気温は高くはないがドピーカンの良い天気、遠く阿蘇山を望み、道筋の景色を楽しみながら約6キロほどをサイクリングがてら、免許更新のために出かける。
約一時間余、手続きや視力検査・写真撮影などで、べつに講習もなく終了。
三年間ニュースのネタにならないように用心して頑張りましょう。
ご厚誼をいただいているmino阿弥ことM・H様から、小林正信先生の「明智光秀は進士藤延だ」とする論旨について紹介する読売新聞・中部番(?)の記事をお送りいただいた。
小林正信先生にはmino阿弥様を通じて、御著や史料などを頂戴するなどご厚誼をいただいている。
進士氏は細川家との関係もある。細川幽齋夫人・麝香の妹聟が進士美作守国秀、その子作左衛門は細川興秋附、その子牛之助は幽齋の田辺城籠城を共にしたと綿考輯録は伝える。
進士氏についての私の知識はこの程度のものだ。
そんなこともあってこのたびの小林先生の論旨については少々驚いている。浅学菲才の身としてはおろおろするばかりだが、光秀像を考えるうえで一石を投じられた。
歴史研究者の方々の反応が楽しみではある。
「大日本近世史料・細川家史料25」を眺めていたら、寛永十六年正月二十九日付の久貝正俊宛書状が紹介されていた。
実は一週間前位のヤフオクに長岡監物に宛てた「久田幡・・・」という書状が出品されていたことを思い出した。
出品者は「久田幡」と読まれたようだが、これは「久因幡」すなわち久貝因幡守の間違いである。
自筆のかすれたような筆跡の花押が認めてあって印象に残っていた。
さて表記の書状は久貝正俊が正月六日に忠利に宛てた書状に対する返書である。忠利は熊本に在国している。天草島原の乱が決着して十一ヶ月といった時期である。
正俊は江戸における正月の御規式の模様を伝えている。その中で天草島原の乱で抜け駆けをして罪を得た鍋島勝茂らが赦免されたことや、土井利勝が殿中で中風を発して倒れたことを報じている。
どうやら継飛脚をつかっての早飛脚の書状であり、正俊の好意が伺えるし忠利との日頃の厚誼の程がうかがえる。
忠利はこの報を得て、土井利勝への早速の見舞いを手配している。
永青文庫に残る膨大な書状の数々は、日本の近世史研究の貴重な資料として知られるが、文面に現れる夫々の事柄に神経を払い、素早く適切に措置することが必要不可欠であった。
久貝正俊は大坂東町奉行まで務めた人物であるから、このような人物との厚誼も細川家にとっては大いなる財産であった。
今になって思うと、米田監物に宛てた「久因幡」の書状の内容が気になって仕方ないが、残念ながら人様の手に渡ってしまった。
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ぴえーる様からご連絡いただき、ヤフオクの過去のデータが見れることを教えていただきました。深く感謝いたします
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室内の温度は19.5度、椅子に腰かけて本を読んでいたらうたた寝をしてしまった。友人からの電話で目を覚ましたのだが、わずか十分くらいの事だと思うが開け広げたサッシュからの風が誠に気持ちよく真から眠り込んでいたらしい。携帯を見つけるのにあたふたとしてしまった。
今日の熊本は随分あたたかくて17度となった。取り入れ損ねている風鈴が時よりすずしげな音を立てている。
何とも季節外れの春のような陽気である。
さて今から、三件の先祖附を読み下しをしなければならない。それぞれもう半月以上どうしても読めない文字に難儀している。
前後の文章から類推してもどうしても読み解けない。「一日一文字」の状態がずっと続いている。
これが何とも疲れるのだ。コーヒーを飲んで目を覚まして、あと二三時間頑張ることにしましょう・・・・・
今日は運転免許更新のための高齢者講習にでかける。90%ほど返却に傾いていたのだが、あと一回お世話になろうと思っての事だ。
意外と奥方がすすめたのには驚いたが、奥方の腹が読めてきた。
自転車でうろうろする私が、家に帰ると「足が痛い」「膝が痛い」「疲れた」とご託が多いので、最近はバイクを買ったらと云いだしたのだ。
アシスト自転車を買いたいと思っていたのだが、バイクとは思ってもみなかった。
一応免許更新だけしておいて、あとはゆっくり考えようという私の腹積りである。
13:30~17:00 動体視力や夜間視力、記憶力などのテストなどまずまず、運転技術については一旦停車のラインオーバを指摘されたがまずまずの評価をいただいた。
来週は免許センターに出向いて免許更新してきます。それでも免許更新これが最後かなーと思っているのですが、さて・・・・・。
膨大な書写史料を残された上妻博之先生は今年が没後50年なのだそうだ。くまもと文学・歴史館では2月2日から3月6日まで「上妻文庫展-上妻博之が遺したもの-」展が開催される。
上妻文庫に大変お世話になった私としては、感謝の気持ちで拝観したいと思っている。
https://www.library.pref.kumamoto.jp/bungaku-rekishikan/event/
熊本藩年表稿を眺めていたら、天保五年(1834)一月の項に「細川雅之進(藩主齊護宇土支藩当時の息)本家に入り長岡氏に改む」とあった。
この一文を詳しく追ってみると、なかなか深い事情が見て取れる。
細川齊護は記されているように元々は宇土支藩の藩主であった。本家の先代・齊樹の病気が重篤になり養嗣子となった。
その経緯は何度も書いたので省略する。 齊護公御家督一件之事 (一) 齊護公御家督一件之事 (二)
齊護は宇土藩主時代の名乗りは立政である。実父・立之の死去に伴い八歳で宇土藩主となった。表記の雅之助の誕生は文化八年(1825)七月、齊護21歳の時である。そして翌九年(1826)22歳の時本家を相続することになる。宇土支藩は弟・之寿(のち行芬)が16歳で相続した。
雅之進は宇土支藩に残され立政の生母・栄昌院によって養育される。栄昌院は老中・土井大炊頭利厚の三女・福姫(富)だが、賢婦人としてその名を残している。雅之進の生母については「上村氏女・久」とされるが詳しい事は判らない。
齊護は文政十年に浅野安藝守齊賢女・益姫と結婚した。二人の間には三人の女子があるが、二人は夭折、末妹が松平春嶽に嫁いだ勇姫である。
栄昌院に育てられた雅之進が上記の天保五年本家に入ることになるのだが、正室に男子がなかった故であろうが、この時期雅之進は9歳である。
弘化二年(1845)細川能登守利用女茂(鳳䑓院)と結婚するも、嘉永元年(1848)四月十四日に死去した。23歳であった。
齊護の宇土藩主時代の子であるが、細川本家の嫡男として本家入りし、将来を託されたが無念の死である。後は弟慶順(韶邦)が藩主となる。
蒲生家の系図の元図(?)は火災や水害などに遭遇して破損が甚だしい中、その断片を図の様に剥ぎ取って現存の系図の要所に張り付けてある。
この写真は蒲生家で「御十方様(おじゅつかたさま)」と呼ばれる方々の事や、加藤忠廣の正室・相高院について書かれている。
右端の「承応二癸巳年六月八日・・」の記述は別項「忠廣公」に張り付けられているものであり、その没年である。
本文右三列の縦書きは
藤原朝臣鎌足公ヨリ田原藤太秀郷□□を繾四拾三代之後胤
蒲生秀行之御息女家康公之タメニハ御□子□□様ナリ相高院様
ト申アゲタテマツルシカルニ先祖代々菩提ノタメ○(○印以降の文章が見当たらない)
続いて上段
近比ニテハ
・東照権現様
・同 御前様
・蒲生飛騨守氏郷様
御家督ハ文禄元年二月
七日
・同御前様
織田右大臣信長公之
御息女
御法號 (記載なし)
・蒲生飛騨守秀行様
御法號弘真寺様
・同御前様
徳河家康公第八之
御息女ニテ御法號
正清院殿泰誉興安大姉
元和三年己年八月卅日薨
・會津下野守秀郷様
御法號見樹院様
寛永四年逝去
・同御前様
・加藤肥後守忠廣様
御法号成徳院様
承應二年可癸巳六月八日
・同室東照権現様
御孫
相高院殿法譽良感大禪定尼
承應三年癸巳六月八日
右一ツニ御國ノ□奉申上候處御十方様△(下段△印へ改行)
△右近比ニテハ東照権現様ヨリ相高院様マデ
御拾方様□□末代菩提ノタメ承應
年中ニ加藤忠廣公室相高院殿法
譽良感大禪定尼
江戸朝(浅)草ヨリ西福寺住持
釋枩儀至肥後熊本江御同
々ニテ御下國ニ相成差ヨリ蒲生
大次郎秀正并ニ公郷子蒲池
久三郎忠行是共ニ相高院尼
様御合被成シ コレヨリスグサマ御
再建之方江御カカリ於古小澤町
江江戸朝草西福寺本坊□□□
院蒲生忠行見分之上壱坊之御
縄張スグサマ御普請ニ御取カカラセ
右□何事茂一サイモ□ス出来揃早速ニ
御同々之御僧コノ新寺之一坊ニ御
スエコミニ相成然ニ江戸ニてハクボヲ(公方)サマ御
ワケニヨツテ松平西福寺ト御トナエニ相成
以□□御一坊ハ右御十方様御タメニ寺領
五百石
コレヲ年々准□カレ候テ寺号西福寺
ト奉申候也
然處相高院様ハスグサマ出羽ノ庄内江御
趣比時蒲生久三郎忠行御ヨビ被成
テ思召候ニ扨朝廷之地ニ出生仕タルカラワ
ナルベクタケ忠義ヲツクシ然ルトコロ
忠臣□□君ニツカエズト云事アリ 武士ニ
限ル事デハ無之□ヱ共武之道ハハイシ
セツシヤモ奥州ヨリハルバルカケテ
當國ニ一坊再建奉仕茂御拾方様之内
提菩(ママ)所ニテシズマリ御座候成□
御方モ御有被成シカルトコロ御附人
□有テ御當國ニソノママ居候ヤカテ
有之由候ヱ共此人ハ千(血)筋ニテハ無之ソレニ
ヨツテ武ハトキハイレシ民ニカニキチイヲシテ
モ我血筋後胤□
御當國江御十方様ガタメ末代
菩提之御タメ西福寺
同様後末々迄代々居
ラレル □
相高院尼
蒲生久三郎忠行殿
右之通加藤相高院様・・(以下不明)
昨日相撲の神様熊本の吉田家について少々触れた。何しろ遠隔地であることがネックとなって、相撲協会が細川家での仮授与はできないかと申入れてきたとされる。
細川護立公の二女雅子様(伯爵・寺島宗従夫人)の御著「梅鉢草-思いつくまま」によると、昭和10年5月武蔵川が明治神宮奉納に際して事前に「仮に」でもということであったらしい。当然のことながら後には熊本へ出向いて吉田家から「本」免許を受けたのだろう。
これが慣例となり昭和22年の前田山迄続いたとされる。
記録によると7人の横綱が細川家で仮免状を受けていることが判る。
33 | 武蔵山 | 神奈川県 | 出羽海 | 1935年 5月 | 25歳 | 1939年 5月 | 29歳 | 8場所 |
34 | 男女ノ川 | 茨城県 | 高 砂 | 1936年 1月 | 32歳 | 1942年 3月 | 38歳 | 12場所 |
35 | 双葉山 | 大分県 | 双葉山 | 1937年 5月 | 25歳 | 1945年 9月 | 33歳 | 17場所 |
36 | 羽黒山 | 新潟県 | 立 浪 | 1941年 5月 | 26歳 | 1953年 9月 | 38歳 | 30場所 |
37 | 安芸ノ海 | 広島県 | 出羽海 | 1942年 5月 | 28歳 | 1946年 9月 | 32歳 | 8場所 |
38 | 照 国 | 秋田県 | 伊勢ヶ浜 | 1942年 5月 | 23歳 | 1953年 1月 | 34歳 | 25場所 |
39 | 前田山 | 愛媛県 | 高 砂 | 1947年 6月 | 33歳 | 1949年 9月 | 35歳 | 6場所 |
相撲協会の目の付け所には恐れ入るが、旧藩主家の御威光にも恐れ入るばかりである。
昨日の稀勢の里の優勝にはさすがに「よし」と大声を出してしまった。渾身の力で寄る白鵬を徳俵いっぱいになりながらもうっちゃり気味の見事な勝利・・・・
今日は横審で推挙が決まっていよいよ新横綱の誕生だ。横綱に和製などと冠されるように、モンゴル勢の天下が長く続き、ようやくの快挙である。
先代師匠鳴門親方に心酔している稀勢の里だが、「おしん横網」などといわれた人だったが、私は好きな横網だった。
あの親方あっての立派な人格者の横綱となることだろう。
かって熊本には相撲の神様「吉田家」があった。横綱に推挙されると吉田家が免許状を渡していた。
その吉田家もいろいろな事情から相撲道から外れてしまった。吉田善門という方がおられ、私の祖母はよく知っていたらしく、よく「善門さん/\」と懐かしそうに語っていたことを思い出す。
熊本にとっても大事な存在であったが、なんとも惜しいことをした。藤崎宮参道にあった吉田家の跡は売り払われ、マンションが建っている。
若い人たちは、そんな家が在った事さえ知らないだろう。
新横網誕生のうれしい時、吉田家をいささか知る者としては若干の寂しさがある。
作成・津々堂
正月五日、ある方からお宅にある家系図をみてほしいというご連絡をいただいた。
数日後メールで膨大な写真が送られてきた。蒲生氏郷に関係する系図であり内容には驚くべきことが記されていた。
熊本では電話帳を見ると蒲生姓のお宅が五・六軒記載されており、以前から不思議に思っていた。
会津藩主蒲生忠郷(氏郷の孫・秀行の子)の子・公郷の直系のお宅であった。忠郷は26歳で亡くなり、継嗣がないため絶家したと巷間つたえられている。
実は公郷という子が在ったが妾腹の子であり、極めて幼少であったのだろう。
秀行の正室・振姫は徳川家康の娘である。長男が忠郷、二男が忠知であり、忠郷の死去後は出羽上山藩四万石の藩主であった忠知が家康の孫と云うこともあって、伊予松山藩24万石の藩主となった。
忠郷・忠知の妹は加藤清正の嫡子・忠廣に嫁いで熊本に入国している。
熊本市小澤町に西福寺というお寺があるが、このお寺を創建したのがこの人であるが、この系図やお寺に残る位牌には相高院とある。
加藤家では崇法院として伝えられている。驚くべきことは忠廣の子・正光に兄・忠郷の娘が嫁いでいるということであった。
また相高院はどうやら忠廣の配流先に同行していたらしく、忠廣が亡くなった翌年(承応三年)に死去していることが記されていた。
熊本時代の相高院は「横手の館」で生活をしていたようだが、甥である公郷も共に生活をしていたのではないかと思われる。
相高院の出羽行に公郷は同行しているようだが、後に蒲生一族の菩提を弔ってくれるようにとの相高院の願により熊本へ帰国している。
系図を拝見すると公郷の子・久千代(久三郎忠行)は仕官することもなく、その子孫も熊本の地で蒲生一族の菩提を弔いながら今日に至っている。
熊本市京町の往生院には相高院が建立したと思われる、母・正清院の供養塔がある。
熊本市横手町の安国寺は、明智光秀の子・凡舜によって創建されたが、寺堂は以前から存在して弘真寺と称していた。
蒲生秀行の戒名が弘真院であり奇妙な符合があり、また寺内には秀行の物だと伝えられるお墓が残る。(鎧を付けたまま埋葬されているというが?)
そしてその秀行は熊本で死去したという俗説があるが、この系図においてもその説にそって記載されている。
尚、秀行室・正清院(振姫)は、秀行の死後浅野長晟(和歌山藩主37万石)に再嫁、光晟を生んだ十数日後に亡くなっている。
一昨日、これらの事を発表すべく蒲生様にお願いしたところ、快くご承諾いただいた。
蒲生家の男子は非常に短命である。秀行30歳・忠郷26歳・忠知30歳、徳川家康の外孫である華々しい家系もこればかりは如何ともし難いことであった。
熊本の西福寺の檀家総代を勤められるK氏は、わが史談会の会員でもあるが、提供いただいた資料によると、葵の御紋が描かれた「相高院殿法譽良感大禅定尼」の立派な御位牌が祀られているという。
都市政策研究所「【現代語訳】『熊本明治震災日記』」を刊行
熊本の地下はまだ壊れています。震源が少し離れましたが最近度々小さな地震が連発しており、まだまだ警戒をゆるめず過ごすことが大切だと感じています。
今日の史談会に於いて、会員のN君から渡されてこんな本が出版されていたことを知りました。定価1,000円です。お買い求めください。