旧姓平田、初代因幡の室はガラシャ夫人の御側近くに在った小侍従である。嫡男・平田彦三は金工家として名をなしている。
その為甥・彦之進を養嗣子トシ因幡娘と娶せ二代目とした。
百五拾石 松本助左衛門
初代
一、先祖平田因幡儀江州佐々木之氏族ニ而近江
之内領地仕居申候処佐々木家没落ニ付離散
仕
権現様尾州名護屋江被成 御座候刻奉仕
其後江戸江御移被遊候節御供被仰付候得共
京都江難見放親類共多居申候ニ付御断申上
浪人ニ而京都江居住仕候処
三齋様兼々御懇意被仰付是非丹後江
参候様ニと米田宗堅老を以度々被仰下難
就止趣ニ付丹後宮津江罷越候得は被為留置
種々御懇意被仰付百石之御合力米被為
拝領
秀林院様江被召仕候小侍従と申女因幡江
嫁娶被仰付御奉公相勤居申候慶長五年
七月石田治部少輔逆心ニ而田邊御城江人数
差向候刻因幡儀加納曲斎と一同ニ宮津之
町所を地焼仕御城江籠候得共
幽齋様御櫓被成御預堅相守敵を坊働申候
左候而御利運ニ成
三齋様関東ゟ被遊御帰陳候付因幡儀御途中迄
罷出候処籠城之次第被聞召上御感之旨被仰出
夫ゟ直小野木縫殿助御責被成候付福知山江被召連
罷越相働申候其後豊前江御入国之上丹後已来
忠義御感之旨御意ニ而御知行三百五拾石被為
拝領名字御改被下松本因幡と御書出被成下候而
御城北の御丸を被成御預度々被為掛御腰候其後
三齋様御灸治被遊候節灸之御相伴被 仰付
御前相勤申候處不図気■悪敷■入仕候ニ付
御直ニ御薬等被為拝領候得共快気不仕宿所江
引取病死仕候右因幡江被下候小侍従儀は明智
日向主殿ゟ 秀林院様江被御附置候女ニ而
御座候 太閤秀吉公御代伏見之御城為
御見物諸御大名様之奥方被為 召候刻
秀林院様江は 御出被遊間敷由ニ而山内と
申所江御立退被成候然共御出不被遊候而ハ難
ニ為叶趣ニ付而小侍従申上候は乍恐私儀奉以
御面躰候由常々何も申候間憚多奉存候得共
御名代罷出申度旨奉願間御城江罷出
高蔵主御取次ニ而 秀吉公御前江被 罷出
御機嫌能御直ニ御茶被下御小袖被為拝領
首尾好罷帰其後右御禮罷出相勤申候ケ様
之儀ニ付因幡果候以後も後家江御合力米被為
拝領娘屋々江段々御懇ニ而被成下御文等于今
所持仕居候小侍従儀は於豊前仲津病死
仕候因幡嫡子平田彦三儀は各別御知行
百石被為拝領當御国江被御供仕罷越八代ニ而
病死仕候
二代
一、高祖父松本彦之進儀実は先祖因幡甥ニ而
御座候を養子ニ被仰付因幡娘屋々と申女幼少ゟ
御側江被召仕候を嫁娶被仰付因幡為跡式
於豊前御知行貮百五拾石被為拝領當御国江
御入国之節御供仕罷越御郡奉行等相勤寛永
廿一年病死仕候
参照 平田家の人々