果たせざる事多くして 晦日かな 津々
今年も当ブログをお訪ねいただき、感謝申し上げます。毎年・毎月・毎日新しい情報に出会いながら、楽しくも苦しみながら発信しております。
最近はつとに体力が落ちていることを感じ唖然としています。地震後の頑張りがずいぶん応えていますが、健康に十分留意し続けてまいります。
病み上がりの奥方とともに元気に越年できますことは、只々感謝です。有難うございました。
果たせざる事多くして 晦日かな 津々
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病み上がりの奥方とともに元気に越年できますことは、只々感謝です。有難うございました。
一八一
一御國相撲取、伊吹山・不知火両人、酒井雅楽頭様被召抱 (不知火:横綱になった不知火光右衛門とば同名別人、この時期前頭四枚目・後大関)
度由付て之江戸状之内ニ、右之貮人年季を限、御留被置
候儀ハ其通、御國之者永ク他所え御出置候儀ハ難成御國
法にて候段、申向有之候様申遣候趣相見候事
右寶暦七年正月江戸状扣
一八二
「相撲取ハ別段と相見候、尤外之渡世付て、一ヶ年
滞留ハ有之段、影踏之節ハ罷歸不申候てハ、難成譯ニ候」
一呉服三丁目十次郎、相撲為渡渡世江戸え罷越居候處、年限
ニ相成、依願三ヶ年逗留被指免置候、然處、猶又三ヶ年
限逗留願出候段、江戸より申來候、願之趣無據趣ニ付、
如願沙汰有之候様申遣候事
右寶暦十一年六月江戸状扣
一八三
覺
一御國町在之荷船、自分商賣方ニ大坂え罷越居候節、御用
之荷物は勿論、御家中荷物ニても、御國役ニて運賃無
シ古来より積下候儀、御格ニて御座候、御借下船も右同
前ニ致せ申候、扨又鶴崎・川尻・高瀬其外所々之町船・
浦船等下りニ、渡世之為自他之僧俗、又は荷物等船頭相
對ニ積乗下候事も可有之候得共、御屋敷えは相知不申
候、兼て之御國法可有御座と奉存候、右は御國町在自分
持船之儀御座候
一鶴崎御關船下り便、伊勢之御師又ハ湯川宗因なと乗下り
之儀願出候ヘハ及其沙汰候、且又御國寺社之重職子弟等
乗り下願之儀ハ、大坂詰手寄之御役人え頼、覺書を以相
達候ヘハ是又及沙汰候、古来より大坂之御沙汰ニて御座
候
一近年御荷船出来、歸帆便ニ御物幷御家中荷物、運賃無シ
積下候儀は、勿論之事御座候、然處、御船預り主・船頭
等知音之者、旦那坊主なとの類、乗せ下候事有之、聞へ
も御座候得共、大船から船ニて罷下候儀付て、船頭呑
込、乗せ下候儀何そ船方之障有之間敷儀、其上人情之常
も有之、他所者ニても無之、御國者之事候ハヽ、乗せ下
相對之儀は見捨置たる事御座候、然共右之通ニてはつと
有之候付、其後ハ右便船下り之者ハ御屋敷え願候て、自
分持下り候往来手形之名前等書記、大坂ニて御荷船之支
配人、鹽飽屋清左衛門え及沙汰、清左衛門より下り船之
船頭え申聞、若納得不仕候得とも、跡ニ船便有之候迄持
せ置、右之申談支不申船ニ乗せ下申事ニ御座候、勿論、
度々有之儀ニても曾て無御座、河尻廻り願下りハ稀ニ有
之、其上御屋敷え願出候僧俗ハ、都て往来手形等所持
仕、紛敷事ハ無之者迄ニ御座候、萬一船中ニて異事御座
候節、大坂え懸り来候得ハ、清右衛門罷出、取拵申事御
座候、數艘之大船年中往来、歸帆ニは御用物之外、御家
中江戸小廻荷物等夥敷有之候得共、無遅滞積下、如是便
利之幸、自然と御光澤難有御時節、古来より稀成儀御座
候、御國之僧俗等船下りも自然と奉蒙御恩澤候儀御座候
ヘハ、願出乗下候者、船頭納得仕候ハヽ乗せ下候様、尤
船中自分造用ハ極りたる事ニ御座候、御荷船便河尻迄乗
下之儀、右之通仕候段御達申上置候、尤御目附衆えも申
談、存寄無御座候、已上
御國より参宮之僧俗、鶴崎・小倉之商賣
船乗合ニて罷下候者共、船中之飯料何程、
船賃何程人別ニ相極、乗船之節、船頭え
直ニ乗人より相渡申事ニ御座候、御荷船
便ニ乗下り申候僧俗等も、以来ハ右之通
沙汰可仕候
七月 日
蓋(萱ヵ)野司馬太
中山 源助
右寶暦十一年江戸状扣
一八〇(2)
覚
古川町久左衛門と申者、書付を以願候ハ、前々より釣懸
京舛之外、寫と名付、御當地ニて銘々自分ニ拵置用仕來
候舛有之、鹽、雑喉(ママ)、野菜、其外一切之荒物を計候舛ニ
て候、然處、大小之不同をいたし、賣買ニ不足舛通用仕
候付、末々口論絶不申候ニ付、延寶八年之比、御城下御
町中うつし舛京舛ニ不相替様ニいたし、其上ニて懸り之
別當致極印、通用仕候へと被仰付、一同ニ改り候、然處、
近年又不宜舛を御城下在々迄も、粗通用仕候様子ニ付、
此外彌不同無之様ニと、御領内不残御改被成候ハヽ、右
久左衛門手前ニて寸方京舛ニ不替様ニ拵、極印仕、左之
通賣申度由
壹升舛 代銀壹匁三分
五合舛 代銀九分
貮合舛 代銀七分
壹合舛 代銀五分
右之直段にて、柜・栂之類厚板を以拵申候
一酒舛
壹升舛 代銀四匁五分
五合舛 代銀三匁五分
貮合舛 代銀三匁
壹合舛 代銀貮匁
右之直段にて、槇・檜之類厚板を以入念拵申候
右之通相究商賣仕度候、左候ハヽ、御領内久左衛門極印
無之うつし舛不用様被仰付可被下候、然上は御影を以賣
買仕儀候間、舛賣高、銀高拾貫目ニ付五百目宛毎三月
ニ上納可仕由、久左衛門願書御町奉行より差出被申候
右之通ニ付いつれも相談仕候ハ、右久左衛門請込ニ被仰
付、彼者手前ニて舛を拵候て、其舛をいつれも通用仕候
様ニ御決候てハ、縦京舛ニ違不申迚も、御國中之舛今度
替候様、自然他所えも響可申哉、左候てハ如何敷可有御
座候間、久左衛門願難叶可有御座候、然共商賣不足之
趣兼て相聞申候間、不足舛通用仕間敷、寫舛之儀は京舛
ニ不相替様いたし、先年相究候様懸り之別當致極印、通
用可仕候、萬一相背候ハヽ吟味之上急度可被仰付段、御
町奉行より御町方え被申渡候様被仰付ニて可有御座哉、
奉伺候、以上
正徳二年
八月 日
[付紙]「御國中之舛、寛文八年八月朔日より御改被成、
京舛ニ被仰付候、尤京舛之寫ハ御作事所ニて出
来仕筈ニ極申候
一延寶八年之比、御城下御町中うつし舛一同ニ改
り申候と、久左衛門願書ニ有之候付、町奉行衆
え申遣吟味仕候得とも、年久敷儀ニて、其節之
様子御町奉行衆之方ニも相知不申由御座候」
[付紙]「此通被仰付、下方何そ支候儀有之間敷哉と、御
町奉行衆え申遣候處、何そ支ケ間敷儀は有御座
候、何れ之道ニも、只今之通之舛ニてハ不宜儀
と被存由ニ御座候
一本行之通被仰付儀ニ候ハヽ、諸御郡在町共ニ、
右之趣を尚又沙汰仕直可有御座候
右久左衛門願之趣ハ難叶、左之通御觸有之候事
御國中舛之儀、前廉京舛ニ改候付て、諸商賣之節塘ニ、
御定之京舛を用可申事候處、其儀無之、近年町在共不宜
舛通用仕候趣兼相聞、不届之仕形ニ候、向後ハ、商賣
之砌共不宜舛通用不仕、御定之京枡通用仕候様、御町中
ニ急度可有御沙汰候、若うつし舛を用候ハヽ、寸方等京
舛ニ少も不替様ニいたし、其所々之別當共手前ニて右之
うつし舛み極印を打、不紛様ニ仕可致通用候、自然相
背、不宜舛用候者有之候ハヽ、十人組之者共心懸押取候
様ニ、堅可有御申付候、以上
正徳二年
十月十一日 奉行所
御町奉行衆中
猶々當月中ニ得斗遂吟味、来月一日より右之趣ハ、急度
改候様御沙汰可有候、尤所々町えも右之通令沙汰候間、
左様御心得可有候、已上
右之趣、在方えも御達有之候事
申渡覺
「寶暦五年十月
一八代之儀ハ遠方之事ニ付、彼方二ノ町ニて舛改所被仰
付被下候様ニ願出、其通被仰付候事
安永七年四月
一此茂左衛門儀、舛改方忰左一兵衛え引継被仰付置候處、
左一兵衛果候付、猶又茂左衛門え被仰付候事」
細工町播木屋
茂左衛門
茂左衛門儀、舛改所被仰付候、依之別當列被仰付也
以上
寶暦四年
九月廿七日
「天明二年十一月
一右茂左衛門、病気ニ罷成、依願別當役被成御免、養子
新左衛門儀、別當被仰付、苗字刀御免、舛改所共ニ父
同前被仰付候事
同年十二月
一此新左衛門儀、斎藤茂左衛門と相改候事
享和二戌年九月
一右斎藤茂左衛門忰斎藤茂左衛門儀、舛改所被仰付候事」
右之通被仰付候付て、舛改仕法之書付、左之通も座衛門
え相渡可申旨候段、長瀬宇平申聞候付即相渡候
御家中諸事之舛、極印打ニ持來候ハヽ、大小舛之寸法相
改、極印打相渡可申候、寸法不宜舛ハ其段使之者え申聞
崩候て差返可申候事
但、舛極印一ツ相渡候墨代として、向々より五銭宛請
取可申候
一此已後、新規之舛ニハ、極印を受候て、可致商賣旨及沙
汰候間、舛商賣之者新規之舛致持参候ハヽ、寸法等改、
極印打相渡可申候、代銭ハ相應ニ請取可申候事
一此已後、舛求メ候者、極印有之を求メ、極印無之ハ求不
申様及沙汰候間、若紛敷舛通用之儀承出候ハヽ、其段可
申出候
右之通相心得可申候、以上
九月 日
右之通ニ候、尤極印をも被渡下候ニ付、茂左衛門え相渡
候事 ㊣此通り
一寛文八年 京舛ニ成ル
一正徳二年 紛敷舛不用様ニ達
一寶暦四年 舛改所被仰付候
一明和元年九月 紛敷舛不用様達
一安永二年五月 右同
一同 五年九月 右同
右之通ニ候、播木屋も座衛門舛改所被仰付候段ハ、式稿
ニも一通り記有之候得共、前々より之様子記置候事
[付箋]「舛改之者、相廻り候儀付て、文化七年十月御觸有
之候付、同年左之通「此御觸ハ觸状扣」
文化七年七月十一月廿八日
御用番
一牧野備前守様え
舛御改之儀ニ付御書付左之通
京舛福井作左衛門焼印有之候京舛相用候儀ニ付、先
達て御觸達之趣致承知候、私領内之儀は、前々より
京舛之形寸法等相記、制作申付、舛方役人をも申付
置、壹々厳重相改候故、少も紛敷儀無之、今以領中
致通用來候間、以來迚も是迄之通致度候、此段御聞
置可被下候、以上
十一月廿八日御名
「此稜ハ同年町方日帳ニ印有之也」
[御付札]「承置候」 」
一八〇
一舛改之役人相廻申筈付てハ、先達て御觸有之候、右付て 枡座
此方様よりも、追々ハ御届ニ可相成候條、兼て用候舛之
儀、書付差越候ハヽ、夫を以御届之儀可申段談、江戸詰
石寺甚助より申來、松平越前守様より御届ニ相成候由之
書付寫をも差越候、依之及返答候はゝ、舛之儀ハ寛文八
年以来京舛用來、尤末々ニ至候ては、人ことにハ京舛求得
不申候ニ付、御國中舛改之者被建置、大小京舛之寸法聊
不違様相改、焼印を打せ、勿論焼印無之舛ハ、一切通用
難成段被仰付置候、當時ハ熊本細工町播木屋茂左衛門と
申者、改役被仰付置、一々相改、少々ニても寸法違候舛
ハ直ニ崩せ京舛之寸法ニ造替候上、焼印を用、通用いた
す事ニ候、御届ニも相成儀ニ候ハヽ、右之通を以、宜被
申談段致返答候事
但、戌十二月十日之書状ニて、翌亥正月廿四日之付紙
ニて及返答候、尤御届ニ相成候哉、否之儀不相分候ニ
付、同年八月ニ至り根取より江戸詰中嶋長作え尋遣候
處、早速御留守居方え懸合ニは相成居候得とも、吟味
等届かね、未御届等ニハ不相成様子ニ候段申來候事
右安永八年江戸状扣
一右之節、御書所及吟味候處、左之通之書付達有之候
寛文八年三月
公義御制法御書附之内
公義より御定之舛之外、いにしへより其所ニ有來舛、
其外いかようの舛を用來候哉、様子書付之可被差越候
事
「此御返答之御書付ハ、扣無御座候」
同年四月六日、於御評定所岡田豊前守様、松浦猪右衛門
様御口上ニて被仰渡候内
一江戸・京都之舛同前ニ候、其所ニ有之従公義御定ニ違候
舛之様子書付、御勘定所え可被指上之事
右之外、舛之儀付て、御書所御記録ニは相見不申由
一此許記録遂吟味候處左之通
覚
一御國中今迄之舛を被成御改、當八月朔日より京舛ニ被仰
付候事
一俵入實之儀ハ、京舛ニて三斗五升入ニ相究候事
一京舛之寫ハ、御作事所ニて出来申候間、来ル廿五日已後
請被申候様ニ可被仰渡候
寛文八年
七月廿一日
一筆申觸候、然ハ御國中今迄之舛を改、八月朔日より京
舛ニ被仰付候通、先日相觸申候、然共新舛御國中行渡候
程出来合不申候故、未請不申衆も有之、支可申候間、新
舛所持不仕衆ハ、先前之舛を用、壹升ニ付六匁四才延之
勘定ニて取遣仕候様被仰付候てハ、如何可有御座哉と、
御家老中え相伺候ヘハ、新舛請不申衆ハ右之通沙汰仕可
然段、此段相觸可申宗ニ付如此段、勿論新舛追々出来申
候間、請可被申候、以上
寛文八年
七月廿八日
一筆申觸候、今度京舛ニ御改被成候付て、免積り合點参
兼候衆も可有御座様ニ存候、就夫免積別紙書付差越申候
間、御組中えも可被仰觸候、恐々謹言
寛文八年
申九月十一日
覚
現高千石
一高千石 前々之四ツ成
釣懸物成五百四石
京舛ニ〆四百七拾三石六斗八升四合貮勺壹才
内
拾三石七斗九升六合六勺三才 三ノ口
殘四百五拾九石八斗八升七合五勺八才
現高ニ四ツ五分九朱八厘八毛七弗、撫高 弗 当然ドルではなく「ず=なにもない」という意味らしいです。
ニ同断
以上
一筆申觸候、然は、今度御作事所ニて被仰付候斗舛、五
升舛出来申候、代銀御作事方ニ上納仕、請申筈ニ御座候
間、則舛之直段書付遣候
一斗舛壹ツニ付
代銀拾匁三分
一五升舛壹ツニ付
代銀七匁六分 (ママ)
右之通候間、可有其意得候、恐々謹言
寛文八年
申十月八日
●2455
保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱
【著者】西部邁 【本体価格】840円
【内容紹介】
世界恐慌や世界戦争の危機が見込まれる現在、「政治や文化に関する能力を国民は身につける必要がある。良き保守思想の発達した国家でなければ良き軍隊をもつことはできない」と大思想家・西部は提言する。保守の真実を語り尽くす巨人・最期の書は日本人必読である。
【担当者コメント】
『保守の真髄 老酔狂が語る文明紊乱論』は保守思想の大御所・西部邁氏の最後となる語り下ろしである。
本来語り下ろしという形式はとらない著者だったが、利き手である右手から指にかけて強い神経痛に襲われているために、この形式を取った。
本書は「歴史と国家のコモンセンスを問う」をコンセプトに、今「日本人とは何か」を保守思想の見地から改めて考察する企画である。
そのポイントは以下の10に絞られる。
1・国家の独立性と自発性を喪失させる「アメリカ追随」はやめる
2・国家の「理想と現実の間」が人々の規範とすれば、
それは「活力・公正・節度・良識」である
3・文明を腐敗させる元凶はデモクラシーである(詳細は本文参照)
4・議会の根底をなすのは選挙民の公徳心である
5・国家というものは乗り越えが不可能である
6・「国民に国防の義務あり」と認めることは大切である
7・「反原発」や「核兵器廃絶」に欺瞞や偽善がないといえるか
8・「過去の方が未来より重い」の意味をわかって欲しい
9・「人生を良いものにする4点セット」とは
「女性・友人・書物・思い出」である(チェスタトンの言葉より)
10・勇気とは生き延びようと努力することである、
そして、真の勇気とは死を覚悟してかかることである
老師・ニシベの節度のあるラスト・メッセージを全日本人に贈る。(メイド岡部)
●2457 世界神話学入門
【著者】後藤明 【本体価格】900円
【内容紹介】
神話には、ホモ・サピエンスの歴史の記憶が埋まっている。最新の神話研究とDNA研究のコラボから浮かび上がる壮大なドラマ。人類史の見方が変わる!
【担当者コメント】
日本神話では男神イザナギが、亡き女神イザナミを求めて冥界に下ります。一方ギリシア神話にも、オルフェウスが死んだ妻エウリュディケーを求めて冥界に下るという非常によく似たエピソードがあります。しかしこのパターンの神話は上記の二つに止まるものではなく、広く世界中に分布しています。では、なぜこのように、よく似た神話が世界中にあるのでしょうか?
2013年にハーヴァード大学のマイケル・ヴィツェルが、この謎を解くべく『世界神話の起源』という本を出版しました。この本によれば、世界の神話は古いタイプの「ゴンドワナ型」と新しいタイプの「ローラシア型」の二つのグループに大きく分かれるとされます。「ゴンドワナ型」はホモ・サピエンスがアフリカで最初に誕生したときに持っていた神話です。それが人類の「出アフリカ」にともなう移動により、南インドからパプアニューギニア、オーストラリアに広がり、アフリカやオーストラリアのアボリジニの神話などになりました。
一方「ローラシア型」は、すでに地球上の大部分の地域にホモ・サピエンスが移住した後に、西アジアの文明圏を中心として新たに生み出されたと考えられています。それがユーラシア大陸に、さらにはシベリアから新大陸への移動によって南北アメリカ大陸に、そしてオーストロネシア語族の移動によって太平洋域へと、広く広がっていきました。つまりこの説によれば、日本神話もギリシア神話もローラシア型に属する同じタイプの神話ということになります。両者が似ているのは、むしろ当然のことなのです。
近年、DNA分析や様々な考古学資料の解析によって、ホモ・サピエンス移動のシナリオが詳しく再現できるようになりました。するとその成果が上記の世界神話説にぴったりと合致することがわかってきました。すなわち神話を分析することで、ホモ・サピエンスのたどった足跡が再現できるようになったのです。
著者はこの知見を元に、日本神話は世界の神話の中でどのように位置づけられるのかについても大胆な仮説を提唱します。著者によれば、日本神話は基本的には「ローラシア型」ですが、よく観察すれば、そこには「ゴンドワナ型」の要素もかなり含まれているということです。つまり日本の神話は、世界でも類例を見ないユニークな位置を占める可能性があるのです。
本書は、近年まれに見る壮大かつエキサイティングな仮説であるこの世界神話学説をベースにして、著者独自の解釈も交えながら、ホモ・サピエンスがたどってきた長い歴史をたどるものです。(YH)
●2458 核兵器と原発 日本が抱える「核」のジレンマ
【著者】鈴木達治郎 【本体価格】800円
【内容紹介】
北朝鮮の「核の脅威」にわれわれはどう対峙すべきか。世界の原子力産業は衰退期に入ったのに、なぜ自民党はその流れに「逆行」するのか。原子力委員会の元委員長代理がはじめて明かした、日本の「核」の真実。
【担当者コメント】
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞し、夏には核兵器禁止条約が採択されるなど、世界的に見れば2017年は「新しい潮流」が生まれたといえる一年でした。新春早々にはICANのフィン事務局長が来日し、長崎などで講演を行う予定です。
一方で、憂慮すべき事態が起きた年でもありました。
トランプ大統領の誕生後、世界が滅亡する「午前零時」まであと何分かを示す「世界終末時計」が「2分半前」を指し、63年ぶりの「危機的状況」に陥っていることをご存じでしょうか? 米国の巨大な核戦力をもってしても、北朝鮮の核攻撃を「抑止」できない可能性があることも、北朝鮮問題によって露呈しました。
もともと「原子力の技術が核兵器に転用できる」という意味において、核兵器と原発は密接な関係にあるわけですが、この北朝鮮問題を機に、「日本も核武装を検討すべき」という意見が目につくようになってきた中、日本の原子力政策は間違った方向に進んでいるのではないか――。そう指摘するのが、『核兵器と原発――日本が抱える「核」のジレンマ』の著者・鈴木達治郎氏なのです。
世界の原子力産業は衰退期に入っているのに、日本がその流れに逆行しようとしている理由とは? 東日本大震災で学んだはずの「福島事故の教訓」を、もう忘れてしまったのか?
122ヵ国の賛成により採択された核兵器禁止条約に、日本はなぜ参加しなかったのか? 唯一の戦争被爆国としての矜持はどこへ行ったのか?
そもそも「核の傘」は本当に意味があるのか?
原子力委員会の元委員長代理で、長崎大学核兵器廃絶研究センター長の鈴木氏が、これからの核問題の「本質」に迫った一冊です。(MK)
年賀状も出すばかりとなって一安心、あとは29日の返却日の本を図書館に返しに行かなければならないと思っていたら、なんと図書館は昨日で休館となっていた。返却ポストで貴重な本を年越しさせるにもいくまいと思い、足かけ二年お借りしておくことにした。
あとは正月頭と、デスク廻りの「積塵成山」状態の本や資料を整理して掃除することである。
ヤフオクで落とした資料や本、Amazonで購入してパラパラと目を通しただけの本など、年末年始の間に片付けなければならない。
ブログでご紹介している「雑色草書」もあと17頁ばかりとなったが、これは年内完了は絶望的になった。
病上りの奥方は、お節料理やその他もろもろはインターネットで注文済みだし、例年と違ってのんびりとしている。
あとは御餅とお飾りを買えば、お終い・・・
皆様のお宅は如何ですか?
この資料は三渕嘉門(澄昭)が兄・帯刀(松井本家九代微之)、弟・内匠へ宛てた書状の写しである。
三人共に松井営之の実子である。(系図参照)
御尋ニ付口上覚
四月五日之夕紫英私方江罷越申聞候趣ハ
定彦事内匠順養子ニ被致度由内匠ゟ
以御上書紫英江被申向候右之儀ハ當春
二月之比雄山ゟ茂紫英承り居候由其
趣旨者雄山深ク思惟仕候処先祖大和守
血筋を申候而者乍女系守居計ニ付願クハ
定彦事内匠順養子ニ被致候様有御座度
存候間内匠江去年十一月雄山ゟ以書付
申向候 宜候段申聞候 然共紫英茂一通ニ
相心得其上雄山とも追々咄合宜候筋合も
有之候ニ今ニ成右之通変替りニ相成候
事紫英存候者雄山儀最早及老年
万端忘却ニ而候事と相心得紫栄(ママ)ニ
當居申候処近比内匠ゟ不計以書付俄ニ
順養子之儀申聞候間甚行當申候併内匠茂
■養父挨拶ニ者是非一通ハ手数候事故
左茂可有御座然レ共紫英ゟ委細之以訳
断申候ハヽ相帰可申候と存前内匠ゟ猶又
以書付存意委細申向候間従是茂又
書付を以相断候得共一向承引無御座
既ニ今晩ハ頼藤栄を招キ委細申含
尊兄様江茂申上近日ニ願書差上申候
との事ニ而紫英大ニ驚申候其訳者
守居存生之中順養子之儀ハ堅相成
不申由必多度其儀迄平日申其趣
長ク書付茂出来申候得共書付者成就
仕不申候中相呆遣言ニハ申殘宜然者
定彦親之命を背キ候ニ相當第一不
孝ニ相成身近難相■其上内匠と
年齢僅之違イと申信記又順養子ニ
相成申候得者是又■之違ニ而一向勤メ
申候間茂無御座候得者僅之間ニ頻へニ
代替り打重り候而物新知之家筋旁以
不宜存相断候得共一向ニ萬■不被致
候可取早此三之儀無詮方私打懸頼ミ申候間
何卒内匠手前申宥メ呉様ニ必及度
落■ニ而頼ニ而御座候勿論此儀毛頭ニ挨拶
尓而申候ニ無御座真実日月神ニ懸ケ
申候との事ニ而既此事御断相立不申候得ハ
及落命候格悟之由殊之外愁傷ニテ頼
尓而御座候万私茂甚難澁仕差寄何とも
返答仕兼候得共何分一命ニ茂懸り申程之
申分故其分ニ茂難閣差當胸中ニ極候ハ
右之通之趣ニ只今之内匠ゟ頻ニ取遣御座
候而者取茂直サヌ母子賣り相と申ニ而
作閥人口茂
続く
一七九
一馬會所割賦年分左之通
覚
正月御割賦
一貮両銀・日行司銀
但、御用馬壹疋ニ付貮拾六匁六歩宛
右貮両銀・日行司之銭高
一銭一貫三百三拾目
内
四百三拾目 八匁六歩宛
但、御用馬壹疋ニ付貮両宛五拾疋分馬指請取也
九百目
但、會所詰三人給銀ニて候、是を日行司銀と申也
同御割賦
一六百七拾目
但、馬指給銀
同御割賦
一三百目
但、會所詰造用銀
右貮両銀・日行司銀貮稜ハ、私幷會所詰給銀ニて、此儀
同苗代より極之通御座候
六月御割賦
一壹貫百五拾目
但、亥子丑此三ヶ年、右之通依願被為仰付候、尚又今
度辰年迄三ヶ年依願被為仰付候
「此稜ハ、旅人入用之人足十人以下指出候節之増雇
賃根元五百七拾五匁ニテ受負被仰付置候處、諸色高直
ニ付、依願安永六年より諸色直段引下ヶ候迄之間、年々
貮百五拾目宛増方被仰付、尚又同八年、依願下地増方
之上、三ヶ年限三百貮拾五匁宛増、都合本行之高也」
同御割賦
一百八拾目
但、此儀ハ會所詰給銀不足ニ付、増被為仰付候
七月御割賦
一壹貫貮百目
但、日田・天草御取遣之御用状夫賃
「此受負高、根元六百目ニて候處、諸色高直ニ
付、安永六年より依願諸色引下ヶ候迄之間、貮百五拾
目宛増方被仰付、尚又同七年ニ依願翌夏迄三百目増方
三ヶ年限也
被仰付候也、同八年依願三百五拾目増、都合本行之高
也」
同御割賦
一貮百目
但、別當衆當り也
御公邊之継状、別當衆依願、會所え被為仰付候
同御割賦
一貮百目
但、日田・天草御用状、晝夜之勤方故、會所詰え依願
被為仰付候
十月御割賦
一百四拾匁
但、諸色高直ニ付、十月より九月迄、依願私え年々被
為仰付候、尤一ヶ年限/\之依願被為仰付候儀に御座候
同御割賦
一貮百五拾貮匁
但、右同断、會所詰参人え、依願被為仰付候、壹ヶ月
壹人ニ七匁宛、右同断
「右ニ稜増方安永七年初發」
一九貫目
但、御用馬銀、年々定請負として十二月御渡被下候
右之通御座候、以上
天明二年也
寅八月 馬指 善 五 郎
一右之外、日田・天草御手代幷御役人なと、熊本通行之節、
駕壹挺ニ付貮人分之定り賃銀被相渡候得とも、右之通ニ
ては雇出不申候付、増銭相渡、尚助夫一人差出、其賃銀
共去ル子丑寅三ヶ年分ハ、其後致割賦候、翌卯年より酉
年迄之増賃、馬指より取替へ置候分五百三拾貮匁、明ル安
永七年戌三月、馬指依願町中致割賦候、左候て、以来前
年分翌正月貮両銀抔一同ニ致割賦筈ニ申付候事
この志水氏は青龍寺以来の家格をもつ祖・清水新之允(雅樂助・伯耆・宗加)の一族六家の内の一家、隼太家(300石)の最後の当主八代目に当たる。いわゆる日下部与助系のお宅である。一門は下の略図のように枝葉を広げて活躍した。
+---九郎左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→京都・九郎左衛門家
宗加 |
--+--志水清久--+--九左衛門---次郎兵衛(九兵衛)=====久馬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→凍家(1,200石)
| |
| |日下部与助 新之丞克重
| +--元五---+==恵重---+---吉之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→新九郎家(1,000石)
| | | | ‖
| | | | 圓光院(筑紫重門・細川幸隆女兼夫婦の女)
| | | |
| | | +---権之助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→隼太家(300石)
| | | |
| | | +---四郎兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→源九郎家
| | |
| | +--久馬(九兵衛為養子)
| | |
| | +--菊 (庄林隼人・一心室)おうを
| |
| | 雅楽 牛之介
| +--恵之---+--元茂--+--新九郎(不満・若年絶家)
| | | |
| | | +--●蝶(兄・新九郎跡目相続300石)
| | | ‖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→長瀬三七
| | | 長瀬助之允
| | |
| | +--恵重(元五為養子)
| |
| +--要善院日富 志水家菩提寺・真浄寺創建
| |
| +--加兵衛 悪兵衛清秀養子(清久系系図による)
|
| 清秀 賜姓松井
+---悪兵衛---+---掃部---+--三左衛門---三左衛門 (病死絶家)
| |
| +---加兵衛
| 一安
+---半右衛門 継・松井家家臣下津氏
| 清重
+---又右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→八代松井家家臣・志水小八郎家
| 清通
+---九太夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→豊後竹田中川家家臣・志水家
|
+===加兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 一太家(300石)
→ 三弥家(250石)
朽木定彦さん関係の文書の読み下しがなかなか進まない。まだ9通ほど残っており全く先が見えない。
現在読んでいるのは三渕嘉門が兄・帯刀(松井本家九代微之)、弟・内匠へ宛てた書状の写しである。
共に松井営之(八代当主)の子息である。この書状は紫英が三渕嘉門を訪ねていろいろ話を聞いた状況を伝えている。
そんな中に「作閥」という言葉が出てくる。非常に興味深い言葉である。
松井家九代微之は妾腹の子である。営之の正室は二番家老米田家の八代・是福女久美なのだが男子が生まれなかったらしい。
「度支彙函」には「長岡主水(営之)殿妾腹之男子岩次郎(微之)を嫡子ニ被定置段被申聞候 此段為ご存知申達候由、安永二年三月廿三日達の事」とある。三男・誠之は松井分家に入り、四男が三渕嘉門(澄昭)、六男が朽木内匠である。
代々当主は細川家やご連枝、三卿米田家・有吉家から正室を迎え、また兄弟姉妹も上級家臣と結婚してまさに「閥」が作られていく。
松井宗家を頂点にして閥のヒエラルキーが構築されると、この大きな勢力に対抗しようとする者は生まれそうには思えない。
維新に乗り遅れた一因はこの巨大な「閥」によると考えてもあながち間違ってはいまい。
一七三
覚
在人畜之者町方え入込、奉公人之姿、或定日雇等ニて致 人畜(にんちく)
渡世候者多相聞候ニ付、其子細人別遂吟味、書付相達可
申段、去ル寶暦九年卯十二月申觸候處、翌辰之春ニ至り、
夫々差出を以相達候、右之者共之内、在所え引取可致渡
世分ハ、急度引取せ可申候、若數十年町家え罷在、本所
え可引取所縁無之者ハ、町人數ニ被替下、又ハ養子等ニ
も可被仰付候條、御法之通双方申談、願書可相達段去巳
二月令沙汰候處、本所ニ難引取者共町人畜入込之儀、双
方より願書追々相達候、人畜替之儀ハ不容易事ニ候得と
も、右何れも年久敷町家え出居、農家之働難成、其上在
所えは可引取所縁等も無之由ニ付、夫々願之通町人畜入
被仰付候、則帳面一冊相渡候
一以来、家来分又ハ定日雇等之名目を以、人畜違之者借家
等ニ差置候儀一統難叶候條、其旨を相心得、別當・丁頭
幷五人組共ハ相互常々心を付合、紛數者入込居候ハヽ急
度可申出候、若隠置後日相聞候ハヽ、丁役之者共可為越
度候
但、親族之内在所ニて渡世難成、當分為稼一所ニ参居
候儀、相對を以差置候儀ハ難叶候條、此方え相達受差
圖可申候、勿論奉公人たり共、其主人之別家ニて懸勤
等之名目を以差置候儀都て難叶候、出店等有之者共、
為店番遣置候類も有之節ハ、其譯書付を以相達、受差
圖可申候
右之趣町中不洩様夫々令沙汰、家持之者共は別當手前ニ
判形取之相達可申候、以上
六月十三日 町御奉行所
惣月行司東古町
別 當 共
右寶暦十二年六月日帳
但、段々扣有之候
一七四
一仲間と申儀、以来ハ同役又ハ同僚と調可申旨
一人畜と申儀、以来ハ在人數・町人數と調可申旨
右之通、平太左衛門殿より吉海市之允え被申聞候事
右安永三年十一月七日
一七五
安永八年九月十六日日帳
一長岡典彌殿、明朝六ツ時過より新開邊迄為試早乗有之筈
之由、尤坪井廣丁・米屋町・通り丁・唐人町筋石塘之様
ニ被罷越筈ニ付、町中道筋ニ小荷駄等有之節、片付置候
様規度無之通達有之度との趣、隼人様家司役より佐貮役
え頼来候、ケ様之儀是迄見合も無之、右道筋町中え及達
候儀、如何可有之哉、不落着ニ付、平太左衛門殿え相達
候處、當時津出馬多キ時分、右之通ニは難及達旨候段、
致返答候様ニとの事ニ付、其通及返答候事
津々堂付足し 長岡典彌とは細川刑部家五代・興行の二男であり、隼人様とは細川刑部家六代の興彭(宗家・細川重賢弟)である。
馬で朝駆けをするから道筋の邪魔なものを取り除いて置いてほしいとの、刑部家家司からの申し入れである。
佐貮役とは奉行の秘書役ともいえる役職だが、ここからその旨町役へ達しがなされたのであろう。
ご連枝とはいえいささか過ぎたる申入れではある。
このような話は今までに例がない事であり、当時は津出馬が多い時分で、町方では受け入れがたいというのである。
典彌の申し入れに対し、時の大奉行堀平太左衛門が駄目を出している。当然と言えば当然の成行だが、平太左衛門
の力量を伺わせる話ではある。典彌殿の反応がどうであったろうかと興味深い。
この典彌殿は隼人様(興彭)の順養子と成り、刑部家七代当主と成る興貞である。
一七六
紺屋町別當
鹽飽屋
白木茂七郎
京壹丁目貮丁目別當
會津屋
甲斐吉次郎
右は、他所より之御使者参着之砌、御客屋近所失火之節、
退所ニて候事
但、式稿日帳ニ有り
一七七
一宇土町平十郎と申者、賣薬願出候ニ付、醫業吟味役、田
中柳宅、合志杏庵え薬方書等相渡候處、右両人より相達
候ハ何れも醫家日用之薬方迄ニ候、ケ様之類迄も賣薬被
指免候ハヽ、何分際限不可有候、即數有之、妙方と申歟、
又ハ備急卒候薬方ニて、急ニ整製難成類、或ハ其家代々
一子相傳と申様成薬方ニ限り候様有之度候、右躰醫家日
用之薬迄も賣薬ニ相成候てハ、醫家之薬を俗家より奪申
様ニて、一統風俗も如何ニ成行可申候、依之賣薬之儀
ハ、得斗御吟味之上被指免候様有之度段有之候事
右安永八年三月十六日
一七八
一軒帳前書此方え扣無之候、左之通
町家賣買之覺
一生所不知者、一切家を買せ申間敷候、他所他國ニて如何
様之障り可有も不知候、第一宗門之儀吟味可仕事
一縦請人有之ものにても、不慥成者を無念ニて請ニ立申儀
も、自然可有之候間、請ニ立申子細をも能々相改承届、
其上ニて家之賣買可申付候、惣て借家を借り候もの共之
手前も、能改、家主手前より受人を立せ借候様可仕事
一家を賣 「蔚山町軒帳ニハ買と有り」候者付て、身躰
善悪ニより家屋敷ひろめせはめ申儀、ケ様之者ニハ、町
年寄参談之上ニて賣買之儀可申付候、又其町之年寄分ハ
家を賣候事無用候、無據儀有之候ハヽ、其段可相達候、何
時も家を賣候者、其子細書記、勿論請人之判形をも此帳ニ
取揃へ可指越候 「 蔚山町軒帳ニハ此所ニ然上ハ之三
字有り」見届候上、此方よりも則此帳ニ判形可出候、無
届家之賣買仕候者、其町之年寄共迄可為越度候間、可得
其意候、以上
安永四年乙未九月 町御奉行所市督之印
新坪井町
別 當 共
右之通候事
熊本地震から間もなく(現在地に移転後)親戚のY氏がわざわざ当家を訪ねてきてくれた。
私の母と、彼の祖母様が従姉妹の関係という縁戚なのだが、長い付き合いである。
奥様も一緒においでいただいたが、奥様のお姉さまが古町の旧中村小児科医院跡にお住まいと聞いて驚いてしまった。
この建物は熊本市の「景観形成建造物・景観重要建造物」に指定されている建物である。
多大な被害をうけ、大掛かりな補修工事が必要だとその時お聞きしたが、今年の夏には解体されてしまったことを知った。
改修費が2億円という金額で、所有者負担が1/3だというから大変なことではある。
まさかこのような事態になるとは思いもよらず、建築を生業としてきた私としては、一度詳細に拝見したいと願っていたのだが、遅きに失してしまった。
こんな現実が続いている地震後の熊本である。大いなるむなしさを感じざるを得ない。
毎日ご紹介している「雑色草書」は、写真の如く見開き2頁を約2時間でタイピングしている。
現代文ならば1時間ちょっとで終わると思うが、ほとんど一文字ずつ、たまにニ・三文字を打ち込むという作業であるからだ。
悪友が「ご苦労なこったい」といいながら、「面白く読んでいるから、休まずにやれ」と励ましてくれている。
おだてられて今日もまたタイピングに2時間を費やすることになる。
蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実 (中公新書) | |
服部英雄(くまもと文学・歴史館長) | |
中央公論新社 |
12月13日、くまもと文学・歴史館で館長の服部英雄氏の御著「蒙古襲来」についての講演をお聞きした。
一度は読んでいたので目新しい話ではなかったが、著者の口から伝え聞くとまた感慨を新たにする。
そんな館長が「新刊が出ています。ぜひ読んでください。」と仰ったのがこの本、早速注文したのだが、年末のせいかまだ送られてこない。
Amazonの配送も少々怪しくなっている。