友人から妙解寺の忠利公のお墓に至る参道部分に、伊丹次左衛門尉景重が寄贈した石灯篭があるのを知っているかとのと知らせを受けた。
月末福岡からお客人があるらしく、いろいろ調べて居られる中でのことである。
伊丹次左衛門とは
景重(かげしげ)始め黒田次左衛門、ついで伊丹半弥と改。黒田蔵人正重
(のち伊丹角助)が嫡子。豊前に於て忠興に別禄五百石で召出さる。
寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石、黒田を伊丹に改。鉄炮百挺頭、
のち佐敷番代。致仕後百人扶持を与えられる。83才にて没。年月不詳。
父・黒田蔵人正重(伊丹角助)は時枝城主の時枝平大夫の二男である。その室は黒田如水を有岡城の地下牢から助け出した加藤重徳の娘である。
蔵人の召出しに当たっては、黒田如水と争った逸話が残されている。
黒田蔵人召出しの経緯(大日本近世史料・細川家史料 7-1710 元和五年十月十五日書状 )
熊本にあっての正重は、後室であろうか家老長岡(米田)是政の娘を娶っている。この人は細川忠興によって誅伐 された飯河肥後の室であったがその後正重に再嫁している。是政の子・興季(与七郎・監物)が慶長十二年この事件後豊前を退去した。帰参したのは元和八年の春である。
私は一昨日全く偶然に、伊丹角助が長岡監物にあてた書状をM家所蔵文書の綴りの中から発見した。
宛先は監物殿と在る。角助は寛永十八年に遺領を相続している。その時期の米田家の当主は二代是季であり、宛名の人物と考えられる。文中に助右衛門・甚内の名があるが、助右衛門は三代の是長(与七郎・左馬允・助右衛門・監物)、甚内とは助右衛門の養子・是庸(勝千代)である。是庸は細川忠利の末子・長岡左近元知と是長女の嫡男であり米田家四代となった。
つまり此の書状は是季に妹聟である角助があてたものであることが判る。
内容は「鷹」に関することで、角助は江戸にあって国元の監物にあてたと考えられる。この中に「柄隠(へいいん)」と脇に書かれたM先生の文字と思われるものがあった。柄隠とは何のことだろうと色々考えるがよくわからない。文章の前後を見ると「助右衛門殿ゟ柄隠之鷹之儀・・・・」とある。
これは「柄」ではなく「栖」ではないか、そうすると「栖隠」となりある人物の名前がひらめいた。荒木村重の娘(荒木局)の養子となった村次の子・村常の事だとされる。細川家に仕えたが、その系譜「細田系荒木氏系図」はそのあたりがつまびらかではない。細田氏を称し栖隠と名乗った。
この細田栖隠をしらべると、この文書が書かれた時期がかなり絞られてくる。
栖隠については過去に有馬一揆と細田栖院を書いたが、此処にある通り有馬に駆けつけて初御目見をしている。つまり寛永十五年召し出しということになる。
伊丹角助の書状は栖隠の召し出しの寛永十五年から、蔵人が亡くなった寛永十八年の間、江戸から熊本へ送られた書状である。
まことに謎解きが楽しい文書である。今後ともいろいろ精査してゆきたいと思っている。
友人のお客人は加藤重徳(伊丹氏)のご子孫や、荒木村重のご子孫だとお聞きしている。
伊丹氏と荒木村重の関係を求めての来熊らしい。この文書をご紹介しようかと考えている。