現在細川家に於いて江戸證人となられたお宅の、何方が何時から何時まで勤められたのかを調べている。
まとめられた文献は見受けられないように思うし、私自身も個々に取り上げてはいるがまだ手つかずでいた。
「江戸へ證人差し上げ候衆之・・」によると、細川家家臣で江戸へ證人を差し出すように申し渡された家は、以下の十家になっている。
大名証人制度は、慶長五年(1600)から寛文五年(1665)までの65年の長きにわたっている。
「殉死の禁止」とともに終焉することとなった。
細川刑部 一門 25,000石
長岡佐渡守(松井) 三卿家老 30,000石
有吉頼母佐 三卿家老 18,500石
長岡監物(米田) 三卿家老 15,000石
長岡勘解由(沼田) 家老 10,000石
沢村宇右衛門 家老 6,000石
小笠原備前守 家老 6,000石
清田石見守 備頭 3,035石
田中左兵衛 城代 2,150石
平野弥次右衛門 人持衆并組外衆 5,000石
・知人の友人F氏の御父上はご養子でM家のご次男、その友人の方は父方の家系については、あまり興味が
なさそうだというが、商売をなさっていたらしい。
先祖は某所に広い土地があってそこに住んでおられたという。
その場所は侍町であり、「細川家家臣略歴」を見るとM家は三家ある。
古い地図を見てみると該当する場所にM家が確かにある。500石取りのお宅だ。
これだけの情報でM家が特定できた。先祖附を取得し、情報を「侍帳」に反映させようと思う。
・過日Y家の最期のご当主から三代のご子孫だと仰る女性からご連絡をいただいた。
どなたもご存知の著名人の奥様であり、これには大変な驚きであった。
Y家については、いろいろな史料を集めているが、どうやらご当人はY家の史料をお持ちではないのでは
ないかと思われる。ご連絡の手段をお知らせいただき、先祖附その他の史料をお送りしようと思っている。
・ある人がM寺を通りかかって、気に成る I 家のお墓を見付け、ご住職にお尋ねした処、ご親族が届けられた
コピー資料をお貸し頂いたそうだ。それをコピーして、現在当方にも郵送していただいている。
I 家も数家あり、この資料でお墓の主が特定できそうである。そんな情報がもたらされたことが非常に有難い。
・仙台市の高橋様から提供を受けた、「明智系喜多村系図を補強する史料の発見」については、私なりにま
とめて、熊本に於いて何らかの形で報告をする機会を持ちたいと思っている。
三宅家のお墓が泰陽禅寺にあるという話も聞いたし、玉名市岱明の高道にある荒木家の定内にある三宅分
家のことも、何とか後世に伝える資料が残せるようなことが出来ればと切に願っている。
公には出来ない情報もあり、それを自分だけが知っているという優越感を今味わっている。
出来る限り「侍帳」に反映させて、なるべく早く公開したいと思っているが、後から後から新たな情報が
入り現在嬉しい悲鳴という処である。
細川家家臣には土佐・長宗我部家に関係する三家が存在する。
■長宗我部元親の弟・吉良親貞の家系である町家がある。長宗我部の「ちょう」を「町(まち)」と変えて家名とした。
■久武氏は、元親の子・盛親の家系だとされる。
私は久武氏とは縁戚関係にあり、過日ご当主の従兄妹にあたるY氏から、久武家に残る膨大な古文書等をCD化したデータを頂戴した。
久武氏は長宗我部家の家系だとされるから、その長大な家系図を遡るとその祖・秦河勝から連綿と当主の名前の脇に「河勝・□世孫」という書き込みがなされている。
■その家系図を眺めていたら「梅原九兵衛」の名あり驚いたが、同人は長宗我部氏であることはよく承知していた。
肥後細川藩士・梅原家の祖である。
梅原九兵衛は柳生流の高弟であったが、細川忠利が柳生宗矩に乞うて細川家家臣となった。梅原九兵衛召しだしの顛末
忠利の子・細川光尚の亡き後、幼少(6歳)の嫡男・六丸(綱利)に遺跡相続がなされるよう、松井寄之・沼田勘解由らと共に、江戸幕府と折衝を重ね、肥後細川藩54万石の継承に尽力した人物である。
九兵衛は折衝相手の酒井雅楽頭の袖を引いて懇願したことから「袖引き九兵衛」の名を遺した。酒井家とも懇意であったらしい。
長宗我部元親の血を引く、長宗我部泰信が関ヶ原落去後牢人仕、父・長岡内膳は討死、九兵衛は會津の加藤左馬介の臣・梅原十助の養子となった。それより江戸へ出て柳生家に出入りして但馬守と懇意になったという。
その顛末は「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その三に書いた。
長曽我家
初代・能俊(よしとし) 秦河勝・一世孫
2代・俊宗(としむね)
3代・忠俊(ただとし)
4代・重氏(しげうじ)
5代・氏幸(うじゆき)
6代・満幸(みつゆき)
7代・兼光(かねみつ)
8代・重俊(しげとし)
9代・重髙(しげたか)
10代・重宗(しげむね)
11代・信能(のぶよし)
12代・兼能(かねよし)
13代・兼綱(かねつな)
14代・能重(よししげ)
15代・元親(もとちか)
16代・文兼(ふみかね)
17代・元門(もとかど)
18代・雄親(かつちか)
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19代・兼序(かねつぐ) 序尭 親興 道孝 国決
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20代・国親(くにちか) 国康
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21代・ 親貞 親泰 親房(島弥九郎)
元親(もとちか) ┃ この家系が明治に至り長宗我部氏の正当家系と認定された。
┃ 吉良左京進親実) 長宗我部関係の著書を多く出されている、長宗我部友親氏が現当主である。
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┃ 町源右衛門
┃ (細川藩士・町氏祖)
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信親 親孝(親和) 親忠 22代・盛親
久武内蔵介 (肥後・加藤清正臣)忠廣公宛行状
河田八右衛門(豊前・細川忠利臣)福岡県史・近世史料集‐細川小倉藩・二
(細川藩士・久武氏祖)
別系に 盛親━泰信━高橋内膳━梅原九兵衛 (細川藩士・梅原氏祖)
[侍帳改訂作業] 過日、ヤフオクを何気に見ていたら、福田太華の軸がいくつか出ているのに気付いた。
あの「蒙古襲来絵詞」の模写をしたことでも知られる、熊本における土佐派の開祖といわれる絵師である。
色々調べているうちに「馬医」の家の出であることを知り、実弟が「馬術師範役」の中津氏に養子となった大四郎であることを知った。
その弟・中津大四郎は西南の役においては、自ら竜口隊を結成しその隊長となって西郷軍の手足となり、延岡の北川の山中で切腹して果てた。
肥後武道史によると、中津氏の初代・角七は宝暦年中、解龍流馬術の師範として細川家に召し抱えられたという。
この解龍流馬術は阿波徳島藩の岩田家二代七右衛門(1,300石)が開祖だとされる。藩主・蜂須賀家とは忠利代相婿(共に夫人が徳川家康養女)の関係であり親しい交流があった。
中津家初代も阿波の出かもしれない(先祖附未確認)し、時代が下ってはいるが、蜂須賀家と細川家の関係から召出されたものかもしれない。
この解龍流という言葉については、森田誠一氏の小文がある。(歴史摘録)
森田先生がこれを「かいりゅうりゅう」「げりゅうりゅう」と読むのには少々違和感があると感じられ、武田流流鏑馬の竹原家のご当主におたずねになると、「げじょうりゅう」だとのご返事だったという。
インターネットで調べてもその読みに触れているものは見受けられない。
「龍=りゅう」を「じょう」とすることにも違和感を感じられたようだが、見事に読み解かれていた。
熊本では「ラリルレロ」をそれぞれ「ダジヅデド」と発音することが有ったのだそうだ。
「リ」は「ジ」であり、「龍」を坂本龍馬の「リョウ」とすると、これは「ジョウ」と発音することになり、「げじょうりゅう」とよむのであると。
これが森田先生の回答である。宗家がある阿波徳島では何と呼んでいるのか、少々興味がある。
こんなことを思い出しながら「新・肥後細川藩侍帳」の福田家・中津家の項の改定を済ませた。
[侍帳改訂作業] 昨日は安場氏、そのために安場保吉氏編の「安場保和伝」(藤原書店)を取り出して読む。
その内容は出版社の書籍案内には「総理にも動じなかった日本一の豪傑知事。「横井小楠の唯一の弟子」(勝海舟)として、鉄道・治水・産業育成など、近代国家としての国内基盤の整備に尽力、後藤新平の才能を見出した安場保和。気鋭の近代史研究者たちが各地の資料から、明治国家を足元から支えた知られざる傑物の全体像に初めて迫る画期作。」とある。
編者はご子孫の安場保吉氏、残念ながらこの本の刊行(2006.4.31)を待たずに、2005年に亡くなられている。
書名のごとく全448頁の内容はほぼ「安場保和」一人のことで占められている。
保和の活躍の時代ごとを、10人の近代史の識者や関係者が分担して著されている。
- 熊本・維新時代 / 花立三郎 [執筆]
- 明治政府成立時代 / 三澤純 [執筆]
- 福島県令時代 / 福井淳 [執筆]
- 愛知県令時代 / 住友陽文 [執筆]
- 日本鉄道会社の創設へ / 中村尚史 [執筆]
- 元老院議官・参事院議官時代 / 中野目徹 [執筆]
- 福岡県令・県知事時代 / 東條正 [執筆]
- 貴族院議員時代 / 小林和幸 [執筆]
- 北海道庁長官時代 / 桑原真人 [執筆]
- 安場咬菜管見 / 鶴見俊輔 [執筆]
最後にわずか1~2頁に先祖以来のことが書かれているが、すでに承知のことばかりであった。
初代九左衛門は、幽齋の田辺城籠城の際、堀を潜行して敵方・小野木縫殿助方に入り込み情報収集をしている。
先祖は伊賀氏(三郎を名乗る)だと伝えられ、なぜか服部氏を名乗ったりしており、忍びの家系をうかがわせる。
解説をしている安場保吉氏は、幽齋を二度にわたり忠興とする間違いを犯されている。
4代目の一平は、赤穂浪士・大石内蔵助の切腹の際介錯役を務めてその名を挙げた。
そして、この本の主人公・保和は11代目にあたる。
安場保和には男子がなく、長女が下津久馬の二男・末吉を婿養子とした。
下津家は公卿久我氏、加藤清正に仕えた下津棒庵の子孫である。その子孫は細川家に仕えた。下津久馬の弟が山形典次郎である。安場氏に公卿のDNAが入った。
保和の次女・和子(ウイキペディアでは愛子としているが間違いか)は後藤新平に嫁いでいる。
その娘婿が靍見祐輔、その子が鶴見俊輔である。
保和の活躍は燦然と輝いて、その女子も良き伴侶を得られ、ご子孫は政界・財界・言論界・教育界等で活躍され名を成しておられる。
ご同慶の至りである。
付けたし:
全く偶然だが、その後磯田道史氏の「近世大名家臣団の社会構造」を読み、何気に「あとがき」を読んでいたところ、編者の安場保吉氏にお世話になったと書かれていて、偶然なことに驚いてしまった。
安場保吉氏は大阪大学教授で経済学者だが、磯田氏は「社会経済史学会」にも籍をおかれておりその関係であるらしい。
「新・肥後細川藩侍帳」の改定作業の中で、現在「魚住氏」でうろうろしている。
播磨屋さんの「武家家伝 魚住氏」によると、魚住氏は「播磨国明石郡魚住」に住していたとされる。
細川家には三つの流れの魚住氏があるが、三流とも播磨との関係は見て取れないが、いずれにしてもその出自はそうなのであろう。
一つの流れは青龍寺以来の「魚住市正昌永」を祖とする「魚住万之允家(南東31-18)」と「魚住格助家(南東31-19)」である。
市正昌永 若州逸見一族にて、家老相勤候、逸見駿河守没落已後、於青龍寺被召出、御知行
百石被下候、其砌丹後御拝領、国人御取鎮之御人数不足之御様子ニ付、逸見の家
来残居候者共相催し、罷越相勤候処、御懇之御意被成下候、高麗陳其外所々御陳
之御供仕、相働、追々御加増三百石被下、御鉄砲十五挺御弓十五張の頭被仰付候、
豊後木付ニ被差越、於彼地働申候、豊前御拝領之節、木付并数度戦功之為御褒美、
御知行千七百石御加増、都合二千石ニ而御郡代、御留守支配相勤、病死
いま一つは丹後以来の「魚住加賀(右衛門兵衛)」を祖とする「魚住勝門助家(南東31-21)」「魚住武兵衛家(南東31-20)」「魚住太郎家(南東31-22)」の三家である。
加賀(右衛門兵衛)
丹後にて被召出御知行三百石被下候、此節(立石表於鑓下)之御加増千七百石都
合二千石被仰付名を加賀と改被下、御鉄砲五十挺御預被成候、其後病死
木付に於ける戦功に対し黒田如水から右衛門兵衛への感状 (綿考輯録・巻十五)
一昨日之御働、手柄之段、松佐州・有四郎右御物語候、於拙者満足不過之候、
今日爰元相済候而、明日其地参、面を以万々可申入候、恐々謹言
九月十五日 如水軒 書判
魚住右衛門兵衛殿 参御宿所
右衛門兵衛(加賀)の御子孫にはご厚誼をいただいており、黒田如水の感状を家宝としておられる。
魚住太郎家の9代・勝熊(源次兵衛・勤)三百石・御鉄炮頭
魚住 勤 名は勤、初名は良之、又眞郷と云ひ、源次兵衛と称す。世禄三百石、
藩に仕へ鉄炮頭となる。林櫻園に学びて国体の学を修め、又剣槍及び射を善くす。
我が藩に於ける古勤王の巨頭たり。威信の際に於て勤王党一方の領袖として国事
に盡瘁せり。明治十三年九月歿す。年六十四。墓は上益城郡白旗村にあり。
遺著山陵遥考あり。明治三十五年一月従四位を贈らる。
あと一家どちらの流れにも属さないと思われる「魚住助左衛門家(南東31-23)」もある。郡代などを勤め200石。
付けたし:
さて、NHKのアナウンサー・魚住優氏(福岡局)は女優・浅野温子さんの一人っ子で、父親は作詞家の魚住勉氏であり、勉氏は熊本のご出身、ご先祖様はどちら様なのか、いまだ手掛かりが掴めずにいる。
ファミリーヒストリアで取り上げてもらえないかしら・・・
史談会の資料作成などで数日「侍帳改定」の作業がストップしていた。
昨日の日曜日は完全休養、今日は図書館に出かけようと思ったが、左ひざ痛がひどくて断念。
墓地情報を侍帳に反映させようと思っているが、これはなかなか難儀、いろいろ資料を読みながら各お宅の侍帳に書き込む。
I 家の墓地が富尾園墓地(崇城大学グランドの真裏)であったという情報を書き込んでいないことに気づき、確認のため資料の山をかき分ける。
間違いなかった。高田Drの遺品「北部地区文化財調査報告書」をようやく見つけて確認すると「大里・林・余田・清成・樹下・八並・田尻・上田・稲津・橋爪・富田・崎村・平野・西村・蒲田」の諸家が集中している。
大分以前当地を訪ねたことが有るが、こんなにたくさんのお宅の墓地は発見できなかった。場所が広範に広がっているのか。
これらのお墓が現在も存在しているかどうかを確認したいが、バスの便もあるのでいつか出かけようかとも思う。
まずは、侍帳に仮に書き込みをした。2年で済ませたいと考えたが、現況むりだな~と思いつつある。
いつものいい加減さで、機嫌を2022年いっぱいに延長しようと思う。
言い訳「かかりっきりだと他に何も出来ない」
まだ押し入れの中に鎮座している、資料を取り出していると面白いものに出会い、本来の仕事を忘れ時間のたつのを忘れてしまう。
そしていくつも出して床の上に重ねていたら、山崩れになり足の踏み場がなくなり、元の場所に戻すのが大事になってしまった。
それでも「侍帳」に反映させるための資料がいくつか出てきて、それなりの成果はあった。
贈呈いただいたいくつかのお宅の家系図を眺めながら、侍帳に書き落としていた「諱」なども反映させ、養子の方の実家や、女性の嫁ぎ先などに情報を書き込む。
次第に侍帳の情報が濃密になってきた。
ここ数日この作業にのめり込んでいて、爺様は少々お疲れ気味である。
図書館で収蔵の先祖附の情報を、PCを持ち込んで直接打ち込もうと思っているが、この調子では我が家での作業がしばらく続きそうな気がする。
いろんな方から色々な資料を頂戴していることを再確認し、改めてありがたく感じている。
今後ともよろしくお願い申し上げたい。
侍帳の改定作業の中で、「忍者」のお宅に出くわした。
底本としている侍帳「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」には、「忍之者」として七人の名前がはっきりしている。
拾五石五人扶持 吉田助右衛門
同 野田喜兵衛
知行五十石 沢 吉右衛門
拾石二人扶持 福川小右衛門
同 松山小兵衛
同 下川嘉兵衛
同 上野又右衛門
寛永十年忠利はなぜか忍之衆の増員を言いだしている。
■ 覚
一、しのびの者今十五人程度抱度由申候何そ役可在之候哉
寛永拾年九月十日
■ 一、十五人しのひ之者抱たし候と助右衛門尉ニ可申候 切米拾石ニ三人扶持にて可然候以上 御印
一、なにもしのひ之者何にても助右衛門尉相談候而召遣可申候以上 御印
上記7人のリストの筆頭に在るのが、これを言いつけた助右衛門である。
森田誠一氏は「伊賀・甲賀資料」から細川家には18家の忍者が存在していたとされる。
朝倉・浦・牛島・岡村・栗原・沢・沢村・坂井田・下川・花田・藤村・福川・松田・村田・森川・山内・吉村・笠ETCである。
上の表と重複しているのは沢・福川・下川の三家だから都合22家ということになる。
又、光尚公の時代になっても忍之衆は存在し、27人もいたことが「正保五年御扶持方御切米帳」によって確認できる。
名前は残っているが、この様にほとんどが扶持米取の家だから、先祖附が遺されていない。
幸い先祖附が残るのは、松田・吉村・野田・上野、山中・黒川でありある。但、忍者と明記されているのは黒川・山中の両家のみである。
野田喜兵衛なる人物については、熊本史談会の長老K氏が「家内の実家は野田、忍者です」とよく言われていた。綿考輯録には次のように記されている。
天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、
丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月
迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをお
めすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候
ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様
子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
三斎様御詠歌
天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり (綿考輯録・巻ニ十六)
天草家の家老を勤めた野田喜膳(後・喜兵衛)が忍者とは驚きだが、そのいきさつは良くわからない。
わが「新・肥後細川家侍帳」にどう反映させようかと思案している。
図書館に出かけることなく手元の資料で「侍帳」の改訂作業を進めている。
財津氏 「西国武士団関係史料集八」にある、財津家の知行宛行状の記録を加筆する。
また、NHKファミリーヒストリアで取材に協力した際の、歌手・財津和夫氏のルーツを調べた際の記録を
加筆する。
俳優・財津一郎氏について加筆する。
山形氏 家系研究協議会の会誌「家系研究」の58号~68号 相良一夫氏の論考「肥後熊本藩士の山形氏について」
を参考として加筆する。かなりの齟齬があったが修正が出来たと思っている。
また貴重な系図から関係する諸家について関係先に記載する。
澤氏 熊本史談会の会員でもあった澤治彦氏が、10年来の研究調査で「澤家累代の歴史」をまとめ上げられた
が、惜しくも去る9月28日に急逝された。突然のことで茫然自失のことであったが、お葬式に参列して
お別れを申し上げた。
当方もいくつかの新事実を資料として提供したが、これらも同上資料に明記していただいている。
詳しい系図が遺されており、これらを参考に転記補強した。
また、花岡興輝著「近世大名の領国支配の構造」も参考とした。
その他、手元にある諸家の先祖附を取り出して精読を始めた。そのつどUSBの原稿に修正を加えている。
なかなか、面倒な作業であることを実感している。
「侍帳」整備二日目は、足の具合が良くなく今日も図書館まで出かける元気がなく、手持ちの資料を開いて間に合わせている。
今日は、越後騒動事件で遠島処分を受けた小栗美作の七人の子息の内の四男~七男の四兄弟の内の一人(六男)九十郎政常に関する資料「越後騒動之犠牲者・仙台小栗氏考」と、手元に所持する「先祖附」「小栗氏御預人一巻」等から、小栗半十郎家(南東13‐16)に取り掛かった。
小栗七兄弟の配流は四十年にも及ぶ過酷なものであり、資料を読んでいると同情を禁じ得ないでいる。
四男は罪が解かれた後、京都にいるという姉を訪ねたのち帰国しているが、子孫に関する資料は見当たらない。
五男は18歳、七男は34歳で亡くなっているから、質屋から解放されることもなく死去している。
六男・九十郎は50人扶持を頂戴して御番方に召し寄せられた。以降7代に至るが御番方に属し最後は30人扶持に至っている。
途中二人の養子が入っているが、5代の常辰が原田常丞の弟であり、この原田家は時習館教授・高本紫冥の実家である。
そのような事実も踏まえ、原田家の「侍帳」にもこのことを書き込む。
図書館に出かけ、先祖付を読みながら一日五件と大言壮語したが、今日の塩梅からすると、せいぜい三件が良い処だろう。これでは二年では終わりそうにない。
少々絶望的になってきた。どうやら「長生きしろ」ということらしい。