津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■宇土細川家、代々藩主の官職名

2024-11-08 07:08:53 | memo


     家祖・細川立孝 細川忠興四男    中務大輔

 宇土支藩初代・細川行孝   立孝二男    丹後守
     2代・細川有孝   行孝嫡男    和泉守
     3代・細川興生   有孝嫡男    伊豆守→山城守
     4代・細川興里   興生嫡男    大和守
     5代・細川興文   興里・弟    豊前守→中務大輔
     6代・細川立禮   興文二男    和泉守 (本家相続・齊茲)
     7代・細川立之   立禮嫡男    和泉守
     8代・細川立政   立之嫡男    中務大輔(本家相続・斎護)
     9代・細川行芬   立政・弟    中務大輔→豊前守
     10代・細川立則   行芬二男    山城守→因幡守
     11代・細川行眞   立則・弟    大和守→豊前守    
                     参考:嫡男・津軽行雅、二男・毛利高徳(二女・千代子=近衛文麿夫人)
     12代・細川立興   立則嫡男(廃藩に伴い官職名なし)

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■祖父の足跡

2023-09-24 13:15:26 | memo

 我が家の史料を入れている(と言うより、放り込んでいる)箱を久しぶりに明けてみた。
この中に上記「津田楳渓先生門下生同窓會」の史料と思われるコピーが二枚出てきて、祖父・義雄の記事が顔を出した。
「会員現況」という頁があり、二番目に祖父の名前があった。どうやら昭和11年のものらしい。祖父は66歳と有る。

  拝呈仕候時下御清康奉賀候今回の御計画至極結構と存し會費金一圓と別紙御送附候間御受領成度此段
  貴意を得候也敬具
     六月二十六日                   ■■■■

          現在調
  一、年齢 六十六歳
  一、原籍 熊本縣飽託郡城山村下代六五四
    現在 東京小石川區高田老松町七六
  一、家族 老母八十四歳あり、夫婦健在、外に豊島師範三年の甥と、日本女子商業二年の姪あり、家族は
       五人なり、末弟夫婦千年病没し、遺子四人を引受け姉二人は他に嫁せしめたるも、今尚ほ二人
       を世話しつゝあり。
       長男は早大理工科を卒業し、目下臺湾總督府營務課に勤務一女あり、
       長女は東京人早大工學士に嫁し、大阪にあり、三人の女兒あり、
       次女は同県人水産學校教諭に嫁し、岩手縣宮古に在り。二男一女あり、
       末女は本年二月同縣人名古屋高商出の會社員に嫁し、兵庫縣芦屋に在り、以上にして孫は七人
       なり、
       去る大正四年細川家に奉職して現在に及ぶ、碁も打てば将棋も指す、されど下手なり、スキー
       は十年以上も随行の光榮に浴し、大に勉強したるも、是も極めて拙なり、夏は毎年葉山の海水
       に随行し、老骨ながら今も泳ぎつゝあり、詩はやめた歌もやらぬ、高潮の誌友として時々俳句
       をやる、此れ下手の横好きの方なり、投網は大好きなれど暇なくして行けぬ、希望感想なきに
       非ざせど、他日に譲る、

 この一文に接して、判ったこともあり有難い記事であった。
ちなみに、津田楳渓(静一)先生の門に在ったという事は初めて知った。
一時は平壌の朝鮮語学校の校長などを勤め、ある資料などによると「国士」などと書かれているが、細川家に大正四年から昭和十九年に亡くなるまでは、穏やかな暮らしであったろうと思われる。

                    

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■薮正純墓誌

2022-11-01 08:40:29 | memo

 薮内藏允正純のお墓は、熊本市横手の丘陵地にあるが、四方を民有地に囲まれて現在では入ることが出来ない。
何か解決策を見出さないと、まさに藪の中に埋没してしまう。そして忘れられよう。
この地が薮家の正式な墓地ではない。なぜ正純のお墓だけ(?)がここにあるのかが謎である。
つまり墓誌についても、見ることが出来ないという事になる。かって史談会の友人N君からもらったコピーが顔を出したのでここに記録する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              藪正純墓誌          肥後名家碑文集・八
                                                                                                                                        (明)
      藩国老藪君 文政七年甲申三月二十三日 奉藩命赴于江都 四月七日病歿于赤石舟中 於是家臣僕從
      輿柩而歸 五月二日 葬于熊府西 四方池之後丘 年六十八矣 初訃音之至都下 有志之士聞之 雖不知
      君者 往々哀惜焉 伏惟本藩文明 賢良濟々 共和爲政 則君在之日 未嘗聞特有赫々之名 且廊廟之事
      非閻魔之所敢知 則君建何嘉謀邪 納何正諫邪 将進何賢 而勲何不肖邪 誰復能聞之者 況■平素不
      知君 及其死 哀惜焉者 有何所見而然也 有何所聞而然也 蓋聞誠於中 必形於外 則君平生寸丹之忠
      悃 有自然感於人心者矣 君初爲参政 自謂 吾之贛愚 皆人之所知 吾不敢修邊幅以循俗尚 是君自言
      其所短耳 然君之所長 其在于斯孚 夫不修邊幅以循俗尚 不柱性素以投時好 視諸世之尚機變 智巧
      與人相依違 相推遷者 其相違如何哉 是有志之士 所以有望于君而惜其死也 君歿之明年 蕎小祥一
      月 其嗣子來請余碑文 余自少壮時 辱承下交熟知其平素  則辤乃按譜 君祖先曰内匠頭 仕我三齋公
      于豐前 食一萬二千石 後改禄老洛 次曰圖書 内匠君之第二子 賜二千石 次曰圖書 襲禄如故 次曰三
      左衛門 為備頭 加賜千石 凡三千石 次曰右膳 次曰彌次右衛門 皆食三千石 其次則君也 君諱正純 穪
      内藏允 父老襲禄 尚未弱冠 削二百石 既壯爲番頭 歴遷留守居大頭及備頭 又為中老 遂升於國老 歴
      食數十年 賞加二百石 於是得復其舊也 祖先以来 世為将官 而至于君 始得入政府而握國釣 可謂光
      榮矣 娶小笠原氏 早歿 有男五人 女二人 男長曰太郎助 告病家居 次曰莊次郎今改彌次右衛門 為嗣
      襲禄三千石 班組外着座 次則嗣稲津氏 次則堀氏 次則為同族某養子 女一人則嫁木下氏 一人則嫁
      志水氏 君為人肥大 資質忠朴 不設城府 外如踈嚝而内慎密 克矜小物而不細苛 善禮士下人 事有所
      疑則必質焉 然至于其所操執 則雖衆猜群嗤不敢枉已 又氣力絶人 老而不衰 日上朝堂曾無倦色 夙夜
      憂勤 晝日之所議退而思之 或中夜起坐而記焉 其精可知也 居家嚴粛 子弟侍側唯謹 服食清儉 目絶
      紛蕐 不畜姫妾 外無便嬖 常好誦讀 日夕公退 乃命諸子 繙聖經賢傳 要語會心 必手自抄 以為書紳之
      戒 又精國史野乗 古昔良將義士 攻代籌策等 地理形勢 名居年紀 靡弗諳記 毎會賓容故舊 置酒之間
      盛談其事 尚論其人 常以為樂 若夫君能書射騎槍剣等之技 是乃武人之家事 吾不復道也 銘曰
        學而入官 猶鮮有之 況官而學 豈多有之 少而敏學 猶鮮有之 況老而學 豈多有之
        維茲薮公 既耄既耆 志胡囂々 學故孜々 聖言服膺 弗尚文舜 悪佞如臭 耆義如飴
        始將後相 邦家之基 老成有典 丈人總帥 子弟考友 有政是施 家庭清簡 臨下是宜
        暛孚薮公 古之遺矣夫                    (辛島憲) 
  
  

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■熊本城調査研究センターの定期講座「熊本城学」の記録-その2

2022-02-22 07:25:43 | memo

かって、熊本城調査研究センターの定期講座について、その記録の一覧を表示したことがあった。
        ■熊本城調査研究センターの定期講座「熊本城学」の記録

其の後の記録について、ずいぶん時間が経過しているので再度「その2」として続きをUPすることにした。


第40回 中世の隈本城から近世の隈本(熊本)城へ
【日時】令和2年(2020年)2月8日(土)
  講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主幹 鶴嶋 俊彦
 
第39回 長塀の保存修理工事~これまでとこれから~
【日時】令和2年(2020年)1月18日(土)
  講演者 熊本城総合事務所    主幹兼主査   城戸 秀一
      熊本城調査研究センター 文化財保護主幹 岩橋 隆浩
 
第38回「クマモト城」と豊臣政権
【日時】令和2年(2019年)12月21日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事 下高 大輔
 
第37回「天守閣の石垣復旧でわかったこと」
【日時】令和元年(2019年)11月16日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事 嘉村 哲也
 
第36回「シャチホコ」から城を語る
【日時】令和元年(2019年)10月19日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主幹 美濃口 紀子 
 
第35回「琉球の風ー琉球のグスクと熊本城ー」
【日時】令和元年(2019年)9月21日(土)

   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事 亀島 慎吾
    配布資料 「琉球の風」 

第34回「熊本城以前の地政学」
【日時】令和元年(2019年)8月17日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 主査 林田 和人
   配布資料 「熊本城以前の地政学」

第33回「伊達の城と熊本城」
【日時】令和元年(2019年)7月20日
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事(仙台市派遣) 須貝 慎吾
   配布資料「伊達の城と熊本城」

第32回「清正の土木」
【日時】令和元年(2019年)6月15日
   講演者 熊本城調査研究センター 主査 金田 一精

第31回「明治22年熊本地震と熊本城」
【日時】令和元年(2019年) 5月18日
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事 木下泰葉
   配布資料「明治22年熊本地震と熊本城」 

第30回「被災後3年の熊本城復旧状況」
【日時】 平成31年4月20日(土)
   講演者 熊本城総合事務所    主幹兼主査   城戸秀一
       熊本城調査研究センター 文化財保護参事 山下宗親     
    配布資料「被災後3年の熊本城復旧状況」 

第29回「熊本城築城への道」
【日時】 平成31年3月30日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事 河本愛輝
   配布資料「熊本城築城への道」 

第28回「浜松の城と熊本城」
【日時】 平成31年2月23日(土)
          講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事(浜松市派遣) 和田達也
 
第27回「加藤清正の本城と支城」
【日時】 平成31年1月19日(土)
   講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事(浜松市派遣) 和田達也
   配布資料「清正の本城と支城」 
 
第26回「彦根城と熊本城・慶長の築城ラッシュ」
【日時】 平成30年12月15日(土)
        講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主任主事(彦根市派遣)  下高大輔
  配布資料「彦根城と熊本城ー慶長の築城ラッシュー 
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■メモ「NHK・ネーミングバラエティーから超難字」

2020-12-17 07:13:31 | memo

 先のNHKのネーミングバラエティーでやっていた「難解名字」をメモっていたが、物忘れが激しい爺様は、もう半分以上忘れていた。メモ紙からこちらに転記してみた。

   (1)五六 (2) (3)薬袋 (4)小鳥遊 (5)四月一日 (6)貴家 (7)毛受 (8)四十物

(1)将棋に関係している。盤面の五・六に「歩」を進めるため。福岡に多い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふのぼり(歩登り)
(2)令儀に於ける役職名から、さう(そう)官→さかん→さっかと変化、山口県宇部市に多い・・・・・・・・・さつか
(3)袋の中は見ない(名薬だからだろうか、よく記憶していない)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・みない
(4)小鳥が遊ぶところにはいないもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・たかなし(鷹なし)
(5)これは知ってましたね。季節もの、この時期になると行う事。着物から・・・   ・・・・・・・・・・・・・わたぬき(綿ぬき)
(6)表札を見るとすごいお宅と思わせる??・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さすが
(7)なぜこう読むのかはよく覚えていませんが、小鳥に関係していたかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・めんじょう
(8)家業に関係すること、四十品あったことから又、始終食べられることから ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あいもの

           森岡 浩 森岡浩氏の まいどなニュース

 

 

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■読書の傾向・私の本棚(1)

2019-10-25 17:49:16 | memo

 終活ではないが、ふとわが本棚に並ぶ蔵書のリストを作ろうと思い至った。
ほぼ定位置にこのように並んでいる。なんとなく場所は覚えていて取り出すのには添う苦労もしていない。
段ボールに入ったままの本については、何が入っているのかとんと判らない。
この間一つ開いてみたら、建築関係の本が出てきて、床に座り込んでの久しぶりの再会と相成った。
いろんな論考や古文書のリストも追々作ってみようかと思っている。

        1、梅鉢草‐思いつくまま‐          寺島雅子
        2、老松町の殿様
        3、細川幽齋と舞鶴
        4、細川三斎 茶の湯の世界         矢野誠一郎
        5、利休随一の弟子・三斎           同上
        6、春灯雑記                司馬遼太郎
        7、戦国細川一族 細川忠興と長岡与五郎興秋 戸田敏夫
        8、肥後学講座 Ⅰ
        9、肥後学講座 Ⅱ
      10、肥後学講座 Ⅲ
      11、新肥後学講座
      12、細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり  稲葉継陽
      13、細川藩の終焉と明治の熊本
      14、重賢公逸話              川口恭子
      15、細川侯五代逸話集           大島明秀
                 16、肥後藩の庶民事件録 日本近代自由刑の誕生  鎌田 浩
      17、木下韡村の生涯とその魅力 韡村書屋に集まる廉潔の志士たち  木野主計
      18、熊本の消えた地名
      19、くまもと城下の地名
      20、熊本城の被災修復と細川忠利 近世初期の居城普請・公儀普請・地方普請  後藤典子
      21、想出の人々 揮麈憶往録        細川護貞
      22、熊本藩侍帳 人名索引         
      23、熊本藩役職者 人名索引
      24、肥後八代・松井家 御家人帳
      25、熊本藩家老・八代の殿様 松井章之の江戸旅行日記
      26、画引きくずし字解読辞典
      27、アプリで学ぶくずし字
      28、古写真に探る 熊本城と城下町
      29、フォトグラフ熊本城
      30、熊本城 歴史と魅力
      31、名城を行く 熊本城
      32、西南の役関係文献目録
      33、芸術新潮 熊本城築城400年記念特集「細川家 美と戦いの700年」
      34、細川家の700年 永青文庫の至宝
      35、甲斐青萍 熊本街並画集
      36、花畑屋敷四百年と参勤交代
      37、震災復興のメモリー熊本
      38、熊本地震の経験・教訓ー平成28年度熊本地震の検証からー  熊本県
      39、熊本地震と熊本城 特別講演会              (財)熊本城顕彰会
      40、平成28年熊本地震 被災文化財の復旧の歩み        熊本県教育委員会
      41、熊本明治震災日記                    熊本市都市政策研究所
      42、大嶋家文書の世界 若殿道中記 たみ縁組
      43、三河吉田藩・お国入り道中記               久住祐一郎
      44、熊本藩の社会と文化「八代古文書の会会報1~50合冊」   蓑田勝彦
      45、伊勢道中日記帳                     下津 晃
      46、幕末熊本の軍政と鉄炮                  平田 稔
      47、伊能忠敬没後二百年記念・ご用測量熊本県資料集      平田 稔
      49、市政百周年記念 熊本・歴史と魅力            熊本市
      50、歴史への招待・西南の役と玉東町             
      51、五嶋又兵衛の出奔と細川忠興               行橋市教育委員会・歴史資料館
      52、切絵図・現代図で歩く・江戸東京散歩
      53、嘉永・慶応江戸切絵図
      54、全国昔話資料集成6 肥後昔話集
      55、細川三代 幽齋・三齋・忠利               春名 徹
      56、細川家古文書から 武将幽齋と信長
      57、奔放なる江戸「春画」
      58、肥後恕斎日録 第一巻
      59、  同上   第二巻
      60、幕末武家の時代相 上          吉村豊雄
      61、  同上     下
      62、異風者伝                井上智重
      63、江戸状の宮廷政治            山本博文
      64、怡園随筆 茶・花・史          細川護貞
      65、細川幽齋                細川護貞
      66、永源師壇紀年録幷付録
      67、京の古寺から 13 高桐院
      68、肥後文献解題
      69、肥後古記集覧
      70、肥後武道史
      71、氏家家永代記録
      72、西国武士団関係資料集 八 財津文書・野上文書
      73、海事史研究・第30号 早船之規矩(一)
      74、宇土細川氏藩政関係資料調査報告書(ニ)
      75、菊池市歴史研究資料 中嶋伊三郎 御触状・諸達扣
      76、肥後細川家分限帳            青潮社
      77、肥後旧藩士録名簿            高田家
      78、魚雁集 細川家に残っている手紙     細川護貞
      79、勝龍寺城今昔物語            
      80、上天草市史2 大矢野氏の活躍
      81、上天草市史3 天草島原の乱とその前後
      82、新史料による天草・島原の乱 その時、徳川幕府軍はどう考えたか
      83、天草島原の乱 細川家史料による     戸田敏夫
      84、敗者の日本史14 島原の乱とキリシタン  五野井隆史 
      85、島原合戦記 原本現代訳
      86、街道をゆく17 島原・天草の諸道     司馬遼太郎
      87、天草キリシタン史「十字架の旗の下に」  北野典夫
      88、近世初期天草キリシタン考
      89、完本・春の城              石牟礼道子
      90、はるかなる天の河            島 一春
      91、島原の乱                煎本増夫
      92、日本切支丹宗門史・上          レオン・パジェス
      93、   同     中           同
      94、   同     下           同
      95、私説・ミジンコ大全           坂田 明
      96、ワインの基礎知識
      97、日本のメダカを飼おう
      98、ティンパニストかく語りき        近藤高顯
      99、江戸という幻景             渡辺京二
      100、逝きし世の面影                同

           

      

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■三つの花押

2019-10-10 19:48:26 | memo

            

            平野九郎右衛門
               2代目:九郎右衛門・長常(如元)
                    有吉頼母允組 御小姓頭 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
                     
寛文三年十月~延宝七年十月 小姓頭
                     延宝七年十月~天和三年七月 奉行
                     天和三年七月~貞享四年十一月 番頭

                  
平野如元 名は長常、九郎右衛門と称す。食禄千石、国政に参與し、一国出納
                  の事を監督す。宝永四年十二月三拾日没す。年八十。

            出田作左衛門
               3代目:作左衛門武英(初・左兵衛 入道自閑) 
                  (1)御鉄炮頭衆 千五百石 (真源院様御代御侍名附)
                  (2)有吉内蔵組三拾挺(頭) 千五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                  (3)二千石   (真源院様御代御侍免撫帳)
                                 ~寛文九年 中小姓頭
                     寛文九年(三拾挺頭)~延宝四年十月 小姓頭 作左衛門ト改
                     延宝五年(小姓頭)~延宝七年(隠居)番頭
            田邊(部)平助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川家家臣略歴(先祖附)に於いては田部氏とある。
                2代:平助(入道水月) 
                  (1)御鉄炮頭衆・三拾挺 七百石  
                  (2)御側物頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
                  (3)千石  (真源院様御代御侍免撫帳)
                  (4)有吉頼母允組 御小姓頭 千石 (寛文四年六月・御侍帳)・・田辺平助
                  (5)御詰衆・六番岩越忠右衛門組 御花畑御目付 千石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・田辺
                  (6)人持衆、番頭并組迯衆 千石
               

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■北の関事件の主役・三渕家の相談相手

2019-09-26 08:34:45 | memo

 以前「北の関事件、藩主の裁定」を書いたが、事件の主導的立場にあった三渕家当主の山名十右衛門重澄が、決起にあたって相談した人たちがどういう縁戚関係であるのかを知りたいとのお話しが在った。
それ等の人物は「細川綱利家譜」に名前が記されているが、十右衛門との関係には触れていない。
藤田助之進の娘との縁談のもつれが原因で起こった事件だが、その主・前川勘左衛門は山名十右衛門とは従兄弟の関係である。

ご質問にご返事を差し上げたところだが、朱書きがそのことを示している。当ブログでもここにご紹介しておく。
「前川与三兵衛重民(従兄弟)、其外縁家の長岡佐渡直之(義父)・津川次郎左衛門長房(義弟・十左衛門妹婿)・藤崎作右衛門直治(義弟・十左衛門妹婿)并、細川修理直(尚)房(光尚弟、室松井寄之女、十左衛門相聟)・長岡左門興知(室松井寄之女、相聟)此各江申談候」

ちなみに細川藩三渕家は、初代好重(細川幽齋末弟)が母方の姓を名乗っている(山名氏)が長岡の姓を給わっている。
2代之直、3代之政、4代重澄までは長岡姓を名乗っているが(本姓・山名氏)、傍流は前川氏を名乗っていた。
5代は傍流からの養子だが山名氏をなのり、6代目の及び三渕家を本姓としている。6代目澄定は朽木昭重(本姓三渕氏)男であり、山名・朽木両家の本姓三渕氏に戻したものと察せられる。

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■「二ノ丸・米田御屋敷絵図について」

2019-07-16 06:18:55 | memo

 二ノ丸にあった家老・米田家の屋敷図を手に入れてから早いもので二年を少々過ぎてしまった。
熊本史談会の会誌の発行も忙しさゆえに、なかなか前に進まない。
そんな中、率先垂範で出稿しようと思って米田邸に関する建築にかかわるものとしての私の推論を小文を書いた。
それが、以下の文章である。諸兄のご批評を仰ぎたい処である。

            

   二ノ丸・米田御屋敷絵図について

熊本地震の直後、2016年10月頃よりインターネットのオークションサイト(ヤフオク)に、細川家家老米田家資料が一年以上にわたり、熊本市内の古物商から出品された。都合2・300点に及んでいるのではないかと思われる。
地震直後、文化財レスキューで助かった史料が多くある一方、ひそかに近世熊本のこのような貴重な資料が流出する現実があった。
後には「佐田文書」と名づけられて出品されるようになり、大方の出どころは推察することが出来たが、地震の被害を受けられたのか詮索しても仕方ないことであった。

公共の美術館・博物館・図書館また大学等に一括納められることが一番望ましいことであろうが、このような緊急な状態で金銭的問題が生じる現実には、差し伸べられる救いの手はなく最悪の経過をたどっていった。
一・二点ずつ落札して入手する中、日を重ねていくとその量が膨大なものになることを実感させられ、唖然とさせられた。まったく地元の人々の目に触れる機会もなく熊本から持ち出される状況である。
流出した資料の事を考えると無力感にさいなまれる。
そしてこれは手をこまねいている訳にはいかぬと考え始めた。

研究者や好事家ばかりではなく、明らかに商売を目的とした入札も見受けられ、現実それらの品物が現在またオークションサイトに顔を見せている。
そういう状況の中で、いささかの抵抗を試み私も入札に参加して勝ったり負けたりしながらも約40点ばかりを落札した。その内容は多岐にわたっている。

 2017年7月ころ出品されたこの「米田家御屋敷図」は、自分の職業柄の興味もあって、どうしても落札したいと強く思い入札に参加した。
締め切りはいつもの事ながら23時過ぎである。競り合いが続き、再入札が繰り返されれ、次第に値段は高騰していった。
しかし負けられないという気持ちが勝り、落札に成功したものの、気が付くと日が変わって居り、あまりの高額に及び、あとで呆然としたことであった。
しかし、流出を食い止めたという感慨はそれらの苦労をも凌駕した。
絵図は大小二枚(図1)であり、内容は若干の差違がある。
和紙にタテヨコ7㎜にへらで方眼が施され、それに間取り図が墨書されている。
一部彩色があり、説明のための朱書などもある。
しかしながら敷地の位置関係は書かれておらず、これは残念な事であった。
大きいものは605×465㎜、二枚の和紙を糊付けしてあるが、糊がはがれかかっている。大名並みの15,000石取の御家老の屋敷らしく、中央に能舞台を配した間取りであり、壮大さは藩主の居館・花畑邸をも彷彿とさせるほどである。
小さいものは372×282㎜、一部に糊代を含め123×67㎜の紙が貼られていたが、現在ははがれている。ただし、その位置関係は大きい間取り図により確認でき復元可能である。大小二つの間取り図は夫々の記載内容により補完される部分があり、この二枚を同時に入手できたことはありがたいことであった。

 米田邸は種々の絵図面で示される通り、二ノ丸の時習館の北側、百閒石垣上南側に位置していた。二ノ丸御門を入ってすぐ左側に位置している。
敷地の東側は道路(現在の道路ではない)をへだて、細川刑部家の二家が埋門から抜ける道を挟んで位置している。前の道は棒庵坂へ至っている。
大きな図面では確認できない建物の方位に付いては小さな図面で確認できた。
建物の西側は二ノ丸御門前の広場に面しており、三間間口の大きな玄関が設けられていて、その左手には家臣の通用口であろうか一間半間口の脇玄関が別途設けられている。 今一つ南側に時習館に対面するような形で玄関があり、小さな図面には「御成御門」の記載がある。これは間口は二間ほどである。
藩主がお出ましになったときの、専用の玄関であろう。
先述のごとく間取りは能舞台を中心にしており、御成御門はその正面に位置している。能舞台を取り囲むように大きな座敷が配されている。

 西の大玄関に繋がっている南西のブロックがいわゆる表だと思われ、入って左手には家臣の執務空間や控えの空間だと思われる部屋が多く連なっている。
玄関正面の大広間は約28帖、その隣南西角は「御鑓の間」と称する部屋で、変則な形をしているが30帖弱ある。その隣に南に面した「御座敷」と名付けられた部屋は梁間4間、桁行7間という桁外れな大きさである。28坪56帖敷である。これがお成御門の左手にあたる。
舞台裏には後述する大きな部屋も「表」の関係としてこれらに連なっている。

 御成御門の正面に12帖ほどの部屋が南面して二つあり、これがお成があったときの部屋でもあったろうか。後ろへ抜けると能舞台に面して2間巾の16帖の部屋があり、その前は巾1間の入側となって居り、ここが能を拝見するところであろうか。
しかしこの場所は御能を鑑賞するには下手側となり、必ずしも最適な場所とは思えない。
能舞台の正面にあたる東側の大広間には「御裏座敷」の記載があるが、梁間3間×桁行5間30帖の広さの大広間であり、ここが利用されたとも思われる。
 南東の角に当主の居間らしきものがあり、これに二つの大広間が付随していて、「御裏座敷」と繋がっている。
また「御裏座敷」の東奥にいわゆる「奥」と呼ばれる部屋がつながっている。中庭を挟み南に当主の部屋、北側に奥方の部屋とおもわれる座敷があり対面する形に配置されている。
「奥」の北側には「御次」と呼ばれる30帖ほどの大きな部屋があり、さらにその北側には御子たちの部屋ではないかと思われる部屋がいくつか見受けられる。
これ等の空間に続いて台所や風呂と思われるブロックがある。ちょうど能舞台の北側の背中のあたりである。
いわゆる「局」と呼ばれるような空間は見受けられない。
これら主殿から北へ9~10間程の長廊下があり、その奥にいくつかの部屋があり、ここが下働きの女性たちの控え室や作業部屋ではないかと推察している。

 これが米田屋敷の概要である。
当然ながら長屋や局等が存在していたと考えられるが、これについての記載はない。
小さい図面の方は、どうやら能興行が催された際に、楽屋を設けるための部屋割りが示されたものらしい。
能舞台の裏手にあたる位置には、「小御座敷・12帖」「御茶の間・24帖」があり、これらが舞台役者の控えに使われているようである。

一部朱書きで書き込みが見られる。
小さな紙片が多数張り付けられていたようだが、糊が外れてどの場所にあったのか確認できない状況があり残念である。
 この間取りがどのような形で敷地に配置されていたかは、二つの図面に於いてもまったく窺い知ることは出来ない。大変特徴的なことは、北へ延びる長い廊下であり、大変不思議に思える。西北の角・東北の角には何らかの建物がの存在が伺われた。
このことは、熊本城内絵図で該当する米田家の敷地図を眺めるとよく理解できる。西北の角は二の丸御門の為に、削られていることが判るし、東面には大きく敷地が広がっていることが判る。
米田屋敷は北側、つまり百閒石垣の上には道路が回っていることも確認できるが、あの山東弥源太がお正月の飾りを盗み、百閒石垣を飛び降りたというのは、この道に逃げ込んだという事であろう。案外両側から挟み撃ちにあったのかもしれない。

 熊本城絵図に於いては、米田屋敷の敷地形状とその各辺の寸法が記載されている。これに縮尺を併せてこの間取り図を重ねてみると、見事にはまり込んだ。
ただし、建物の寸法は単純に柱間1間=6尺という現在の感覚とは違うことを理解しなければならない。
当時の建築の平面寸法は畳の寸法によっている。つまり、畳の寸法(6×3尺)が定められており、敷き方に応じてその外側に柱を位置させたのである。
武家屋敷の古畳は表替えをして別の部屋に敷きこまれたかもしれないし、又そのまま払い下げられて町中の長屋等に敷きこまれたかもしれない。
究極のリサイクルが成立していた。
その後は柱の芯々寸法をもって1間とするようになったから、現代では畳の寸法は建築現場ごとにまちまちであり、再利用されることないのである。

 米田屋敷の南面は東西約22間程あるが、これに柱の大きさが数本分加わることになる。図面を見る限り60~90㎝以上の差が生じているはずである。
そのあたりは大目に見て、作図してみたのが下の配置図である。当然の事ながら建物が敷地境界からどのくらい離れていたかは良くわからない。
しかし概略このようなものではなかったと考えられる。
東北角に広い敷地が広がっているが、ここに長屋やお局が幾部屋も軒を並べていたのではなかろうか。

            
      
熊本城内の模型がどのような資料を以て作成されたのか知る由もないが、このような図面が現れたことで、高級武士の武家建築のあり様や、そこで生活する人々の日常さえ彷彿とさせる。

2018年10月2日の熊本日日新聞では、熊本大学図書館に同様の図面が寄贈されたことが報じられた。
これは当方が所蔵している図面の一部(半分?)のように思われる。
こちらには当方所有の絵図にはない「万延元年(11代是豪公代)制作」その他の制作に関する記事の書き込みがあるようだが、写真で見る限りでは同様の間取り図だと考えられる。
私と同じ時期に手に入れられたものと思われるが、寄贈されたそのご厚意には深く敬意を表したい。
私も同様の考えでありこの図面を私蔵(=死蔵)させようとは思っていない。しかるべきところに納めていただき、専門家の手に委ねて研究がなされることを強く願っている。
ただし、また死蔵されてしまっては元も子もないから、どこが一番良いのか思案をしている処である。御示教いただければ幸いである。

 熊本地震における熊本城の大被害は目を覆うものであった。
しゃちほこを失った天守の姿や、あちこちの石垣の崩壊、坪井川沿いの長塀の崩落等々、現状を目の当たりにした人々は一様に涙した。
一本足で倒壊を免れたけなげな櫓は全国の人々の目にも焼き付いたであろうし、先人の築城の技術のすばらしさに驚嘆したことであろう。
熊本人にとって熊本城は夫々の人々の心の支えであったことを改めて実感したのである。長い道のりながら、最近では復興の有様が遅々たるものではあるが確実に進んでいることを実感している。

私には完全に復興に及び全体の雄姿を眺めることはかなわないようだ。
米田家御屋敷に関するこの史料が、何らかの形で貢献できればこれにすぎることはないと思うばかりである。



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■細川内膳家と西園寺家

2019-04-24 07:21:38 | memo

■慶長十年(1605)茲年忠隆主息女ヲ生ム、徳媛ト名ク。(永源師壇紀年録)    (1605-1663)
          男子:西園寺公満(1622-1651)
          男子:西園寺公宣(1625-1670)---女(也須姫もしくは安姫)
               ↑            鷹司家から聟を迎えた。西園寺実輔(25歳で死去)---致季
                |
               ↓
             菊陽町文化財西園寺左大臣実晴男随宜之墓 (熊本県菊池郡菊陽町HP) 

■寛永十六年(1639)
 5155 正月七日西園寺實晴室宛書状 (大日本近世史料・細川家史料25) 
                     忠利が兄・休無(忠隆)の書状に添えて足袋などを送られたことに対して、姪・とく姫に対しての礼状
 (細川忠隆)
 きうむ殿ゟ人を御下シ被成候ニ付、御文、殊たひ三足うねさし、ひほまて御念入送くたされ、
 一入満足申候、先々、此はるの御祝、めてたく申おさめ候、そこもと御ふしのよし、めてた
 く候、われ/\もそくさいに罷有候、八代へもとしあけ御みまひ申候、三さい殿も一段御そ
 くさいに御さ候まゝ、御心安かるへく候、なをかさねて申承候へく候、かしく
     正月七日

     おとく殿(西園寺實晴室、細川忠隆女)
        御返事

■年月不詳
   内膳家二代忠恒(とく弟)             左大臣
 長岡友山老より檜垣の老女の繪に西園寺左府讃の歌御書寄付 (堀内傳右衛門の旦夕覺書・花 所載)



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■熊本城調査研究センターの定期講座「熊本城学」の記録

2018-12-18 14:37:41 | memo

  桜の馬場城彩苑2階多目的交流室で、平成28年11月19日(土)を第1回として毎月行われている定期講座「熊本城学」は大変好評の内に26回を消化している。
熊本城調査研究センターのHPでは、その講演内容をPDFで紹介している。
熊本城に関わる貴重な資料が満載であり、熊本城の復旧作業なども知ることが出来て大変すばらしい。こちらは私がメモ代わりにまとめた「熊本城」に特化したものである。

 1回「熊本城の重要文化財建造物」
     講演者 熊本城調査研究センター所長 渡辺 勝彦
     PDF 配布資料「熊本城の重要文化財建造物」
 2回「熊本城の防衛術」
     講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主幹 鶴嶋 俊彦
 3回「出土品が語る熊本城本丸御殿」
     講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主幹 美濃口 雅朗
 4回「書状にみる熊本城築城」
     講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主事 木下 泰葉
     PDF 配布資料「書状にみる熊本城築城」
 5回「本丸御殿の発掘調査」
     講演者 熊本城調査研究センター主査 金田 一精
         PDF 配布資料「本丸御殿の発掘調査」
 6回「被災一年の経過と復旧方針」
     講演者 熊本城調査研究センター副所長 網田 龍生
      PDF 配布資料「被災後1年の進捗と復旧の方針」
 7回「城の基礎知識1」
     講演者 熊本城調査研究センター文化財保護参事 山下 宗親   
             PDF 配布資料「城の基礎知識1」
 8回「石垣の積み方ー石材の回収工事からみえてきたことー」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主事 嘉村 哲也
           PDF 配布資料「石垣の積み方ー石材の回収工事からみえてきたことー」 
 
 9回「中世石造物が語る熊本城築城前のすがた」
               講演者 文化振興課文化財保護主幹兼主査 美濃口 雅朗
            PDF 配布資料「中世石造物が語る熊本城築城前のすがた」
10回「文禄・慶長の役と熊本城出土瓦」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主幹兼主査 美濃口 紀子    
     PDF 配布資料「文禄・慶長の役と熊本城出土瓦」 
11回「熊本城石垣の特徴と見方」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主任主事(宮城県仙台市派遣) 関根 章義
13回「熊本城と明治維新」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主事  佐藤 理恵
               PDF 配布資料「熊本城と明治維新」 
14回「熊本城の天守」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主幹  鶴嶋俊彦
               PDF 配布資料「熊本城の天守」 
15回「熊本城修復史」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主事  木下泰葉 
              PDF 配布資料「熊本城修復史」
18回「熊本城天守の模型を読み解く」
               講演者 熊本城調査研究センター所長 渡辺勝彦
     PDF 配布資料「熊本城天守の模型を読み解く」
19回「熊本城と金峰山」
               講演者 熊本城調査研究センター 主査  金田一精
               PDF 配布資料「熊本城と金峰山」 
20回「お城の基礎知識2」
               講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護参事  山下宗親

21回「地震による石垣崩落状況の分析」
               講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事  嘉村哲也                           
      PDF 配布資料「地震による石垣崩落状況の分析」      
22回「加藤時代の建物移設と瓦移動ー古城から新城へ、支城から本城へー」
               講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主幹  美濃口紀子 
25回「熊本城と近代化」
               講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事  佐藤理恵 
               PDF 配布資料「熊本城と近代化」
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■大成武鑑の細川家

2018-11-19 09:02:15 | memo

 大成武鑑」から、細川家関係を抽出してみました。

          200019270_00061.jpg    こちらは左のページから(右ページ九曜紋は伊達氏)
          200019270_00062.jpg
          200019270_00063.jpg
          200019270_00064.jpg
          200019270_00065.jpg
          200019270_00066.jpg
          200019270_00067.jpg
 

全てをご覧になりたい方は「国文学資料館」のデジタルサイトからどうぞ
 http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XMI2-07702

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■細川藩の郡政機構

2018-07-31 15:06:02 | memo

           +--根取
           |
           +--吟味役
           |
           +--上内檢ーー地内檢ーー副内檢
           |
           +--郡横目ーー在中横目
           |
           +--杣方ーーー杣人
           |
           +--井樋方ーー大工
           |
           +--惣塘支配役
           |
   郡方奉行ーーーー+--蔵方
    御郡間    |              +--手代ーーー下代ーー小頭ーー走番
           |              |
           |      +ーー惣庄屋ーー+--庄屋ーーー+--帳書
           |      |       |       |
           |      |       +--給人庄屋 +ーー組頭
           |      |               |
           +ーー郡代ーー+ーー横目ーー村横目      +ーー役頭
           |      |               |
           |      +ーー山支配役ーー山之口    +--蔵頭
           |      |               |
           |      +ーー地方普請方        +--五人組頭(伍長)
           |
           +--鶴崎會所根取

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■相良清兵衛について

2018-07-05 07:28:56 | memo

 こちらは寛永後期、人吉相良藩を震撼させた「相良清兵衛(犬童頼兄)事件」に関する史料である。 

              

              

上の貴重な写真データは熊本県立図書館が所蔵する[相良清兵衛屋敷其他絵図面]寛永十六年の七枚の内の二枚をご紹介している。
現在の球磨郡錦町の一武にあった外城と清兵衛の屋敷が描かれている。三の丸の左手のブロックが清兵衛の屋敷だが、下の屋敷図を見ると
「西東四拾六間」「北南五拾間」とあるから、2,300坪という広大な屋敷である。 

福山大学人間文化学部・吉永昭氏の論考【肥後国人吉藩「相良清兵衛騒動」覚書 : 騒動記を中心に】は、相良清兵衛事件や、お下事件など
寛永後期の人吉相良藩の混迷ぶりを研究された成果である。
これ等の事件については細川家記「綿考輯録」の中で清兵衛の動向などが書かれており、事件そのものは承知していたが、その詳細についてはほとんど承知していない。
熊本県立図書館の蔵書を検索しても、刊本としては次の様なものが見受けられるのみである。

 

 

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■享保20年~寛保3年 両(金)・銀・銭相場

2018-03-10 11:21:05 | memo

熊本藩町政史料(一・p48)から、享保20年(1795)10月の米相場は
    一米直段、公儀御達、江戸金壱両壱石四斗以上、大坂米壱石ニ付銀四拾弐匁以上
               (1石=0,714両)

つまりこの時期の金一両(江戸)と銀(大坂)の関係は、1両=銀58,8匁という事になる。

            

               
 
                金銀両替相場の変遷 金一両に対する銀匁 赤の実線は御定相場(ウイキペディア・江戸時代の三貨制度から)
 
又同様、熊本藩町政史料(一・p68)から、寛保3年(1803)の銀と銭の関係は
    一、御国中銭遣之儀、去戌正月より之双場ハ一匁六十文にて候、然処下方二てハ先年以来壱匁七十文遣之
      双場ヲ内証にて相究置、上之御格之双場と違両様ニ致通用如何敷候、然共文銀遣得斗折合候迄ハ其通
      ニ見合被置候へども最早文銀一式之通用候條、向後ハ七十文銭を以商売仕儀堅不致、六十文銭ニて諸
      色之直段相究候様被仰付候間可有其沙汰候、以上
          二月六日       奉行所
 
                
               
 
                  銭相場の変遷 金一両に対する文 赤の実線は御定相場(同上)
               この表のように文/両の御定相場と現実相場が乖離していることが判る。

 

 
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