■西村作左衛門は「西村新一(南東8-6)家」の6代目、((傳左衛門)とも、新知百石
寛政五年一月~寛政九年一月 八代郡代を勤めた。
家紋は「杏葉」か
■西村又七は「西村又十郎 (南東8-9)家」の5代目
家紋は「丸に?」
■西村運蔵は細川家家臣略歴には名前が見当たらない
家紋は「丸に?」
西村文蔵の名前も併記されているが?こちらは「西村弾蔵(南東8-17)家」の7代目
■西 八兵衛は「西 源次郎(南東7-12)家」の 6代目・兵四郎(八兵衛)である。
家紋は「丸に松葉菱」
■丹羽源吾は「丹羽尉一郎(南東8-5)家」の 6代目・源五 八代御城付組脇・八代御番頭組 五百石
家紋は「左巴」
■二宮新右衛門は「二宮新一郎 (南東8-1)家」の6代目・弁五(新右衛門)と思われる
家紋は「隅立て角に六つ丁子」 肥陽諸士鑑では「八つ丁子」「蛇の目」の二つ
■仁田四郎作は代々御中小姓の「仁田四郎左衛門 (南東8-11)家」の6代目、寛永九年から文化八年まで五か所の郡代を勤めた。
家紋は「隅切り角に?」
■仁保多兵衛は「仁保角平(南東8-8)家」5・6・7代が多兵衛を名乗り人物の特定ができない。
家紋は「丸に三つ引両」
■西浦久之丞は「西浦流藻・九郎兵衛 (南東8-14)家」の4代目。
家紋は「丸に左三階松」
■西岡濃助は「西岡乾太(南東8-13)家」の7代、佐敷御番を勤めた。
家紋は「梃子に釘抜き」
■堀 丹右衛門は「堀 丹太 (南東9-1)家」の5代目・丈八(丹右衛門・勝文)である。
名は勝文、字は廉卿、一名大簡、丹右衛門と称す。堀氏五代にして平太左衛門の子なり。食禄三千五百石、藩の家老たり。
文政七年四月十日没す、享年八十二。
家紋は「餅に石持地抜き三つ星」及び「不詳」 肥陽諸士鑑に於いては「丸に三つ星」である。
■堀 次郎右衛門は「堀 勝馬 (南東9-2)家」の 5代目・次三郎(次郎右衛門) 大組附九百五十石
天明三年家督 五十石減知九百五十石 小姓頭、番頭 文化五年六月歿・五十七歳
家紋は「隅切り角に石持地抜き三つ星」及び「八重桔梗」
参考:上記堀家二家の系図
■堀 尉右衛門は「堀 渡 (南東9-18)家」の4代目・尉左衛門・通景(養子 実・沢村主膳子)である。
700石取だが上記二家とは別系である。
家紋は「隅入り平石持地抜き蛇の目」
■堀 求右衛門は「堀 逸人 (南東9-23)家」の7代目・求右衛門(岡右衛門)佐敷御番で400石
家紋は「隅立て角に梅鉢」肥陽諸士鑑では「梅鉢」「隅立て角に六耀」の二つが記されている。
■堀 歴次は「堀 新吾 (南東9-24)家」の4代目である。
家紋は「隅切り角に三枚柏?」
■堀部義之助は「堀部次郎(南東9-6)家【甚之允系】」の 6代目・義之助・庸直(養子)、御番方200石
家紋は「四つ目結」
■堀部右学は「堀部源次 (南東9-4)家【右学系】」の 5代・右学・清貞) 御物奉行800石
家紋は「丸に繋ぎ四つ目結」 肥陽諸士鑑では「四つ目結」「丸に四つ石」の二つが記されている。
■堀部藤馬は「堀部 安 (南東9-3)家【文五郎系】」の 4代目・藤馬金宣 御奉行触御知行取・江戸詰御奉行触 定府200石
家紋は・・・記載なし
参考【赤穂浪士・堀部弥兵衛関係四家】
竜田藩片桐出雲守家臣 同左・後浪人 浪人・正保4年来・肥後 慶安元年(1648)召出
堀部助右衛門---弥兵衛---+--次郎左衛門---+--甚之允---+--三右衛門・・・・・・・・・・→甚之允家
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| | +--重蔵(左近右衛門)・・・・・→右学家
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| | +ーー伊右衛門(成田家養子)
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| +--庄兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・→庄兵衛家
| 元禄16年(1703)召出
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+---弥兵衛ーーーーー+==安兵衛====文五郎・・・・・・・・・・→文五郎家
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+==文五郎ーーーーーーーーー・
弥兵衛妻わかの甥・忠見氏