津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大渋滞シティ・・・バター★コーンEX

2024-11-20 07:55:17 | 熊本

 運転免許証を返納したから、車に乗れないのは当然だが、それに伴い熊本の交通事情が大変だという事もあまり実感しない。
過日TAXIに乗った折、運転手さんの話によるとTSMCの進出により、あちこちでの渋滞が半端ないらしい。
地元を走っている東バイパスの朝の渋滞はすさまじいという。
今年の5月であったか、熊本市長が「交通問題」の会議のために、上京するのに、渋滞に巻き込まれ飛行機に乗り遅れたという話が報道されて笑ってしまった。

 最近、熊本のバター★コーンEXという三人組が「大渋滞シティ」という曲を発表して話題になっている。
朝日新聞ニュースに熊本の悲しき名物「渋滞」が歌に 「バックできないなら、前向きに」でも紹介されている。
この曲をYoutubeで聞いてみたが、熊本人にしか判らない地名などが盛り込まれていて、ローカル感100%だが、ラップ調の曲でなかなか好感の持てる曲である。
40歳半ばの三人組だそうだが声も若々しくなかなかいけているし、映像も本格的ですごくいい。
道路事情で「君に会いに行く」のが遅くなると嘆きながらも、そのうちにこれを解消する「七色の虹の橋」ができれば、すぐに逢いに行けるようになると歌う。
しかし「虹の橋」の登場は簡単にはいきそうにない。「君に会いに行く」のには、早出を心がけるしかなさそうだ。
この曲、全国区にはならないのかもしれないが、熊本人としては大いに応援したいものだ。

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■江津・斎藤家の茶室

2024-08-19 06:50:56 | 熊本

 一年前に「■中村汀女の鼻」を書いた。熊本に在った時期は、その美女ぶりは誰もが知る處であったらしい。
汀女の「高い鼻」に関するエピソードをご紹介した。

 処でここで私は「汀女は裕福な斎藤家の娘で、江津湖にはその斎藤家の名前を冠した「斎藤橋」がある。」と御紹介している。
ところがこの斎藤橋に関することで異説が飛び出した。先月の史談会に参加いただいた方が仰るには、斎藤家の一族が作ったのは間違い
ないが、「汀女の斎藤家とは違う」という事らしい。
因みにウイキペディアでは「地主で画図村村長だった斉藤清房が私財を投じて建築した。1929年’(昭和4年)6月16日に渡り初めが行わ
れている。当時は木の橋だった。現在は、江津斉藤橋として国道57号の一部となっている。」と紹介されている。

「歴史を勉強しておられる皆様には本当のことを知っていただきたい」と仰って、改めてご出席をいただきお話を伺うことにしている。
かっての市民病院(湖東町)近くに斎藤家の茶室(お茶屋?)があり、そこへ通うために架けられた私用の橋であったらしいが、後に
は一般市民に無料で開放された。

斎藤家一族が豪農であったことを物語っている。私はお茶室がどこに建てられていたのかを知りたくて仕方がない。
そして、その資料が残されていないのかも気になって仕方がない。

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■一つの時代の終焉

2024-08-18 06:17:02 | 熊本

 明治維新後純粋敬神の志を以て、負け戦必死の中で多くの志士が熊本城下の政府官僚や政府軍を襲撃したいわゆる「神風連の乱」は、
当時の熊本の
一つの精神文化を示すものだとして評価されてきた。
多くの資料を展示公開してきた「神風連資料館」が、今月末日を以て閉鎖される。
来館者の減少に伴い、維持継続が出来なくなったとのことである。そういえば私が最後に尋ねたのは何時だったろうかと、忸怩たる思い
が胸をよぎる。

桜山神社境内にあるこの資料館の貴重な史料は、熊本城内の熊本博物館に移管されるとの事だから、資料の散逸はひとまず免れている。
しかしながら、展示スペースが潤沢ではない熊本博物館だから、今までのように簡単に拝見することは出来なくなった。
故荒木精之先生をはじめ、資料館の設立運営にかかわられた方々の無念のほどが思われる。
一つの時代の終焉を思わせ、嘆息しきりである。
当ブログをご覧いただいている方々で、「神風連」関係者の方々が少なからずおられる。
「資料館」は閉館となるものの、桜山神社に祀られた方々については何ら今日までと変わることはない。
この様な結果を受けて、「神風連の乱」について改めて思いを致さなければならない。
日本各地に居られる関係者の皆様へのご報告である。

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■肥後は武の国

2024-08-17 07:06:46 | 熊本

 松江藩の桃節山が熊本を訪れた際の報告書ともいえる「肥後見聞録」に面白い記述がある。
                   (昭和51年8月発行「桃節山没後百年記念-西遊日記・肥後見聞録」からp98下段)
肥後藩士・安井左平太が案内役を勤めているが、広島で銭湯に行こうという事になった。
銭湯とはいえ武士であるからには刀を手放す事は出来ない。安井が両刀をたばさむこともなかろうというので、節山も同意して小刀を差して外に出ると、安井はなんと大刀一本を腰にしていた。
節山はさすが武の国と云われることだと感心しているが、熊本に入り注意して眺めてみると、まさにその通りであることに感心している。

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■第16回 千年映画祭

2024-07-03 06:38:20 | 熊本

  

第16回 千年映画祭

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               第16回 千年映画祭タイムテーブル                                           

上映時間 タイトル  
11:00 開場
11:30 SOCIA13「再現」 予告編へ
13:00 SOCIA14「暗室」 予告編へ
14:30 SOCIA16「低俗」 予告編へ
16:00 プロジェクト3-2023「光速」 予告編へ
17:30 HINAMI20「じゃない方じゃない」 予告編へ
19:30 MINIMA20「希望」 予告編へ

 

この映画に熊本史談会会員のTM氏が出演しておられる。
  出演は昨年に続いて2回目、さて如何なる映画か楽しみにしている。
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■遊行上人の来熊と庶民の難儀

2024-06-25 06:39:17 | 熊本

 現在読んでいる「町在」、これは中古町の別當・友枝良左衛門の善行に対し、町の人たちが「士席浪人」格に
してくれるようにと町奉行に請願する詳細が書かれている。
良左衛門は中古町の別當でありながら、零落はなはだしい細工町や高麗門町に居住する人形職人に自らの資産を提供して、人形

制作の資金や生業、又、家作の修繕等の手助けをしている。これが請願の理由である。
「町在」とは、「熊本藩領の住民、数万人の褒賞記録」だが、その褒章をえるために、多くの関係資料が残されている。
友枝良左衛門については30ページにも及んでいるが、人形職人の名前が羅列記録されていたり、貸金の詳細な記録などが添付さ
れている。そのなかにある人の後家さんや丁頭の借金の理由が、人形職人とは全く異なっていた。
これは遊行上人が来熊されたときに、町人も合力のためになにがしかのお金を出したり、またお寺の垣根の修繕費を負担したり
している。その費用さえ事欠いたらしく借金として残った。良左衛門から借用して町に返し、若干の利をつけて数か月で返す事
が記されている。

 さてこの遊行上人の来遊、以前も書いたが熊本では阿弥陀寺に宿泊されているから、これらの町の人々が負担を強いられた。
遊行寺というお寺は、徳川家ゆかりのお寺であるから葵の御紋の旗をなびかせながら進んでこられるという。
また、最高位の上人自らがお出でになるので、通りの町や村では道の掃除や、宿泊のお寺の掃除など当然のことであったらしい。
武士、町人、農民そのたすべての生業の人たちが浄財を寄付をした(強いられた)。
度々のことではないが、貧しい庶民の負担は大きかったようだ。容赦がないという権力を後ろ盾にする一面が見受けられる。

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■熊本市庁舎、建設予定地

2024-06-19 10:26:19 | 熊本
 数日前熊本市長が、正式ではないが熊本新庁舎建て替えの候補地を発表した。
いまは空き家になっている、かってのNTT西日本・熊本ビルの跡地である。解体して開発、商業ビル建設かと思っていたが、コロナの影
響で事は進捗しなかったらしい。
熊本市にとってはこれが幸いしたという事になる。桜町ビル・NHK熊本ビル・熊本市民会館などにとりかこまれた一等地である。
そして花畑広場の地下には、地下駐車場があり新庁舎と地下道でつなぐという事も出来る。後数日後正式発表となるのだが、現庁舎の耐
震問題で新庁舎建設の是非が問われていたものがすっかり改築の方向へ走り出した。
噂によると現庁舎跡は民間デベロッパーによる開発で、ホテルを含む商業施設が立つのではないかという。
誰もが考えそうな噂話だが、熊本城を抹消面に見る一等地だから可能性は大いにある。
さて、以前も触れたが現NTT熊本ビルがある場所には、古い時代の石棺が江戸時代に発見されたという。このビルが建設されたときには、
遺構の話など聞かなかった様に思うから、今度も期待薄だがちょっとロマンある話だった。
近世期、花畑邸を守るようにこの一帯は屋敷町が形成され、城内に入ると奉行所が立ちここで大国肥後54万石の政が行われてきた。
時代が変わってもかっての熊本県庁後に市役所が建て替えられることになる。少々現庁舎に比べると敷地が狭いようだが、どうやら中央
区役所機能は、別に建設されるのではないか。政令都市の整備が着々と進んでいく。
さて爺様はその完成を見ることができるかどうか、何とか冥土への土産話にできればと思うが如何・・・
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■ご近所のMさま

2024-05-26 09:36:14 | 熊本

 今のマンションに引っ越してきてからあと20日ばかりで一年になる。
まだ、マンションの住民の皆さんと面識ができた方はあまりない。エレベーターの上り下りでたまに挨拶を交わす程度の交流しかない。
そんな中で回覧板が回ってきて、押してある印鑑や、記名などでご近所様のお名前を知ることになる。
上の階にMさまがおられることを知ったが、細川家のご家臣のご一族であることは間違いない。
変わった名前というわけではないが、そうそう御見受けする名字ではない。
お邪魔してお話を伺おうかと思うが、どうやらお若い方が済んでおられるようだ。
幼い子供が床を踏み鳴らして走り回っているのが聞こえる。

もう何年前になるか、熊本が台風に襲われ電柱が倒れ、住まいも大被害を受けた折、熊本建築士会は被害状況をしらべるために駆り出されたことがある。
ある保険会社のお手伝いをしたりしたが、その保険会社にM氏がおられた。
お互い大多忙にしていたから、挨拶をかわすひまもなかったが、ひょっとするとその方のご親戚ではないかとふと思った。
親子かもしれない。歳恰好からするとそんな感じである。
このM家の史料は、熊本県立図書館に収められていて、貴重な史料である。
私もその中のいくつかを、写真撮影をさせてもらった。
そういう意味からすると、お手元には史料はお持ちではないかもしれないが、いつかお声がけしてみようと思っている。
散歩のコースには同じアルファベットのM家を見つけた。こちらもお名前を明かせば何方もご存じの方である。
「殉死の家」といえばお判りだろう。こちらもいずれお声がけをしたいと思っている。
散歩に出ては、表札ばかり気にして歩いているから、不審者と思われるかもしれないなとも思っている。

           

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■そろそろ冷房ON

2024-05-21 15:17:54 | 熊本

 朝から窓を開けっぱなしにしているが、16時過ぎ室内温度が28.9度になってしまった。
熊本は30度越えの予報が出ていたが、間違いなく越えているだろう。(熊本市内=31度?32.7度日本一
そろそろ冷房を考えなければならない。
冷房の時期には電気代が5割程UPになるが、屋内熱中症にならないためには、そうこう言ってはおられない。
もっとも明日は4度ほど下がるらしいが、あと20日ほどもすれば、今度はうっとうしい梅雨に入る。
この季節の変化や高い気温が身に応える。
こうなると私としても熱中症にならないように冷房嫌いの看板を降ろして仲よく暑い夏を乗り切らなければならない。
9月いっぱいは暑い。3ヶ月余りの艱難辛苦のスタートである。

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■白川蛇行説の痕跡現る

2024-04-29 13:48:37 | 熊本
 富田紘一先生が1995年に発表された白川蛇行説は驚きをもって迎えられたが、今では熊本人はこの説得力のある御説を当然のこととして受け止め
ている。
しかし、熊本市中心部の建築物の地質調査などが当たり前になっている中、その痕跡の確認が待たれていた。
今般思いがけず熊本城備前堀の中からその形が確認されたというニュースは、富田先生の御説が改めて補強された事であり、先生にお慶びを申し上
げたい。
昨日の熊本日々新聞電子版を引用してご紹介したい。
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熊本日日新聞
 特別史跡・熊本城の備前堀(熊本市中央区)で、白川の旧流路の痕跡とみられる砂の層が見つかった。白川は江戸時代初期まで現在の中心市街地方面に大きく蛇行していたと推測されており、熊本市によると、城内で「白川蛇行説」を裏付ける旧流路の表面が見つかるのは初めて。

                   (写真:熊本日日新聞)
熊本城備前堀で見つかった白川旧流路の痕跡。黄色の点線の手前(南側)が旧流路とみられ、黒色の砂層が確認できる=2023年2月 
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■本妙寺参道下のトンネル道開通

2024-04-20 15:11:52 | 熊本

 昨日のTV報道を見ていたら、本妙寺参道下にトンネルができ、井芹地区から牧崎地区に抜ける道路工事が完成して開通式があっ
たことを報じていた。

私は5丁目に住んでいたのだが、映像だけではどこを通ったのかが理解できないでいた。
まだヤフーその他の地図などを見ても反映されていない。(当然だろう)
グーグルアースを見てみるとさすがなことに完成はしていないものの大方の形が見えていて納得できた。
中央上部に湾曲して見える黄色がかった道路が花園小学校の方へ走るメイン道路、参道から枝分かれするようになっているのだが、
仁王門の階段下に向かって切通しとなって三本の橋が架かっているようだ。

是は一度訪ねてみなければならぬと思っている。写真真ん中に牧崎神社が台地から切り離されて寂しそうである。
各社の地図やグーグルアースにいつ反映されるのか興味深い。

   

 

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■祝・都市計画道路 新町-戸坂線の開通

2024-04-02 16:26:35 | 熊本

 蒲島熊本県知事は木村副知事を実質上の後継者として見事当選させ、来る15日には満期を迎えられる。
熊本県知事は三期迄という不文律を破り四選出馬されて、今回の選挙にも自民党から出馬を要請されていたが、是はさすがに断られた。
2008年の初当選以来「運」に恵まれた知事だったという印象がある。


 唯一私が評価しているのが、横手の禅定寺脇を通る計画道路の変更の請願を受理されたことである。
禅定寺に数多い「歴史上貴重な著名人のお墓」いわゆる「歴史墓」が多数ある禅定寺の寺地の中を走る計画道路を、できる限り避けるた
めの計画変更を受け入れられた。

禅定寺様のサイトを見ると「平成の戦大勝利」があり、ここにその経緯を知ることができる新聞記事が紹介されている。
2012年(平成24年)の1月に正式決定があった。

それから12年経過した先週の土曜日に新町から西回り自動車道路に連結する、禅定寺わきのこの計画道路の開通式が行われた。
山越えして安国寺前に至る道路は大渋滞することが多くあったらしいが、この開通でピタリと減ったそうだ。
熊本を去られる蒲島知事に深甚の御礼を申し上げる。高祖父の墓も難を逃れることができた。深謝。

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■熊本の「桜の井戸」

2024-03-27 08:36:49 | 熊本

 熊本市中央区の上通郵便局の前の通りをかっては「桜井町」といった。
藩政期は武家屋敷が並んでいたから町名はなかったが、明治13年に至りこの名がついた。
上通郵便局の前にあるセントラルマンションの前庭に「桜の井戸」があり、この井戸に由来して町名となった。
清正が軍備のために掘ったと伝えられるが、一方では茶の湯の井戸で誰もが使用することはできなかったとも伝えられる。
屋敷内に桜の木でも植えられていたのだろうか。
「桜の井戸」の命名の由来はよくわからないが、案外先に書いた清正の江戸屋敷の「桜の井戸」からきているのかもしれない。
清正公死して、江戸と熊本に「桜の井戸」を残した。

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■熊本城天守閣からの展望

2024-03-23 14:04:59 | 熊本

 数日前の熊本日々新聞に、熊本市役所の新庁舎建築について、跡地(現市役所)の高さ制限の緩和を求める声がその筋の業界から湧き出しているという。
熊本城周辺市域は「熊本城特別区域」とする高さ制限地域があり「海抜50mを超えないこと」という特別規定がある。
先の話では、熊本市役所の改築は現在地では行われないことが前提となる議論であり、今頃こういう報道があるということは、その線で事は動いているのだろう。
考えてみると、現在地での建て替えとなると、仮庁舎の借り受け又は建設が伴うから、別の場所で新庁舎を建て、現庁舎あとはその後解体するというのが経費もかからず良いことは理解できる。
もしくは早々に明け渡して、新たな商業施設を迎えるという一手かもしれない。
政令指定都市としては、本格的なホテルの建設などが望まれるが、TSMCの進出により沸騰している熊本としては、早い時期にその手当てをして計画に進みたいというのはその筋の方々の思惑だろう。
いくつかの候補地が示されているが、さてどこに決定するのか大変興味深い。

 熊本城特別区域とは、熊本城天守閣と同じ高さと聞くが、最上階からの眺望が遮られることがないようにとのことである。
かっては周辺地から遠望できた熊本城の雄姿は、よほど見つけて回らない限り見いだせない。
申請がなされれば、OK が出るのは間違いないだろう。熊本城からの展望も見納めが近いのではないだろうか。
老い先短い爺様としては、足腰がまだ丈夫な時に史料片手にじっくり熊本城散策をしたいと念じている。
桜の季節が近い。花見て一杯も又一興である。

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■小国黒川(温泉)入湯の効用

2024-03-22 10:13:14 | 熊本

 かってはひなびた温泉郷であった奥阿蘇の黒川温泉が有名になったのは、そう古い話ではない。
カリスマと言われた後藤哲也氏の指導の下に、黒川温泉郷がテーマを一つにして今日の名声を勝ち取ったのは1900年代後半のことである。
そんな温泉郷だが、いつのころからお湯が出ていたのだろうか?言い伝えとして次のような話が残る。

 いつの頃か、豊後の中津留に住む貧しい塩売りを生業とする若者・甚吉には、病気で寝たきりの父親がいるが、その父親が瓜をたべたい
という。金がない甚吉は思いあまって、商売ものの塩をお地蔵様にお供えした後、瓜畑に入り瓜を盗む。甚吉は地主に見つかり首をはねら
れてしまうが、落ちたのは身代わりとなられたお地蔵様の首だったという。

 肥後藩のある人物が、このお地蔵様の首を肥後に持ち帰り供養をしようと考えるが、その帰途黒川に差し掛かった時、お地蔵さまは急に
重くなり、この地に祭ってくれと仰った。
そこで黒川の人たちが御堂を建立してお祀りすると、その場所から温泉が湧き出たと伝わる。
「黒川地蔵尊」として、今も大切に祭られている。

 渡邊玄察が著した「拾集物語」(渡辺玄察日記)に次のような記事がみえる。
もうこの時期には整備された入湯施設があったようだ。地獄という湯溜まりから薬湯が流れ下り、岩に当たるなどして柔らかなお湯となる
と「頭から足までずいを洗い落とす」という。霊験あらたかな温泉効用である。皆様もどうぞお出でまっせ。

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 一、同(元禄)六みつのと酉の年 
     此年之三月廿二日に阿蘇殿へ参上申候處に明る廿三日より小國黒川の湯御入湯被成候とて御夫婦被遊御出候に被召連
     御供仕候て罷越三廻り二十一(?)日入湯仕候 彼黒川の湯は湯坪よりもちごくと申候ゆの川有之候 其湯の川の湯薬
     にて候ゆながれ候故いわいしにあたりやわらかに湯がなり候に付薬にて候 偖又湯川にてうち流し申候故にあたまか
     ら足迄ずいをあらひとをす道理にて候 もし/\黒川の湯に行候人など有之候時のために申遣候

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