津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

桜の馬場

2006-11-27 22:24:12 | 徒然
 熊本城内に国の色々な出先機関が入る合同庁舎がる。かってはこのあたりを桜の馬場といった。つい先日手元に届いた、熊本市の「市政だより」の「熊本城みてある記」に、この桜の馬場が紹介されている。昼下がり仕事で外に出たおり、思い立ってコースを替えて桜橋から城内に入った。先の「市政だより」によると、桜の馬場の入り口・坪井川にかかる桜橋の脇あたりに、宝暦の大改革で名高い家老にして大奉行の、堀平太左衛門の屋敷があったとの事だ。坪井川へ出る川手口が現在も残されている。平太左衛門は多忙の人であったが、たまには釣り竿などを片手に川手口から顔を覗かせたのではないか等と考えたりした。しばし物思いにふけっていたら、後続の車のクラクションに吃驚して一目散の退散と相成った。銀杏やもみじが紅葉して、秋の風情真っ只中の熊本城である。
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司馬遼太郎は・・・

2006-11-26 21:19:01 | 書籍・読書
 大好きな出久根達郎氏の「あらいざらい・本の話」を読んでいたら、「司馬文学の鍵」という項があった。その中に講演で語られるご当地昔話の中に、「細川家と肥後モッコス」というものがあるのだそうな。初めて知った話だが、どうやら講演集のCDに入っているようだ。「幾つかのエピソードは、氏が小説を書く上で集め、小説に使わなかったものだろう」と出久根氏は解説する。

 司馬氏は昭和48年に熊本に講演で訪れた際、「熊本を題材に小説を書いた事は無い。それは熊本が難国だからだ」といっている。加藤清正や細川家を持ち上げ、隣国薩摩を○○呼ばわりしている。(詳細はサイトの中の「司馬遼太郎と熊本」を参照されたし)熊本での講演だから、司馬氏のリップサービスだろうが、一寸大人気ない発言ではある。それにしても出久根氏が見たという講演集が気にかかる。
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武士の家計簿

2006-11-26 09:24:13 | 書籍・読書
 磯田道史著「武士の家計簿」はなかなか面白い。切米四十俵の「ご算用者}の猪山家が、その才能をもって100石の知行取になり、さらに嫡男は知行を増やして180石になった。この著作は、その猪山家の詳細を極めた「金銭出納帳」を解読して平易に紹介しているが、武士の生活の有様がよく分る。

 猪山家の出世の糸口は、加賀前田家の家臣として、藩主前田斉泰と将軍家斉の娘・溶姫の婚礼に当たりあの赤門(東大)の建設その他に勘定方として尽力した事による。四十俵の身から、一躍新知七十石の身分と成り、溶姫のお側にあって「姫君様御勘定役」になっている。その折、主君斉泰から骨折賃として「七両」拝領している。年収の半分に当たると磯田氏は解説する。

 我が家の二代目も、細川綱利女・光姫の婚礼に当たり「御道具支配人」を仰せつかっているが、後藩主綱利から三両、光姫から二両を拝領している。元禄二年のことであるが、七年後光姫は他界した。一両の相場は5~6万円というから、25万~30万のボーナスが出たということに成る。擬作百石の我が家にとっても有り難い事ではあったろう。
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松井営之

2006-11-25 21:26:03 | 歴史
 細川家筆頭家老・松井家七代営之(ためゆき)は、その肖像を見る限りにおいては、品のいいお殿様という感じだが、笑顔も滅多に見せない頑強の人であったらしい。宇野東風著の「霊感公記」には「屋敷内の人々恐を抱き、兎角気味悪くて・・・」と記されている。細川重賢の懐刀・大奉行堀平太左衛門の宝暦の改革に、奉行としてその片腕となった井口庄左衛門という人がある。あるとき、営之と庄左衛門との間に大論争があり、腹に据えかねたのであろう営之は、細川重賢に対し庄左衛門拝領を申し出る。その夜重賢は庄左衛門を居間に呼び、御盃を与え返盃を受けられたという。「お暇乞の御心」を察した庄左衛門は、立ち帰って切腹して果てるのである。果して営之と庄左衛門の間の論争とは何であっのか・・・。宝暦の改革は、松井や米田・有吉といった宿老達は蚊帳の外にあった。今一人の家老・有吉内膳などは、事もあろうにその家臣が堀平太左衛門を呪詛し、事が露見して永蟄居となったりしている。宝暦の大改革に当たっての、産みの苦しみである。
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夫婦同室のすすめ

2006-11-22 13:14:44 | 徒然
 なんとなく体が左に傾いだと思ったら、思い切り頭と肩を家具にぶつけて、その弾みで逆方向に転倒してしまった。すごい音がしたのだが、どうやら家族は気がついていない。「死ぬときは案外こんな状態かもしれないなー」と一瞬考えた。頭と腕を押えながら出て行くと、妻が不思議そうな顔をしている。なんとなく疲れが溜まっていたせいだろう。寝るに限ると早めに床に入った。一昨日の話だ。昨日今日と何となく頭が痛い。よくよく考えてみたら一昨日のせいだと思いついた。「老人ボケだー」
 
 老人で夫婦別々の部屋で生活をする事の危険性を、以前から人様に話している。齢を重ねたら夫婦は、なるべく近くに居る事が必要だ。もしもの時に、側に誰かが居るという事で安心して生活できる。ご主人のいびきに悩まされて、十数年寝室を別にしていた老夫婦が、私の提案に合点された。後日談だが「誤解してもらっちゃー困るが、ベットは別ですぞ」とのたもうた。・・・・知った事か・・・
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市営花園墓地

2006-11-17 20:53:05 | 徒然
 お昼の時間暖かさに誘われて、花園墓地を訪れた。加藤清正が眠る本妙寺浄池廟の、すぐ東に連なる広大な墓苑である。探し出したいお墓が色々有るのだが、すっかり整備されてかえって分りずらい。最上段部に宝暦の名奉行・堀平太左衛門と一族のお墓が、東に細川家菩提寺泰勝寺を真正面に見るように並んでいる。少し下ると岩間一族(武田信玄の嫡男義信の子・岩間六兵衛の胤)のお墓が十数基、中央を数メートル四方開けてお互い向き合うように四角に並んでいる。武田菱の家紋が確認できる。藪慎庵のお墓は、ひっそりと廻りの大きなお墓に囲まれている。お参りされた跡が伺え、ご子孫が熊本においでなのだろう。その他幾つかのお墓を確認したが、又ゆっくり時間を掛けて訪ねよう思う。掃除道具を一抱えしたご老人と挨拶を交わし、墓苑を離れ俗世に戻った。
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彦斎死んで神社を残す

2006-11-16 20:22:17 | 歴史
 ジンギスカン死んで「ジンギスカン鍋を残す」などと戯言があるが・・・
 
菊池氏を祀る菊池神社、加藤清正を祀る加藤神社(錦山神社)、それぞれ地元熊本では著名な神社である。この両神社の創建は、河上彦斎が「菊池・加藤氏の顕彰」を建白したことが発端らしい。細川護美が朝廷に建議して決定をみたのだそうな。そんな彦斎は神風連の人たちと共に「桜山神社」に祀られている。尊王攘夷の志士としてである。
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サイトの存亡

2006-11-12 13:46:12 | 徒然
 サイトを運営していると、止めようと思うことが度々ある。心無い中傷などはグサリとくる。一方励ましのメールや、喜んでいただいている様が実感できると、意欲が湧くという次第である。当然の事ながら日々勉強に勤めなければ成らない。
歴史系サイトで、素晴らしいものが閉鎖されてしまって寂しく思うことが度々あった。お若い管理者にとっては、時間の問題も有ろうし仕方ない事かとも思うが、再度アップされる事を期待したい。今日サイトを閉鎖する旨のメールが飛び込んできた。ご厚誼いただいているMS氏からのものである。ある事件を主題にしたすばらしいサイトで、この事件を知る上では貴重なサイトである。細川藩に関する情報も沢山有り、突然のことで吃驚してしまったところだが、なんとか思いとどまって欲しい旨のご返事を差し上げた。サイトの管理人として、MS氏の心の葛藤が理解できる。サイトを運営し多くの皆さんに活用していただくと、サイトは半ば公のものとなりより、真実を伝えようと考えると書かずもがなのことを書かざるを得なくなり、非難をいただく事がある。今日の時点で、まだサイトは生きている。どうか継続されるよう願ってやまない。只々祈るしかないのが辛いことである。
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中着座・比着座

2006-11-12 10:20:25 | 歴史
 先の座班「上着座」に続き、「御国中御侍以呂波寄」から「中着座・比着座」を取り出してみた。(イロハ順)
   中着座
    ・片山多門  (2000石)
    ・柏原九八郎 (4400石)
    ・蒲池喜左衛門 (100石・足800石)
    ・谷権右衛門 (1500石)
    ・益田弥一右衛門 (1500石)御用人
    ・佐藤仙右衛門(3000石)
    ・木村男史  (3000石)
    ・三宅藤助  (2000石)
    ・平野新兵衛 (2000石)御用人
   比着座
    ・飯田長助  (450石)
    ・西山大衛  (1279石余)
    ・堀寿三郎  (1000石)
    ・竹原勘十郎 (215石・足450石)
    ・竹原清大夫 (500石)
    ・中瀬助之進 (1200石)
    ・藪弥次右衛門(3000石)
    ・槙嶋半之丞 (1000石)
    ・松野左膳  (2000石)
    ・松崎宇平太 (500石)
    ・藤崎作右衛門 (1300石)
    ・郡織衛   (1800石)
    ・沢村八之進 (2000石)
    ・尾藤助次郎 (3000石)

  時は細川重賢の時代である。蒲池喜左衛門は24年間奉行職を勤めた。竹原勘十郎は、大奉行堀平太左衛門を重賢に推挙した人である。重賢と堀平太左衛門により肥後の「宝暦の改革」は実行された。
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「押込」

2006-11-12 09:08:49 | 歴史
 笠谷和比古著「主君『押込』の構造」が面白い。大方その原因は主君側にあるようで、TVに登場する悪家老の仕業とはならないようだ。この「押込」は一般の家でも行われる。藩庁に対する慮りと共に、その家の存続が大きな要因となる。

 ●●三郎右衛門(1500石)の二男一角は、御番頭○○清左衛門(1300石)に請われて養嗣子となる。兄から二百石を分知され、若干18歳で奉行副役を勤めたという一角は、才気にあふれ出世欲に満ちた人であったようだ。一方○○清左衛門は、この一角を養嗣子として家勢大なるものにしたいと考えた。実子があるにもかかわらずである。藩庁は、この縁組の真意を承知の上で容認したものの、奉行職は解任された。大組付・・八代御番頭・・御留守居御番頭・・鶴崎御番代などを勤めたが、政治を動かす立場の役方からは遠のき不満が嵩じたらしい。清左衛門(一角)は、「不本心體に付、被下置候御知行家屋敷差上申度由、一類より奉願、願之通御知行家屋敷被召上旨被仰出候事」となり七百石の身となった。この一類(親族・家族)の意志こそが「押込」である。その後清左衛門は、家老長岡主水・長岡監物に「讒言」(と判断された)の書を送り、ついには「病乱」とされてしまう。○○の家は先代清左衛門の実子平八が継ぐ事となる。父子共に功名利達に心を駆られて起きた出来事である。
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熊本史談会にて

2006-11-07 00:21:08 | 歴史
 11月4日の熊本史談会に、ガラシャ夫人に殉死した河喜多石見の史料が紹介された。細川家家記では窺い知れない内容が書かれており、興味深い。三成に対して与五郎(興秋)与十郎(忠興弟・孝之)を人質に送る事や、幽斎を助ける為に忠興自身の生害などが検討された事が分る。いろいろ興味深い史料がまだまだ埋もれている。
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注文書・控

2006-11-05 21:09:27 | 歴史
           覚
一、しゃかいんの竹ノ子地ヨリ五寸六七寸ノ間之時ニ土よりとりて おけニすなを入
  それニまぜ候て江戸へ二三百本可越候事
一、八代みかん毎々ちいさきハ下候事無用ニ候すへ候てやくニたち不申候間 奉
  行ニわたし可申付候 又所のしょうやニわたし可申付候事
    「史料細川家文書(一)・・ 史燈-熊本大学・国史研究室}より

 日付は無いが前後の文書から、寛永十六年二月頃のものと思われる。
竹の子を二百本もどうしようというのだろうか。砂に交ぜてというのがなかなかのアイディアである。八代のみかんは献上物であろう。
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上着座七家

2006-11-03 14:43:51 | 歴史
 細川家に於て座班が定められたのは、宝暦六年細川重賢によってである。御一門、一御家老(松井家)、二三御家老(米田・有吉家)、一御家老嫡子、二三家老嫡子、御中老、御備頭、御留守居大頭、御家老御免之席、御中老御免之席、組外、御家老二代目、御中老二代目、御備頭御留守居大頭并同列御免之席、そして上着座ということになる。持座七人着座は、松野家・木下家・津川家・楯岡家・下津家・そして沼田家である。この七家で上席の役職についておれば、当然座班もそれに従う事になる。松野家は大友吉統の子孫、木下家は太閤秀吉室高台院の甥の血筋、津川家は斯波管領家の血筋、楯岡家は最上楯岡家の子孫、下津家は下津棒庵の子孫、そして沼田家は細川藤孝室麝香の実家で三家老家に次ぐ名門である。こうしてみると細川家はすごい。
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