津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■津軽承昭宛細川刑部家・興増書簡尊稿

2024-12-03 09:01:47 | オークション

                                                   

 細川刑部家・嫡家11代興増(おきなが)が、細川宗家14代・護久の弟、津軽藩主・津軽承昭に宛てた書状である。
だとすると、この手紙に添えられた封筒は「何なの」という疑問が沸く。実はこのオークションでは、熊本市長・高橋守雄が細川興増に宛てた書状も一緒に出品されており、そちらの封筒が紛れ込んでいることが判る。
いずれにしても、細川興増に係る書簡だが、私は津軽承昭にあてたこの書状に興味を持った。
三角でとれた鯛を贈った処、早速御賞味いただいた上、「駱駝(らくだ)の襟巻や御羽織、御菓子」などを贈られ、かえって恐縮している様子が伺える。
血のつながりからすると、両家は細川忠興迄遡らなければならないように思えるが、細川宗家・宇土細川家・内膳家・刑部家の絆は連綿と途切れることはなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【真筆】細川綱利書状 1通 肥後国 熊本藩 大名 光雲寺宛 肉筆 書簡

2024-12-01 08:18:04 | オークション

                           【真筆】細川綱利書状 1通 肥後国 熊本藩 大名 光雲寺宛 肉筆 書簡

   

まずは書状宛名の光雲寺とはどちらの御寺だろうか。臨済宗大本山南禅寺の境外塔頭とされる、「霊芝山光雲寺」のことだと察せられる。
文中に「女院御所」とあるが、上記光雲院は後水尾帝皇后の東福門院(徳川和子)の墓所がある御寺として知られている。
その光雲寺と綱利の間にどのようなかかわりがあるのか、今日は一日謎解きに読み下しにチャレンジしてみたい。
多くの方が応札しておられまだまだ安値のようだが、あと数日を遺しているからこれは落札迄さらに高値に動きそうな気配である。
謎の多い文書だからの事でもあろうか・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■古書 『細川ガラシャ』上下巻 細川寛二 著

2024-11-29 07:42:51 | オークション

                                          【14002P150】古書 『細川ガラシャ』上下巻 細川寛二 著

                                           

小山寛二は熊本の人である。外箱の装丁は御覧の通り、棟方志功と贅沢なものである。
現在二冊で600円、これは昭和35年の初版時、上下巻とも「価・参百円」とあるから価格は変わらない。
落札しようと思ったりしたが、すでに上下巻とも所蔵しているから応札はしないことにした。         

私の本棚にはガラシャ関係の本が以下のように並んでいる。もうこれで良いだろうと思っている。

         ・細川ガラシャ夫人     ヘルマン・ホイヴェルス
         ・細川ガラシャ夫人     森田草平
         ・細川ガラシャ (上)(下)  小山寛二 
         ・細川ガラシャ--散りぬべき時知りてこそ  田端泰子
         ・細川ガラシャ       生方たつゑ
         ・細川ガラシャ       安 廷苑
         ・細川ガラシャ       熊本県立美術館‐永青文庫展示室開設10周年記念展覧会・図録

         ・細川ガラシャ展      大坂築城400年記念「愛と信仰に生きた-細川ガラシャ展」図録
         ・伽羅奢細川玉子夫人    宮島真一
         ・朱なる十字架       永井路子
         ・胡桃と酒         司馬遼太郎「故郷忘れがたく候」所収
         ・明智光秀と細川ガラシャ  井上章一、呉座勇一、フレデリック・クレインス、郭南燕

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■欲しいけれど手が出ない「長岡監物宛小幡景憲(縄直)書状」

2024-11-19 10:04:40 | オークション

商品説明に次のようにある。
「極稀文書 小幡景憲(縄直)書状 長岡監物(是季)宛 甲陽軍鑑編纂者として著名 武田流兵法の大成者 司馬遼太郎著作の大阪の陣を舞台とした小説「城塞」主人公 本書状は江戸幕府の使番として熊本藩重臣長岡監物の人質についてその近況を音信したもの。恐らく寛永十五年頃のものか。武田家旧臣~幕臣~兵法家として名を成した小幡景憲の幕臣時代の軌跡が判明する稀少文書。」 
そんな説明を見ただけで「何事?」と思ってしまい内容が知りたくてしようがない。欲しいけれど高い、年金暮らしにはとても手が出ない。
是を手に入れた方に、もし私の願いが叶うのならその内容について教えていただきたいと切に願う次第である。

江戸初期 小幡景憲(縄直)書状 長岡監物宛甲陽軍鑑編纂者大阪の陣司馬遼「城塞」主人公武田信玄消息和本古文書古筆短冊書簡大名戦国武将手紙

 

 この書状は長岡監物(米田是季)に宛てたものだが、江戸證人である息・新十郎の消息を主としたものではないことはその内容が一つ書の三番目であることからも伺える。
新十郎(米田是正=是季二男)は、寛永十年九月に江戸證人となっている。
この書状は寛永十六年(1639)のものではないかと思われるので、新十郎殿の江戸での證人生活は6年を過ぎている。
天和2年(1682)6月、57歳で死去しているから、この書状の時は15歳位ではなかろうか。
越中守(忠利)、肥後守(光尚)、伊丹角助などの名前が見える。

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■肥後熊本藩家老・有吉家文書一括

2024-11-16 10:51:09 | オークション

a081◇ 肥後熊本藩家老 有吉家文書一括 薩摩 有吉時陳 兵法 武家故実 有職故実 和本 古書 古文書

                               

               細川家三卿家老・有吉家文書がこのようにまとまって出品されることは大変珍しい。
          20年ほどヤフーオークションをウォッチングしているが初めてではないかと思う。
         入札状況をしばらく拝見して、チャレンジしてみようかとも思う。

              

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■謎解き・細川和泉守殿とは何方

2024-11-07 15:54:46 | オークション

 共にヤフオクに出品された「細川伊豆守」に宛てた書状である。オークション出品者は同一人である。
上(1)は将軍・家治の、下(2)は老中・阿部豊後守正允の書状であり、共に歳暮に対する礼状である。両方とも、日付が十二月廿七日であることが興味深い。
細川和泉守とは、宇土細川家の、2代・有孝5代・立禮(本家相続・齊茲)6代・立之(本家相続・斎護)の三人が名乗っている。
さてそれぞれの「和泉守殿」とは何方であろうか。

  (1)古文書 檀紙 安永期 松平右近 細川和泉    
              
      爲歳暮之祝儀 / 小袖一重到来 / 歓思食候 猶 / 松平右近将監可 / 申候也
           十二月廿七日 御印(家治)   

  2)古文書 奉書紙 安永期 阿部豊後の守から細川和泉の守

           

   文字が薄くすべての判読は難しいが、歳暮に対する礼状である。 阿部豊後守の諱名は別紙に正允とあった。 

■扨て謎解き・・・
  将軍・家治 在任・宝暦10年(1760)~天明6年(1786)
  老中・松平右近将監武元
     延享4年(1747)に老中、明和元年(1764)に老中首座に就いた。家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。
     死去する安永8年(1779)7月25日迄現役であったという。
  老中・阿部豊後守正允
     明和6年(1769)西丸老中、安永8年(1779)本丸老中、安永9年死去

  和泉守・細川立禮
     安永元年(1772)和泉守名乗り、天明7年(1782)細川宗家相続・齊茲

 二つの書状が同年の物かどうかは判らないが、共に細川立禮が和泉守を名乗った1772年から、本家を相続(齊茲)する直前、1779年(松平右近将監死去)、1780年(阿部豊後守死去)を限りとする時代のものと考えられる。

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■山崎隼雄宛て知行宛行状その他

2024-09-26 10:55:46 | オークション

         熊本十代藩主が家臣 山崎隼雄に与えた150石の知行宛行状と知行目録の2部

■山崎半十郎 (南東35-13)家・10代隼雄に関する知行宛行状だが、この宛行状の存在は既に知られていて、松本寿三郎先生の著「熊本藩御書出集成」に「10、隼雄宛 斎護公御書出(文政九年)百五十石・山崎隼雄知行目録(文政九年)」として記載されていた。
隼雄の孫が12代で肥後宏道流三代、肥後六花「肥後山茶花」の祖貞嗣であり、その貞嗣の孫が「東肥花譜」「熊本文学散歩」などを著された山崎貞士氏である。
これは以前にも出品されてきたが「不落」が続いている。

 

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「其方」とはどなた?

2024-09-10 06:41:47 | オークション

【深和】細川三斎 消息軸装「花形茶碗の文」真筆(細川忠興 三斎流 茶人 千利休 戦国武将 戦国大名 中世古文書)

   

 大変な人気ぶりで多くに方々が応札しておられる。出品者により以下のような釈文が紹介されているが、( )の文字が欠落している。
「其方」とあるから家臣かと思ったがが、「恐々謹言」とあるから頭がこんがらがってしまう。

三斎自筆とは考えにくく、祐筆の筆によるものだと思われる。

           もし今度茶
         会もとまいらせ候、其方
         花形の茶碗(を)
         かし(可)給候、すき
         すみ上しらせ
         可申候、恐々謹言

         十一月廿日 三斎(花押)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ヤフオクで勉強させて頂いております。

2024-09-03 06:29:43 | オークション

    【深和】細川三斎 ローマ字黒印状軸装「上様御振舞の文」寛永七(1630)年六月九日付 筑紫広門宛 真筆(細川忠興 三斎流 茶人 中世古文書)

           

  解説や読み下しなど完璧で出品者の誠意が伺えるお品です。時代背景の解説なども大変ありがたく勉強になります。
  細川家にはこの筑紫広門の三男・重門が召し出されています。以下はこれに関する記事です。  津々堂
    
        広門:編年集成五月九日之所ニ、庚子の亡慮筑紫上野介義冬入道夢庵か子
           主水、一昨日七日細川越中守隊に属し、功名を遂る旨言上せしかは、
           夢庵今日神君ニ拝謁することを許さる、寛永三丙寅年主水ニ三千石を
           賜、御家人となると云々、此事ハ四月十日松井右近より興長江之書状
           ニはや見へ申候、忠興君殊外御取持被成候由 (綿考輯録-巻十九)

        重門:寛永八年五月廿六日(三斎公)忠利君江被進候御書之内
            筑紫主水子息右近 相国様へ未御目見不被仕候ニ付 此度六次而ニ
            御目見被仕候由 一段可然儀候 我々ハはやとく 御目見仕たると存
            候而居申候つる事            (綿考輯録-巻二十二)

商品説明
細川三斎のローマ字黒印状です。

筑紫広門に宛てたもので、はらら子(魚卵)を贈られたことへの礼と、上様(徳川家光)が旗本衆とともに盛んに茶会や猿楽を催しており、番組や献立を見ても圧巻で日本開闢以来の大規模なものであると称賛する内容の書状です。

西軍に与し浪人となり永らく三斎の庇護下にあった筑紫広門が、旗本に列した寛永4(1630)年以降、そして三斎が在府の時の書と見られ、『徳川実紀』大猷院殿御実紀・寛永7(1630)年五月朔日条に見える「西城にならせられ申楽あり。紀水両卿及在江戸の諸大名并諸有司見ることをゆるされ饗せらる」の文がこれにあたるとみられます。江戸城では前年六月から小堀遠州により西城茶室や二丸園池亭が造成されており、この時期に将軍家光・大御所秀忠ともに連日能楽や茶事を行っている様が看て取れます。三斎67歳の筆です。

『徳川実紀』の茶道・能楽記事を見てみると、家光治世初期は大御所の茶事の記事が多く、溺愛する忠長のもとへの御成で盛んに振舞・演能が行われたことが分かります。しかしながら寛永7(1630)年前後は忠長の乱心・失脚が取り沙汰された時期であり、本作は老将三斎の目からも、27歳の家光が権力基盤を盤石なものとし、満を持して武家式楽に励んでいたことを如実に示す文書といえる歴史的にも貴重な逸品です。


◆細川三斎
安土桃山・江戸前期の大名。幽斎の長男。妻は明智光秀の娘玉子(細川ガラシア)。名は忠興、通称を与一郎、三斎は号、法名は宗立。はじめ秀吉に従うが、秀吉歿後は家康に従い関ヶ原の戦で大功をあげ、豊前中津藩主、のち小倉藩主となる。和歌・画・有職故実に長じ、また茶の湯を利休に学び七哲の一人に数えられる。正保2(1645)年没、82歳。

◆筑紫広門
江戸前期の武将・旗本寄合席。筑紫氏当主。諱は春門、従門、茂成、のちに広門。通称は善吉郎、従五位下・主水正。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に味方し参戦、西軍敗北により浪人となり肥後国に住む。慶長19(1614)年に小倉藩主細川忠興に就いて以前の罪を謝し、大坂の陣に参戦。元和元(1615)年に京都で徳川家康に拝謁した。寛永4(1627)年に旗本寄合席に列し、知行地として豊後国速見郡に3000石を与えられる。

             〔本文〕
                  為御見舞遠路被差
                     越御飛脚御懇書
                     殊爰元稀成はらゝ
                     子(腹子)曲物一つ御上も満足
                     則賞翫仕候、
                     上様此頃御機嫌能
                     御はたもと衆於御城
                     御振舞被成、御能被
                     仰付候由、目出度儀共ニ候、
                     御能くみ御振舞之
                     御献立迄具ニ被仰越
                     貴様別而御参候由、目出
                     度候、御人数三千五百
                     余御座候由、日本初り
                     ての大き成可為御振
                     舞と存候、恐惶謹言

                            三斎
                          六月九日   宗立(印)

                     筑主水様  御返報
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■幽齋公の狂歌

2024-08-29 06:50:08 | オークション

        慶應◆戦国~江戸初期随一の文化人【細川幽斎】真筆 紙本墨画 茶杓図に賛(狂歌一首) 横物掛軸 時代表装                      

  歌に添えられて、茶杓と茶杓入れが描かれている。

       
       寿つり
          おく   幽齋
        堂きの  
         かい   茶杓能
       可以あらハ 
            我後乃
       世を春くい
             たまへや
         

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■諏訪大社・神長官守矢主殿などに関する資料

2024-08-26 13:14:09 | オークション

  i69◆諏訪大社◆権祝 矢嶋左京・神長官 守矢◆肉筆 花押入り 書状◆当本社建替 寄附 折紙 神職 社家 神道 神社 信州 長野県@古文書/書簡

           

 建築設計を生業にしていた私にとって、「神長官・守矢家」と聞くと、藤森照信教授(当時 東京大学生産技術研究所助教授・現 東京大学名誉教授)が、初めて設計して世間をあっと言わせた作品として記憶している。
正式には「神長官守矢史料館」というが、長野県茅野市の守矢家の広い敷地の中に建設されている。

 さてこのオークションに出品された文書は、当時諏訪大社本社建て替えに関する資料らしい。
權祝・矢嶋左京と守矢主殿の連名でお役人中様宛となっている。大変興味深い資料だが、「神長官守矢資料館」が平成四年当時発表されたときの驚きを懐かしく思い出す。
茅野市の資料からその写真を引用させてご紹介する。

           守矢史料館建物外観
  そして近くにはこんな作品もある。https://www.youtube.com/watch?v=wMhEdwFZp4U

 藤森教授の独特なデザインによる作品は、湯河原の細川邸「不東庵」の敷地の中にある茶室「一夜亭」や作陶の工房などでも知られている(湯河原だより|細川護熙 公式ホームページ)が、どの作品も非常にユニークなものである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川斉樹書状 越中守 肥前国熊本藩九代藩主 和本 古文書

2024-07-31 06:23:28 | オークション

       細川斉樹書状 越中守 肥前国熊本藩九代藩主 和本 古文書

                          一筆令啓達候
             公方様 内府様益
             御安泰被成御座恐悦奉存候
             甚暑之節猶以為可奉伺御機嫌
             酒井若狭守殿松平能登守殿与
             呈使札如目録進之之仕候間
             可然様頼存候猶又貴様弥御堅固
             可為御勤珍重奉存候仍御銭一種
             令進入之候御見廻旁如是御座候
             猶期後音之時候恐惶謹言
                    細川越中守
               五月十五日    齊樹(花押)

              松平中務少輔
                   人々御中

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   徳川家ー一橋家ー細川家 相関図

    徳川宗家        内府  大御所 
       徳川家治=== 家齊ーーー家慶ーーー家定===家茂===慶喜

            一橋大納言
            徳川治齊ーーー+ーーー 徳川家齊(宗家相続)
          |
          +ーーー 紀姫(蓮性院)
                                                ‖
     細川齊茲 ーーーーーー 齊樹

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「伴安兵衛宛綱利宛行状」と、伴家の行く末

2024-07-28 06:53:37 | オークション

  細川綱利書状 1幅 肥後熊本藩主 寛文元年 大名 九州 花押 書簡 江戸時代 肉筆 古文書     

 

            肥後國於玉名郡貮百石
            目録有別紙事如先規所宛
            行之也全可領地之状如件
              寛文元年八月五日 綱利・花押

                       伴安兵衛殿

 何の変哲もない宛行状だが、「伴」氏とあって興味を引いた。
祖母の実家・狩野家からこの伴家に養子に入った儀兵衛という人物がいる。当該宛行状の人物は初代、儀兵衛は5代目(多次郎)である。
儀兵衛は「安永四年七月四日 伴儀兵衛手討仕損シ差扣という事件を起こした。雇っていた者を手討にしたが、長年足を痛めており「間合遠ク手疵を負せ申候 」という結果になった。
その結果は「差扣」とあるが、200石の大切な知行を召し上げられた。
無事手討を果たして居れば何事も無かったろうと思われる事件である。討果せなかったことは有るまじきことという事だろうが、200石取りの家が5人扶持の家となり明治に至った。侍の世界とはこのような世界である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■上林三入宛三斎書状

2024-07-23 06:26:40 | オークション

     【真作】武将大名、茶人 細川忠興(三斎) 消息文、古文書 ガラシャ ローマ字印 

       あと2日35人の方が応札されて現在60,500円、100,000円は超えるでしょうね。
       上林三入は宇治の御茶師、三齋公とはほぼ同年代の人である。

 

                                 以上
        被差越飛脚
        爰元珍敷氷魚       氷魚
        一折到来令
        満足候則賞
        翫可申候猶規
        面之時候恐々
        謹言
               三斎
           十月廿四日 宗立

           上林三入老
               御宿所

 

 この文書の相手方の上林三入とは、宇治市歴史資料館の収蔵文書報告書「上林三入家文書」によると、初代・三入だと思われる。
 幸盛。今西光盛二男・始め三右衛門。藤村家に入り、やがて初代上林三入となる。隠居後、三休。
    万治三年(1681)歿。91歳。
    参考*純正宇治茶専門店・三星園上林三入本店

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■清田七助宛・細川忠利書状

2024-07-08 10:22:59 | オークション

                  【真筆保証】 細川忠利 直筆 清田七助 宛 書状 貴重品 稀少品 熊本藩 初代藩主 コレクター放出品 熊本県         

 清田七助からの「引鮑」一箱が送られたことに対する礼状である。
清田七助は「石見」と称するが、大坂の陣に於いて「槍先を押し曲げる」様な働きで一番の功名を立てている。
忠興に従い、忠興隠居後は忠利に就くようにと勧められている。この時代の文書の常で、時代を特定することができない。
 元和八年(1622)閏八月七日の日帳につぎのようにある。
   清田乗栄忠利ニ附属セシメラル 
 一、吉住半四郎御使ニ被参候事、但、清田七助を 殿様ニ御奉公申候へと、 三斎様御意ニて、半四郎御使ニ被参候、
   則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく 三斎様ゟ付被遣候事

 忠興隠居の直前であるが、それまでは忠興の側近として槙嶋云庵と共にいつも忠興の側にあった。
その二人が我が家の初代と兄・長五郎を周防の下松でスカウトされて、豊前にやってきた。
私事で恐縮であるが、我が家の初代目の召出については、元和九年壬八月七日の日帳に次のような記述がある。
  知行高弐百石

一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、しれ申候事
この時、兄弟一緒に召し出されている。

 そんな清田七助は天草島原の乱に於いては鉄炮疵を負っている。
その後、菊池に住まい治療に勤めたが、その地で死去した。坪井・流長院及び菊池の地にお墓がある。

■恩人・清田石見守の塔碑
■清田七助甲冑の図
■エピローグ「清田家系図」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする