津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御礼

2009-12-31 16:37:31 | 徒然
            各位様

          本年もお付き合いいただき有難う御座いました。
        深く感謝申上げます。

                                  津々堂 敬白 
    
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少~し 判ったこと

2009-12-30 13:21:23 | 歴史
 澤村大学家の三代友雅が貞亨二年閉門・知行が召し上げられたことは承知していたが、是がどのような原因によるものか判らないでいた。

   澤村大学介吉重====宇右衛門友好---宇右衛門友雅---大九郎友朗
                      ↑                 ∥
+-----●--松井二平次--庄次郎友好          +---●かな
|                                 |
+---松井康之------興長------寄之------直之---+-----壽之

 某家の史料に次のようにあった。

 妙應院(綱利)様御代、澤村衛士様 御備頭 御妹の儀に付、世上専沙汰に及候に付、
 御役儀御勤成され難く、御断仰上て、御知行御屋敷差上られ候段、御内存の趣、松
 井求馬仰達せられ、御病気の由にて、御引込在せられ候段、御家老中様より、於江
 戸坂崎忠左衛門様、松月院様(木村豊持)へ、御連名の御状を以て、御内意仰越候
 處、右の筋至て難相済御事に付、御知行召上られ候御様子に候處、松月院様御格
 別なる御取成有之、御役儀をも、其儘に御勤成され候儀仰出され候間、難有次第思
 召候由、求馬様より、松月院様へ、御状を以て仰越され、衛士様よりも、御禮状差越
 され候事

 この史料にある衛士とは、年代からいって宇右衛門友雅で間違いないと思われるが、「妹に関する事件」と言うのがまだ良くわからない。知行召上・閉門とは只成らない事だけに真実を知りたいところである。一年ほどを経過して「先祖の訳」にたいして嫡子・大九郎友朗に知行は返された。
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下天を謀る(上)(下)

2009-12-29 13:43:15 | 書籍・読書

下天を謀る(上) 下天を謀る(下)

安部龍太郎著 新潮社
価格(上)(下)共 1,680円

ソニーとCIAを併せたような智謀――。戦国最強のNo.2、藤堂高虎見参!


乱れ荒んだ天下を情報戦略によって再編成したインテリジェンス。関ヶ原の戦いを短期間でアレンジした外交術。築城革命と都市計画を推進した技術力。晩年の秀吉を敬遠して家康に与した情勢判断力――しかし高虎はトップを避けて参謀役に廻り続けた。サバイバルの果てに江戸幕府の基礎を設計した、巨漢大名の壮大な生涯。

 「加藤清正妻子の研究」の著者・福田正秀氏からのご紹介をいただき、正月休みに読破しようと思っています。
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栄昌院さま

2009-12-29 13:31:49 | 歴史
 細川齊樹が疱瘡でなくなったあと急養子で細川宗家を相続したのが、齊樹の甥(兄立之の子)宇土藩九代当主立政である。
立之は立礼(宗家相続して齊茲)の嫡男で、父立礼が宗家を相続したため、天明七年わずか四歳で宇土支藩を相続した。齊樹は立礼が宗家を相続した後に誕生している。
立之は享和二年に土井大炊頭利厚息女福(トミ)姫と婚姻、文政元年35歳で亡くなっている。
この福姫が賢夫人と称えられる栄昌院である。父土井利厚は「下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代」、二人が結婚した頃は老中についたばかりの時期である。
    ja.wikipedia.org/wiki/土井利厚

 思いがけず細川宗家を相続した立政(齊護)にたいして、栄昌院は教戒文を与えている。
又、宇土に残された立政の子・雅之進(後の細川慶前)を、天保八年齊護の嫡子として宗家に入るまで厳しく育て上げた。(残念ながら嘉永元年23歳で亡くなった)

 栄昌院は宗家に入られることは無かったが、其の後の歴代の血の中に生きて居られる。

宇土細川家家臣・佐方信規の「栄昌大夫人遺事」という文書が残されている。
又柴桂子氏の「女性たちの書いた江戸後期の教訓書」にも取り上げられている。
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「阿修羅像」の真実

2009-12-28 20:03:08 | 書籍・読書

「阿修羅像」の真実 (文春新書)

文春新書
長部日出雄著 文藝春秋社
780円 (税込 819 円)

その寄せた眉根の「悲哀」が物語るものは? 興福寺建立から東大寺大仏までの天平の世に、「日本的なるもの」の源流を解き明かす


【内容情報】(「BOOK」データベースより)
半世紀ぶりに興福寺を出た阿修羅像は、全国を回り、百六十万人を動員した。時代を超え、見るものを惹き付ける秘密は何か。天平の世を生き抜いた、稀有な女性の生涯に迫る。
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 美貌の皇后/第2章 安宿に生まれた藤原家の娘/第3章 光明皇后の夢/第4章 天竺から奈良までの長い旅/第5章 大仏開眼/第6章 光明皇后の面影
【著者情報】(「BOOK」データベースより)
長部日出雄(オサベヒデオ)
1934年、青森県弘前市生まれ。弘前高校卒、早稲田大学第一文学部中退。週刊誌記者、フリーライターを経て、作家活動に入る。『津軽じょんから節』『津軽世去れ節』により直木賞、『鬼が来た棟方志功伝』により芸術選奨文部大臣賞、『見知らぬ戦場』により新田次郎文学賞、『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』により大仏次郎賞、和辻哲郎文化賞を受賞
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血脈断絶の危機

2009-12-28 17:41:39 | 歴史
  WHO・世界保健機関の天然痘撲滅プロジェクトを指揮した蟻田功氏は、熊本県のご出身である。
        ja.wikipedia.org/wiki/蟻田功
その根絶宣言は1980年であり、世界から「死の病」と恐れられ、かって日本では「疱瘡」という名で知られたこの病気から開放されたのである。

 細川家に於いてもこの病に罹かり、危く細川家の血脈が断絶する危機があったことは以外に知られていない。その人とは「細川齊樹公」である。
文政八年十二月中旬に発病した齊樹は、翌正月二日には危篤に陥った。幕府からは一橋家に対し養子を出すようにと話が有り、細川家に伝えられた。齊樹公夫人蓮性院は一橋治済女(紀姫)であることの縁であろう。急飛脚が熊本に在る先主・齊茲の許へ走る。藩重臣は細川家の血脈の絶えることを憂い齊茲に言上、齊茲はこれを受けて幕府より申し入れを断るべく、杉浦仁一郎をして急遽江戸へ送り出した。杉浦はなんと八昼八夜を命を懸けて走り抜け、一月二十六日朝江戸藩邸にたどり着いている。江戸詰重役が一橋家にお断りを申上げ、細川家の血脈が途絶える事が阻止された。実は齊樹は正月ニ日には亡くなっていたとされるが、正式には二月二日とされる。斎樹の実兄・立之(宇土藩八代藩主)の子・九代藩主立政を急養子として、宗家十二代齊護が誕生するのである。

 杉浦仁一郎はこの事に関する功労者として称えられている。

     9      10      11        12
 細川治年===齊茲---齊樹=======齊護・・・・・・・・→細川宗家
          ↑            ↑
      細川立礼---立之---+--立政
          7       8   |   9
                    |
                    +--行芬・・・・・・・・→宇土細川家
                        10
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「常山紀談」から - 細川忠興北の方義死の事

2009-12-27 18:30:04 | 歴史
細川忠興の北の方ハ明智光秀が女なり父謀反の時忠興に向ひ申されけるハ父ながら
かゝるくハだて事よくなるべしともおもハれす滝川柴田なんど申人々多ければ必ず軍敗
るへし女の浅き智慧にも口をしくこそ存し男の身ならんにハ鎧の袖にすがりても諌め申
べきを力なし君もし與させさ給ひなば世の譏(そしり)いかでか遁れさせ給ハんと涙に沈
まれしかば忠興光秀に同心なかりけり其後程経て秀吉伏見に有りて諸大名の北の方
を呼入て饗れし事の有しに忠興の北の方かくと聞き女の人なくて一間に入りて他人に
まみゆる事やあるわれも召れんとならばとて懐にヒ首を用意せられけり此れより秀吉の
悪行ハやみてけり石田西國の諸将をかたらひて兵を起す時諸大名の北の方を大坂城
中に取入れんとするを北の方聞て傳に付られし河喜多石見稲留意賀小笠原正斎を呼
て吾此所を出ん事思ひもよらず城中に取こめられんハ恥辱なりよく断を申たべ猶聞入ら
れずハ是を限と思ひ定むべしと語られしかば正斎東國に向ハせ給ひし時おもひかけざる
事のあらんにハ正斎はからひて武将の恥なさらしそと仰せ置れき敵奪ひとらんとするな
らば其時思召切せ給へと申しけりかゝる處に城中に入よと使を以ていたせしかば再三
断の旨を述けれども聞入れず七月十七日の未の刻ばかりに大坂の軍兵五百餘り玉造
口の屋敷ヲとりまきてとく城中に入り申されよさらずハ乱入りて奪取んと呼ハりけり女房
ばらあハてゝ泣悲めども北の方ハさわぐ色もなくかくあらんとハ兼ておもひ設つる事ぞと
正斎介錯せよわれ生る世にまみえざりし人々に死しての後も見られんハよからじとて面
に覆面打かけくゝり袴着て刀を抜胸につきたてられしかバ正斎眉尖刀(なぎなた)にて介
錯し其まゝそこにて腹を切んとせし處に正斎が小姓はしり来たり殿の北の方と同じ處に
自害あらバ後の誹のあるべきと云ひければ正斎あまりのいたましさにわすれたるよとて
障子の外に走り出家に火を懸け石見と共に腹切て炎の中に死したりけり伊賀ハ光秀よ
り附られし身なれバ遁るべき道もなきに人にまぎれて落うせけり忠興の北の方かたみと
おもハれけん手ずさみのように書すてゝ硯の中に入られし哥に

  先たつハおなしかきりの命にもまさりてをしき潔とぞしれ

落出たる女房の取傳へて世に残りけるとなん
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ご披露

2009-12-27 10:22:51 | 徒然

 東京のTY様からわざわざお送りいただいた「おもだか」の球根です。
スケールの置き方が悪かったので、「おもだか」がすごく大きく見えますが、実際は
1センチほどのものです。睡蓮鉢を買って過日植え込みました。梅雨明けの頃、家紋
「沢潟」のデザインの、あの特徴有る葉っぱにお目にかかることが出来ます。
そして花がなんとも可憐でこれも楽しみです。
TY様のお宅の家紋が「沢潟」でそうですが、美しい家紋で羨ましい限りです。
 
かさねて御礼申上げます。

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細川家家臣・志方氏

2009-12-26 16:29:08 | 歴史
 細川家家臣には赤松氏を祖とする家が幾つか見える。三齋忠興の側近くに仕えた志方半兵衛の祖父・繁広について、史料は次のように紹介している。

 ■志方右衛門尉・繁広
  赤松則祐五代孫、天正六年織田信忠に志方城を落され討死・・一子六助二歳ニ成候を
  家之子乳母ニいたかせ忍出、縁者たるにより丹波の赤井悪右衛門方に越・・・云々
                              (綿考輯録・巻九) 
  播州志方の城主也、神吉知民部少輔弟ニ而初ハ櫛橋左京進と申候処、後播州印南郡在名
  志方と申所居城いたし志方と名乗候由
 ■六助・之吉  三斎様御付中津ニ相詰候衆 五十石 (於豊前小倉御侍帳)
  天正六年志方落城之時六助ニ歳ニ而一命を遁れ、丹波国ニ隠れ、其後丹後国長生院と
  申寺俗縁有之ニ十五歳迄居候内、心操有之段忠興君被聞召、十七歳之時被召出御知行五
  十石拝領御昇頭被仰付、其後御加増百石被下、所々之御陳相勤、中ニも於高麗深手負、御
  懇之御意ニ而御直ニ御薬拝領、関ヶ原・大坂ニも右之役儀相勤、八代ニも御供仕、殊之外御
  懇意ニ而、寛永二十年病死           (綿考輯録・巻十六)   


 その子が志方半兵衛である。三齋の中津から八代居住に一貫して仕えた。
天草島原の乱に於いては、三齋の陣代として出陣した細川立允に従い、八代衆の働きぶりを報告したのが「志方半兵衛言上覚」である。 
 ■半兵衛・元政(之政)      
 (大阪御陳)手ニ合候者、七月朔日御饗応、御褒美被下候
  知行三百石 歩ニてしこを負、半弓を持て甲首一ッ討取、其外ニ一ッ討取を人奪取候由也
                           (綿考輯録・巻十九)
  三斎君ニ御奉公御知行被下置面々(中津)五百石  
  後千石ニ成ル、御家老被仰付候、御逝去後已後は光尚君ニ被召返
                           (綿考輯録-巻二十一)
 (1)三斎様御付中津ニ相詰候衆 丹後「源」五百石 (於豊前小倉御侍帳)
 (2)人持衆併組迯衆 五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
 (3)人持衆併組迯衆 五百石
 (4)千石 (八代分領侍帳・正保二年十二月)
 三齋の死後半兵衛も離國を考えていたふしが諸資料から伺える。

綿孝輯録・巻二十五(第三巻 忠興公・下 P323)に、三齋歿後の三齋御附衆の去就が次のように記されている。
三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛何れも御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井戸文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿江勤も有之、御暇申候も有之、熊本江被召候も有之候、八代は長岡勘解由・丹羽亀之允・伊丹半弥等差越候間、御城引渡思ひ々々に立去り申候

 志方半兵衛については「半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候」と注記されている。
息半右衛門についての史料は次のようなものである。

 ■半右衛門  (1)十一番氏家志摩守組 千石 (真源院様御代御侍名附)
        (2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        (3)有吉内膳組・御弓廿張(頭) 千石 (寛文四年六月・御侍帳)

 志方家はその後、逸次家(400石)、軸人家(300石)、仙太家(300石)、半家(100石)等枝葉は大きく広がり明治に至っている。

 宮本武蔵の後継者寺尾氏との婚姻関係から、志方半兵衛五男が寺尾氏の養子となり剣の奥儀を極めて「新免弁之助」を名乗っている。


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松山主水vs庄林十兵衛 そして村上吉之允

2009-12-25 13:33:00 | 歴史
 つい最近(2009/11/30)ウィキペディアに「松山主水」が登場した。
     ja.wikipedia.org/wiki/松山主水
「巌流」というサイトに「小次郎に係わる人々」があり、その中に「松山主水・村上吉之丞(付・史料)」があるが、出所はどうも此の辺りではないかと思われる。
     homepage3.nifty.com/ganryu/sub/mondo.htm
     homepage3.nifty.com/ganryu/sub/mosiryou.htm

 松山主水は三齋の怒りをかい、その命により庄(荘)林十兵衛に寝込みを教われ死亡した。十兵衛は主水の小姓に殺され、その小姓は十兵衛の家来によって討取られた。
後年、十兵衛の子が何者かに殺されているが、果たして何者の仕業なのか判っていない。

 庄林十兵衛については、その出自などはっきりしないが、先にご紹介した庄林隼人(加藤家家臣→細川家家臣6000石)の一族ではないかと、考えている。

 上記サイトによると、松山主水の弟子が村上吉之允だと紹介されている。
吉之允は村上景広の子であり、縫殿助(河内・景則 10,000石)の弟である。
三齋の歿後村上河内はいろいろ非難の矢面にたたされ離國するのだが、行動をともにしたのが庄林隼人であることを考えると、これらの人間関係が大変面白い。

 一方吉之允の子孫は宮本武蔵の二天流の継承者として名をなした人が多い。

 村上景廣--+--縫殿介景則
        |
        +--吉之允正重--吉之允正之--平内正雄

         1               2
宮本武蔵---寺尾求馬介信行---新免弁助新盛 
  3            3分
 平内正雄--+--平内正勝--+--平内正則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→孫四郎家
        |         |  4              4分-1         同左-2
        |         +--八郎右衛門正之--大右衛門正保--貞助・・・・・→弁蔵家
        |
        +--吉之允正房
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久保田万太郎と私

2009-12-24 14:12:35 | 歴史
 私の俳句の駄作に

        さざんかの二つ三つ落ち師走かな  がある。

つい最近「日本の古本屋」さんをつうじて、小島政二郎著「俳句の天才-久保田万太郎」
を購入した。1980年の初版本だが、すばらしくよい本を見つけ出して歓んでいる。
そのなかに次のような俳句があった。

        山茶花の咲きてことしも師走かな

私は久保田万太郎の句が大好きで、いろいろ本を読んでいるが、上の句については全く初めて知った。
なんとも恥ずかしくなってしまった。
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細川家家臣・斉藤氏

2009-12-24 13:36:49 | 歴史
 「肥後中村恕齋日録」に、天保十六年九月十八日項の事として次のような記事が有る。
私も昭和19年に祖父・祖母・父を亡くしたから、この様な記事を読むと身につまされてぐっとくる。

【今日隣家斎藤常之助より、非常案内有之候ニ付罷越候事 六月十二日、常之助祖母死去
 七月六日ニ常之助父三郎死去 八月廿七日、常之助母死去 誠に比類無き病災不幸ニて、
 憐なる事言計りなし、依而、今日ハ亡母三七日ニ相当申候とて、案内之事、常之助壱人ニ
 相成、立行不申候ニ付、忌明後、夫々片付申候、以後ハ同人母方之叔父永田伝九郎方江
 同居之申談に、縁家中議定ニ相成候由】

■父親・三郎に付いては次のような記録がある。
        文政九年六月~天保二年六月 菊地郡代
        天保七年九月~          芦北郡代
        御知行取諸御目付・御刑方御奉行触
        御穿鑿所御目付・騎射検見兼帯 二百石
 
■祖父・齊藤左太郎は号・芝山でご紹介するほうがご理解が早いかもしれない。
        養子(米良四助の三男)である。
 斎藤芝山 名は高壽、権之助と称し、芝山と号す。世禄二百石、境野凌雲と共に
        犬追物を興し、その師範となりて子弟を誘導す。一藩為に風靡せり。
        又川尻作事頭、高瀬町奉行等を勤めて恵政あり。
        文化五年十月二十一日没す。年六十一。墓は手取本町蓮政寺にあり。
       (肥後先哲偉蹟に詳細な紹介が有る 国立国会図書館デジタルアーカイブ)
    六番与 二百石
    寛政六年十二月~享和三年十月 高橋町奉行・後作事頭二転

其の後の経緯を見ると、家禄も減じられる事もなく明治に至っている処をみると、常之助が
逆境にめげない努力の人であったろう事が伺える。
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伊丹氏

2009-12-23 18:26:51 | 歴史
 細川家に伊丹氏を名乗った人が有る。一人は黒田蔵人である。豊前時枝城主の二男だとされるが、「大日本近世史料・細川家史料(1710)」には、筑前黒田家と競って蔵人の召出しに強い思いをかける忠興の元和五年十月十五日付け内記(忠利)宛の文書が有る。
何故伊丹氏を名乗ったのかが判らないでいたが、奥方の母親が伊丹氏であり、これによるものと考えられる。

        加藤重徳 有岡城より黒田如水を助ける
           ∥
           ∥----+---吉成・・・・・・・・・・・→筑前黒田家中老家
           ∥   |
   伊丹親安---●   |
                +---黒田一成 (黒田如水養子) ・・・・・・・→三奈木黒田家
                |
                +---某
                |
                +---●
                   ∥
                黒田蔵人 
                   ∥
                +---● 前飯河肥後室・再嫁
                |
        米田是政---+---興季・・・・・・・・・・・・・→細川家家老家


 今一人は切支丹殉教の加賀山隼人正興長である。
  伊丹次郎親興---伊丹隼人正朝明---+---加賀山隼人正興長
                         |
                         +---源左衛門政房・・・・→細川家家臣加賀山家(奥田家)

 いずれも伊丹城(後・有岡城)主の伊丹氏に繋がるように考えられるが、現況皆目わからないでいる。

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細川家家臣・荻氏

2009-12-22 17:20:16 | 歴史
 二十数年前62歳で亡くなられた、映画評論家荻昌弘氏はエッセイ「歴史はグルメ」などで知られるように、食通で知られた。(この本を日本の古本屋で探しているが・・見つからない)もしご存命ならまだ84歳だ、ダンディー振りを発揮して素晴らしいおじいちゃんになっておられる事であろう。

 荻家は云わずと知れた細川藩士の家である。初代又兵衛は加藤清正に仕えていたようで、同名の人物の黒印状が残されている。その出自ははっきりしないが、ひそかに駿河の国人荻氏ではないかと考えているが、良く判らない。歴代250石の荻氏だが9代角兵衛は郡代を勤めると共に実学党の一員と名を残している。
嘉永5年10月20日、吉田松陰が熊本を訪れた際の記録が「肥後国事史料」に残されている。
           「宮部鼎蔵来伴訪横井平四郎、荻角兵衛亦會焉、夜到宮部留宿」
吉田松陰も宮部鼎蔵も横井小楠もそれぞれ不幸な死を遂げたが、荻昌国は自殺という形で死を迎えた。何が原因であるのかはっきりしない。いろいろ憶測でかかれているものがあるが、いささか眉をひそめるものも有る。

     安政五年七月~安政五年八月 芦北郡郡代
     安政五年八月~文久二年一月 小国久住郡代
 荻 麗門 名は昌国、角兵衛と称し、麗門と号す。藩に仕へ諸役を経て芦北及び
      小国久住の郡代となり、禄二百五十石。元田東野六友の一人なり。
      気宇博大議論充実、心を天下に注ぎ、意を経済に用ふ。
      文久二年正月十八日小国に於て故ありて自殺す。年五十。
      墓は本妙寺中東光院。
コメント (4)
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玉名高校校長室

2009-12-21 18:13:59 | 新聞
 今日の熊本日々新聞の「新生面」に面白い記事が有る。「坂の上の雲」に関しての記事だが、玉名高等学校の校長室が戦艦三笠の艦長室に模して作られているというのである。何故そうなったのか、調べたが判らないというのだが・・。完成は昭和12年で、県の有形登録文化財に成っているらしい。

 もしやと思う事が有る。もう二年ほど前東京のK様からご連絡を戴き、ご先祖探しのお手伝いをした。同姓に大変高名な方がおられ、その方に何らかの繋がりがあるのではないかと、お考えになったらしい。提示を受けた資料をもとに調べたら、同姓ではあるがお考えの家筋とは違っている事が判明した。お話しによると県費で英国留学をされ、三笠の艦長であったといわれる方がおられる。どうやら東郷平八郎が艦長となる以前の話のようだ。ひょっとすると英国から日本へ運ぶ時(?)あたりなのかと考えたりするが、三笠の資料館あたりでもはっきりしないらしい。

 いろいろ調べている内に瀬戸致誠氏の「史料紹介『遊学一巻帳』(一)(二)」に出会った。ここで驚くべき事実を見つけ出したのだ。K様が仰るその方がまさしく英国へ留学され、留学費用「一ヶ年千五百両・・・被渡下候事」と記された熊本藩会計局の文書ほか、いろいろな文書が紹介されていた。驚くべき金額である。
(1億円以上か・・?)そしてその実家が玉名に在ったのである。兄・儀平が住まいしていた。

 玉名と「三笠」はこうして繋がっているのだが、玉名高校の校長室との関係はやはり「闇の中」ではある。
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