すでに諸兄に於かれてはご存じの時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ」という誠に便利なソフトがある。
例えば熊本市内に於いては1900年(明治33年)以降の九種類の地図を、2面表示または4面表示で見ることができるから、古い道筋や街並みの移り変わりを確認するには大変重宝する。
この地図で、旧街道の道筋を辿ったりしていると、色々思いがけない発見があって興味は尽きない。
熊本城下町地図で、新町や京町台から本妙寺田畑をへて牧崎あたりへ至る道筋が現在のどの道なのかがなかなか理解できないが、1900年の地図を見ると大方の見当はつく。
ご厚誼をいただいている「サイト・徒然なか話」さんの昨日の記事「京町台から見た金峰山」と晩夏に、甲斐青萍の絵が紹介されていたが、青萍はどこの場所からこの懐かしい風景を描いたのだろうかと想像するのも面白い。
古い城下町の写真を見ると、今は伺うことのできない「杉塘」の名の由来となった杉並木の道なども1900年の地図では伺うことができる。
昨日は多忙を極めて家に帰ったらへとへとになってしまったが、夕食後はこの「今昔マップ」でのんびりと過ごさせていただいた。感謝。
平凡社の日本歴史地名体系(地名辞典)「熊本県の地名」で「山崎喰違丁」を調べても、索引には出てこない。
「宝永四(1704)亥年三月五日夜八ッ時分より熊本山崎喰違丁角住江専右衛門屋敷長屋出火右屋敷其節原田彦右衛門借宅」という火事が起こっており、過去に「■宝永四年山崎町の火事-焼けだし」でご紹介した。
ここでご紹介している地図は、「明治初期熊本町名」というものだが、ここにははっきり「山崎喰違丁」(朱線表示)が示されている。
さてこの地区は最近■我が家検索リスト、再・「山崎」-1以降数回にわたりご紹介してきたが、火元の住江仙右衛門屋敷の表示はないかと調べてみたが、見受けられない。「住江」で検索しても見受けられなかった。
火災の火元ということで、転居を余儀なくされたのであろうか。
住江氏の本家筋はもともとの屋敷は二の丸にあり、二の丸から旧・法華坂に至るところに「住之江門」の名前が残り、美術館のあたりに屋敷があった。
山崎喰違丁の山崎家は分家だったようだが、この火事が原因とも思われないが専(仙)右衛門の次の時代で絶家しているように思われる。
この「山崎喰違丁」SAKURA MACHI Kumamoto 建設により道筋自体がなくなってしまったようだが、先に記した「地名辞典」及び、熊本地名研究会編著「熊本の消えた地名」にも登場しないのは残念である。
山崎地区については、過去に「■「明暦前後」地図散歩」■発見「明暦前後」の桜町周辺絵図「我が家検索リスト・2(68-2 熊本所分絵図 山崎之絵図)」そして過日「再・山崎ー1」をご紹介したから都合5回目である。
朱の点線で示したのは過去の道の状況だが花畑邸の正面及び南側が大幅に広げられた。
その為に数件分の屋敷がその形状の変更を余儀なくされた。その他の道筋は全く変更されていない。
宝暦の頃のものである。
①現在の市民会館あたり
沢村宇右衛門尉屋敷は御作事所に代わっている。その他屋敷は、高瀬新十郎宅のみである。
②神西長右衛門尉の屋敷が引き続き残り、新たに山川兵左衛門・道家金吾が入った。
③11軒あった屋敷は9軒に区割りが変わり、すべて入れ替わった。右回りに
藤崎源太夫及び添屋敷・八木市郎左衛門・中嶋九郎左衛門・永良助之允・青地久左衛門・二宮万三郎・小島八之允・田中庄右衛門
④茶道・古市宗左屋敷は子の古市宗円屋敷となり、その他は福田善太夫・中瀬助之進・山中彦十郎・林藤蔵・小川兵太夫とそれぞれ入れ替わって入った。
⑤この区画もすべて入れ替わり、不破権右衛門・佐方宇小右衛門・永屋猪兵衛・吉富伊兵衛四軒となった。
⑥この区画では弓削五兵衛宅が弓削五郎次宅になり、清田左近右衛門宅が清田甚右衛門、大塚左次右衛門宅が大塚甚蔵宅となり、その他辛川孫之允・高橋喜左衛門・下村源兵衛・元田万平・池田佐五右衛門・坂根少九郎・横山九十郎が移り住んだ。
⑦西北角の岡田甚五左衛門尉屋敷が岡田久左衛門屋敷となったほかはすべて入れ替わり、千葉作兵衛・釘沢専太夫・内藤左五右衛門・富田小左衛門・高橋弥次兵衛・竹原清太夫らの居宅となった。
⑧花畑邸の南側の路地が大きく拡幅されたため、この区画はその影響により五軒あった宅地は集約されて、一族の長岡隼人(宜紀7男‐刑部家6代興彰)の邸宅となった。
⑨可児清右衛門・山田丹太夫・原田丹蔵・多羅尾市允・金森左五右衛門・吉海市之允
⑩嵯峨五郎右衛門・岩間三右衛門・高本玄碩・上田儀三太・小川元淳・伊藤長左衛門・岩崎武兵衛・成瀬治部左衛門・吉田才兵衛・的場勘平・相良又左衛門
⑪大洞弥一兵衛・熊谷市右衛門・辛川伝五郎・武田一次・村松長右衛門・加々美又兵衛・河田八右衛門・原田金兵衛・続庄右衛門・松野権右衛門
⑫7区画あった屋敷地は4区画となり、小笠原斎及び添屋敷が大部分を占め、安場五太夫屋敷と他は御用屋敷となった。
⑬すべて入れ替え、松本喜十郎・水野幸右衛門借置・元田尉太夫・吉田嘉左衛門・佐方伊右衛門・萱嶋彦兵衛6家となった。
⑭内藤彦太夫屋敷は内藤長十郎に替り、その他は谷貞次郎・寺本兵右衛門・伊藤角右衛門・木造源右衛門・魚住左伝次・不破新右衛門・金森三左衛門・磯谷源右衛門が入った。
⑮本庄伝兵衛・佐野左太夫・西沢太郎右衛門・長谷川七兵衛・渡辺武伝・脇山安太夫・杉本只之允・木野庄左衛門・平野太郎四郎等に入れ替わった。
⑯この地区もすべて入れ替わり、奥田安之允・辛川九兵衛・志水新兵衛・平川甚之允・神足兵左衛門・田屋尉左衛門が入った。
⑰松井家関係の屋敷がまとめられ松井典礼下屋敷となり、中山勘左衛門・和田文八郎屋敷が並ぶ。
⑱菅野宗斎・佐々牛右衛門・杉村角太夫・高見次左衛門・浅香一郎左衛門・田辺孫太夫・中山左太夫・佐田新兵衛及び添屋敷・田中長太郎借置など入れ替わった。
⑲南東角の大きな屋敷・河方半四郎跡には河方安右衛門が入り、他は伊藤権左衛門・井口庄左衛門と添屋敷・郷村宗珠・松崎市之允・成田源兵衛・星野左太夫・嶋田郷右衛門などが入った。
⑳すべて新しく境野又之允・速水儀兵衛・木村清兵衛・宮脇次右衛門・小島伊左衛門・山尾善兵衛が入った。
㉑は寺町である。玄覚寺に加え正法院が存在している。
㉒小林久左衛門跡に小林次兵衛が入り、その他松江文右衛門・中山左次右衛門・益田源之進・□□武左衛門屋敷が並ぶ。
㉓斎藤勘助屋敷はそのまま残り、その他は曽根兵助・宮村武左衛門・栗野平次・中山左助借置・岩尾嘉右衛門・□□右兵衛・福田杢平次・可児清蔵・氏家大喜とすべて入れ替わった。
㉔清田主馬の大きな屋敷跡には島権十郎が入り、その他林兵助・小島伊右衛門・宮脇次右衛門が入った。
㉕かっての出田作左衛門屋敷に平野新兵衛が入り、その他沢村弥平次・上野喜三右衛門・蟹江七太夫が入った。
㉖以前は足利道鑑嫡子の尾池(西山)傳右衛門の屋敷であったが、木村弁次屋敷となった。
2023年の2月1日に■城下町図掲載のリクエストを書き、11月15日には■城下町図掲載のリクエスト・・その後を書いていながら、
その後すっかりご無沙汰していて、「これはいかん」と遅まきながら再開しようと思う。
まずは、「28、山崎之絵図」から取り上げたい。2012年に「我が家検索リスト・2」としてご紹介した地区である。
今回から町の区画に番号をふり、その区画にあるお宅の名前をご紹介して判りやすいようにしてみたものの、スキャンの状態が悪く
名前の判読が難しいかもしれない。
①現在の市民会館あたり、坪井川の御幸橋(藩政時代の下馬橋)から、桜橋に至る間の区画である。
天神が後につくられた桜橋際に存在するが、現在ではその位置は市民会館裏手に動いている。
・沢村宇右衛門尉、(熊本市民会館・山崎八幡ETC)
・八木慶閑、上田忠左衛門尉 (NTTビル)
②市民会館南の道路が坪井川沿いに走る東側の区画である。
・西村角左衛門尉、神西長右衛門尉、八木角左衛門尉
③同上東側の区画、西側はサクラマチクマモト・ビル
・(北側)細川刑部殿(長岡左京亮)下屋敷、奥山次郎右衛門尉、岡部庄之助、武村貞悦、山瀬検校
・(南側)野入角之進、大竹与三左衛門、堺野庄右衛門、鈴木伝兵衛、富田惣兵衛、松山次郎太夫(後家)
④花畑公園前NTTビルのある一画、西側はサクラマチクマモト・ビル
・(北側)黒田半之允、古市宗佐、落合勘兵衛
・(南側)洞院弥三右衛門尉、的場勘平、平野茂兵衛
⑤サクラマチクマモト・ビル西側裏手
・長谷川弥兵衛、伊藤権之允、清田石見下屋敷(南側道向こう⑨に同下屋敷あり)
⑥サクラマチクマモト・ビル
・(北側)弓削五郎兵衛、道家弥次右衛門尉、不破五郎右衛門尉、川方益庵、清田左近右衛門尉
・(南側)村山傳左衛門尉、大塚左次右衛門尉、福田権兵衛、杉村喜左衛門尉、吉田加左衛門尉
⑦サクラマチクマモト・ビル
・(北側)遠藤玄旦、辛川忠助、熊谷左次右衛門尉、内海源之允、豊岡理助、荒木彦太夫
・(南側)岡田甚五左衛門尉、磯谷惣左衛門尉、井関与右衛門尉、原田新之丞
⑧花畑公園東の有料駐車場
・柏原新左衛門尉、同下屋敷、永井安太夫、田中左太夫、堀平助
⑨熊本市電北側・桜町南西角
・清田石見下屋敷(北側道向こう④に同下屋敷あり)、奥村安太夫、同下屋敷及び足屋敷、郡勘右衛門尉
⑩サクラマチクマモト・ビル南側、熊本市電北側
・(北側)桑木弥右衛門尉、宮部加右衛門尉、長谷川忠右衛門尉、原田十兵衛、安藤山三郎
・(南側)沢村武兵衛、武村治兵衛、井上武左衛門尉、野田小三郎、芦田次兵衛、岡山茂兵衛
⑪サクラマチクマモト・ビル南側、熊本市電北側
・(北側)新井十郎左衛門尉、木村九兵衛、清田角左衛門尉、牧八郎右衛門尉、荒瀬角兵衛
・(南側)岩崎孫之進、宮崎伝四郎、林勘左衛門尉、出田作庵、佐方傳左衛門尉、荒瀬市之允
⑫サクラマチ広場・熊本市電北側、同西側角
・竹田市太夫、上田久兵衛、神足少五郎、宇野弥次兵衛、西沢伝兵衛、伴左源太、浦田十右衛門
⑬熊本市電南側、船場橋寄り
・竹原少太夫、岡本市允、佐川義太夫、東條牛之助、長岡九郎兵衛下屋敷、岩佐新九郎
⑭熊本市電南側、西辛島町前
・(北側)内藤彦太夫、高本慶宅、白井次右衛門尉、木野左兵衛
・細川刑部少輔下屋敷
・(南側)前川彦左衛門尉、前川与三兵衛、水間十右衛門、津田茂左衛門
⑮練兵町(北面・西面熊本市電)
・(北側)里兵四郎、角田団四郎、小林吉兵衛、加藤新兵衛、高見権之助
・(南側)脇坂五郎右衛門尉、仲光右衛門尉、上村甚五左衛門尉、上野四郎太夫
⑯練兵町(肥後銀行)
・(北側)和気文左衛門尉、辛川文太夫、出田七太夫
・(南側)大塚甚右衛門尉、安場五太夫、本庄四郎兵衛
⑰船場町
・宇野孫右衛門、長岡左京亮下屋敷、細川刑部少輔下屋敷、矢野勘介、永坂三郎右衛門尉
⑱練兵町
・(北側)森五郎左衛門尉、末藤新右衛門、宇川伝左衛門尉、鯛瀬安兵衛、渡辺角兵衛、曽根八左衛門尉、三浦弥五左衛門尉
・(南側)牧野喜右衛門尉、宮川加兵衛、中路新右衛門尉、久野又右衛門尉、成田十左衛門尉
⑲練兵町
(北側)津田茂左衛門、山田久丞、門川三丞、河方半四郎
(南側)不破十丞、高見少五郎、門川新五左衛門尉、新井十郎左衛門尉
⑳練兵町(肥後銀行)
・(北側)花房吉右衛門尉、宮崎五郎兵衛、蒲田源左衛門尉、高島権兵衛
・(南側)平野清兵衛、道家角左衛門尉
㉑船場町‐上鍛冶屋町
・玄覚寺
㉒山崎町(慶徳小学校)
・星野左太夫、小林久左衛門、中山左次右衛門尉、太田小右衛門尉、古屋孫左衛門尉
㉓山崎町(RKK熊本放送周辺)
・(西側)細川刑部少輔下屋敷、岩田権右衛門、吉田快庵
・(北側)岩崎長兵衛、志方十兵衛、斎藤勘助下屋敷、道家玄徳
・(南側)可児兵三郎、栖本又七、斎藤勘助
㉔山崎町(日本銀行)
・清田主馬、蒲田源太夫 上村理右衛門尉、曽我三郎兵衛、牧貞右衛門尉
㉕山崎町‐通町
・出田作左衛門、同下屋敷、梅原兵三郎より上り
㉖紺屋今町(日本銀行南側)
・尾池伝右衛門
近々■我が家検索リスト、再・「山崎」-1をご紹介すべく準備をしている。
そんな中、紺屋今町(日本銀国南側)に尾池伝右衛門の屋敷があることに気づいた。
先に■足利道鑑の子・相場彌左衛門、正保弐年二月十一日病死仕を書いた際ご紹介したが、13代足利将軍・義輝の子が道鑑(義辰)、
その嫡子が西山伝右衛門至之(左京)であり、尾池伝右衛門その人である。
今まで、かなり地図帳を眺めてきたつもりだが、今回一人ひとりの名前をチェックしたことから発見できた。
場所は日本銀行の南ブロックのやや三角形の場所だが、町名は紺屋今町である。
当時は白川に面し、大きく広がる対岸の景色は素晴らしかったと思われる。
伝右衛門はのちに、父道鑑や弟・勘十郎と共に京に上っているが、このようなところで肥後での生活をしていた。
11月の史談会例会に、山鹿市にお住いで(財)中央義士会の理事をされているM様のご出席をいただいていた。
名刺交換をした後、ぜひ当会で赤穂義士に関わる講演をお願いしたところだった。
昨日、「切絵図・現代図であるく江戸東京散歩」を眺めていたら、巻末に近いところに「古地図で楽しむ忠臣蔵の世界」が4頁にわたり掲載されていたので見入ってしまった。
私は中央義士会監修・発行の「赤穂義士の引揚げ」という書籍を持っているが、引っ越し以来、行方知れずのこの本をおおごとして捜索、ようやく見つけ出して久しぶりに拝見したという次第である。これも大変詳しく凱旋のルートが紹介されている。
頁をめくっていたら、「刊行に寄せて」に、先の山鹿のMさまが「山鹿も勉強します」という一文を乗せられていてビックリしてしまった。
山鹿は「堀内傳右衛門覚書」を著した堀内傳右衛門が、義士の遺髪を収めた日輪寺があるところであり、お話によると熱心な会員の方々が集まられて顕彰に励まれているとお聞きした。
付けたし
赤穂浪士はこと成就して泉岳寺へ向かう途中、旧浅野家藩邸(現・聖路加病院一部)近くを通ったと認識していたが、どうやらこれは私の間違いで、当時あった「軽子橋」は廃橋となっており、これを渡った後対岸から旧藩邸を拝んだというのが正解らしい。直進すると築地本願寺である。
知らない土地ながらも、地図散歩はなかなか楽しい。
今年の2月初め■城下町図掲載のリクエストを書いた。
現在当ブログでご紹介している「熊本城下町図(安政比)」以外の絵図に掲載されている肥後藩士宅のリストの作成についてのリクエストであった。
9ヶ月を経過したが遅々として進まない。
少々考えすぎて「細川藩家臣略歴(川口恭子氏編)」に連動させようと思ったのがいけなかった。
つまり、諸家の場所の掲載がある頁を「肥後細川藩侍帳(津々堂版)」に記載したいとの思いがあってのことだが、これをやり始めると、まさにその侍帳を作る時と同じような作業が必要になる。
爺様はすっかり音を上げてしまった。約束は約束だ、辞めるわけにはいかない。
さあどうしようと思ったら、手が止り半年ほどが過ぎてしまった。・・・・・・・・まずい、大いにまずい・・・・・・・・・
平成28年11月熊本史談会例会で「熊本城下を古地図で散歩する」として、資料として配布したのがこの写真だが、このブログ内で「我が家検索リスト」でご紹介したように、掲載ページごとにしたら「簡単じゃん・・」と、少々手抜きすることにした。
約束したことは何とか完了させなければならないが、私には年齢というどうしようもないハードルがあるから、これを越すには手抜きも仕方あるまいと思い付いたら気が軽くなった。
その内に1頁毎、リストをこのブログに掲載しようと思っている。
まだ太陽は上がらないが今朝は誠に爽やかな気分である。
徳富健次郎著「竹崎順子」を未だ読了できていないが、まだ連鎖がつづいている。
順子の夫・竹崎茶堂(律次郎)は、熊本県の実学党政権崩壊後、官職を離れ本山に教育塾「日新堂」を開いた。
まこと
「大学」にある「苟日新、日日新、又日新(苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)」から名付けられた。
茶堂の沸々とした気持ちの高まりを知るような思いがする。ここから実学党の著名な門下生が誕生した。
さてその「日新堂」があった場所だが、その場所がどこなのか私は良く承知していない。
標識などで周知されているのだろうか?高田泰史編著「平成肥後国誌(下巻・365上段)」の記事によると、本山町631番地と有る。
又、同記事の前に在る「本山御殿跡」の項には、「産物方頭取の石光氏、太田黒惟信、竹崎茶堂、嘉悦氏房などの実学派の人々が集って住んでいた」と記されている。
石光真清の「城下町の人々」を読むと、「藩公から頂戴した御殿跡に居を構えて」とあり、その住所は「本山町南御殿跡674」と記されている。
そもそも濱町様(齊茲)の「本山御殿」の範囲がよく判らないが、「熊本所分絵図 68‐12 飽田・託麻之内屋敷図」にある広大な「柏原要人屋敷と御居間床とある部分」であろうと考えていたが、そうだとすると、石光真清邸跡も竹崎茶堂の日新堂も私が考える「御殿敷地」には入っていない。
68-12図によると、三つのブロックで構成されていて、南に大きなブロックがありその上に二つのブロックが重なっている。
現在では熊本駅方面にいたる県道が走って上二つのブロックを分断している。
松本寿三郎氏編の「熊本地名辞典」(平凡社版)で「本山御殿」の項をみてみると、県道で分断された北側二つのブロックが明治以降本山町に属して「大字御殿跡」となったらしい。
つまり、石光真清邸も日新堂も「濱町様の本山御殿跡」とは、関係ないことが判明した。
「知らぬは私ばかりなりけり」かもしれない・・・・
林外記は光尚の用人(大目付)を務めた人物、阿部一族の誅伐事件に際し、ライバルの竹内数馬を討手の大将に任じた。
任じられた数馬は、死を決して望み、意の如く打ち死にした。
一方外記については光尚の死去に際しては殉死するであろうと皆が考えていたが、これを為さなかった。
何が原因か判らないが、佐藤傳三郎らが外記邸を襲撃して殺害するという事件が起きた。
彼の屋敷は、花畑邸前から城内に向かう下馬橋を渡りすぐ左に曲がった角に大きな屋敷を給わっている。
隣には妻の実家、医師の❍❍の屋敷が有り、佐藤傳三郎が討ち入ったとき妻は実家に逃れた。
外記は、高麗門外・横手にも250坪の屋敷を拝領している。
「新・熊本市史」の「地図篇」には、「高麗門 塩屋町の絵図」が4種存在するが、外記の屋敷を示す絵図は存在しない。
その屋敷の向かい側には、嶋原の乱の際天草四郎の首級を挙げた、陣佐左衛門の屋敷があったがこれとて定かな位置が記された資料はない。
しかし地元ででは伝承があり大方の位置は想像できる。
高麗門から妙解時に至る「御成り道」に面して妙立寺があるが、その左手に道がある。
その道の一本左先に路地があるが、この道を入った二軒目左手に林外記邸、右手に陣佐左衛門邸があったという。
これは、地元に伝聞されるかなり信憑性の高い情報である。近いうちに地図を書いてupさせたい。
時がたてば失われる情報だから、我がブログに残しておこうと思う。
大いに花粉に怯えている。花粉対策用のゴーグルを買おうかと真剣に考えているが、効き目は有るのだろうか。
ここ数日、目が痒い事はなはだしく、ベランダに出るのさえ躊躇しており、今日は散歩も控えている。
時間つぶしに国立歴史民俗博物館の「江戸図屏風」を詳細に眺めている。
この屏風の制作年については定説と言ったものはないようだが、明暦の火事以前と云うのは確かである。
お茶の水に水道橋と懸樋が描かれており、その真向かいには吉祥寺が描かれている。(この周辺にいた人たちが、現在吉祥寺と呼ばれている町に住み着いた)
吉祥寺の跡地には何方の屋敷ができたのだろうかと、「江戸切絵図」をめくってみたら、こちらは小さな区画の旗本屋敷が連なっていた。
ここで首をかしげるのは、懸樋は万治年間に欠けられたという事であるから、明暦の火事以降の話と時代が前後してつじつまが合わない。
錦絵を見ると、懸樋と水道橋の距離がこの絵の様に接近していない。つまり屏風絵の水道橋と懸樋は明暦の火事で燃え落ち、その後すぐに少々位置を変えて錦絵の場所にかけ替えられたという事であろう。
こんなことを思いながら屏風絵を眺めていると、一ニ時間は時間をつぶしてしまう。
- 熊本地名研究会の編著による「熊本の消えた地名」にも登場しない、「消えた地名」が、「明治初期‐熊本町名」地図にあった。
その名を「ウスナシ丁」と記してある。この地図は明治6年の「白川縣肥後国熊本全図」と明治13年の「熊本全図」で校合され編集されている。
まだ「大甲橋」が存在しないから道筋をたどるのが大変だが、下流部にはこの時期安巳(安政)橋が存在しているから辿っていくと元新屋敷の先でクランクしている。
手元にある昭和4年の「地番入り早わかり熊本市街地圖」を見ると、「白川小学校」の書き込みが見える。
この当時は小学校前の通りはまだ一直線ではない。その小学校の前を進みクランクに沿って右折すると今度は左折し北へ延びる道がある。これがどうやら「ウスナシ丁」らしい。この地図ではこの道筋は明五橋通りまで伸びているが、現在は手前とこの「丁」の先が途切れているが閑静な御屋敷町である。「丁」とあるようにここが侍屋敷であったことを物語っている。
現在の地番で言うと熊本市中央区新屋敷1丁目10番地のブロックではないかと思われる。
熊本地名辞典を見ても、なかなか地図上の位置を確定することが出来ないでいるし、またこの「ウスナシ」というカタカナ表示の名前の由来も伺えない。
ご存知の方のご教示をお願いしたい。
熊本市史・地図篇には数種類の細川藩政期の城下町図が掲載されている。
その内、「安政比」とされるものについては過去にご紹介してきた。
意外に反響が有り、父祖の地に旅をして先祖が済んでいた街並みを確認したいというお話をいただき、苦勞が吹き飛んだことを思い出す。
ところが最近、ある人がほかにもある地図も紹介しないと片手落ちだろうと言われる。
「安政比」にはないが、他の地図には掲載されているお宅があるというのだ。その方の場合も同様である。
これには困ってしまった。
地図を使うにあたっての著作権の問題や、スキャンの精度が悪くて文字がつぶれて確認しずらいという現状の解決をしなければならない。
些か腰が引けていることを見透かされてしまったが、一つの提案を受けた。
大概の人が、自分の家の名前を打ち込んで、誘導されて城下町図へたどり着いて、そして我が先祖の家を見つけている。
「地図が無くてもいいから、地図の❍❍頁には誰々の家がある」と名前だけでも紹介してくれるとありがたいと言われる。
地図が手元に無ければ仕様がないでしょうと申しあげたら、そのくらいは個人に任せればいいですよとのご返事・・・
「自分の先祖が済んだ家の場所が判れば、後は皆さんお一人お一人がご自分で近所の図書館でなりしらべますよ」と。
なるほどそういう手もある・・・・・・・やってみるか?
「熊本市史・地図篇」が置かれている図書館は、県外では九州圏や東京周辺の大きな図書館にしか置いてなかろうから、閲覧はなかなか難しい。
さてどうしよう・・・・・・リクエストがあれば地図のコピーをお送りするか?
いずれにしろ、「熊本城下町図‐お宅の名前・索引編」を作ってみようかと思い出した。
「熊本市史・地図篇」を眺めながら、大嘆息の私である。
先に「関口芭蕉庵」に少しふれたが、これは芭蕉が神田上水の工事に関わった時、この場所に住んだのではないか等と言われるが、どうやら当時の「芭蕉記念館」的な感じがする。
逆に今はなくなってしまっているが深川に「深川芭蕉庵」があり、「古池や蛙とびこむ水の音」の名句を産んだ「蛙合せ」の興行が行われた場所として有名である。
随分多くの門人が集ったというから、この小さな庵での開催は考えられず、近くのお寺を借りての事ではなかったかという。
芭蕉庵には古池があったといい、左は中川不折描く処の「深川芭蕉庵」、右はその庵に芭蕉が描かれて居り、その古池の様子もうかがえる。
この芭蕉庵どこにあったのかと思い、江戸古地図を開き、「本所深川絵図」(ズームアップして左端にスライド)を眺める。
隅田川に小名木川が合流する辺りに万年橋があり、角は「紀伊殿」屋敷があり、その場所にこの芭蕉庵は存在したらしい。
深川常盤一丁目、隅田川の上流部は新大橋、下流は清洲橋である。
こちらは有名な広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」、描かれているのが大橋、対岸に見えるのが安宅(あたけ)と言われる場所、
ここに幕府の御船蔵があったが、現在の新大橋一丁目である。芭蕉庵から上流わずかな距離である。
つまり芭蕉庵はこの橋を渡ってすぐ右手である。もっとも芭蕉存世のころには隅田川は両国橋しかなかったようである。
昨日は夕刻から嵐山光三郎の一連の「芭蕉」物を取り出して読んでいる。
芭蕉の誘惑・芭蕉紀行・悪党芭蕉・芭蕉という修羅etc.
嵐山は「中学3年生の国語の授業で暗誦させられた「奥の細道」にあてられて、日光、白河へとひとり旅を決行。大学時代に「細道」の全行程を踏破した。」という強者だ。
嵐山の芭蕉に対する人物評は、いわゆる「俳諧」の研究者とは一線を画して裏話が多くて私はこんな話が大好きだ。
芭蕉の事を「幕府の隠密」とか「水道工事監督」とか「イベントプロデュサー」とかいいながら、一方では研究者の間ではタブー視されている禁断の「衆道(男色)」なども平気で取り上げている。
そんな縦横無尽な筆致が何とも愉快である。
読む進むうちに「芭蕉庵」とか「神田用水・目白下大洗堰」などが登場するに及んで、それぞれが現在の永青文庫に極近い場所だと思い至ったが、例えば「芭蕉庵」が一体何なのかには今迄あまり興味もなく過ごしてきた。
芭蕉と併せてこれらも極めてみたいと考えて居る。
関口芭蕉庵入口 ウイキペディアから 目白下 大洗堰 [原色再現江戸名所図会、新人物往来社]
熊本では御存知の通り「丁」は武家の町、「町」は商人町である。
表題の「立(建)丁」とは現在の明午橋通りの北側(旧・井川淵町)なのだが、明午橋から国道3号線迄をいう。
終戦前、義伯父(母の姉聟)がここで柔道の道場を開いていた。私の生まれる前の話だが、昭和10年四段で第5回全日本柔道選士権優勝大会に優勝している。
後に講道館八段に上り詰めた猛者である。
私が仕事でお世話になった整形外科のU先生は自らも柔道をやっておられたが、義伯父がこの辺りで柔道場を開いていたとお話したら、まさしくU先生のクリニックがその場所だった。奇しき御縁だった。
藩政時代はまさしく下級武士の屋敷が軒を連ねていた。
一方、立町(建町)は今もその名が残る。国道3号線と豊前街道が交差する四つ角から西の行き当たりまでの道筋である。
こちらは商人町、しかし裏手にまわると武家屋敷があり有名なお寺が並んでいる。
途中の赤鳥居の付け根には、人間国宝の堅山南風先生の生家がある。東へ向かうと米田家の菩提寺・見性寺、そして米田家下屋敷(熊本市立必由館高校)等がある。
更に先へ進むと、人の行き来を迷わせる七曲があり、40年ほど前に成ろうか、この七曲にあった親戚を訪ねたが、車の出入りがままならず、おおいに苦労したことが思い出される。今は国道3号線に分断されてしまっているが、この国道が開通した後の事だ。
しかし、この辺りはまだ古い町並みが変わらず、昔の風情を残している様に感じられる。