津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

休無・細川忠隆の遺書

2006-01-31 12:50:50 | 書籍・読書
 これは「利休七哲」所収、左方郁子氏の短編小説であるが、別に

   古田織部・落梅記    黒部亨
   瀬田掃部・仲冬の月   澤田ふじ子
   蒲生氏郷・数寄者大名  邦光史郎
   芝山監物・こぼれ咲き  百瀬明治
   高山右近、牧村兵部 余情残心 加来耕三
   荒木村重・道糞流伝   神坂次郎    など

利休七哲の各人を主人公として、七人の作家により著作編集されたものである。
左方郁子なる方の詳しいことは存じ上げないが、忠隆の生涯はこのようなもので
あったのだろうと納得させられる佳作で有る。
読者を納得させるという力量が、プロの物書きたる所以であろうが、左方氏の力
量は万人が納得する処だろう。他の作品も各々面白い。
「小説は読まない」等と言った矢先の読書・・いい本に巡り合った。
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コピーサービス

2006-01-31 09:40:01 | 熊本
 「細川学をもっと身近に」を書いた後、熊本県立図書館のコピーサービスについて、二三の方からご連絡を頂戴した。「出来ますよー」との事。確認のために図書館行き・・・
 
 1、先祖附については対象者が確定していること
  (南東○○-○○ 何野何兵衛etc)
 1、上妻文庫については対象件名が特定されていること
   掲載されている分冊全てのコピーは不可(著作権者の許可が必要)
   古文書のコピーは不可(写真撮影は可・別途申請)
 1、その他の文書についても同様 (著作権の関係は問い合わせ)
 1、コピー料金(10円/枚)+郵送料・・・後払い

 何度も徒労に終わった経験をもつ私には、ちょっと意外な話だった。
しかし、これら所蔵文書のリストが、インターネット上では公開されていないことがネックになっている。当サイトの「肥後細川藩を調べよう・・書籍・文書・論文所在」をもっと充実させなければならない。

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清正は「茶道好き?芝居好き?」

2006-01-30 13:26:10 | 歴史
 加藤家侍帳をみると、茶湯坊主なる人が異常に多いことに気付く。
二十人程の名前があり、弐人扶持から五人扶持ほどが給されている。
又役者なる人の名前も、同様二十人ほど記されている。能役者だろうか。
こちらは五人扶持から十五人扶持が給されている。
清正の全領地高は約74万石(表高54万石)とされるが、その約70%が
給知分と言われ、家臣が多すぎるように思われるのだが・・・・
いや高給取りが多いのだろうか。「茶湯坊主」「役者」などの扶持・切米は
微々たるものである。
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忍之者失業

2006-01-29 19:33:40 | 歴史
 元和元年(1615)大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。
元和六年(1620)三齋は忠利に家督を譲り隠居しているから、「於豊前小倉御侍帳帳」はそれ以降のものであることが分る。その「於豊前小倉御侍帳帳」には、七名の「忍之者」の名が記されている。拾石弐人扶持から、知行五拾石までまちまちである。(忠利に殉死した、野田喜兵衛と同姓同名の人の名が見えるが、多分別人だろう。)家督から十二年後、寛永九年(1632)忠利は肥後に転封となる。そしてわずか五年後寛永十四年(1637)天草島原の乱が勃発するのである。原城攻撃に於て忠利の弟松井寄之は、忍之者を再三城内に送り込むが、さしたる成果が見えない。怪しんだ忠利は忍之者に目付けを付けた。処がこの忍、恐ろしくて竹把に身を隠して震えていたという。伊賀・甲賀の者は敵味方お互いに内通しながら、情報を得るというのだが、相手が一揆衆では敵方には伊賀・甲賀の者がいなかったという嘘のような話。忍之者全員が失業したという。後年の侍帳には、その人たちの名前が見られないのは当然のことである。
 
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「細川学」をもっと身近に

2006-01-28 11:33:33 | 熊本
 熊本県立図書館に、大変膨大で貴重な「上妻文庫」というものがある。
植物学者上妻氏が心血を注ぎ細川家の古文書を筆写されたものである。
閲覧は自由であるが、コピーを望むと「著作権」を楯に、拒否されることがある。
致し方の無いことだが、やっかいな「著作権者の同意」を得る作業が発生し、面倒くさくなってご破算にしてしまうことが度々有った。
 熊本大学に預託されている永青文庫の史料も、一般の人間にとっては閲覧さえもなかなか面倒くさい。事前に永青文庫理事長の許可が必要であり、その後大学図書館長へ申請となる。なんとかもっと簡単にならないものだろうか。

「細川学」をもっと身近なものにしたいと、せつに願うのだが・・・・・・・・・

 今日の地元紙「熊本日日新聞」は、永青文庫新理事長細川護煕氏が帰熊され、永青文庫の運営について「収蔵品の積極的公開や、熊本での常設展示」などについて語られた事を報じている。美術品については、熊本県立美術館が展観を行っているが、熊本大学の永青文庫史料については、年一回の学内文化祭(?)の附属イベントとしてささやかに展観される位で、なんとも歯がゆくて仕方がない。熊本市などが、大学や永青文庫と提携し、博物館などに学芸員を充実させて、積極的に「細川学」の研究を進められないものか。熊本県の博物館建設構想も財政難で頓挫しているし、熊本の貴重な文化遺産は活用されないまま死蔵されてゆくのか。

 熊本城築城400年を来年に迎える熊本だが、主役は清正公で細川の影は薄い。
忠利公の熊本入り(慶長9年・1632)からは373年、分らないことが多すぎる。
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吉田盛方院

2006-01-27 13:59:10 | 歴史
 吉田盛方院といえば、松井家と深い関係にある。
康之の妹が、吉田盛方院浄勝に嫁いでいるし、康之女「いと」も又吉田盛方院浄珍(法印)に嫁している。「真源院様御代御侍名附」「真源院様御代御侍免撫帳」「寛文四年六月・御侍帳」又「御侍帳・元禄五年比カ」に吉田快庵の名があり三百石が給されている。
その快庵は「御侍帳・元禄五年比カ」に於て「盛方院弟」との但し書きがある。
又、小山田竺庵という人があって「大判五枚三十人扶持」を給されているが、この人は「盛方院門弟」と記されている。この吉田氏、小山田氏は後の「侍帳」には登場しない処を見ると、一代限りの奉公であったと思われる。盛方院はいわゆる「官医」とされる家だが、松井は姻戚関係を得、また細川は弟や弟子を召し出している。時代を遡ると、兼見卿記などにも吉田盛方院の名が時折見受けられる。単なる医者ではなかったのだろう。
大変気になる家ではある。
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新書を読もう

2006-01-25 20:08:56 | 書籍・読書
 芥川賞や直木賞が発表されたが、最近は余り小説を読みたいという気にならない。新書がいいなー、とおもっていろいろ検索していて「新書マップWebマガジン-風」というサイトを発見。  http://kaze,shinshomap.info/
新刊や売れ筋が一目瞭然で、なかなかGood.暇つぶしにも、もってこいのサイト。
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健康優良児

2006-01-20 16:35:10 | 徒然
 表彰などというものにはとんと縁の無い私だが、60数年前東京市小石川區の健康優良児の表彰を受けた。最近はこんな類のイベントは無いように思うが、まさに戦争に突入した当時は「子供は国の宝」だったし、このようなことが行われたのだろう。以前姉にこの事を覚えているか聞いてみたら、「単なるデブだったからよ」と素気のない返事が返ってきた。「俺は小石川區の赤ちゃんデブ大会の入賞者かい」と云うわけだ。赤ちゃんデブも当時の食料事情・栄養事情で、普通の赤ん坊になり、その頃の写真を見ると頭ばかりが異常にでかく、栄養失調じゃないかとさえ思える。

 よくよく考えたら、二年前のお正月も高熱の風邪で一週間ばかり寝込んだし、今年は都合三日ほど寝込んだ風邪がどうやら治ったと思ったら、風邪薬のせいで胃を悪くし胸の違和感がなんとも鬱陶しい。好きなコーヒーも匂いさえ鼻につく。
どうした「健康優良児」そんな中迎えた64回目の誕生日・・・
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慶長17年の熊本城

2006-01-18 16:36:37 | 歴史
 私が観たくて仕方がないものに、山口県文書館が収蔵する「小倉城図」がある。
今般、熊本大学の北野教授の調査で、同じ山口県文書館から慶長17年の「肥後熊本城略図」が発見されたことを、地元紙が報じている。新聞が掲載している略図は部分であるが、スケール感もはっきりしていて、これはもう一級資料である。この時代まだ小天守の姿が見えない。来年築城400年を迎える熊本城は、慶長12年(1607)完成から数えてということだが、熊本に残る古ぃ絵図は時代が新しく、これは嬉しい限りである。慶長16・7年二回にわたり毛利家家臣が肥後領に入り、内偵して作図したものだと解説されているが、そうすると「小倉城図」などもその類なのだろうか。この様な史料がまだまだ発見されずに眠っている。夢は広がる。

http://lets.kumanichi.com/kumamoto_rena/ 「探訪 江戸文化in熊本」
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熱発

2006-01-17 14:29:58 | 徒然
 過日近くの温泉施設に出かけたが、多分其の帰りに風邪をひいたらしい。
翌日猛烈な悪寒に襲われ、38.8度まで上がった。熱には強い方の私だが、
この熱発には参ってしまった。身体中の節々が痛んで16日夕方から今日の
2時ごろまで寝込んでしまった。37.8度まで下がったので、起き出した。
インフルエンザでなくて良かった。
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加世以多

2006-01-15 17:41:23 | 熊本
 藤沢周平のエッセーの中に、マルメロという一文がある。
知人から三個のマルメロが送られてきたという。砂糖漬けにして食べるものだと注釈が付いていた。ちょっと試食と小片を口に入れるが、余りお気に召さなかったらしい。ご夫人が砂糖で煮てみましょうと調理、それでも癖のある舌ざわりと砂糖の甘さに閉口して、後はまだ幼かったお嬢さんのお八つと成ったらしい。
細川護貞氏の著作に度々出てくる、このマルメロを使った「加世伊多」という熊本のお菓子がある。ポルトガル語 Caixa da Marmelada(マルメロ砂糖漬の箱)から、カセイタという名が生まれたらしい。何で又熊本の地でと首をかしげる。その歴史は三斎公まで遡り、肥後の貴重な献上品だったというから驚きである。マルメロの木の栽培もされていたらしい。一時期途絶えて護貞氏をして歎かせた熊本の銘菓も、今はある菓子舗のご努力で、僅かながら製造されて水前寺成趣園・古今伝授間の売店で販売されている。
甘さを抑えたほろ苦い味が、六十爺にはぴったりだ。
  http://www.kobai.jp/web/products.html
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わが遠祖磯部氏

2006-01-14 13:03:30 | 歴史
 我が家の初代は磯部氏、二代目が母方の姓を継いで苗字が変わった。この磯部氏を調べようと、一時期随分頑張ってみたが、何だかよく分らない。

 中公文庫発行の「日本の古代-海人の伝説」に次のような記述があった。
「愛知県岡崎市に柱町があり、そこに綿積神社が鎮座する。社伝によると、かつてこの地が矢作川に沿っていたころ、柱津彦命が水陸の便にめぐまれていたこの地に郡衙をおいて支配し、その子孫が柱津彦命を神として祀ったのがその始まりであるという。また海人族の伊勢部または磯部がこの地に先祖を祀ったのがその起こりだともいう」としている。

 新撰姓氏録には皇別氏として登場している。漁猟航海を職能とした職業部の裔だという。特に伊勢地方を本拠地としていたため、伊勢部とも呼ばれていたらしい。伊勢国造に率いられ、東方海域で活動したらしく、海部氏や安曇氏などの海人族の勢力とは異なった独自の活動があったとされる。

 伊勢といえば、伊勢神宮の度会神主家も伊勢国造の裔磯部祖父を始祖としている。伊勢地方の地図を見ると、磯部町や度会郡などの地名を見つけることができる。磯部氏が住んで地名になったのだろうか。皇大神宮内宮の別宮の伊雑宮が磯部町にあり、この地は倭姫命の巡行地とも言われ、御料田では六月には華麗なお田植祭りが催されるという。渡会神主家は外宮の禰宜の職を世襲する氏であるが、田村圓澄氏の著書「伊勢神宮の成立」によると、現在の伊勢市磯町はかって伊勢国渡会郡であったが、この地が磯部氏の本貫と考えられるとし、度会氏は磯部氏の伴造であり、外宮(豊受大神宮)の傍らにある高倉山の西北部を本貫としていたとしている。

 行き着くところは、こんな処かもしれないが、何だか良く分からない。武将としては、秀吉の下で景石城を預かった磯部康氏の名が見えるが、西軍に組して後浪々の身となっている。わが祖の祖父は織田信長の旗下に有ったらしいが、のち毛利輝元の旗下にあって周防国下松に住居した。毛利領の縮小に伴い子供達は牢人し、「三斎公江戸へ御上下遊ばされ候時分」豊前へ召しだされている。わが祖は周防人か? 遡れば伊勢人か? 分らん・・・・

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町は「まち」?「ちょう」?

2006-01-12 21:02:33 | 熊本
 熊本に於ては、藩政時代の侍町が「ちょう」、町人町が「まち」だったらしい。
日本一のアーケード街と言われる「通町」は、かっては通りの両側に家臣の屋敷が立ち並ぶ侍の町で「とおりちょう=通丁」近くに「草葉町(丁)」「黒鍬町(丁)」などがある。「新町」唐人町」「桶屋町」などは町人の町で「まち」である。もう住居表示として無くなった「鷹匠町」「駕町」などは「まち」と言っていたように思うのだけど・・・・
 所用で車で外出、国道三号線水道町(丁)から、近道をしようと通町(丁)に抜けようとすると、まあ道の狭いこと・・・藩政時代の路地がそのまま縦横に残っている。
古い建物を改修して面白い店が沢山有り、若者たちの町になっている。
建物を建替える時は、建築基準法という無粋な法律により、道路の中心から2mのラインまで、建物(正確には敷地)を引っ込めなければ成らない。(道路幅員4mを確保するため)あちこちに歯が欠けたように凹凸があるのはそのせいだ。狭い道は狭い道なりの、法の規制が出来ないものかとつくづく思う。近い将来、通町周辺も開発の憂き目に遭うのだろう。
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立花宗茂室闇千代の墓

2006-01-11 13:54:20 | 歴史
 玄祖父上田久兵衛はその日録によると、明治二年十月十一日仕事で長洲に出かけ、腹赤にある立花宗茂夫人・闇千代の墓に詣でている。当時玉名町奉行であった上田は、毎日精力的に各地を視察しているが、この日も「鶏鳴起立平明發」して、「温泉嶽上初見雪」し「此景在言外」と言いながら「煮塩」(製塩)などを視察、途中墓参している。

 立花宗茂は、一時期加藤清正に扶助を受け熊本に在した。家臣達が住んだ処は現在柳川丁の名前を残している。別居していたと伝えられる夫人闇千代は、長洲の腹赤に住んでいたらしいが、此処にも清正は合力している。この地で亡くなったらしく、「ぼたもちさん」と名付けられた不思議な形のお墓が残されている。筑後を治めた田中吉政に継嗣がなく断絶すると、宗茂は柳川藩主として復帰することになる。「お花」で知られる水郷「柳川」は、幕末期上田久兵衛との係りも深い。

http://www.muneshige.com/index.html (立花家17代が語る立花宗茂と柳川)
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消えた家臣たち

2006-01-09 13:39:49 | 歴史
 永青文庫には「御暇被遣候御侍中之名附-慶安三年ヨリ元禄四年迄 機密間」
という文書が残されている。

  1、慶安三年以来段々御暇被遣候面々
    御国追放被仰附け候面々
    御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免
       御扶持方被下、又ハ世倅被召出候面々
    御暇被遣其以後帰参被仰付候面々
  1、(追加)
    慶安三年以来万治三年迄御暇并病気又者乱心ニ付而御暇被申上面々
       又追放被仰付候覚書
  1、寛文元年以来御追放并知行被召上候面々名付之覚
  1、寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上
           又者依願御暇被遣候面々名付之覚                                        
                                  等である。

 寛文九年の陽明学徒の異学禁止に伴う処分以外は、処分の理由が判然としな
い。帰参が叶った人についても、その先祖付を見てもそれらの処分の詳細は、藩
庁を慮ってか記録されていない。
いろいろ手を尽くしているが、なかなか難しく知る術がない。

 又「家」単位の「家臣略系譜」には、登場しない個人が多数侍帳に記載されて
いるが、上記の理由以外で細川家を離れたり、又は絶家したのであろうか後の記
載がないものが多数有る。

 各位のご協力を得ながら、調べようと考えている。
 
    
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