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今年熊本は未曽有の大地震に遭遇し、多大なる被害を蒙りました。
全国の皆様から暖かいお励ましをいただき、何とか日常を取り戻しました。改めて深甚なる感謝と御礼を申し上げます。
本年も当サイトをお訪ねいただき有難うございました。
津々堂・敬白
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今年熊本は未曽有の大地震に遭遇し、多大なる被害を蒙りました。
全国の皆様から暖かいお励ましをいただき、何とか日常を取り戻しました。改めて深甚なる感謝と御礼を申し上げます。
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津々堂・敬白
年賀状も出し御仏壇や部屋の掃除も終わり、すっかり一段落すると全く暇になってしまって又ヤフオクで歴史関係の本を眺めることになる。
そんな中「財津文書」という文字が飛び込んできたので調べてみると、「西国武士団関係資料集」の一冊であることが判った。
先にNHKの「ファミリーヒストリー」の財津和夫氏編で少々財津家についてお手伝いをしたこともあって、遅ればせながらの興味が涌いてきた。
先の■古文書落札でも書いたように今年のヤフオクはお終いにしたつもりだったが、またまた入札・落札してしまった。
細川家には豊後大友氏の旧家臣の家が数多くある。「西国武士団関係資料集」をみると岐部氏・田原氏・吉弘氏・佐田氏・清田氏等が該当するのではないかと考えられる。これらも買い揃えようと考えている。 (ヤフオクこれにて本当に打ち留め・・・・)
熊本地震で映画館もご多分にもれず大きな被害をうけた。最近改修なって次々にOPENしたというニュースがあり映画フアンの方々には朗報である。
そんな中私はもう随分長い間映画館に足を運んでいないが、来年公開予定の遠藤周作原作の「沈黙」は是非とも見てみたいと思っている。
小説は随分長い時間をかけて読了した覚えがある。なんとも読むのが辛くて中休みが必要だった。
公式HPを見るとすごい作品に仕上がっているようだ。年末・正月にかけて再度読んでみようと思っているのだが・・・・
この年末にヤフオクで八点の古文書を落札した。欲しい古文書を落札できなかったことがきっかけで少々ムキになってしまった。
応札者をみると数百点の落札記録を持つ人ばかりである。それゆえ大いに競り合って金額的にも無理をしてしまった。
年金生活者にとっては少々道楽が過ぎたという感じである。
その他古本の落札を含めると記録が残る8月31日から33点に上った。
一方小説の類などの数百冊の本を処分するなどして本棚の整理も行った。
未だ到着しない本が一冊、まだ支払いを済ませていない本が三冊、これにて今年のオークションは終了である。
過日私はヤフオクで競りに競って一通の書状を落札した。
細川左京が長岡左近に宛てたというもので大変珍しいものであり、内容は松井与兵衛の病状を憂うものであった。
左京は光尚の弟・尚房、左近はその弟元知である。松井与兵衛は松井寄之の二男正之、左京にとっては妻・万の兄(弟?)という関係である。
松井与兵衛は江戸證人として江戸で過ごした事もある。それが故か長岡姓を与えられた。寛文六年(1666)三月22歳で死去した。
ご多分に漏れずこの書状には年記がない。病状を憂う書状であることから、死の直前ではないかと考えられる。
左京は寛文5年新知20,000石を受領する。一方元知は家老職にあった寛文9年藩主綱利の陽明学徒追放の処分に諫言して永蟄居の処分を受ける。
綱利は寛永20年の生まれ、同世代を生きた細川一族の人たちのそれぞれの人生の悲喜こもごもが垣間見える。
細川忠興---+---忠隆 南条元信
| ‖----------吟
+-----興秋(与五郎)----鍋 ‖
| 元知---米田元庸
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+--忠利--------+---光尚---綱利 寛永20年(1643)生れ
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| +---尚房(左京) 寛永14年(1637)生れ
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| +---元知(左近) 寛永18年(1641)生れ
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+--松井寄之----+---直之
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+---正之(与兵衛) 正保2年(1645)生れ
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+--- 万 (尚房室)
後藤又兵衛の男・又一郎と、切支丹故に誅罰された細川家家臣・小笠原玄也とは共に加賀山興長の女を娶り相婿の関係にある。
小笠原玄也はガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の男である。切支丹棄教をかたくなに拒み、家族や奉公人ともども誅罰された。
後藤又一郎がどういう経緯で加賀山興長女りゆを娶ったのかが疑問であったが、過日購入した行橋市歴史資料館の「後藤又兵衛の出奔と細川忠興」展の図録に、「後藤又兵衛が加賀山興長妹を娶っていた」事を示す略系図が掲載されていた。
これは福田千鶴氏著「後藤又兵衛」から引用されているということで、一昨日Amazonに購入予約を入れた。
こんなことは諸兄にはすでにご存じの事かとは思うが一応略系図としてみた。
小笠原少斎-----+---備前・長基(6,000石) 室・忠興姪吉田二位女・たね
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+---宮内・長良(600石) 室藤孝女・千
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+---与三郎・玄也
‖---------源八郎他八人
+---加賀山隼人興長---+-----みや
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| +-----りゆ
+--------● ‖
‖ ‖
後藤又兵衛-----------又一郎
元禄14(1701)年3月14日、上野介が江戸城で赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に切りつけられたが、記録によると、事件から7日後の同年3月21日付の手紙では、「吉良上野介に対し浅野内匠頭、三月十四日不慮の事件があった」と、事件の報告を受けていたことが記されていた。これが、4月5日付の手紙では「浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたい」とされ、事件の受け止め方が変化していた。
同じ手紙の中には「吉良殿、お痛みも軽く、食事も相変わることがない由、ご注進を受けた」とも記され、上野介の順調な回復ぶりを把握していた。
差出人は中川玄蕃頭、岡藩中川家の家老だと思われる。宛て先は細川家家老長岡(米田)監物である。
どうやら天草島原の乱に際しての書状だと考えられる。
拡大コピーしてみたが文字がつぶれてなかなか判読しづらい。
内膳正とは板倉重昌のことか(この日付の時期を遡る1月1日の攻撃で戦死している)
内容は、片桐□□左衛門・新庄二郎左衛門という牢人衆両人が、牧野傳蔵の処へ参るので川尻より渡海の為の舟を出してほしいといったものである。
この二人は内膳正もご存じの人物だとも記している。牧野傳蔵とは御府内御目附のことであろう。
12月17日に放映されたNHKのブラタモリは、タモリ氏の地元目黒地区だった。
雅叙園が出てきたがこれが細川家の抱屋敷跡であることは承知していたが、地理的なことの説明があるとなるほどと納得させられた。
雅叙園の建築主は細川力蔵だというが、この人物は熊本細川家とは関係なさそうで偶然のことらしい。
細川家の史料を見ると「大崎屋敷」「永嶺町屋敷」などと呼んでいる。
わが熊本史談会の会員・F氏がまとめられた195頁に及ぶ「藩邸沿革」に詳しい。
文政10年12月21日、この日杉浦仁一郎が奉行になっている。当時の藩主は齊護であるが、齊護が藩主になるについてはこの杉浦が尽力している。
前藩主・齊樹が病となり江戸に於いては一ツ橋家(正室実家)からの養子を迎えることが画策されていた。
文政9年1月15日江戸留守居・中川唯之允が江戸から急使として国元へ馳せ帰りこのことが報告された。細川の血脈が途絶えることを憂いた藩重役は、幸い在国していた先の藩主(齊樹の父)浜町様(齊茲)を説き宇土支藩藩主・立政を次の藩主に迎えんと決した。
そのことを江戸へ伝えるための難役を務めたのがこの杉浦仁一郎(当時奉行副役)である。1月18日杉浦は熊本は熊本を発ち、一日前に再び江戸へ向かった中川を箱根で追い抜き熊本ー江戸間を八日間で馳せ抜けて大役を果たした。
2月12日齊樹が死去、29日には宇土支藩藩主・立政を次の藩主とするべく幕府に届け出、3月28日是が認められ本家相続となった。
今もって語り伝えられる杉浦仁一郎の名をたからしめた事件である。
■藤崎作右衛門(初 喜八郎) 藤崎作右衛門家2代
原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
(1)御詰衆 八百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)有吉内膳組 八百石 (寛文四年六月・御侍帳)
(3)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
■松野又右衛門(善右衛門)大友宗麟を祖とする松野織部流松野一葉家5代
下馬久馬組御番方二番組 五百石
■宮村益太(平馬) 宮村典太家(2,000~1,200石)6代
■宇野忠左衛門 300石宇野一之助家5代
宛名は細川家三家老、書状の内容は判らないとして出品されている。
何とか読もうと思ったが不可能である。差出人の三名の名前が大きくされているが、これをみて「おっ」とおもった。
随分以前この人物についてご紹介した記憶があった。ブログ内検索をしたら確かにあった。
十時三弥という人
この書状の内容が気になってきた。応札してみようかと思っている。