候哉
承り不申候
一、同御家来城戸半四郎と申者も 御場所ニ而能付添
相働申候由ニ御座候 以上
右者 一提折節物語仕候中 荒増承覚申候通書記
置申候 以上
三宅藤兵衛家司先祖之由
元文四年五月 吉浦郷右衛門
季行(花押)
奈良文化財研究所と 東京大学史料編纂所の共同開発で、 解析:木簡・くずし字解読システムの運用が25日から(?)始まった。
一字分の文字画像をドラッグすると、たちまち解析してくれるという優れものだ。
少々意地悪だとは思ったが、の文字をドラッグしてみた。これは熊本独特の文字で、やはり反応してくれない。(御免なさい)
しかしこのシステムは大変有難い。今後多いに御世話に成る事と思う。
皆様も多いに活用下さい。
「東京の中のくまもと」は県の広報課、「熊本遺産物語」は県の文化企画・世界遺産推進課の作成によるものである。
前者は23頁、後者は104頁に及ぶ立派なもので、こういう企画は今迄見られなかったもので驚かされている。
熊本は今日は県知事選挙、現知事・元熊本市長・新人の三巴である。歩いて五分ばかりの所にある小学校が投票所、朝食後出かけて投票をすます。
あまり出足が良くなさそう、現職有利の報道が成されており、報道のあり様も如何かと感じる。
小学校の南側の道路添いには桜の木が植えられており、足をのばしてまだ三分咲きほどの花を鑑賞・・・・
二三日少し気温がさがり、花の命も永らえそうで結構なことではある。
一、唐津ゟ一里程の所ニ高崎と申嶋の上ニ天狗下り居候由
唐津ヘハ注進有之候ニ付 侍衆上下共 各馬上又ハ歩行ニ
て馳付 礒部より見被申候ヘハ いかにも繪にかきしことくの
姿故 いつれも驚見候處ニ 中江新右衛門殿と申仁馬上に鉄
炮を提馳付被申 馬ゟ飛下り 波打際ニてヒザ臺ニて天狗の
たヽ中を打被申候付 岩ゟ下ニ轉ひ落候を 漁船を乗付 取上ケ
被申候得者 古き大猿を鷲取候得共 猿達者故心侭に難成
互ニ組合居申候ニ付 遠方ゟ見分かたく 右之通ニ御座候由
又 此仁有時 自分門前ニ立居申候處ニ 筑前ゟ唐津へ必多
度参り候馬口労 兼々腕立を仕 朱鞘の長キ刀ナを指廻り
其節門前間近く通り候を 新左衛門殿つばきを態トはき
被申候を 右之通咎り喧嘩ニ及 互ニ抜合 新左衛門殿ハ大脇差
ニて切合被申候中ニ 踏すべり 横ニ成なから拂切ニ切倒し
被申 右横ニなり被申候處を 彼者拝打ニ仕候處ニ 能き練
り之印籠を提被申ニ切付 身ニ当り不申候 新左衛門殿親
父ハ疋田文五郎弟子ニて 無隠兵法の上手ニて御座候由
新左衛門殿事ハ唐津崩し以後 京極若狭守様へ千石ニ而
被召抱候
一、天草一揆之時分 唐津御一老岡崎次郎兵衛と申仁 高
六千石 此人好者ニ而御座候 様子ハ何某と被申者小身
なる侍 兼て次郎兵衛殿と不和ニ而御座候 此仁武勇の
覚有之仁ニて御座候得共 不宜仁ニて常々過言被申候と 自
身も次郎兵衛と不快ニ付 身上無事ニ者通間敷 御暇抔との被
仰渡候ハヽ 偏ニ次郎兵衛之所意と存ルニ付 其座ゟ直ニ次郎兵
衛屋敷ニ踏込 存分を遂可申と被申廻候を 次郎兵衛殿被
承付 いつとなく手ニ付 懇意ニ被仕候得者 本ゟ浅智なる仁ニ
て 前々の悪口とハ違 殊之外懇意ニて 其後ハ次郎兵衛殿
ならでハと被申廻 何そ之節ハ家来同前ニ勝手ニ相詰 昼
夜入込居被申 次郎兵衛殿取成ニて地行の加増をも被下候上ニ而
御前散々悪敷申上 一御暇被遣候 其節自分ニ者不存驚
被申候振ニて 家来数多屋敷/\遣 道具片付させ 他國へ立
退被申 路銀等合力被仕 夢々不存風情ニて 唐津拂除
ケ被申候 此仁覚有之仁ニて 無程上方ニて身上有付被
申候得者 其所ニ飛脚を立て音物等被仕 以来迄疎意無
之風情ニ被仕 ケ様之奸計なる仁ニて御座候故 武冥加
ニつくし被申候様子ハ 男子三人御座候處ニ 一揆乱之節
壱人も用ニ立不申候 嫡子次郎左衛門殿別知三千石 番頭
ニ而本戸ニ向被申候處ニ 敵の時之聲を聞被申候と 其侭
遁被申 富岡へも引取得不申 直ニ長崎へ立退被申候 二男
七郎左衛門殿弐千石 是も其節何之用ニも立不申 三男
兵左衛門殿ハ 江戸ゟ兵庫頭様御供ニ而罷下候途中ニても
段々舎兄両人之臆病之沙汰追々ニ承り被申 無念之事ニ
被存 責て自身壱人なり共何様可被仕との存念ニ而 原之
城ニ被向候處 落城の節人並ニ出立被申候得共 眼くらミ
腰立不申ニ付 何之働も成不申 家来ニ被申候者無是
非仕合ニ候 此上者其方共平生懇意ニ召仕候 情ニ者自分
を何卒敵の手に懸け呉候様ニとの事ニ付 此仁平生情有
仁ニて 家来を能被召仕候ニ付 家来とも得其意 精を出し被
圍ミ本丸際迄押詰申候 其間余り鉄炮 しけく 家来共
進兼候節ハ 自分者腰立深手ニ当り 其時安堵致され 最
早是迄ニ候間 御本陳へ連参り候様ニとの事ニ而御座候間
御前へ被罷出何之御用ニも相立不申 無是非仕合之段被申
上 無程相果被申候 臆病ハ心の外の物ニ御座候成との由
一提常々物語仕候 右手負被申以前ハ 言葉も分り兼候
得共 手負被申候以後ハ 本性に成り言葉も慥ニ御座候由 右
之通り親父次郎兵衛殿邪智深く 正道に無之仁にて有之
候故にや 子共衆如此ニ御座候哉と一提折々物語仕候
慶應二年小倉藩は第二次征長戦争の戦場と化した。幕命により熊本藩も出陣し高杉晋作率いる長州軍に大打撃を与えたりしている。
その後熊本藩は撤退、小倉藩は小倉城を自焼させるなど抗戦したが、幼い当主豊千代君は逃避を余儀なくされ、熊本藩領へと入った。
大浪和弥氏の論考「小倉落人と肥後藩・小倉落人に関する基礎的研究」によると、8月2日には豊千代一行の肥後入国が長岡監物から藩庁へ報告されている。出発が何日であったのか定かではないが、一行は12日阿蘇内牧御茶屋に到着している。ここで3ヶ月半ほどをすごし、11月28日熊本城下に入り坪井の伊勢屋に到着した。つい最近絵図を詳しく見ていたところ、図示する処に「いせや惣四郎」の表示を発見、一部資料では「八百屋町」ともあるので、間違いないと思われる。当時は広丁のどんずまりに当たる場所だが、現在は上熊本方面に抜ける幹線道路である。つまり「いせや」の場所は現在ではその道路の中ということになる。
豊千代さま御年4歳、この宿屋に慶應3年4月頃まで滞在された。後の小笠原忠忱公である。
小倉藩からの落人=避難民は5,640人に上ったと大浪氏は指摘されている。小倉藩小笠原家にとっては屈辱の時であった。
改ためて御宿「いせや」の場所を考えると、花畑邸も近くまた熊本城も望まれる場所であり、密かな交流もあったのではないかと想像するが如何であろうか。