本丸・出丸ニ乗候衆差出六ッ
差出
一、二月廿七日城乗之刻本丸下之丸へ東之方ゟ七ッノ頭ニ乗こミ取かため居申候 他所之昇日ノ入自分に入申候 日暮候而頼
母殿より御使にて其外より引取候へと被仰下候得とも御使江直ニ相不申候ゆへ私前ゟ夜ニ入使を進シ丸之内ニ乗込申
候通申達シ候ヘハ引取候得と返事候 又使を進し爰元より本丸之乗口能御座候間其まゝ可被召置候 夜明次第ニ付而夜四
ッ過ニ頼母殿御座候所へ参候 廿八日ハ本丸ニ頼母殿御備ニ居申候 我等せかれ六大夫・小八郎・弟藤左ヱ門儀も同然
ニ候以上
寛永十五年七月四日 新美八左衛門判
志水新丞殿
清田石見殿
差出
一、二月廿七日城乗之刻私共ハ七ッ頭ニ本丸大手之出丸を乗取申候 其砌ハ他所之者不参候 夫より方々之者著申候 他所之
昇日之入自分ニ見へ申候 然処ニ及暮ニ頼母殿より両度之御使參候而早々引取可申由ニ候間引取申候以上
寛永十五年七月四日 庄林隼人佐判
志水新丞殿
清田石見殿
差出
一、有馬城乗之刻私共ハ七ッ頭ニ本丸出丸を乗取申候 其砌ハ他所之者も不参夫より次第/\ニ方々ノ者共著申候 昇ハ日ノ
入時分ニ私共居申所より跡まて著候而夜ニ入候てから私共居候所へ玄蕃殿昇著申候と見へ申候 然処ニ及暮ニ及て頼母
殿より庄林隼人・新美八左衛門方へ両度使參早々引取可申由にて右両人引取被申ニ付私も引取申候 明ル廿八日まて相
組一所に居申候以上
寛永十五年七月四日 槙島掃部判
志水新丞殿
清田石見殿
差出
一、二月廿七日有馬城乗之刻私儀ハ本丸之出丸石垣下へ八ッ之下刻ニ著申候而御鉄炮せ申候 左候而則七ッ頭ニ石垣を乗申
候 其刻石垣へ一二間手前にて両もゝをうたれ其上之かいまを石にてうたれ申候 つれともやう/\に石垣を乗上り塀を
乗越候而御鉄炮を打せ居申候 其砌ハ他所人数ハ見へ不申候 夫より次第ニ方々の者共乗込申候と見へ申候 昇もいつか
たのも不参候 日暮ニ成候而有馬玄蕃殿昇私とも居申所より跡に見へ申候 左候而夜ニ入り私とも居申所の右之方へのほ
り参候 然処庄林隼人・新美八左衛門方へ頼母殿より早々引取候へとの御使度々参候由にて右之両人引取被申候 夜更候
てから私ハ手所こハり申ニ付国友式右衛門・佐藤安右衛門抔ニ申談候て本小屋へ引取申候 与之御鉄炮之者共せかれ五
郎三郎ニ付置御鉄炮打せ申候 其後式右衛門・安右衛門なと同前ニ出丸を引取式右衛門同心仕本丸柵きわへ上り候て翌
廿八日まて御鉄炮打せ申候以上
七月四日 高田角左衛門判
志水新丞殿
清田石見殿
差出
一、有馬城乗之刻私とも二月廿七日七ッ之頭ニ本丸出丸を乗取申し宇候て鉄炮うたせ居申候 其砌ハ他所之ものも不参候
夫より次第/\に方々のもの共著申候 塀ハ日ノ入方ニ私居申候左之方へしほり昇三本立可申と仕候間細川七左衛門
私申候ハ細川越中守之内ニ而候間他所ニ御立候ヘハ色々せんさく仕候而後御人数ゟ右之方へ通申候 私引候迄ハ御人数
之中ヘハ他所之昇立不申候 然処ニ暮ニ及庄林隼人・新美八左衛門方へ頼母さまより御使両度参候而早々引取可申由に
て右両人の集引取申候 谷忠兵衛・高田角左衛門両人ハ手負申候ニ付引取申候 差候ヘハ国友式右衛門・佐藤安右衛門引
取申候と見へ申候間我等も引取申候 前後之儀ハ前之差出ニ書上申候已上
寛永十五年七月四日 松崎助右衛門判
志水新丞殿
清田石見殿
差出
一、二月廿七日有馬城乗之刻二ノ丸海手之方ノ須戸口を乗上申候処ニ二丸より本丸へのき申敵余多御座候 其敵二付溜池の
頭まで追付ニ御鉄炮衆ニうたせ則ため池上東平ノ石垣より本丸之内大手之小丸江乗込申候 夫より丸之内ニ而御鉄炮衆
ニ打せ申候 私共小丸へ乗込申時分ハ七ッノ頭にて御座候 其時ハ他所之人数昇なとハ中/\乗込不申候 後ニハ次第/
\他所之人数も参候と見へ申候 昇ハ日之入時分ニ其丸之西之方へ参り申候と見へ申候 然処ニ私儀丸へ乗申砌石垣下ニ
而手負申候へとも当分いたみ不申候ニ付乗込申候小丸へ乗申候段又手負申由も夜ニ入佐渡殿へ申入候ヘハ手負申候ハ
ゝのき申候様ニと被仰下候 其上手もいたみ申ニ付夜更ニ而のき申候
以上
寛永十五年七月四日 谷 忠兵衛判
清田石見殿
志水新丞殿