平野新兵衛が家老・長岡(米田)監物に宛てた一通の覚書がヤフオクに出ていた。
覚
奥田太郎兵衛
右太郎兵衛儀轉切支丹
加賀山太郎兵衛玄孫奥田
蒹舟忰ニ而御座候以上 蒹(けん=あし)
天明六年
十二月十九日 平野新兵衛 花押
長岡監物殿
ここでの収穫は(1)太郎兵衛成る人物の特定が出来た事、(2)番頭を勤めていた平野新兵衛の花押が判明したこと、そして(3)この書状の制作年が確かな事である。
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■ 加賀山克巳 (南東18-23)
1、加賀山太郎兵衛
【転切支丹】 寛永十三年七月十三日 禅宗に罷成り・・(勤談跡覧-肥後藩之切支丹)
細川忠利公御書出(寛永十年九月)二百石
2、 主馬
三男村井家に入り、四代村井十郎左衛門友則
3、 金左衛門之勝 十二番牧平左衛門組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
細川光貞公御書出(寛永十八年八月)二百石
4、奥田太郎兵衛賢親
5、 十兵衛之清 二百石 佐敷詰御小姓組五番
6、 太郎兵衛 御鉄炮十挺頭 二百石
7、 金吾(十兵衛)
8、加賀山関之助 御番方組脇
9、 隼次(太郎兵衛・一朶)
10、 克巳 二百石