津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

玉名市・繁根木八旙宮

2008-04-30 08:30:13 | 歴史
 玉名市築地にある繁根木八旙宮境内の、弓道場の火事のニュースが飛び込んできて吃驚している。繁根木八旙宮は字が示す通り、築地氏本貫の地とされる。築地氏は竹内宿彌を遠祖とする「紀氏」の後胤であり、繁根木八旙宮は紀氏一族により建立された。あの「紀貫之」と同族という事になる。大野氏・築地氏・中村氏その他五人の八人兄妹が、弐百五十町を分かち納めたという。繁根木八旙宮は築地氏の元で祭礼神事などを勤めてきたらしい。何時の頃か、築地氏は「様子あって」田添と姓を改め帰農したとされる。細川重賢による「宝暦の改革」で、十三年に及ぶ「国中地引合せ」の難業を指揮した田添源之助が、その築地氏嫡流である。「紀定斯」と名乗る。ご子孫がお持ちの文書をお預かりし読んでいる最中で、火事のニュースに驚き先ずは最小の被害に留まった事にほっとしている。
   ajkj.jp/ajkj/kumamoto/tamana/kanko/.../hanegihachimangu.html
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肥後細川藩

2008-04-29 17:05:00 | 徒然
 やかまし者の悪友が言う。「肥後細川藩」という言い方はおかしいと。「わかっとる。承知の上だ」と言い返してやった。松本寿三郎先生のお説によると、法制史上からすると、肥後藩や細川藩というものは存在せず、明治の藩政改革による熊本藩は存在するのだという。わが「肥後細川藩」は、ただただ私の思い入れによるもので、けちを付けられる筋合いはない。「お前ナー、凄い数の人がお前のサイトを見てくれているんだから、ちゃんとしたほうがいいんじゃないか?」という。悪友故の暖かい意見だが、「わかっとる。わかっとるけどこれでいく」と、肥後モッコスの私としては「思い入れ」が優先するのである。

(しかし、わがサイトから引用されたと思われる種々のサイトに、「肥後細川藩」なる書き込みを見つけると、いささかの不安がよぎるのも確かである)
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4月29日

2008-04-29 12:37:14 | 徒然
 この時期、猫の額ほどの庭も雑草が次から次へと顔を出し、草取りの手を休める事が出来ない。思いがけないお土産も合って、二センチほどの「千両」が芽を出していた。多分去年実生で根付いたものだろう。メジロやスズメなどが頻繁に顔を出すようになってから、へび苺などが新種として登場した。千両も彼らのお土産かもしれない。

 かっての4月29日は「天皇(昭和)誕生日」としての祝日だった。お亡くなりになってから「緑の日」となった。新緑の頃にふさわしくて良いではないか。それが何時の間にやら「昭和の日」となった。
草むしりをしながら、「雑草という名の植物はない」と仰ったお言葉が、ふと頭をよぎった。平成ももう20年、昭和という年号が懐かしくさえ思える。ほろ苦い青春の時代である。
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傍証

2008-04-28 17:28:37 | 歴史
 大坂の陣における細川家の一番鑓は清田石見である。「妙解院殿忠利公御代於豊前御侍帳」によると、頭衆として「二千五百石・源・清田七助乗栄、大坂鑓下高名後石見、父主計鎮乗・大友家」と紹介されている。隠居後の忠興に仕えていたが、寛永三年忠利に附属せしめられている。
「清田七助を殿様ニ御奉公申候へと、三齋様御意ニて、(吉住)半四郎御使ニ被参候、則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく、三齋様より付遣候事」とある。(日帳五月八日)

 三齋の江戸や京への上下には、槙嶋云庵(雲庵とも)・清田石見がお供している。側近中の側近であった石見を、忠利に附属せしめたのはどういうことだろうか。石見の行政官としての顔は見えないが、戦場を縦横に馳せ巡った猛将の存在は忠利の元でも重きをなしたのであろう。一方忠興四男立孝・五男興孝の生母圓通院(幾知)の兄(弟?)であり、忠興妹伊也(初・一色義有室、吉田兼治再嫁)の女婿という立場も或る。

 わが先祖は、云庵・石見の斡旋により召出された。いわば恩人であり気になる人物である。兄と同時に召出しを受けたが、過日「日帳」により其の時期の特定が出来た。石見が三齋の元を離れた時期を知る事も又、確かな傍証となった。

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竹の子

2008-04-28 16:31:43 | 徒然
 草むしりをしていると、袖が山椒の木に触れたのか芳しい匂いがただよう。五六年ほど前どこから飛んできたのか、実生で育って50センチばかりの高さになっている。横にはその子だろうか、10センチばかりの小さな山椒もみえる。ふと「竹の子」が食べたいと思った。そういえば、毎年新鮮な竹の子を届けてくれる妻の友人が、今年はまだ来てくれない。電話をさせようかと思ったりする。若い頃は得手ではなかった「竹の子」だが、還暦を過ぎた頃から良く食べるようになった。「セリ」とか「蕗のとう」「蕗」などは昔からの好物だが、竹の子が加わり、人に言わせるとすっかり「爺の食べ物」に親しんでいる。田舎にいる友人の顔を思い浮かべながら、久しぶりに電話をしておねだりしてみようかなどと、良からぬ事を考えている。
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綱利の跡継ぎ事情

2008-04-28 10:42:30 | 歴史
細川綱利の略年譜である。
 誕生  寛永二十年(1643)正月八日、江戸にて誕生
  7歳  慶安二年(1649)父光尚卒、翌年四月特例を以て遺領相続
 12歳  承応三年(1654)婚姻 (松平讃岐守頼重女・實水戸徳川頼房女)
 19歳  寛文元年(1661)初入国
 24歳  寛文六年(1666)弟・利重に蔵米知行三万五千石内分、新田支藩とす。
 25歳? この時期・細川家長老松井興長諫言す
 33歳  延宝三年(1675)正室本源院逝去
 45歳  貞享四年(1687)嫡子与一郎誕生・元禄十三年逝去
 47歳  元禄二年(1669)次子吉利誕生
 59歳  元禄十五年(1702)十二月十五日浅野内匠頭遺臣、主君の仇敵吉良上野介を討つ。
             元家老大石良雄以下十七人預けられ、翌年二月四日白金邸にて切腹
 63歳  宝永三年(1706)継嗣・吉利逝去
  ?  この時期柳沢吉保三男安基を養子に願うも実現せず
 65歳  宝永五年(1708)弟・細川利重次男利武(宣紀)を養子とす
 67歳  宝永七年(1710)生母清高院逝去
 69歳  正徳二年(1712)隠居
 71歳  正徳四年(1714)十一月十二日白金邸にて卒す

 老域に入った綱利に、継嗣吉利の死は辛い出来事であったろう。柳沢吉保三男安基を、養子に望んだという事実も理解できるように思える。老中稲葉正住の反対によりその望みも潰えて、弟利重の次男利武を養子に迎えるのは、その直後の事である。後の宣紀、時に36歳であった。21人の子をなした宣紀だが、その子らはすべて宗家相続後に生まれている。宣紀の立場が垣間見えて面白い。
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細川忠尚・・・×

2008-04-27 13:36:59 | 書籍・読書
 NHK第一放送は、真夜中に「NHK深夜便」というものを放送している。所用で出かけて深夜の車の中で、聞くとはなしに聞いていると、朗読番組をやっている。時代物だ。「細川家」がどうのこうのと聞える。今度は聞き耳を立てて聞いてみると、なにやら聞いたような筋書きだ。そして「細川忠尚・云々」というフレーズがあって、菊池寛の「恩を返す話」だと気がついた。主人公は架空の人物でも、藩主については父親を忠利としているのだから、光尚とすべきだろう。この一点が気に入らない。

 肥後細川藩関係者を題材にした小説は結構有る。

   森鷗外「阿部一族」「都甲太兵衛」「興津彌五右衛門の遺書」
   芥川龍之介 「或敵討の遺書」「糸女覚書」
   直木三十五 「鍵屋の辻」 (都甲太兵衛が登場)
   吉川英治 「べんがら炬燵」
   薄田泣菫 「小壺狩」      等などである。

 古い作品を改めて読むのもいい。

 (電子図書館「青空文庫」で全て読む事が出来ます。www.aozora.gr.jp
      他にも有りましたらご示教ください)

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つつじの床柱

2008-04-26 15:38:18 | 建築
 どちらのお茶室であったのか、まったく記憶がないが、京都の有名なお寺様のお茶室である事は間違いない。説明の方が「床柱はつつじです」と仰った。40年以上建築に携ってきたが、後にも先にも「つつじの床柱」など、お目にかかったことがない。大変失礼だが「何かの間違いじゃないか」と思ったりした。

 熊本市東部の閑静な住宅地の中に、宅地を駐車場としておられるところがある。舗装もなく10台ほどの車が入っており、かっては庭であったろう面影が、所々に残る庭木でうかがえる。入り口近い処に、2メートルほどの立ち木が在って、花を着け満開状態である。近寄ってよく見ると、なんと「つつじ」だ。思わず「オウ・・」と声を発してしまった。脇に伸びる枝木は一切ない。意図的に剪定されている事が分かる。それでも直木の部分は1.5mもない。あのお茶室のものは2.2~2.3mはゆうにある。何年経てばあのような大きさになるのだろうか。しかし可笑しな姿の「つつじ」ではある。桜の季節を過ぎて、熊本ではあちこちのつつじの名所から、満開のニュースが伝えられている。一度一木のつつじを御覧いただきたいと思うが、場所は秘密にしておこう。証拠の写真が必要だナ。改めて出かけなければ成らない。
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細川家家臣・藤掛(懸)氏

2008-04-26 15:18:26 | 歴史
 今日の熊日新聞の「言葉のゆりかご」に、田辺城を攻撃した藤掛土佐守の子孫の事が書かれている。ちょっとした偏屈者で「肥後モッコス」の極みのような人だ。
田辺城攻撃陣の中には、忠興の義弟・木下右大夫や、藤掛氏同様細川家家臣となった谷氏などがいる。石田三成の攻撃陣編成も「何だかなー」と思わせる、いい加減さが伺える。みんな細川陣に空砲を放ったり、情報を伝えたりしている。

 藤掛氏はその土佐の息・惣左衛門(蔵人・永勝)が召出された。  
    (1)物奉行 五百石 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)御物奉行衆 五百石 (肥後御入国宿割帳)
    (3)御買物奉行衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)
    (4)五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・蔵人
    (5)沢村宇右衛門組・御物奉行 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                 江戸勤番ノ時ハ八木百石被下之
   * 藤掛蔵人内儀 百石(於豊前小倉御侍帳)(真源院様御代御侍免撫帳)
   * 藤懸蔵人内儀消息  細川家文書・御印之物より
       藤懸蔵人内儀へ米拾俵遣候間可相渡者也
          寛永三年十二月廿八日 tadatoxi(忠利印)
   * 藤懸蔵人女共消息 熊本縣史料近世編第二p273 三家老宛忠興書状
       藤懸蔵人女共ニ母儀逢度由申越候間國を出候儀者何様ニも出候へと
       申遣候間 蔵人所へ可被仰遣由申遣候蔵人次第ニ切手遣のほせられ
       候ハヽ舟可被申付候 謹言
         (寛永十四年)十月廿八日          (忠利)
   * 藤懸蔵人むすめ消息 細川家文書・御印之物より
       今度御暇被遣候御女房達衆之覚
       (前略)しほ 是者藤懸蔵人むすめにて候故蔵人所へ御かへし被成候
        右之衆何も御暇を被遣候、就夫当年之御切米無滞急度被相渡所々へ
        罷帰候衆は何も人を添其外海陸共ニ造作申付可遣旨被仰出候間、被
        得其意可被申付候、以上
          寛永拾八年六月廿二日 fosocawarocu(光尚印・六) 
                           林太郎四郎(花押)

 この様な色々の情報から類推すると、惣左衛門内室は江戸にいて、奥の仕事に携っていたのだろう。又娘は、光尚室彌々付きとして召し出されたのではないか。御暇の原因は当然、彌々の死去に伴うものだろう。幽齋の時代まで遡る、両家の縁である。

   
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細川家家臣・河方氏

2008-04-25 16:19:29 | 歴史
 河方氏の祖は松下民部少輔述久、綿孝輯録は「加茂の神主の弟也、述久は従五位下、禁裏に勤居たり、鞠歌の御伽として、幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも御取持仕候段は、先祖附にも段々書加来候、後に五百石にて御家に来」とする。時慶記にもその消息が見える。(慶長5年、2/5、3/19、3/22、8/25 同7年7/9、10/19 又幽齋より松下民部への御歌が残されている(盤桓随筆・巻42所収)
 其子松下掃部助は河方安右衛門と改「曽我丹波守殿妹を忠興君御養女に被成、被嫁之、其後代々御奉公相勤」と綿考輯録(巻五)は紹介する。
 二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・河方安右衛門
 原城にて武功被賞 御加増五百石 十五年七月比カ (綿考輯録・巻五十)

御旗本・曾我家とは、細川家は代々大変親しい関係を持ってきた。上記丹波守とは曾我古祐、【曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、二百石。大坂役の後軍令違反により閉門。のち赦免。寛永三年相續(千石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。十年十二月千石加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて三千石。十五年十二月従五位下丹波守。萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年七三。】(大日本近世史料・細川家史料より)その古祐の妹を忠興養女にしての嫁娶りであるから、特別なものを感じざるを得ないがが・・さて?。
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地震の間

2008-04-25 08:21:40 | 歴史
 今朝6時前地震で目を覚ました。一瞬物が落ちてこないかと身構えてしまった。たいした揺れではない、震度2位のものだろう。熊本市内には東西に地震構造帯が走っている。最近は阿蘇山が噴煙を上げ、火口では赤熱化現象が見られる。あまり気持ちの良い状況ではない。

 某家の先祖附に、ガラシャ夫人の最期の状況を記したものが有る。鴨居に火薬を仕掛けて火を放ったとされる。屋敷全体を火で包み、遺骸を覆ってしまうには非常に合理的な発想だ。細川家には「地震の間」というものがあったが、これがそうなのかもしれない。寛永期小倉城内で、「地震の間」の普請が行われている様子が、「日帳」に度々記されている。「細川家の覚悟」のほどが伺える話しだが、今般竣工を見た「本丸大広間」や「花畑御屋敷」にも、同様の機能を持たせた部屋があったのだろうか。
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宇気比

2008-04-24 16:47:48 | 徒然
 先のブログに書いたからと言うわけではないが、昼食もそこそこに桜山神社・神風連記念館に出かけた。お天気がよくて自転車をこいでいると汗ばんでくる。しかし境内に入ると、木立の中を吹き抜ける風が何とも気持ちがよい。落ち葉が走り回る音も、笹の葉が揺れる音も、いかにも神域である事を感じさせてくれる。館長補佐S氏にお目にかかる。東京のK氏・S氏の、「神風連」に関する書籍などが届けられている事を承知している私は、其の事をお話しして時間をいただいた。三時間にも及んだが、快く対応していただいたし又意気投合してしまった。しかし現実は中々厳しい。私がお邪魔してる間、一人の参観者もいない。神風連志士の純粋高邁な精神の継承や、これを顕彰しようとして身を削られた荒木精之氏の活動が、時を経て危さを感じさせる。私は、彼らの行動を賛美しようと思う者ではないが、「秋月の乱」や「佐賀の乱」「西南の役」など、不平士族の反乱とは確実に一線を画した行動で在った事はよく理解できる。打算のかけらが一つも見受けられない彼らの行動の背後には、残された家族の悲しくもけなげな人生が見て取れる。そんな先祖を誇らしげに思われる方が居られる一方、先祖の係わりをまったくご存知でないお宅が沢山あることも事実である。時の経過に顕彰の意義が埋没しているような危機を感じる。いまこそ「宇気比」が必要ではないのか。
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いらぬ事を・・・

2008-04-24 11:24:24 | 徒然
 時々心臓が悲鳴を上げるが、友人の医者は「死ぬこたーない」とご託宣。「一病息災」で頑張ろうと思う。以前そんなことを書いたら、お見舞いをいただいたり、「ブログは続けられますか?」と心配いただいたりした。二三の方に「ブログが止まったら、死んだと思ってください」と冗談で話した。
・・・いらぬ事を言ってしまった・・・
ネタ切れしたり、史料や文書を読むのに夢中で時間がなくなったりで、時折書き込みが怪しくなる事が有る。なるだけ朝方ブログを一本書き込んでから、一日の作業に掛かろうと思っている。

 熊本城本丸御殿も拝見しなければならないし、明日は「永青文庫」の展示コーナーが開設されるし・・島田美術館や、八代未来の森ミュージアムにも行きたいし、休館日に出かけた桜山神社・神風連記念館行きも帳面が消えていないし・・・時間がたりません(嘆)
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どくだみ

2008-04-23 12:47:55 | 徒然
 「どくだみ」もカタバミに負けず劣らずで、至るところに根をのばしている。抜いても抜いても春になると芽をだしてくる。そして白い花が中々可愛い。思い立って一輪挿しにさして飾ってみた。匂いのする植物は、「茶花」としては使われることはないから、今までは飾った事もないのだが、大変清楚な感じがよい。

 かって私は、二坪ほどの広さの畠が一面、白い花で覆われているのを見たことがある。この「どくだみ」は栽培されていたもののようだが、これはもう素晴らしい光景だった。ふと平清盛の「よもぎの庭」を思い出したのだが、案外古の人達も「どくだみの庭」を作っていたかもしれない。美しいと思う感覚が随分ずれを起こしているのに気づかされる。
 
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片喰紋

2008-04-22 11:55:26 | 徒然
 カタバミが黄色い花つけている。すごい繁殖力ではびこっている。今の内に抜いておこうと腰をかがめてみたが、とてもじゃないが抜ききれない。この繁殖力が愛でられて家紋に多く使われている。日本の三大家紋とか聞くが、ウィキペディアは次のように紹介している。

【繁殖力が強く一度根付くと絶やすことが困難である事が、「(家が)絶えない」に通じることから、家運隆盛・子孫繁栄の縁起担ぎとして家紋の図案として用いられており、戦国大名・長宗我部元親で有名な土佐長宗我部家の『七つ酢漿草』や新陰流の上泉信綱の『片喰紋』・徳川氏の譜代・酒井氏の『剣片喰』『丸に片喰』など、片喰紋を家紋とする戦国大名・武将も多い。今太閤と呼ばれた田中角栄の家紋も『剣片喰』である。】

 母の実家の家紋は「亀甲に剣片喰紋」、お説の如く六人兄妹で根を広げた。
先祖は関西の人間らしいが、剣片喰紋は奈良県に多いと言う。奈良人かい・・?
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