津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■年末の御挨拶

2024-12-31 07:13:20 | ご挨拶

                                                                     御礼

 令和六年も大晦日と相成りました。本年も大変ご厚誼を給わり、心より御礼申し上げます。
個人的には妻の四か月に及ぶ入院生活と、その後のフォローであたふたの年末となりましたが、共倒れにならぬよう
大いに健康に留意して、来年に向けて頑張ろうと決意を新たにしております。

いろいろ、お励ましも給わり感謝申し上げます。有難うございました。

                                            津々堂 敬白

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■年賀状と年末の想い

2024-12-30 17:31:43 | ご挨拶

 令和7年の年賀状はシンプルなデザインにした。お出しする相手方(存じ上げない方の方が多いが)を思いながら、少々のコメントを入れる。
随分古いお付き合いの方々から、「年賀状納め」のご連絡を戴いたりしているが、なぜかホッとする私がいる。
私もそろそろと思うからである。
私は再来年の「午年」で7廻り目の干支を迎えるから、それまでは何とか頑張ろうと思っている。
私ほどの年齢に成ると「何とか生きております」のご連絡でもある。
しかし、御年賀をいただくとご返事申し上げるの礼儀だから、かえって先様に御迷惑をかけることになるから、私も7廻り干支などとは言わず、そろそろ矛の納め時だとも思う。
住所録には70名ほどの名前があるが、「鬼籍」に入られた方のご住所も消し難く、またご家族の「ご不幸」のご連絡などを除くと、年賀状対象者は50名ほど、一時間ほどをかけてコメントを入れ、近所の郵便局に出かけて投函する。
年賀はがきが、63円が85円に3割以上値上がりして、年賀状離れは加速化することだろう。
日頃のお付き合いはSNSなどが発達した今日、年賀状の役割は危うい存在になりつつあるが、すべてを止めるわけにはいかない大切なお付き合いのアイテムであることに変りはない。

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」年が移り変わり、人も又流れる水の如く明日の人生が新たにある。
それでも御縁のありがたさに感謝するのは、その御縁が私の人生にもたらした大きな励みになっていることは、疑うべきものではない。
令和六年も明日は「大晦日」、我が人生多難とはいえども元気に大晦日を迎えることができたことに只々感謝しかない。

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■蓋棺録・俳優火野正平氏

2024-12-30 08:18:29 | ご挨拶

 今朝8時過ぎなんとなくTVを付けたのだが、年末の今の時刻は芸人やコメンテーターが年末風景を伝えてくれるが・・・ちっとも面白くない。
BSに切り替えたら、先に亡くなった火野正平氏の『にっぽん縦断 こころ旅』をやっていた。

 北海道旭川市の「射的山」を訪ねる旅だが、依頼者は小学生の時、スキー遠足でこの山に登ったらしい。
当時はスキーを持たない子が多かったらしく、依頼者はスキーを楽しむどころか、-20度ほどにもなる極寒の中での苦行であったらしい。
田んぼに囲まれた標高171メートルの山だというが、周辺地の標高が高いから実質は2~30m程かと思われるほどの低山である。
依頼者が言う「シャタケ山」の名前には齟齬があり、通りがかりの小学生たちは全く知らない。そんな中おばあちゃんと一緒の女の子に出会う。
その女の子がおばあちゃん運転の車で追いかけてくる。そして火野はその子を誘い、小高い山を登るのだが、その子の疲労が激しくどうやらその子は病気持ちらしいことに気づく。
火野氏は「ごめんな」と繰り返し謝りながら、山頂のベンチに腰掛け、眼下に青く広がる田んぼを眺めている。
女の子は「田んぼが風で動いている」と言った。

 私は思わず「あっ」と声を上げてしまった。火野が「あれは風の足跡だというんだよ」と教える。
以前この番組を私は見ていて、感動してブログに書いたことを思い出した。
「風の足音」と打ち込んで検索すると、「二人は詩人・・・」という記事が残っていた。

2014・9・21の事だから10年経過している。私たちに感動を与えたこの番組から10年、名優・火野正平は突然この世を去っていった。
火野氏のご冥福をお祈り申し上げるとともに、10歳くらいであったろう、その女の子「はつねちゃん」はもう成人しているお年頃だと思われるが、御元気だろうか?と案じている。

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■未解決事項

2024-12-28 08:43:22 | ご挨拶

 高祖父の岳父たる上田久兵衛は、娘婿たる我がひい爺様を「藤聟」と呼んでその日記などに記している。
「藤聟」をどう読んだのだろうかという疑問がいまだに解決できないでいるが、NHKの大河ドラマ「光る君へ」で、紫式部が「藤(とう)式部」と呼ばれて云う事から「とうのむこ」と呼んでいたのではないかと思い始めた。
日頃の会話では名前を呼んでいたろうから、これは日記のみに現れる「愛称」みたいなものだと思われるが、考えてみるとなかなか洒落た高祖父さまだと思ってしまう。
久兵衛の名も慶応・明治期に成ると「休兵衛」としたが、「官名」たる「兵衛」の使用が制限されると「休(やすむ)」と改名した。
「やすみ」かもしれないが?

「藤聟」たるひい爺様は又太郎(諱・安正)という名だが、その父親たる高祖父も名乗りは又太郎で諱は「安玄」である。「玄」の字は「くろ・しず・しずか・つね・とお・とら・のり・はじめ・はる・はるか・ひろ・ひかる・ふか・ふかし」などと読むらしいが、恥ずかしながら私は高祖父爺様の諱をどう読むのか知らないでいる。

 私は「又太郎じいじいさま」で通してきたから、今ではどうでもいいと思っているが、「藤聟」も「安玄」の読みも未解決事項のままで今年も年越しである。

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■慶安二年の今日、光尚公逝去さる

2024-12-26 06:43:50 | ご挨拶

       於・妙解寺、父忠利夫妻廟所(母・保壽院の廟所は忠利廟所に隠れている)と並ぶ光尚廟所(左)

(慶安二年十二月廿六日)暮過龍口邸ニ於テ(光尚公)卒ス歳三十一 光尚為人威厳は父忠利ニモ勝リ當時三徳兼備ノ将ヲ以テ穪セラル 同時ノ大名小名之ヲ慕フ人尠カラス 適曽我丹波宅ニ集會ノ時光尚カ凶音来ル丹波守手ヲ柏テ天下ノ燈消タリト歎息ス 列座ノ内ヨリ天下ノ燈消ヌルトハ餘リノ過譽ニ非スヤト云人アリ丹波守聞テ事ノ様ヲ知ラサレハカク思ハルゝモ理リナリ拙者ハ肥後守膽略ノ程ヲ慥ニ知リタル事有リ去ヌル頃拙者台命ヲ奉シテ日光山ニ赴ケリ其事件一途ニ政道ヲ立ントスレハ後日ニ弊害有ルヘシ サリトテ後害ヲ思ヒ苟旦ニ計ラヒテハ政道立チ難シ如何セント執政ノ人々モ苦慮セラレシ時密ニ酒井讃岐守ニ申談シ光尚カ宅ニ至リ之ヲ謀ル 光尚再三謙遜スル共強テ請ヒケレハサラハ愚存ヲ申述ン定テ僻論タルヘシ 必ス外人ニ洩レ玉フヘカラス 若光尚カ領分ニテサルアラン時ハ先ツ云々措置シ跡云々區處スヘシト對フ其由執政ノ人々ニ語リケレハ皆々上策ナリト感心有リケル故光尚申ス儘ニ執リ行ヒタルニ政道モ立チ害モ無リシナリ 之ヲ以テ思フニ比類無キ大器量ノ人ニアラスヤト語リケルヨシ

 

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■熊本市木・いちょうの仕業

2024-12-25 09:48:07 | ご挨拶

 熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれるのは、城内に銀杏の木が植えられていることに由来するらしい。
清正は銀杏の実を食料とすることを考えていたという。
それゆえ、熊本市木は「銀杏=いちょう」である。熊本県庁のプロムナードには肥後54万石にちなんで、54本の銀杏が植えられていて、現在遅ればせながら紅葉から落ち葉の季節となっている。
夜になるとライトアップされ黄色い絨毯となっていて美しくはあるが、雨が降ると路面にへばりついて厄介者となるが。

 今年熊本市では、市電(路面電車)の事故が多発した。脱線事故や衝突事故、信号無視などが14件つづいた。
熊本市の幹部が色々弁明、対策を講じている中、過日15件目のインシデントが発生した。
又信号無視だと伝えられたが、実のところは「線路にイチョウの葉っぱ」が咬んでいたらしくブレーキが利かず、電車が33mほどすべってしまったのだという。
これを運転手が届け出なかったのがまずかった。

 電車は相当の重量と思われるのだが、これを33mも滑らすというのだから、イチョウの葉っぱの馬鹿力を思い知らされる。
イチョウにそんな力があるのならば、なにやらその効力を利用できないのかと考えてしまう。

その「イチョウ」が「市木」だというから、何ともいただけない。
 

 もう十数年前にもなろうか、明五橋通り(立丁通り)の両側の「イチョウ並木」が全部伐採されたことがある。
緩やかな下り道だが、イチョウの落ち葉の季節になると雨でも降れば危険極まりない状態になっての事だったようだ。
おまけに、銀杏の実が踏みつぶされると、独特な異臭がする。特に反対運動もなかったように記憶する。
そんな「銀杏の実」は私の大好物で、季節になると妻が気を効かせて買って来てくれたが、今年はまだ手に入れることが出来ていない。
茶碗蒸しには絶対欲しいし、塩をまぶして酒のつまみは最高であるのだが・・・・

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■寝坊致しました

2024-12-25 08:43:35 | ご挨拶

 今日は少々寝坊をしてしまった。
お天道様も顔を出したが、熊本の日の出は7時18分で陽が少し差し込むようにとカーテンを少し開けているが、起きれなかった。
日が一番長いのは冬至(今年は12月21日)だが、今日は誠に偶然、日の入りが17時18分で日の長さが10時間ジャストである。
日の出時刻が一番遅くなるのは、1月7・8日だそうだが、松の内は少々のんびりさせていただこう。

 今年も残り一週間になったが、妻が例年の如くきびきびと動き回ることができないから、正月準備もいろいろ省略しようと思うが、おせち料理は手配済だが、御雑煮もたべねばならずそんな買い物も控えている。
近所に24時間営業のスーパーが今春営業を始め、お正月休みもないそうだが、消費者にとっては便利この上ない。
今日も買い物の内容チェックと荷物持ちをかねて、お供しなければならない。
妻の薬も今日明日の内に取に行かねばならず、TAXIを頼むには余りにも近い距離なので気の毒だから歩かなければならない。
リハビリにはちょうど良い距離だと思うが、今の彼女にとっては800mほどの距離は、途中で2・3度休まなければならない距離である。
これも一人で行かせるわけにはいかず、彼女の退院以来、何事につけ外出は仲よく?二人連れである。
そんなこんなで、まだ賀状の準備が出来ていないが、その他においては大いに省略してお正月を迎えようと思う。
皆様のお宅ではどうお過ごしでいらっしゃいますか。

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■赤穂義士の討ち入りとか、クリスマスイブとか

2024-12-24 08:51:50 | 徒然

 脈絡のない話だが、これは江戸時代の時間の管理と、ユダヤ教における時間のとらえ方についてである。
「12月14日寅の上刻赤穂浪士が本所吉良上野介の屋敷に討ち入り」と言い伝えられている。
「どっちなの・・」と頭がこんがらがるが、江戸時代の日の変わり目については「暦林問答集」に「丑を昨日の終となし、寅を今日の始となす」とあることからすると、寅の上刻には日替わりしていることに成り、「14日・・討ち入り」という表現は根拠を失うことになる。
某大教授の「吉良邸に討ち入ったのは「寅之上刻」とされています。現在でいうと午前3時過ぎです。旧暦では午前3時を過ぎると翌日になるので、正しくは15日ということになります。ときどき「討ち入りは12月15日」となっているのはそのためなのです。」という解説をされている。
「14日未明には行動を起こして、日が変わるころ討ち云った。「引き上げは寅の下刻(5時)」とあるから、上野の御印を上げたのは15日の5時前」といった感じで受け止めておこう。

 今日はクリスマス・イブ、どなたもクリスマスの前日ととらえておられるだろうが、これも間違いでユダヤ教における日が変わる時間が関係している。
ユダヤ教では日没をもって「日替り」とする。つまり現在の24日の日没時から25日ととらえているから、現在のイブは「25日の夜」にあたる。
「イブ=Eve」は夕方や晩を意味する『evening』の古語『even』からきているとされる。クリスマス・イブは「クリスマスの夜」なのである。
街中は若い人たちで大賑わいをするのだろうが、こんな爺のたわごとなどどうでもいいことだ。

 私が申しあげたいのは、国により時代により時間の考え方が多様であるということである。
日本の旧暦12月14~15日は、グレゴリオ暦によると、年が替り1月の30日になる。積雪があったとされるがこれも真実ではないらしいが、現代の季節感では来年の1月の末という事に成るから真実味はある

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■小宰相の死

2024-12-23 08:39:07 | ご挨拶

 21日の史談会の席上、「古文書をたのしもう」講座を受け持っている私は、文久四年(元治元年)の転び切支丹大友氏の末裔・松野又右衛門の切支丹宗門改めに関する「誓文」を解説ご紹介した。
文久・元治・慶応・明治と時代は急変し、この誓文から九年ののちには、キリスト教は正式に認知されたのだが、そのような経過と転び切支丹で大友一族の末裔である松野氏四家が長く監視(?)の元にあったことを物語る、私が所蔵する文書をお示ししてご説明した。

 さて、今日十二月廿三日はガラシャに殉死した小笠原少斎の子・小笠原玄也と、その妻(加々山隼水正の娘=みや)と子供、そしてその奉公人等15人の「転ばぬ」切支丹信徒が誅伐された日である。

堅い信教心は、藩主忠利らの強い説得にもかかわらず、従容として天に召された。まさに殉教である。

時を同じくして、志賀左門・小宰相と言った人も殉教した。かって触れたことがあるが、後者の小宰相については確かな情報がない。
すぎる慶長九年忠興の二男・興秋が、忠興の命により江戸證人に指名された。
忠興は、興秋の側に在った長岡肥後(飯河宗信)らに、早々の出立を命じたが興秋はこれに抵抗してなかなか豊前を離れることがなかった。
その時、興秋を説得した女性がありこの人物が「小宰相」と名乗っている。
興秋は小宰相の説得に心を開き、豊前を出立することになる。

     申立てう/\の事
   一こんと、たゝおきさま御まへあしくつかまりなし、めいわくいたし候ところに、御きもいりなされ、
    御すまし、かたしけなくそんし候、
   一さきにてのやうたい、せいしあんもんくたされ候、そのことくとゝのへしん上申候事、
   一此うへ御うけに御たちなされ候てくたされ、かたしけなくそんし、すこしもちかへ申ましき事、
   一人しちにおちをしん上候まゝ、すこしもちかへふしよそんをかまへ申候ハゝ、おちを御せいはいな 
    さるへき事
   一そはにめしつかい候もの共のさいし、人しちにあけ候へく候まゝ、かのもの共ちかい候事御入候ハゝ、
    これ又御せいはいなさるへく候、其ため申上候へく候、
    此よし御ひろうあるへく候、以上、
     慶長九ねん    与五良
      十一月十六日   たゝ以(花押)  興秋はこの時期与五郎忠以と名乗っている

    小さい将殿
        御中

 小宰相が忠興の命を受けて、出立の説得をしたのであろうが、この文章を見る限り後に京都に於いてこれに背き出奔したことは驚きであり、忠興にとっては驚愕の一事であった。
随伴した長岡肥後にも伝えられずの事であり、肥後はむなしく帰国した。
そして、慶長十一年七月廿七日、肥後は父・飯河宗祐とともに誅伐されたのである。

 そんな小宰相が忠利の肥後入りにも随伴して入国したと思われ、三年後寛永十二年十二月廿三日、小笠原一族や志賀左門らとともに誅伐された。
小笠原一族の墓地は花岡山に残されているが、志賀左門、そしてこの小宰相の墓地はようとして知れない。
歴史の恐ろしさは、このような悲劇を跡形もなく消し去ってしまう。何とか語り伝える努力が必要だと感じている。

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■年末雑感

2024-12-22 09:03:28 | ご挨拶

 今年は妻の4ヶ月に及ぶ入院生活という思いがけないことがあり、少なからず私の生活もその影響を受けた。
入院中は面会も週一、それもわずか15分というものであったから面会以外は時間も潤沢にあったはずだった。
しかし毎日私も食せねばならないので、その買い物が一仕事であった。その他、主婦の仕事がすべてわが身に降り注いだから、毎日が忙しい事、それゆえ聞きに行きたい講演会などを幾つか行けなくなったり、図書館へももう半年以上出かけていない。
毎月の熊本史談会へは皆勤しているが、昨日、今年最後の例会に出席して今年の私の公式外出は終了した。

 しかし、私的においては一日おきくらいに、妻が運動を兼て買い物に出かけるからこれについていかねばならぬ。
まだ当人が荷物を担いでの行き来ができないから、私は荷物持ちと、彼女が考えている夕食のメニュ等について、何を買うのかの御目付である。
「今晩はすき焼き」だといって、肉や野菜を購入すると、その材料が「水炊き」に変わったりしていて驚かされたり、こんな具合が日常茶飯である。
大いに行動が制限されているので、勢い家にいる時間が多くなり読書の時間が増え、Amazonのお世話になって本の数がどんどん増えだした。
年末の大掃除もしなければならぬ時期に成ったが、小山を作っている本を何とか本棚に収めようと思うが、当の昔キャパ・オーバーになっているので、隣の空き部屋に小山がうっるということになる。

 今年も10日ほどを残すばかりとなった。来年の年賀状で年賀収めをしようと思ったりしながら、最期の年賀状の準備もしなければならない。
新しい年を迎えるのには、結構なエネルギーを要する。まだそれに堪える体力はあるが、妻のサポートをいつまで続けられるのかという一抹の不安と戦いながら毎日を過ごしている。
今年は、いろんな内視鏡検査を受けて、特段の症状もなくその点では心すっきりではある。


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■細川三齋(忠興)の肥後入りと「桧垣の塔」

2024-12-20 06:43:03 | ご挨拶

細川忠興公譜は忠興の肥後入国について簡単に次のように触れている。
  一、同年(寛永九年)十月御暇被仰出 十一月十四日仲津御着 同月廿六日仲津御発駕
    十二月廿日肥後國熊本御城江御入 同廿二日八代御城江御入 御請御城入ハ廿五日

誠にあわただしい様子がうかがえる。
この年三斎は御年70歳、中津-鶴崎間は約90㌔弱、鶴崎から熊本までは125㌔ほどだが、ゆったりとした旅である。
12月6日に小倉を離れ、9日には熊本城に入場した息・忠利は、16日に鶴崎を発した三斎を途中まで出迎えている。
「十六日三齋鶴崎ヲ發シ廿日熊本城ニ至ル 忠利途中マテ出迎ヒ本丸ニテ饗應シ左文字ノ腰物ヲ呈セリ 八ツ時分三齋出立忠利川尻マテ之ヲ送ル 廿二日三齋八代着 廿五日辰刻入城規式有リ忠利入國後翌正月マテハ先代ノ通心得へキ旨申付タリ」と忠利譜は記す。

「八ツ時分(pm1~3)三齋出立」とあるから、本当にわずかな時間を熊本城内で過ごしているが、城内中庭に「桧垣の塔」があることを見とがめて、加藤忠廣の行いを「気違一つのうちたるべし」として、津川四郎右衛門にこれを蓮台寺へ返す事を指示している。
■四郎右衛門・道孝・竺印・中庵宛三斎書状

文人三斎の面目躍如たる一面である。
                     
「熊本城内図」にそれらしい書き込みがある。かって「■松之御間と檜垣之塔?」でご紹介したが、私の独りよがりかもしれないが・・・
雨の一日だったらしく、三齋は川尻のお茶屋に宿をとり、翌々日に八代入りを果たした。

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■葉室麟著「蜩ノ記」と「刀伊入寇」

2024-12-19 07:18:23 | 書籍・読書

                           

 作家・葉室麟が直木賞を受賞したのは2011年下期のことだから、もう13年も前の事になる。
映画にもなった話題作だが、私は残念ながら映画の方は見ていない。
しかし映画の出演者を確認しながら改めて作品を読み返してみると、如何にもしっとりとした情感が感じられて、2011年下期の直木賞候補の中でダントツの評価を得て受賞が決まったことに納得させられる。
「刀伊入寇・藤原隆家の闘い」は、約1000年前の時代も背景も違う戦記物だが、初出の時期を見ると「蜩ノ記」と同時並行で発表されていることに気づく。
葉室は「長徳元年(九九五)三月~」と書き始める。まだ阿古という名の少年(隆家)の登場だが、葉室の創造の世界で隆家が成長していく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」が、頭に残っているからその対比も面白く一気に読み進んだ。
中公新書・関幸彦の「刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機」もAmazonから同時に送られてきたが、こちらは「後」となってしまった。
私はたまたま歴史学よりも小説を選択してしまったが、これは葉室の創造の世界を満喫したいと思ったが故である。

この二つの作品が同一人によってもたらされた訳だが、改めて小説家の力量というものを感じさせられる。
私は葉室氏の作品はこれ以外には読んだことがないが、改めて他の作品に触れてみたいと感じたことである。

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■茶臼山の正体みたり

2024-12-17 08:48:20 | ご挨拶

 先の日曜日には熊本城調査研究センター主催の「熊本城と地形・地質-周辺地形・地質の成り立ちとその利用に迫る」講演会に出席した。
250名先着とあったが、ほぼ満員で皆さんの関心の高さがうかがえる。
立派な冊子を頂戴したが、具体的な講演内容とともに熊本城の立地である茶臼山の粗方の姿を知ることができた。

国土地理院の地理院地図(電子国土WEB)のツールにある「断面図」で、塩屋町(旧・古城)から旧千葉城の間を調べてみると次のような高低差が見て取れる。

           

 この断面は縦横比が1:15なのだが、我々が良く知る「茶臼山之図」と比較してみると、あの絵図にいかに混乱させられていることが判る。
縦横比1:1にすると同じ熊本城の本当の高さ関係を知ることができる。
           

茶臼山はほぼ標高45mほどの高まりである。熊本市内の熊本城周辺地(新町や熊本市役所など)の標高は12mほどだから約30m余程の丘陵地である。
それも天守周辺は盛土が為されていることが判る。
京町台から古京町の標高は約32mであり、立田山断層が百間石垣下を走り、二の丸広場はを含む城地は隆起したのであろうとの説明があったが、aso4の地層が断層となっていることからすると、その隆起はわりと新しいものであり、今般の熊本大地震での熊本城の多大なる被害も、断層由来の原因も考えられる。

いままでもやもやしてきた、熊本城地茶臼山の正体を見た気がしている。

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■読めない?今年の漢字「金」

2024-12-16 08:33:17 | ご挨拶

                                                    NHKニュースから

 毎年恒例の京都清水寺での今年の漢字は「金」となった。
オリンピックの「金メダル」なのか、物価高の中生活に苦しむ庶民の声「お金」なのか?両方が引っかけられているのだろう。
TVでこれが読めないと賑わっていたから、私も遅ればせながらその「書」を拝見したが、なるほど古文書などに触れられない方には判読は難しいのかもしれないと感じたところである。

 偶然ヤフオクを見ていたら、赤穂浪士・岡野金左衛門の書簡が出品されていた。
      その金右衛門の署名の「金」の文字は と書かれている。
御家流によるものはどうなのか、私も良くわからないでいるが、この文字はそれぞれの人々の「癖」が良くあらわれて悩ませる文字であることに変りはないが、大方は文脈で読み下しができている。


               

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■刀伊の入寇-二冊

2024-12-15 07:33:34 | 書籍・読書

         

 大河ドラマ「光る君へ」も最終回を迎えた。私の大河鑑賞では珍しく一度も見落とすことなく日曜日にはTVの前に席を置いた。
終盤に成り、かっての道長の甥で、ライバル中関白家の藤原伊周の弟・藤原隆家が活躍した「刀伊の入寇」が描かれた。
私はこの「刀伊の入寇」についてはあまり知識がないが、この隆家については肥後菊池氏の祖として理解している。
「肥後菊池氏の祖」についても異論はあるが、隆家の孫・政則を祖とする説がある。隆家が太宰権師として「刀伊の入寇」の大事の折には菊池氏も出陣したとされる。
2023年3月には、菊池市在住の歴史家・堤克彦氏をお招きして、熊本史談会でご講演をお聞きしたこともある。
隆家子孫説や土豪説などがあるのだそうだが、堤先生のお説では「混合説」であったかのように理解している。
菊池一族だとする西郷隆盛の西郷家は「隆」の字を通字とされているようだが、隆家からきているのだろうと、私は勝手に理解している。

 さて、ここに二冊の「刀伊の入寇」を取り上げたが、この二冊を購入して泥縄にもほどがあるが少々勉強をしようと考えている。

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