度支彙函にある齊茲公の御子に関する記述を引き出してみた。
■職五郎(ヨリゴロウ、茲詮) 齊茲三男、寛政八年九月晦日に江戸で生まれた。生母は山科氏女・正操院
(享和二年并文化元年、細川和泉守立之仮養子となる)
一、(文化二年)職五郎様四月六日江府被成御發途候段申來候、此許御着之上所々御出之節、士席以上於途中御行列ニ参り懸り
候節ハ、左ニ片付鑓ヲ伏せ被扣居御時宜可被仕候
一、軽輩・陪臣下々共避候ニ不及、参り懸りニ平伏仕罷在候儀不苦候
一、門前御通り之節、形儀手桶等指出候ニ不及候
右之通被相心得、組々えも可被達候、以上
五月八日 奉行所
一、(文化六年)來ル九日職五郎様三丁目御屋敷え御移徏之筈候、右御門前御塀内は御屋敷内同前之場形ニ付、下馬可仕候、
尤家来末々迄堅可被申付候、此段觸之面々へも可被達候、以上
二月朔日 奉行所
一、(文化九年)職五郎様、當春被成御出府筈ニて、此段御用番松平伊豆守え御届之御書付、舊臘十一日被遊御差出候處、無御
滞被成御受取候段申來奉恐悦候、依之來月三日御發途之筈ニ候、此段觸之面々えも知せ置可申旨、御用番被申聞候條、
已下同断
文化九申正月廿一日 御奉行中
一、職五郎様(文政元年)先月二日夕より少御腹痛御熱候も被成御座、同八日より御両足御■(馬ニ夫)上御浮氣被為見、其後御
食事も御乏敷御出来不出来ニ被為在候處、次第ニ御容躰被差重御療養務御叶、同十九日巳刻御死去之段御到来有之恐入
候、依之御國中諸事穏便ニ相心得、繕作事は明後日迄被相止候、此段觸支配方えも可被相觸候、以上
文政元寅五月朔日 奉行所
■猪八郎 齊茲五男
一、(文化六年)長岡猪八郎殿三月十八日於御裏御誕生御達之事
一、(文化六年)猪八郎様來ル廿二日五時之御供揃ニて、此元御發途之筈ニ候、此段觸之面々えも知せ置可申旨御用番被申聞
候條被奉承知、觸支配方面々は可被相知せ置候、以上
文化六年巳七月十九日 御奉行中
(文化七年十二月廿九日江戸にて卒す、二歳)
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