津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ピロリ菌持ち

2024-11-30 09:00:07 | ご挨拶

 私は20代のころ、酒をたしなむようになってからの胃痛持ちである。
以来60年間いつもという訳ではないが慢性胃炎や胃潰瘍の薬、逆流性食道炎の薬とかを処方されて飲んできた。
今回の胃カメラで私の胃は至って正常であることが判って、然らば胃痛の原因は何なのかという事に成った。
内視鏡の検査を担当されたDrは、即座に「ピロリ菌のせいでしょう」という明快なご託宣である。
胃壁は正常だが「ピロリ菌」が巣食っているという訳だ。そこで次はその検査という事に成った。
現在飲んでいる逆流性食道炎の薬は一応ストップと相成った。検査の結果次第で「ピロリ菌」退治に入る。

 82歳になって初めて、胃・腹部・腸の内視鏡検査を行ったが、まずは良い結果が出て大安心し、検査はしてみるものだと思ったことであった。なんだか米寿迄は辿り付けそうな気がしてきたし、「ピロリ退治」をすれば、まだまだ御酒も飲めそうである。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(27‐了)

2024-11-30 06:59:00 | 堀内傳右衛門覺書

(126)
一逗留中、津輕越中守樣内大石無人、本多中務樣御内伊藤十郎太夫えも參逢申候、松平與右衛門樣御内内藤萬右衛門、磯谷十郎左衛門母

 柳と一所に被居申候、貞柳も十郎左衛門死去後病氣指重り、五月二十六日果被申候、病中にも見廻申候、富森助右衛門母義は、助右衛門
 舎弟半左衛門、初は麹町に居被申候、後に増上寺裏ちり屋敷と申所に被居候、助右衛門旦那寺淺草長延寺、十郎左衛門旦那寺芝寺町淸休
 寺、近松勘六甥文良被居候所は、谷中眞言宗長福寺、八丁堀松平伊豆守樣御組保生太夫近所、與力町に吉川藤次郎。同新兵衛、藤次郎は
 矢田五郎左衛門叔父に而、息作十郎、小瘡煩逢不申候、右之衆中、拙者方へも禮に被參候事
(127)
一九月二十五日、御先立にて泉岳寺へ參、金子寺納いたし、出家三人同道にて、墓所へ參候事
(128)
一十月十日、京都へ著致候處に、寺井玄渓被訊候て、音物なと有之、初て對面候、拙者も返禮に參候、子息玄達も在宿にて、ゆる/\語申
 候、玄渓被申候は、於江戸内海道億にも御知人に御成候段、扨々御深志の儀、於拙者も忝存候、内蔵之助存命之内、去極月十八日、同二
 十四日、二月三日、書狀三通に委細申越候、死後之儀共、傳右衛門殿御京著の上承候様にとくれ/\申越候、越中守樣結構成被仰付、不
 及承御馳走共、誠以冥加至極難有、手紙述かたく御座候段、此上も不可有之と申越候、扨々難有儀、私式迄乍憚難有と被申、右内蔵之助
 書狀とも見せ被申候、拙者申候は、不苦候はゞ此御狀は御寫被下候へと申候へは、安き事とて玄達寫給候、其紙面
   一筆令啓達候、兼而我々存念の通、今月十四日夜同志相催、吉良上野介殿屋敷え致推入候、家來中出合候者は、薙切に討捨、如本意
   上野介殿討取、印を泉岳寺へ持參備亡君御影前候、春以來の散鬱憤候儀、大慶御察可被下候、貴丈にも御満足と押計申候、定而先達
   而欣悦と、粗及御聞候と令推察候、御同名玄達老御登、可被相達候へとも、討入候次第、引取候樣子、玄達老も、委細御聞届有之間
   敷候に付、荒増書付進候、皆共へも御預に罷成候條、暫之餘命と存候内、生涯覺無之、他にも不承及御馳走共、誠以冥加至極、難述
   筆紙仕合に御座候、追付罪品も可被仰付と相待罷在候、段々之次第、武運にも叶候儀、本望此上不可有之候、右爲可得御意、餘命の内如此認置候、恐惶謹言
     十二月二十四日           小野寺十内
                       原惣右衛門
                       大石内蔵之助
        寺井玄渓老參

   追啓、此書付之次第、同志の者共眷属の内、若も御仕置に洩而、殘候者御座候はゞ、速に被仰聞可被下候、晩秋龜山赤穂に有之者に
   は、和田喜六より相達候樣に被仰達可被下候、將又寺坂吉右衛門儀、縦四日の晩迄有之候處に、彼屋敷には不見來候、輕者の儀、不
   及是非候、以上
   追而一札之事、無相違以時節御あみ立所庶幾無他候、爲其如此書附達候、又々申候、此狀夫々御届候はゞ、此節より便有之との儀、
   面々沙汰不仕候様に、被仰聞可被下候

   一筆令啓達候、兼而度々被仰聞候御内存之趣承届、御尤之至、別而致感心候、然は今後一同に御下り之儀は、拙者を初、同志願立候
   衆、銘々にも申談候通、御下には不及儀と存候、御志を破り候段、無本意可被思召候へとも、元來御勤方違の貴様儀候故、御同道仕
   候而は、此方より斷催候かと、萬一人口に可懸候段、互に無本意儀に候、勿論戰場え警役にて供奉之筈之儀に候、是はさすが戰場に
   て無之候、然は御止り候儀却て道理當然と存候、御身命をいとひ候て、如此申にては神以無御座候、皆共いか樣にも罷成候はゞ、跡
   にては定而世間取々毀譽可有之候、年月之寸志を能御存の貴様にて候間、其時相應之噂被成被下候儀第一之御芳志と頼存候、此段御
   聞届、是非共に御止可被成候、奥野将監も此頃の上りに貴公御噂被申候、右同前に宜相心得、拙者より可申達と、呉々被申置候、猶
   惣右衛門、傳兵衛、源五右衛門、源四郎、十内等、面談可申述候、恐惶謹言
        傳言、川村伝兵衛、進藤源四郎、此時迄将監一列也
     八月六日              大石内蔵之助
        寺井玄渓老

(129)                                                  愛欠か
一玄渓宅は、京都柳馬場押小路上ル西側にて、内匠頭樣に相勤居申候、内海道億は、江戸住居にて宕下通り居被申候由候事
(130)
一片岡源五右衛門妻子借宅は、伏見兩替丁筋銀座にて尋參候、妻之弟有之候に逢申候事
(131)
一淀川船中より上り、八幡山大西坊に尋參候、本社之後に結構成住居座敷、チウタイの間の樣成所も有之、段々馳走なと被致候、大西坊は
 二十斗と見え申候事
(132)
一大坂天満丁九丁目、茜屋次郎兵衛借宅、樋口杏庵と尋候へは、和田喜六も此所に居被申候故見廻申候、尤拙者旅宿へも被參候、是は浪人
 にて、原惣右衛門娘四人預り居被申候事
(133)
一早水藤左衛門頼之、大阪町與力大森次郎兵衛と申仁、天満與力屋敷に居被申候、潮田又之丞頼之狀も遣し申候事

 右之通候間、貴殿御奉公も相勤、若江戸罷越被申候節、此面々ゆかりと申候て、自然尋可被申事も可有之候、其時無音なと無之樣にと書
 置候也
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                       古城貞吉校
 

                 今回を持ちまして堀内傳右衛門覺書」は終了致しました。

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■古書 『細川ガラシャ』上下巻 細川寛二 著

2024-11-29 07:42:51 | オークション

                                          【14002P150】古書 『細川ガラシャ』上下巻 細川寛二 著

                                           

小山寛二は熊本の人である。外箱の装丁は御覧の通り、棟方志功と贅沢なものである。
現在二冊で600円、これは昭和35年の初版時、上下巻とも「価・参百円」とあるから価格は変わらない。
落札しようと思ったりしたが、すでに上下巻とも所蔵しているから応札はしないことにした。         

私の本棚にはガラシャ関係の本が以下のように並んでいる。もうこれで良いだろうと思っている。

         ・細川ガラシャ夫人     ヘルマン・ホイヴェルス
         ・細川ガラシャ夫人     森田草平
         ・細川ガラシャ (上)(下)  小山寛二 
         ・細川ガラシャ--散りぬべき時知りてこそ  田端泰子
         ・細川ガラシャ       生方たつゑ
         ・細川ガラシャ       安 廷苑
         ・細川ガラシャ       熊本県立美術館‐永青文庫展示室開設10周年記念展覧会・図録

         ・細川ガラシャ展      大坂築城400年記念「愛と信仰に生きた-細川ガラシャ展」図録
         ・伽羅奢細川玉子夫人    宮島真一
         ・朱なる十字架       永井路子
         ・胡桃と酒         司馬遼太郎「故郷忘れがたく候」所収
         ・明智光秀と細川ガラシャ  井上章一、呉座勇一、フレデリック・クレインス、郭南燕

 

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(26)

2024-11-28 06:55:56 | 堀内傳右衛門覺書

(117)
一十七人衆切腹相濟申候場所は、芝(白金)御屋敷大書院御舞臺脇、御手水石の向にて、御小書院より御出被遊、御唐紙に御立被遊御覧
 候、扨後に御座敷清め申ため、眞藏院へ御奉行所より申參候へとも、不及其儀候、尤達 御聽候得は夫に及事は不被思召上候、其儘召置
 候へ、十七人の勇士は、御屋敷の能守神と被思召上候との御意にて候、草場の陰にても、何れも難有か被存候と感涙を流さぬ者無之候、
 殘る御三人樣にては、清め申候由、伯耆守樣などは、畳の表かへ、腰張唐紙にて御張替被成たるとの儀に候、大目附にて候へは、定て各
 別の思召も可有之候、其以後江戸中も沙汰廣く、奉譽たると承及候事
(118)
一夜に入候て、忠左衛門殿、藤兵衛殿、皆共へ被申候は、十七人衆の衣類はな紙袋、何そ書付たる物なと、夫々致吟味改候て、若不審成物
 も御座候はゞ、此方へ見せ候へとの事に候、林兵助は、泉岳寺へ參候、村井源兵衛・吉弘嘉左衛門・八木市太夫・拙者抔改、夫々に長持
 に入泉岳寺へ遣申候事
(119)
一内蔵之助著込、留理紺の段子、小手も同前、股引くさり入、源吾右衛門・十郎左衛門共に同樣にて、十郎左衛門衣類の内に、布の香袋の
 やうなる物有之候、匂ひなともなく、いな事と存候處に、後に清休寺の住持に咄申候へは、夫は血脈にて可有之候、存生の中、遠方へや
 かて參候、何方にて果可申も知不申迚、被致所望候事
(120)
一十内著込は、具足の樣に、くさり布の兩面、中かたのどんす、紋を鼠色に染、總體ケサンくさりに七ッ、殊の外重く、中男より大く、力
 もつよく有之たると承申候事
(121)
一いつれも不殘白布細くくけ、内にはくさり入たる手縧にて、衣類を結候て、銘々名札付居申候事
(122)
一甲頭布上を黑革にて、白革にて縁を取、■(革に周)付居候、内蔵之助は、表に良雄と名乘有之候、忍の緒は、大かた紅のしらへにて有
 之候事
(123)
一右念を入改候樣にとの事に候へとも、及落涙、委しく見え不申候、いつれも必死の覺悟故、むさとしたる物を入置可被申樣も無之候、浴
 衣十七有之候
   但右之通仕廻、御夜食頂戴仕候へとも、食氣も無之、湯漬なといたし給、九ッ過町宅へ歸申候
(124)
一二月六日上御屋敷へ御侍中不殘被召寄御直に被仰候は、今度御預りに付、何れも骨を折候、此屋敷に居候者共も、御番等も繁く同前に
 候、扨十七人の勇士共事は、定て 上にも色々と被思召候故、五十日程間も有之候、か樣に被仰聞候も何とやらん上を御憚被成候事、い
 かゞに被思召上候へ共、定て權現樣以來之御仕置と被思召切腹被仰付たると被思召候、尤他所の者も尋申候節、不存と可申樣は無之候へ
 とも、揃たる勇士共に思召候へば、善悪可有之とも不被思召上候、能々了簡仕候て咄なとも可仕との御意にて候、いか樣勇士共と、三度
 まて御意被遊候儀、誠皆共迄も難有草場の陰にても
さこそ難有おもひ可被申と、及落涙候事
(124)
一二月九日、江村節齋被參候而被申候は、扨今朝も於 御前御相伴被仰付候、一七日は御精進被遊由、御意被遊候は、三人の老人共、定て
 此咄計にて殘念かり可申候、いかゞと御意被遊候に付、申上候は晝夜共寄合、此咄より外無御座候と申上候へは、傳右衛門別て心安いた
 し候もの多く、たぶん寺參なと可致と被思召上候、今程は傳右衛門志にて參詣候ても、泉岳寺の出家共御名代と可奉存候、左樣之沙汰有
 之候ては、 公儀へ對し不可然儀に被思召上候間、具合候樣にとの儀に付、可申聞ために參候と被申候、拙者申候は扨は左樣に被思召上
 候哉奉畏候、明十日は一七日に相當申候間、何とそ駕にて成ともと存居候處に、今日御意の趣を承候事、誠に仕合成儀と申候へは、此御
 意の咄は、兵助・源兵衛にも申聞ましく候、傳右衛門はと計ぎょいにて候間、其心得いたし申候へと被申候事、右の趣はおもひ出し/\
 調候故、前後は可有之候へ斗mお、譯は相違無之候、尤覺悟仕候ての義に候へは、他家の御屋敷并寺又は町家共に、十七人衆存生之内、
 通し申所多く候、じゅう公義御預り被成候衆中の事故、拙者あの衆に懇にいたしたる事、萬一後御吟味に逢可申儀も有之、太守様御越度
 に成られさる樣にと、専ら心を付、若もの事も候はゞ指出可申と、如此の口上書を調、致懐中居申候、
 紙面左之通
   越中守儀、兼而奉重 公義、毎度參勤之節は、國許にて、御當地江發足仕而は、當屋敷に而、上下の侍共不殘呼出、直に申聞候
   は、 公義御代々御重恩、就中越中守は幼少より大國を御預被置、家中之者上下共に妻子相育申候、 公義之御恩と奉存候樣に、
   道中船中在江戸共に、御法度之趣堅相守候樣に、常々申付候故、今度御預り之儀は、別而入念候樣にと、家老共に度々申渡候、然
   處に私心底には、無雙の忠臣共と奉存、何れも存生之内、母兄弟息災成る事知せ申度、在所承候へは、中々不申聞候故、越中守爲
   にならぬ儀は、可被申聞樣も無之候、私之爲いかゞと被存候は、毛頭遠慮被仕間敷候、日本の大小神祇を奉懸身命を惜み不申承度
   と、切々申候故、何も歡委細咄被申、承候而、いかにも通し申候、御吟味にて、唯今罷出候へと、兼て越中守念を入申儀を背き申
   たると奉存候へは、私儀は不忠罷成候、此段不及是非奉存候、此外別に申上候儀、少も無御座候、以上
 右之通申上、果可申覺悟にて候、今度喜左衛門御使に被參、逗留被仕候へ共、喜左衛門は、御役勤居被申候故、右之趣委細に可申樣も
 無之候、荒増は二十一日に立申候に付、初て申聞候而、下著之上咄可被申候事
   日の本の名まで揚ぬる武士の緒やとはいはん四十六人              おかしく候
    未二月二十九日                            堀内傳右衛門
      堀内勝助殿へ

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■難行苦行

2024-11-27 19:42:29 | 徒然

 今日は午後、胃カメラ・大腸の内視鏡検査のために病院行。
胃カメラの経験はあるが、大腸の方は初体験である。朝8時からの4時間での、2リットルの「ニフレックス」なる下剤の服用には参ってしまった。
それでも何とか1時間半で飲み干したが、わずかに味が付いた「ポカリスエット」みたいなものだ。
そでに体験された方は、私と同じ経験をされているわけだが、下剤の服用やその後の生理現象は本当に難行苦行である。
病院では胃カメラのために喉に麻酔をし、腕に睡眠薬を点滴したが、気が付いたときにはすでに終了して、睡眠が解除するのを待って終了、都合3時間ほど、ほぼほぼ睡眠の中の事であった。
胃には異状なく、腸には2センチほどのポリープが見つかったが、これは経過観察という事に成り、ひとまず安心できる結果を得て大安心である。
体重の減少の原因は何だろうという事に成ったが、妻の入院や、夏の暑さ、これらに伴う食事の不摂生など複合しているのだろう。
腹が減って帰り道はいささかふらふらしながらの帰宅となったが、夕食が旨かったのは勿論のことである。
祝杯を上げたいところだが、御酒の方は今晩はお休みにしておこう・・・

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■閑話休題「さむがり内蔵助」

2024-11-27 06:53:10 | 堀内傳右衛門覺書

 赤穂義士に関する三田村鳶魚の著に、「元禄快挙別録』「赤穂義士遺聞」「横から見た赤穂義士」等があるが、私は未読である。
この中で鳶魚は「大石内蔵助の切腹は見苦しいものであった」「ぶるぶる震えていた」等としているらしいが、私自身がこれらの本を読んでいないから表現が適当でないかもしれない。いろんなブログが、面白おかしくこれを引用している。
中には「大石が寒がりだったからだ」という好意的なものもある。
これは、まさしく「堀内傳右衛門覺書」をお読みになっていることを表している。
内蔵助は大変寒がりであったことを傳右衛門は特に記事にしている。「堀内傳右衛門覺書‐12」ー(49)
細川家に於ける「切腹之図」を拝見すると、内蔵助はもろ肌を表して切腹に臨んでいる。
旧暦元禄十六年二月四日はグレゴリオ暦では3月20日だが、まだ温かいとまでは行っていない時期だったろう。
切腹に臨むにあたって、綿入れの下着など着込むわけにもいかぬ。寒さを我慢しながらも耐えられず身震いしていたのだろう。
鳶魚氏の発言も、このあたりが切り捨てられてしまったのかもしれないが、「内蔵助の切腹が見苦しいものだった」とする伝聞が独り歩きしているのは、誠に気の毒ではある。
内蔵助の名誉のためにも「さむがり内蔵助」を取り上げた堀内傳右衛門に感謝である。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(25)

2024-11-26 07:32:45 | 堀内傳右衛門覺書

(107)    
(富森)助右衛門は唯今御聞被成候通、十左衛門樣内蔵之助へ御挨拶被成候は、今日吉良左兵衛事、今度之仕形不届に思召候故、領地被
 召上、諏訪安藝守樣へ被成御預候、此儀我等心得にて、御噺被成との事にて、扨々本望奉存候、乍此上老母事被附御心被下候へと被申候
 故、得貴意候と申候へは、辭世と戒名も少前に書付遣被申候
   春風獨讃       冨森助右衛門
    四日は姉の忌日なれば
   先立し人もありけり今日の日を 終の旅路のおもひでにして
(108)    
一巻紙に書付置候故不具候、其後助右衛門旦那寺、淺草の長延寺へ致參詣申候へば、位牌有之、戒名黑塗に金粉にて書付有之、日付とては
 可有之樣もなく、助右衛門存世の内節々參詣被仕、とくより調置被申候由、住持咄被仕候
   但書狀之書付、在所は播州加西郡北條に而、渡邊與右衛門と申者にて御座候、同國加古川本陣、中屋與右衛門に被仰付候へは、北條
   村へ早速相達申候、道のり加古川ゟ五里程御座候
(109)    
潮田又之丞も、辭世又は通し申所を書付、少前に遣被申候、播州加西郡北條村、同國加古川本陣、中屋與右衛門所に頼候へは、北條村へ
 卽刻通し申候事に候、加古川より北條へ五里有之候、我等下着候はゞ、直に可申聞候、其内慥成便も候はゞ可申遣候
   武士の道とはかりを一筋に 早水おもひ立ぬる死出の旅路に
(110)    
早水藤左衛
は、御家に前廉居被申候早水助兵衛、亡父と別て咄覺居申候、御暇被成候刻、古町の光明寺右助兵衛聟故、彼寺へ引取居
 候事覺居申候に付、熊本光明寺と申寺は、御存被成候哉と被申候、知人にては無御座候へとも、承り及申候と申候へは、辭世を書て給
 候
   地水火風空のうちより出し身のたとりて歸る本のすみかに
(111)    
赤埴源蔵は、此間より如御存、小瘡出來いたし、致難儀候へとも、御懇にて本道外科衆御附被成候故昨日より快、今日 上意にて切腹仕候
 段、本望奉存候、此旨土屋相模守樣御内、本間安兵衛と申者に御通被下候へと被申候、相模守樣に、今枝彌右衛門と申者、御取次相勤居
 申候は、我等縁者のものにて、其方へ相頼、早速知らせ遣し候
(112)    
奥田孫太夫は、内々御咄申候樣に、一類共へ御咄被下候へと被申候、少前に若き衆と咄居被申候、傳右衛門殿私は切腹の仕様不存候、い
 かゞ仕ものにて候哉と被申候、我等も終に見申たる事も無之候、三方に小脇差出候樣に承候、肩衣を御抜不被成内か、兎角なとゝ申内
 に、助右衛門其外若衆、扨々不入稽古、いか樣にも不苦候、唯首を受討たれたるか能可有之なと被申談止申候、夫故色々遅速、或は首
 を受て居被申候衆も有之たると後に承り候、林兵助・村井源兵衛・拙者三人は、御座敷の内に居申候、何れもへ挨拶なと仕候に付、切腹
 の場へ出不申候、十七人衆いつれも、茶たはこなと給咄被申、常に少しも替り不申、其筈之事なから感入たる事
(113)    
(矢田)五郎右衛門は、内々御咄申候樣に刀を打折申候て、相手の刀を取候て差居申候、一類共いな事と可存候間、御咄申置候間、御通
 し可被下候と被申候に付、少も被懸御意間敷候、委細に通可申と及挨拶候、御町奉行松前伊豆守樣御與力に吉川熊次郎と申仁有之候、右
 熊次郎は、五郎右衛門叔父にて、尋參候て具に咄申候へは、悅にて候、五郎右衛門子息作十郎は、御旗本衆之内縁有之幼少故參被申候事
(114)    
(大石)瀬左衛門は、大石無人子息郷右衛門父子へ、今日の首尾を御通し被下候樣に被申候、近日參咄可申と申候、其後津輕越中守樣御屋敷へ參候て、無人と郷右衛門・三平父子三人へ知人に成り咄申候事
(115)    
一右十七人座配、次第のごとく、一番に内蔵之助殿、御出候へと、吉弘嘉左衛門・八木市太夫兩人にて呼立、切腹場に伴ひ申候、内蔵助殿
 呼候時、潮田聲を懸、内蔵之助殿、何れも追參可申と被申候事
(116)    
一右之通段々に罷出被申候、嘉左衛門・市太夫、内蔵之助殿首尾よく御仕廻被成候、忠左衛門殿首尾好御仕廻被成候と、毎度申候に付、拙
 者指圖いたし候は、首尾好との事を不被申候共、唯名計御呼立可然候、介錯人も次第のごとく、待被居候故と申候へは、氏家平吉(傳
 右衛門従兄弟)承り、尤に存候、あの衆の首尾能はいらぬものとて、わらひ被申候事

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■着物の着付け

2024-11-25 12:44:23 | 徒然

                                                                       
 この画像はダイレクト出版のPRに使われているものである。(お叱りを受ける可能性が大いにあるが・・・)
実はこの画像左右が逆になっている。着物の召し合せが左前になっているし、左腰にあるべき刀も逆になっているから単純なミスによるものである。
着物は相手方から見て、の字に見えるように着る。「右前」というが、右手で「懐手」ができるように着る。
「左前」は死に装束共、また経営が立ちいかぬ状態を形容したりする言葉として縁起の悪い言葉として知られる。

 この画像を偶然見て思い出したのだが、今年の夏、遠来の友人とお会いするため出かけた折の、帰りの電車(熊本では市電のことを電車と云う)に乗った折、若い男性が祭りにも出かけられたのだろう、着物(浴衣?)を着ておられたが、これが「左前」の着付けだった。
座席に座っている私の目の前に立っているから気になって仕方がない。
じろじろ見ないように目を伏せていたが、その人の左手がやけに動く。

彼は左効きだったのだ。なるほどと合点はいったが、これが果たして通用するのだろうかと大いに気になった処である。

 洋服は男は「右前」、女は「左前」である。これも随分以前の事だが、若い女性が男物のYシャツを羽織っているのに気付いた。
これはファッションだろうから兎角は申し上げぬが・・・着物はやはりまずいような気がしてならない。

 仕立物で生計を立てていた母親のせいで、こんなことはついつい知識となったいる。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(24)

2024-11-25 07:06:22 | 堀内傳右衛門覺書

(96)
一鎌田軍之助・長瀬助之進我等へ被申候は、心安衆有之候て若介錯を頼被成候事も可有之候、仁柄極書付御目附衆へ出申候、其心得仕候樣
 にと被申候、然共箇樣の事頼被申候事無之候事
 
(97)
一同名平八に申談候は、何そ書置度被存候衆も可有之候、いかゞと申候へは、御目附衆へ尋候へは不苦候、料紙御出し候へ、不及申御内見
 にて、御届候へと被仰候故、料紙硯坊主衆に持せ、堀七郎兵衛罷出、御目附衆へ相伺、少も不苦候、何そ御認度儀も候はゞ、御認被成候
 樣にと、内蔵之助に向ひ被申候、其時内蔵之助何も認可申事も無之、重畳忝と被申候故、七郎兵衛引取申候、拙者も内蔵之助に、右の通
 申候へは、七郎兵衛殿にも申候通にて、此間は段々御馳走難有仕合、難申盡候と被申候に付、其本にて候はゞ、承度と申候へは、扨々忝
 存候、此夏の頃は、定て御供にて此元御立可被成候、内々御咄申候樣に、八幡を御通被成候砌、御非番にて御座候はゞ、大西坊へ御立
 寄、今日の被仰渡、天気もよく、箇樣/\と御咄被下候へ、次男共方へ通し申事に候、我等申儀は、得貴意申候、當番たりとも、傍輩共
 申合せ、立寄可申候間、御心易思召候へと申候へは、悅被申候、前以内蔵之助被申候は、大西坊は八幡山に居申候、これは譯も御座候
 間、拙者家より段々繼來候、只今の大西坊は、實は従弟にて御座候へ共、公義は私甥と申上候由申候事
(98)
吉田忠左衛門は、内々御咄申候伊藤十郎太夫と、御心安御語被下候へと被申候事
(99)
(原)惣右衛門は、大きに封したる狀を指出被申、内海道憶へ内蔵之助より之上書也
(100)
(大高)源五右衛門は、内々御咄申候朱柄の鑓、泉岳寺へ殘置候、是は先祖備前と申す者鑓にて候、生殘たるもの共へ遣度、頼被成申
 候に付、其夜林兵助、泉岳寺へ被遣候に付、咄申候へは、兼て兵助も、右之趣は存知居申候事
(101)
(間瀬)久太夫は、近頃憚成る申事に候へとも、此度腹中悪しく御座候處に快罷成候、萬一麁末成儀も可有御座候間、承置呉候樣にと
 被申候、扨々被入御念候儀共、少も御氣遣被成間敷候、慥に承置候と申候へは、悅ひ申され候事
(102)
(小野寺)十内笑ひ被申聞候は、私妻の歌、此間惣右衛門に御書せ被成候と承申候、今日之樣子、京都弓削太郎衛門迄被仰遣候へは即
 刻通し可申候と被申候に付、太郎右衛門は必易者にて候、早々可申遣と申候へは、悅被申候事
(103)
(間)喜兵衛は、何ともものは不被申、笑ひ/\指出し辭世の歌と書付給候事、歌は前條之内に書付あり
(104)
(磯貝)十郎左衛門は此間別て御心易被仰聞忝存候、老母兄弟共事被附於心被下候へと被申候、御袋様をも、私母と奉存候と申候へ
 は、悅ひ被申候事
(105)
(堀部)彌兵衛内々御咄申候樣に、同名甚之丞に御酒を給申候樣に、御下着の上、御咄可被下と、笑ひ/\被申候事
(106)    
(近松)勘六は、如御存知此間手を痛居申候處に、外科本道衆まて御付置被下、御懇意の仕合故、昨日迄に快成候て、箇樣の事誠に難
 有儀と奉存候、長福寺にて文良に御傳被下候へと被申候故、得貴意候と申候事

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(23)

2024-11-24 06:49:55 | 堀内傳右衛門覺書

(91)義士切腹の当日
一翌四日の朝、花を出し候へは、何れも忝り被申候、飯後に林兵介代りに參候故、拙者は何心なく代り相引取申候、四日には太守様御入被
 遊沙汰前夜より有之、依而何れも衣服改居被申候、次之間に出候へは、(富森)十郎左衛門被申候は、今日は御代り被成候由、重て御越
 被成候砌迄はいかゞ、多分其内埒仕にて可有御座候、何れも樣此間の御懇難申盡存候、就中傳右衛門殿、何れも御心易存居申候、とても
 の事に、御詰内に埒明申樣に、願申事に候と被申候に付、拙者も何の気も不付、被仰出前以承申にて可有御座候間、詰前にて無御座候
 共、罷越候て可得御意候と申候て罷立、詰所に參候へは、關惣左衛門も參居申、何とやらん急に歸候心もなく咄居申候處に、堀尾萬右衛
 門被參候て被申候は、我等へは其儘逗留にて咄候樣にと被申候に付、私宿へは同名喜左衛門罷越、逗留致居申候故歸り可申候、こなたは
 何とやら、各樣がおそろしく候と、雑談なと申候て立申候、四日には代あひにて歸候儀と、同名平八は兼て存居、其日は平八方へ他客も
 有之、精進日を能存候故、是非立寄候へと、約束いたし置候事を存出し、數奇屋橋邊にて、御借馬の仲間に時を尋候へは、九ッ半過と申
 候故、夕飯時分もと存候て、小姓并に鋏箱は町宅へ直に返し、鑓斗にて數寄屋橋御門内へ乗込候へは、向より平野丹右衛門羽織着、馬に
 乘參候にあひ、樣子尋申候へは、追付芝え上使有之候と申候故、早速草履取を町宅へ遣し、小姓鋏箱持なと參候へと申遣し、丹右衛門と
 致同道、丹右衛門は愛宕廣丁通參候、拙者は近道日影丁參り、増上寺前通にて、堀七郎兵衛に逢ひ上使有之故、御用に付參り候とて立別
 れ、夫より新堀にて鎌田軍之助に追付申、些用事御座候迚乘通り、目黒御門番に馬を預、其儘裏玄關に上り候へは、何れも麻上下着様に
 付、同名喜左衛門方へ麻上下取に遣、着用仕候より、丹右衛門なと追々參申候、夫に付兼ても申候樣に、武藝の内にても、馬は生きもの
 にて候、乘手をよく存候、兵法鑓は心の働にて候故、大體に有之候てもよく有之候、當時馬少き時節故、稽古成兼可申候へとも、心懸候
 はゞ成可申儀と亡父も度々申候、上手に成候ても武藝の名高き武士は、昔は嫌ひ申候、心懸有之事肝要と存候
   但拙者今朝代り歸候處、其儘出候はゞ、何れも不審に可被存と、指控のそき候て見申候、總體諸人の顔色、其外の樣子共、何共合點
   不被仕樣子にて、御料理給被申内にも、互に見合、早く仕廻度との樣子に見え申候、いつれも給仕廻被申候て、八木市太夫罷出、上
   使ニテ御座候間、麻上下御着用可然と申候て、黑羽二重小袖、淺黄無垢二宛、麻上下、上帶、足袋出申候、我等も罷出、十郎左衛門
   ・助右衛門なとには、袴の腰を當遣候事
(92)
一内蔵之助申候は、傳右衛門殿、もし花は御取入被成間敷哉と被申候、依之花は自身に取入申候、扨十七人衆、上の間に次第のことく着座
 有之候事
(93)
一上使御使番久永内記樣、御目附荒木十左衛門樣、御通り被成候、御跡より此方御側衆なと、段々次第のことく罷出被申候、拙者も唐紙越
 に承候、上使の趣は、淺野内匠頭儀、勅使御馳走之御用被仰付置候處に、時分柄殿中をも不憚の仕形に付、御仕置被仰付、吉良上野介
 儀、無御構被差置候處に、主人の讎を報候と申立、内匠頭家來四十六人致徒黨、上野介宅へ押込、飛道具なと持參、上野介を討取候始
 末、 公儀を不恐の段、重畳不届に候、依之切腹申付る者也と、十七人の名字共、一々御よみ被成候、内蔵之助御請に、いか樣に可被仰
 付も難計奉存候處に、すべ能切腹被仰付候段、難有仕合奉存と申候、又十左衛門樣なと何か被仰候やうに有之、内蔵之助も御返答被申候
 樣に聞え候へとも、譯はとくと不承候、總體内蔵之助は、小聲なる人にて候、其後助右衛門側に指寄申候へは、右の譯を被申聞候、助右
 衛門所に書付置候事、
(94)
一上使御立以後、我等も其儘可罷出と存候處に、宮村團之進被罷出候て、内蔵之助を呼立、何か暫被申候、堀部彌兵衛は、長瀬助之進呼
 立、是も右の通にて候、定而御意の趣有之事と存候、團之進・助之進被立候跡にて、上の間に出候へは、内蔵之助上之間に被參候て、扨
 々難有仕合、御意の趣可申候間、何れも御寄候へと被申、老人衆被申候、其譯は何も分り不申候へ共、内蔵之助落涙の體にて、段々有難
 事共と被申候、事は聞え不申候
   但右の樣子、外に見申たる衆も無之、其後江村節齋に逢咄候へは、達御聽被申候へは、何とも不被遊御意、いかにも左樣に可有之と
   の御意と申候
(95)
一御酒土器銘々に出申候、心易咄申候衆には盃所望仕候事

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■「印字投げ」とか「バンビュー」とか

2024-11-23 14:51:21 | ご挨拶

 午前中、上通のTビルの地下にある、コーヒー店まで、一昨日忘れて帰った「携帯」を取りに出かけた。
心ばかりの御礼をして、無事に「携帯」を回収した。
ジングルベルこそ聞こえないが、街中の気配はもう年末商戦の雰囲気である。
帰り道本屋に立ちより、熊日新書の「白川・千人の石合戦ー大干ばつが招いた水争いー」を買って帰る。

 この本は、昭和9年8月31日に白川左岸・馬場楠地区と、右岸の津久礼地区の間で起きた、水騒動を主題としている。
干上がった100m幅の対岸同志、およそ1,000人の人が集まり石を投げあったという。
戦場に於いても礫石を投げあったというが、これを「印字投げ」という。
私が務めた設計事務所の先輩・S氏の話では、飽託地区では昔は部落同志とか、連同志とかでよく石投げが行われていたと聞いた。
盾を作りこれで飛んでくる礫をよけたと云われるが、中には頭や顔にあたり怪我をする人が多く出たとも仰る。
「千人の石合戦」ともなると、凄まじいものであろう。
近郊の警察が終結してこれを押しとどめたというが、その後数日して完全終結に至ったのは「沛然と降り出した慈雨」であったという。
そんな話のなかに「ばんびゅう」という言葉がでてきて、久しぶりに聞き大変懐かしく思ったことである。
これは、平べったい石を川の水面に投げ、何遍ジャンプするかを競う「水切り」の事である。
この周辺では昭和の初めまで、此の水切りを競う石合戦が行事としてあったことを、著者は記している。
「ばんびゅう」とはどこから来た言葉だろうか。ググってみたが、それらしい記事は見当たらない。

昭和28年には、この白川は暴れ川となり大水害を起こし、多くの死者を出した。私が小学6年生の夏の事だが、その20年前には、水を争って石を投げあう事件が起きていた。
水を御するのは容易ではないが、水がないとお百姓衆にとっては死活問題である。熊本平野には井手が幾筋も這い回っていて、農業用水網は万全といっていいのだろう。



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■携帯行方不明

2024-11-22 19:17:52 | ご挨拶

 今日夕方になって、携帯が行方不明になっていることに気づいた。
妻の携帯から電話をしてみるが、呼び出し音がならない。
昨晩は熊本史談会の忘年会で13名の出席者で大賑わいした後、4人ほどでコーヒ店に入り又ひとしきり話し込んだ。
そのコーヒー店から電話が入り、私の携帯の呼び出し音がなったのだろう、発信した妻の携帯にご連絡をいただいた。
明日は10半頃には開店されるそうなので、受取に出かけなければならない。
そろそろ買い替えようかとも思っていた矢先だが、一応手元に帰ってくれるから本当に良かった。もう感謝しかない。

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(22)

2024-11-22 07:16:03 | 堀内傳右衛門覺書

 切腹が近づいた前々日・前日の事である。

(88)
二月二日、番代り參、早速罷出候へは、内蔵之助被申候は、先頃は内記樣(綱利二男・吉利)御出被遊、何れも御覧被成、難有仕合に候
 と、手を付候て被申候、扨は左樣に御座候や、とく罷出被申度被存候へ共、付居候者共兎角と仕、致延引候、如御覧若年に御座候へと
 も、大ちゃくなる生つきにて、當正月初て年始之御禮に被致登城候節、足袋の紐とけ申候に付、兼て心安出入仕候御城坊主に結はせ被申
 候、其節供に參候奥村安左衛門と申者承り、輕き者とても御城坊主の儀に御座候へは、重ては些遠慮被仕候樣にと申候へは、いや/\輕
 き者共に申付候へは、結句悅申候と被申候由、何も承候て笑申候と咄候へは、扨々乍憚御大家樣へ御生つき被遊候とて、皆々感入奉り候
 と被申候、内蔵之助挨拶に、内記樣被遊御覧候とは、尤成被申樣、次の間の衆も同前にて、詞のあやまても、吟味被仕候と感申事に候、
 右之御足袋の紐御結はせ被成候事、後に上御屋敷にて、野田小三郎被申候へは、初て聞被申候、萬事御附の衆中善悪共外樣には、咄申さ
 ぬ事可有之候へとも、箇條之儀は、何れもへ承せ、奉悅せ度候事
(89)
一二月二日夜五つ半過之頃、上之間へ罷出候へは、内蔵之助・惣右衛門・十郎左衛門三人、中かさにて酒飲居被申候、忠左衛門・久太夫・
 十内・彌兵衛は下戸にて甘、それを猪口にて飲居被申候へは、傳右衛門殿是へと呼被申候に付、能い所へ參候と申候へは、十郎左衛門其
 盃を、内蔵之助、傳右衛門殿へさゝれ候へと被申候故、十郎左衛門さし被申、拙者も給申候へは、内蔵之助是へ被下候へと被申候故、是
 は慮外と申候へは、是非と被申、盃さし、其れを拙者へ返し被申、又給申候時、内蔵之助被申候は、十郎左衛門へ、一つ御のませ候へと
 被申候に付、直に指候へは、一盃飲被申、又一つと申候へは、先刻より殊外給申候間、御ゆるし候と座を立被申候、内蔵之助被申候は、
 十郎左衛門は總體能給申候間、御とらへ御飲せ被成候へと被申候故、椽際へ追懸引留、是非と申候へは、誓言にて候、給醉申候間、御免
 しと有之候故、其通りにてしひ不申候、後に考候へは、右之樣子暇乞の心にても可有之候、世上の批判も能く、とかく御赦免可被成候な
 とゝ申候故、曾て切腹の心付は無く其内にも内蔵之助、又は惣頭分は、遠島にても可被仰付候やなとゝ申たる事に候、正月中には御祝
 多、いつれも江戸巧者故、二月朔日過候へは、被仰付樣の趣尋被申候、只今存當候事のみ多く、一入殘念に存候事
(90)切腹前日
一二月三日夜四過(9時)頃、吉弘嘉左衛門、拙者當番にて詰居申候處に、長瀬助之進出被申、只今上御屋敷より、如此手紙參候、明朝は花
 を兩座へ御出被成筈申來候、明朝茶道可仕候、我等兩人能挨拶いたし、花を出し候へと被申候故、御懇之儀共忝り可被申と申候處に、次
 之間の衆より、坊主を以何れも臥り不申候、御聲と承候、是へ御出被下候へと被申候故、助之進は我等え出候へと被申候に付、其儘出申
 候處に、大かたは寝所へ居被申、助右衛門・清左衛門なと、若き衆中色々咄共にて、頓て埒明可申候、御暇乞に、藝の盡しの程、懸御目
 可申とて、御番衆の見申さぬやうに、枕屏風の陰にて、堺町木挽町踊狂言の眞似を被仕、そろ/\さわき被申候、脇に奥田孫大夫・潮田
 又之丞、御ゆるし被成候へとて臥被居候、又之丞被申候は、とかくあの樣に騒き申候間、頓て埒は明可申候へとも、先命日は内蔵之助に
 申候て、手錠をおろさせ可申と笑ひ被申候、拙者存候は、助之進も跡より見可被申哉と存候て、最早夜も更申候、孫大夫殿も、御迷惑に
 て可有御座候、最早御休日成候へと申候へは、是非共に今暫と被申候へとも罷立申候、今存候へは誠に暇乞い成り別て殘念に存候事

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■ボジョレヌーボー解禁と妻の退院

2024-11-21 08:11:51 | ご挨拶

 昨日妻が退院した。そして今日はボジョレヌーボーの解禁日、久しぶりに購入して、妻の退院を祝おうかなと思ったりしている。
熊本のデパートに並ぶのは今日だろうか明日だろうか?
以前はこの時期に成ると、妻がデパートに出かけて買ってきてくれた。本人は飲まないから私が一人飲んだものだ。
若いころヨーロッパを旅行した時、食事で立ち寄るお店では必ずといっていいほど、オリジナルのワインがデキャンタで出てきた。
それ以来のワインフアンでもあるが、日本酒・ウイスキー・焼酎と年末の忘年会の時期に成ると月に20回程なんでもござれれで飲み廻ったりした。
今晩は熊本史談会の忘年会、コロナ以来のことだから5年ほどお休みしていたが、今年から再開である。
幹事を買って出たこともあって、退院したばかりの妻を留守番させての事で少々気が引けるが、二男が居てくれるから一安心である。
「ウコンの力」でも飲んで、精々飲みすぎないように気を付けましょう。

 

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■大渋滞シティ・・・バター★コーンEX

2024-11-20 07:55:17 | 熊本

 運転免許証を返納したから、車に乗れないのは当然だが、それに伴い熊本の交通事情が大変だという事もあまり実感しない。
過日TAXIに乗った折、運転手さんの話によるとTSMCの進出により、あちこちでの渋滞が半端ないらしい。
地元を走っている東バイパスの朝の渋滞はすさまじいという。
今年の5月であったか、熊本市長が「交通問題」の会議のために、上京するのに、渋滞に巻き込まれ飛行機に乗り遅れたという話が報道されて笑ってしまった。

 最近、熊本のバター★コーンEXという三人組が「大渋滞シティ」という曲を発表して話題になっている。
朝日新聞ニュースに熊本の悲しき名物「渋滞」が歌に 「バックできないなら、前向きに」でも紹介されている。
この曲をYoutubeで聞いてみたが、熊本人にしか判らない地名などが盛り込まれていて、ローカル感100%だが、ラップ調の曲でなかなか好感の持てる曲である。
40歳半ばの三人組だそうだが声も若々しくなかなかいけているし、映像も本格的ですごくいい。
道路事情で「君に会いに行く」のが遅くなると嘆きながらも、そのうちにこれを解消する「七色の虹の橋」ができれば、すぐに逢いに行けるようになると歌う。
しかし「虹の橋」の登場は簡単にはいきそうにない。「君に会いに行く」のには、早出を心がけるしかなさそうだ。
この曲、全国区にはならないのかもしれないが、熊本人としては大いに応援したいものだ。

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