津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元田永孚先生慰霊顕彰祭・ご案内

2019-12-10 06:23:58 | イベント

                 

 この顕彰祭に於いては、「元田永孚先生の誕生地碑及び旧宅碑の現状と経緯の報告」が行われるようだ。

新たに建設された桜町開発ビル・「サクラマチクマモト」大賑わいを見せているが、この場所の一画は永田永孚先生の旧居跡が含まれている。
かっての県民百貨店時代には下の写真のような顕彰碑が立てられていた。
今回の工事に於いても移動再建されるものと考えていたら、出来上がってみると銘版のみが形ばかり残されている。

令和の新しい時代を迎えたこの時期、皇室の為におおいなる尽力をされた熊本の偉人を、一偏の銘板を残すだけで良いものか、あの石碑を是非とも人の目に触れるところに設置してほしい。運営会社の英断に期待するのみである。

                             熊本県民百貨店当時の碑

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■清田家にて

2019-10-14 06:57:50 | イベント

 昨日は午後二時から、熊本市南区富合町釈迦堂にある、熊本市指定文化財の清田邸で行われる会合に出席した。
明治九年に建てられた武家屋敷が残されているが、先の地震で甚大な被害を受けた。再建は困難かと危ぶまれたが一部補助金を受け、又清田氏の莫大な負担によって見事に復元がなっている。
                   
ご当主清田泰興氏は滞空時間日本一をほこられる横浜在住の元日航のパイロットである。
熊本‐横浜間を何度も行き来されて管理をされているが、今般指定文化財十点の古文書などを公開展示されることになった。
そのお披露目と「さむらいの館」として今後の屋敷の利用を即するために、有志が「武士道の会?」を立ち上げられ、その第一回の会合であった。
殆んどが「熊本歴史研究会」のお歴々で、少々場違いを感じながら身を小さくして末席で拝聴した。

                   

この書籍は令和元年の新しい時代の幕開けに際し、平成7年初版の内容に新たな資料や写真を追加された復刻本である。
100部印刷されたとお聞きするが、72冊目を購入してきた。

(和室であったため、あぐらをかいたり、足を投げ出したりしたのだが、今日は膝や股関節にダメージが残って、今朝は散歩を控えている)

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■熊本の維新と近代日本の可能性

2018-09-14 06:39:16 | イベント

                         20180911104655-0001.jpg

   

基調講演

   猪飼隆明(大阪大学名誉教授)「明治維新と熊本」

 討  論

   猪飼隆明(大阪大学名誉教授)

   三澤 純(熊本大学文学部准教授)

   今村直樹(熊本大学永青文庫研究センター准教授)

   木山貴満(熊本博物館学芸員)

 日 時:2018107日(日)13:3016:00

 会 場:熊本県立図書館大研修室(3階)

    〒862-8612 熊本市中央区出水2丁目5-1

 

 主催 熊本県博物館ネットワークセンター、くまもと文学・歴史館

 共催 熊本大学永青文庫研究センター、熊本史学会

 後援 熊本県文化財保護協会

 

※事前申込不要(当日受付)、参加費は無料です。講演会についてのお問い合わせ等は、ポスターをご覧ください。

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■「第5回若楠会 謡・仕舞特別鑑賞会」

2018-06-26 08:29:02 | イベント

 金春流職分・能楽師による「第5回若楠会 謡・仕舞特別鑑賞会」が、上記要領で開催されます。
多くの皆様のご来場・ご鑑賞をお待ち申し上げます。

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■来年の藩校サミットは・・・

2017-10-06 07:23:16 | イベント

 今年の藩侯サミットは、9月30日(土)石川県立音楽堂・邦楽ホールで行われた。
加賀前田家のお膝元である金沢には「明倫堂」「経武館」があった。
出席された「藩校時習館顕彰会」の会長であるM様から、当日の関係資料一式をお贈りいただいた。
そのM様から「来年は丹後田辺ですよ」とお教えいただいた。丹後田辺は細川家ゆかりの地である。
M様は熊本史談会の会員でもあり、御先祖様は青龍寺以来の御家柄であるから田辺も遠祖が活躍された地であろう。
当然来年もご出席の事と思われるが、当方もこれは何とか出席したいものだと思っている。

                   

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■八景水谷まで船出浮きは如何・・・

2014-03-15 07:27:34 | イベント

ブログ「徒然なかはなし」に当方ブログをご紹介いただいた。 「瀬戸坂」についての説明がある。
坂の近くに「瀬戸(迫門)」つまり「海や川の狭まったところ」があったということだろう。今日、地域住民の間では常識となっているが、寺原田畑はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々とある。
大正期の地図を見ると、瀬戸坂の北の広い一帯に舟場と書かれていて、不思議に思っていたのだが大いに合点したところである。
昔は坪井川も水運で舟の行きかいも多かったのだろう。 

2008-03-02 14:35:41 のブログで綱利の舟遊びの事を書いた。 
八景水谷への出浮きは、往きは駕籠、帰りは舟であったらしいが、その舟は前日高橋から坪井川を登らせたというから流石である。なにせ殿様がお乗りに成る御座船は並の大きさではなかったろうし、御供の人達の為にも何艘かの舟がお供をしたことであろう。さすが殿様のなさることはスケールが違う。

八景水谷は熊本市の水源としても知られる場所である。西側を坪井川が流れ、先にかいた瀬田の井樋から取り入れられた白川の分流・堀川が八景水谷を挟むように東を流れ、八景水谷のすぐ南側で坪井川に合流している。当時は水量も多く、水深も深かったのであろう。当時の流れが現在と同じであったかどうかはわからないが、内坪井に至るまでの流れはそう変わってはいないのではないか。当時は内坪井で大蛇行していたが、これは人工的なものだという。現在時折熊本城の長塀下あたりで、イベントとして船を浮かべたりしているが、いっそのこと八景水谷まで登られては如何だろうか。

どなたかこのブログを見て「やってやろうじゃないか・・・」という、酔狂な人は居られないだろうか。 

 

 

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■お安く読む・文春文庫「考証要集 秘伝! NHK時代考証資料」

2014-03-13 12:58:59 | イベント
考証要集 秘伝! NHK時代考証資料 (文春文庫)
 
            文藝春秋


かっては時代考証といえば稲垣史生氏の名前がすぐ浮かんだものだ。そのペンネームが「史に生きる」とくると、ただならぬものを感じる。
現在氏のエッセイを二冊ほど買い込んで読んでいるが、時代考証の面白さに感じ入っている。

さてこちらの本は、多くのドラマを世に送っているNHKのお話・・・『NHK番組の時代考証を手がける著者が、身内の恥をかえりみずに指摘する「間違いだらけの歴史常識」。目からウロコの薀蓄が満載』 ちょっと面白そう・・・・・・・ 

内容(「BOOK」データベースより)

織田信長がいくら南蛮かぶれでも、望遠鏡を使わせたらドラマは台無し。「花街」を「はなまち」と読ませたり、江戸っ子に鍋料理を食わせようものなら、番組の信用は大失墜。斯様に時代考証は難しい。テレビ制作現場のエピソードをひきながら、史実の勘違い、思い込み、単なる誤解を一刀両断。目からウロコの歴史ネタが満載です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
               そんな中こんな記事が出てきました。ドラマ作りの大変さが判りますね~~~

              「軍師官兵衛」で本尊取り違えミス 3月2日放映シーン  産経新聞 3月13日(木)14時12分配信

 

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■松寿庵先生 第90講

2014-03-07 09:47:31 | イベント

                                  

                                      熊本県立図書館貴重資料展・熊本近代文学館特別展
                                           富永コレクションが語る肥後の武

                                      日時:平成26年1月30日(木)~平成26年3月24日(月)
                                            会場:熊本近代文学館展示室2

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■いつ出かけるかが問題だが・・・・

2014-03-01 09:30:22 | イベント

                                                            

  今日から4月6日まで「くまもと春のお城まつり」が行われる。私にとってのメインエベントは「不開御門」の公開である。内部も見せていただけるという事だろうから、是非共出かけたいと思う。ついでにと云っては難だが、住江門+松井家預櫓あたりの石垣を詳しく眺めたいし、埋門をじっくり見て見たいのだ。

駐車場から西大手門を通り、南大手門を眺めた後、頬当御門から城内に入り、よく場所を知らない耕作櫓門を確認し、飯田丸から竹の丸へ抜けて札櫓門・元札櫓門の石垣などをじっくり眺め、メインエベントの不開門を拝見勾配のきつい長い坂を下って、今度は登りの急な棒庵坂から監物台植物園まえを通って埋門を眺め一度城外へ出て、百石垣前を通って二ノ丸御門から再び二ノ丸へ入り、美術館の前から住江門+松井家預櫓周辺の石垣をみて、旧法華坂を通って御城を一巡り・・・・これが今回の私のプランなのだが、相当な距離だけど足・腰は大丈夫かしら・・・・ 
3月9日に県立美術館で公開研究会「加藤清正文書研究の最前線が午後にあるから、午前中から出かけて是を実行するか・・・・・??一日がかりだ。 

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■古今肥後見聞雑記から -- 小天・野出あたりの事

2014-02-28 11:48:29 | イベント

古今肥後見聞雑記に、小天・野出についての興味ある記事があった。

  一、明和元年甲申年夏の比飽田郡白濱村邊玉名之内小天村と
    の間に海邊に湯涌出ス同年秋に至て小家出来るよし
  一、飽田郡野出村に古へ領主有し野出殿と云 館跡今に有と云按るに野出に住し三名(三名字衆)
    の内にてハ無キヤ不分明 曽て領主に一女ありしか領主の児小姓に千馬と云
    し者有て是と密通の事あるを領主耳に入大二怒て千馬
    を殺害す其母なげき伏沈むと云事里俗の口牌にあり然とも
    何の年と云叓を不知今土俗童唄にうたふて云
      小天峠からよんて来る雨ハ千馬母御のなき泪
    と云り其墓小天村に有印に松木有といふ千馬の墓の邊ニ
    時々今に火が出る事有り土民センマジョウノ火と云り右の
    童唄ハ河内谷邊にうたふと云


熊本県の広報サイトに「小天温泉・玉名市」があるが、次のように記している。「温泉の発見は、意外に新しく明治のはじめといわれています。しかし、古くからの地名に「湯の浦」とあることから温泉としての利用はなされていなかったものの、湯がわくことは知られていたようです。」 明和と明治では100年ほどの開きがあるが・・・・・・?
上記見聞録に有る温泉湧出の場所がはっきりしないが、白浜と小天の間の海辺に湧出したとあるから、当時の地形などを考えると小天温泉なのではと思われるが如何であろうか。白浜は熊本市河内町の一番はずれに当たり、玉名市小天と隣とおしである。

熊本からこの小天にいたる野出峠は、夏目漱石の「草枕」で知られる所だが、このような話は今回の見聞録の記事で初めて知ったことである。
悲しい話だが童唄などが残されたというが現在はどうなのだろうか。センマジョウとは千馬丞なのか・・・・
古の悲しい話は数多あるが、もう地元でも忘れられた話かもしれない。

教育委員会か小天の区長さんなどに尋ねてみようかしら・・・・・・ 
 

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■古今肥後見聞雑記から--阿蘇惟光の埋葬地

2014-02-26 08:23:12 | イベント

花岡山の中腹に「阿蘇殿の松」跡に石碑が建てられている。十二歳の若さにして豊臣秀吉により誅罰された阿蘇惟光を偲んで植えられた二本の松が在ったいたという。
惟光の死の原因は梅北の乱に関わってのこととされるが、詳細はウィキペディアに頼る事にする。
惟光の死によって戦国大名としての阿蘇は終焉を迎えることと成った。
この「阿蘇殿の松」から下ったところにある吉祥寺の上に「阿蘇の小社」(横手阿蘇神社か)がある。
寺本直廉の記録するところによると、明和期(?)にこの地にあった大木が倒れここから石棺がでて、これが惟光のものであろうと大騒ぎになったと有る。


一、祇園山の下横手村吉祥寺上に阿蘇の小社有(中略)
  右阿蘇宮神殿九尺に弐間瓦葺十二体の木像あり中に観音像立り 祭十一月十五日 拝殿一間に一間瓦葺神殿に續たり 額有阿蘇宮左右に神并こま
  犬等あり 手水鉢有 享保二丁酉十一月吉日横手村方吉次郎トアリ 石段上に二段 中に二十段 下に二十八段石の鳥井あり

一、右阿蘇宮の脇に大木ありしを五十年程明和より前に大風の節大木倒る故剪取て其根を堀しに石棺有之其内に十三四計の人の白骨出たり
  大小の身と
見へて朽て甚細く成たるあり 掘出せしもの大に驚吉祥寺に住寺僧寂庵和尚に訴ふ 則寂庵其所に至り右之様子を見届読経をして元のご
  とく葬しと云々   寂庵の物語なり

  按るに阿蘇惟光十三歳なるを祇園山にて誅せしを此所に葬しにてハなきや今阿蘇殿松といふは伏誅の地也 大松二株ありしか東の方一本ハ安永四年比枯 

  惟迎云此松の由来ハ阿蘇没落の後惟光・惟善兄弟佐々成政隈本の城に寄宿す 佐々亡き後肥後を加藤小西に分賜ふ 兄弟も又清正・行長に寓居す
  于時文禄二年清正朝鮮の役に従ふ留守に讒者有之 秀吉江訴へて■肥後ハ本阿蘇家之旧領や是を以國人等志を通して既に■乱のきさし有と秀吉公
  此事を信用有之て文禄二年八月十八日飽田郡阿弥陀寺山におゐて惟光を殺害せしめらる 于時十三歳也 今云阿蘇殿松ハ其伏誅の地ぞ 弟惟善ハ
  幸にして無恙を慶長六年清正公私に領地與へて大宮司の職となる 今阿蘇家是なり 右文禄二年より文化十一年に至て二百二十二年松猶依然として
  立たりしか此年七月十日夜南風頻吹大風にハあらされとも老木うつろに成し故にや終に根より吹倒さる 其跡ハ横手村の上東の麓なり 本文松之事有
  故爰に其由来を大概に記し置もの也 阿蘇惟光之墓ハ熊府古町阿弥陀寺境内に有り

附けたし:この神社は横手の五郎を祀る神社として知られている。

 

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■お安く読む・新潮文庫「幕末史」

2014-02-24 21:42:37 | イベント

 

   幕末史 (新潮文庫)
 
      新潮社

 

実は半藤氏の本は漱石先生に関するもの以外では、「日本の一番長い日」くらいしか読んだことがない。
私は幕末の勉強はあまり気が進まない。洒脱な半藤先生はどう幕末史をとらえておられるのか、非常に興味が沸いたのである。

内容紹介

嘉永六年(一八五三)六月、ペリー率いる米艦隊が浦賀沖に出現し、役人たちは周章狼狽する。やがて京の都はテロに震えだし、坂本龍馬も非業の死を遂げる。将軍慶喜は朝敵となり、江戸城は開城、戊辰戦争が起こる。新政府が樹立され、下野した西郷隆盛は西南戦争で城山の地に没す――。波乱に満ちた二十五年間と歴史を動かした様々な男たちを、著者独自の切り口で、語り尽くす。
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■涅槃絵図拝観ツアー

2014-02-09 09:37:12 | イベント

歳序雑話には次のような記事がある。

(二月)十五日、諸寺挂(カケル)涅槃像、老若男女到是為礼拝、蘭若之群集、莫過此日矣、雖非淫浮図之人、有来而多見之者、
彼岸在此月、以七日為結願、諸寺高僧碩学之比丘、述法談教化於檀那、此時因白桜開発之期、寄事於説教聴聞、而不論賢
愚、詣寺院帰路設宴、酔而皈(カエル)家、叶仏意者歟、抑(ソモソモ)又破戒之人歟、真個之道者夫寡哉、不如見花之益乎不知 

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■戦国肥後国衆まつり

2014-02-07 16:40:42 | イベント

                                     ポスター写真
                                       
                                          第37回戦国肥後国衆まつりの開催について

天正十五年(1587)肥後で隈部親永ら国人が一揆を起こした。肥後国人一揆である。このとき、田中城の和仁親実は弟・弾正親範、人鬼親宗、および姉婿で坂本城主の辺春能登守親行とともに田中城に籠城し佐々成政に抵抗した。これに対し、秀吉は諸将に徹底攻略を命じたので、立花宗茂小早川秀包安国寺恵瓊鍋島直茂筑紫広門の一万の兵が田中城を包囲、攻め立てた。十月二十八日から十二月五日まで約四十日間にわたって攻防戦が続いたが、最後は城方の辺春親行が内応し落城した。

                                           肥後文献叢書(一)古城考巻之中 山鹿郡・田中古城 コマ番号150~153/361

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■法華坂でのこと

2014-01-28 09:49:17 | イベント

                                                         (左下が志水伯耆邸、中央が後に東榭西榭が設けられる藩校・時習館の位置右手が長岡監物邸である。)

 

 熊本城の正面は西に向いている。新町の新一丁目御門からのびる坂が法華坂であり、空堀に添って左手に折れると右手に現在の西大手門が見える。二ノ丸は重臣の屋敷が立ち並び二ノ丸御門を経て豊前・豊後街道へと繋がっている。
今月の史談会では、会員藤本修氏の渾身の研究「熊本城下の坂」をお聞きするが、今日はこの法華坂で起きた事件を取り上げてみたい。 

法華坂は神風連の乱にあたっては、首領・大田黒伴雄が自刃したところとして知られるが、忠利公の時代にはここで何ともいただけない事件が起きた。
忠興公に殉死した興津弥五右衛門の兄・九郎兵衛一友がおこした事件である。時代の確定は出来ないが、九郎兵衛は島原の乱で陣死しているから、寛永九年の細川家の肥後入国から五~六年の間に起きたものである。

                         忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん、四尺斗の長刀を差たる
                         か法花(華)坂ニ而小便を志たるま、監物殿の馬乗通り懸り小尻を
                         蹴、沖津振返て何者そと咎しに馬乗却而悪口せし故
                         沖津抜打ニ二ツに斬殺たり、夫より今のの後四角迄来 
                         りしに、早此事監物殿江聞へ討手を向らる様子ニて、大勢
                         門前ニ集り既二可押懸躰なれ者、沖津引返シて大頭志水
                         伯耆殿江行 今の小笠原大部殿屋敷 只今ケ様/\の訳ニて手打仕候処監物
                         殿より討手を被向様子ニ見へ候故、差図を受可申ため参
                         上仕候と云しか伯耆殿聞て、早々御通りし得とて沖津
                         を座敷江通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
                         砲を持て長屋の屋根に上らせられし中、早監物殿の者共ハ
                         沖津伯耆殿江馳込たりとて志水殿門前江押寄監
                         物申候、沖津何某手前家来を討て其元江罷在由早々
                         御渡可被成と云、しか者伯耆殿返答ニ御家来不届之儀御座
                         候而沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
                         申候と云れしかとも、監物殿家来共猶ニ強而御渡可被成と
                         云募しか者、伯耆殿被申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
                         受取度候て何様共被致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可被
                         致覚悟と云れしか者、監物殿家来共ハ俄の事ニて着込
                         抔せし者も無く、勿論鉄砲も不持者兎や角と暫く猶豫し
                         たる中使を馳て主人の方得云遣ハせしかハ監物殿怒られ
                         自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ、此事早
                         尊聴ニ達シ俄ニ沼田殿を召て被仰渡しハ、監物者家来の
                         敵ニ討手を向候由尤左も可有事也、然るに若伯耆様討れ
                         候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
                         上意也、沼田殿■なから御請申上退出し斯成行てハ以の
                         外の大事也と直ニ監物殿江内々ニて此由云送られしかハ、監
                         物殿聞て我忠義を忘たりとて大ニ後悔し早速手の者
                         共を被引取たるとなり

 藩内でこのようなことで一触即発の状況になっている。いまだ戦国の侍の血が騒ぐのであろう。
監物とは家老・長岡(米田)監物興季である。慶長十二年細川家を退去し牢人し、大坂の陣に於いては西軍に付いた。元和八年に帰参し寛永二年家老職、同十一年一万石を領す。
志水伯耆とは新之允(雅楽之助 後・伯耆清久 入道〆宗加)であろうと思われる。当時備頭大頭六千石である。(日下部与助の父)  志水元五(日下部与助)の事である。
尊聴に達したと有るから藩主忠利は在国している。肥後入国から島原の乱の為に帰国するまでの間、忠利が在国するのは次の如くのわずかな時期である。

さてどの時期なのか、うかがい知る資料が見当たらない。もし志水が討たれたら沼田氏をして監物を討たせるという忠利の思いが、監物を翻意させた。 

一、同年(寛永九年)依召九月十三日小倉御発駕 十月三日江戸御着 東海道御旅行 同四日肥後国拝領 同八日右
  為御礼登城 同十二日御暇被仰出 同十五日江戸御発駕 東海道御旅行 十一月十日小倉御着 十二月五
  日小倉御発駕 同九日肥後御入国 熊本城ニ御入
一、寛永十年九月十二日熊本御発駕 十月十日江府御着 同十三日御拝礼

一、同十一年家光公御入洛御参内付而 忠利公御供奉被蒙仰 五月御暇被仰出江府御発駕 同廿一日
  上鳥羽御着七月十八日御参内之節 忠利公御衣冠ニ而四足御門ニ御候 同年閏七月廿九日御暇被
  仰出 八月朔日上鳥羽御発駕 同十三日熊本御着
一、同十二年正月十六日熊本御発駕 二月十四日江戸御着 同十八日御拝礼

一、同十三年五月御暇被仰出江府御発駕 六月九日熊本御着
一、同十四年三月廿日熊本御発駕 閏三月九日江戸御着

一、同十五年嶋原一揆ニ付 依御願正月十二日被為召 即日江戸御発駕 同廿五日熊本ニ御越 御城ニは
  不被為入 立田村より白川御渡河尻江御越御乗船 翌廿六日己刻直ニ嶋原御着 賊徒御討捕之 二月
  廿七日原城落去 三月二日有馬御発即日熊本之御城江御凱旋



                              http://www.youtube.com/watch?v=knnJ3Cf1Xeo

 「志水伯耆」につきましては人物の特定を間違えておりました。
 ご子孫からのご指摘を受け訂正をさせていただきました。御礼を申し上げます。 2016:9:2

                             

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