今日2月28日は奥方の誕生日である。
私より二つ年下で今日で73歳になったのだが、結婚したのが奥方23歳の時だから今年は金婚式を迎えることになる。
私はつい先日そのことに気づいたのだが、今朝食事時に話してみたら「アラッ・・・」と奥方も気づいていなかった。
自分の誕生日の時には気づかなかったのだが、少々花を持たせた形になった。
二人の息子は親の誕生日など気も付かないだろうし、娘は仕事や子育てで大忙しで電話くらいは寄こすかもしれないが?
奥方曰く、「今年は金婚式よ~と吹聴する」という。
金婚式まであと7ヶ月半、大した病気もせず元気で50年という節目を迎えられたということは誠にありがたい。
奥方はアシスト自転車で元気に風を切って走り回っている。私はといえば膝が痛くて「痛い々々」を連発している。
まさに女性は強を実感するこの頃である。
あと何年齢を重ねることができるか、大いに摂生して死ぬまでブログ現役、あわよくば皆勤を目指したいものだ。
私は昭和39年11月に発刊された青蛙房の「旧事諮問録=ふるきことたずねしきろく(三刷)」を持っているが、最近同社が『旧事諮問録』の姉妹編としてこの「幕末の武家―体験談聞書集成」を発刊していたことに気づいた。著者が柴田宵曲とあっては気をそそられるし、一家に姉さんがいて妹がおらぬでは少々片手落ちだから注文することにした。
幕末の武家―体験談聞書集成 | |
青蛙房 |
内容説明
『旧事諮問録』の姉妹編。大名の日常生活や大奥の泌記、目撃した薩英戦争など、江戸研究者必読の特ダネを集めた。幕末のそれも武家に限って、みずから体験し、または見聞きした実状を語り、また記録したものを集めた。身分の上下、勤仕の別はあろうとも、ひとしく動乱の世界に生きた豊富な話題がある。貴重な幕末資料ではあるが、読みやすく親しみやすい解説書でもあり、語り口調の生々しい記録の書となった。
目次
大名の日常生活
大奥秘記
時の御太皷
高家の話
御船手の話
御朱印道中・御目付
御徒士物語
勤番者
お伽役の話
廻り方の話〔ほか〕
著者
柴田/宵曲
本名、泰助。1897年9月、東京日本橋久松町の洋品問屋に生れたが、中学に入学した頃に家運傾き、たちまち学業を廃して「上野図書館」育ちとなる。1918年「ホトトギス」入社、22歳。其角句集「五元集」の輪講筆記に成功したことが宵曲の生涯を決定した。メンバーの中でも特に俳壇の寒川鼠骨、江戸派の三田村鳶魚にまつわる編集作業は膨大なものである。現に『柴田宵曲文集』全8巻(小沢書店)は、歿後にまとめられた大冊である。1966年8月歿。69歳。
天草島原の乱は、寛永15年2月27日午後から攻撃が開始され、28日に至り昼頃にはほぼ終結を見た。
一揆勢37,000人に対し幕府軍125,800人が戦い、一揆軍はほぼ全滅したとされる。幕府軍においては死者1,147人、手負い6,950人と細川家資料は伝える。
ここに至る経過を見ると、24日に幕府軍では評議が開かれ、26日に火攻めによる総攻撃をすることが決定された。
しかしながら当日は雨となり、総攻撃は28日に日延べとされた。
ところが27日正午すぎ鍋島勢仕寄から出丸の一揆勢が後退しているのが確認されたため、鍋島勢は二の丸出丸の端に竹束を付け置き足がかりを付けたいと申し入れがあり上使松平伊豆守がこれを許した。
八つ時(午後二時)頃に作業も終わり出丸に鍋島勢が二三人入った処一揆勢が気づき攻撃、鍋島勢の幕府目付榊原職直勢が応戦して射る矢に一揆勢が後退するに及んで鍋島勢が進撃し、止む無く上使の下知を以て幕府軍の総攻撃が開始された。
終結の切っ掛けを作った鍋島勢だが、軍律を破ったとして鍋島家並びに目付の榊原家が後に処分された。
細川家においては松井寄之(細川忠興末子)が三の丸の仕寄に詰めていたが、鍋島勢の抜け駆けを知り三の丸に乗り込んだ。
また細川光利(光尚)も鍋島勢の抜け駆けを知り三の丸攻めを下知した。三の丸攻めは難攻を極め、本丸攻めも熾烈を極めた。
細川勢においても死者285人、手負い1,826人を出す人的大被害を蒙った。
日が変わって白々と夜が明け始めたころ本丸北側に小屋が見受けられたため、忠利の下知で火矢が放たれたちまち火に包まれた。
その中に居た人物を陳佐左衛門が仕留めて首をとった。これが首実験で天草四郎だと判明し、佐左衛門はのち1,000石を加増され鉄砲20挑頭に栄建した。
正午頃には大方を制圧して、天草島原の乱の長い闘いが幕を下ろした。
日本の城 古城絵図・九州(2)から引用
夏目漱石の句に「午砲打つ地城の上や雲の峯(明治29年)」があるが、熊本城にはかって午砲台という場所があった。
明治17年から熊本鎮台が時報業務として空砲を放ったとされる。そしてこれは昭和18年まで続いていたという。砲は江戸時代に生産された国産の砲が用いられていたというが、金属供出により鋳つぶされてしまった。
さて、それ以前の時間の周知はどうであったのだろうか。
江戸においては寛永寺の鐘で時報を打ち、次々とお寺が打ち伝えたとされる。
熊本においてもそれに倣って同様のことが行われたのであろうが、未だ詳細を知らないでいる。
八代重賢公の時代の記録に面白いものがある。
時の鐘突き候儀殿様御工夫ニ而朝之鐘を段々夜之内へ繰
昼ノ四ツを五ツニ突かせ被成候 八ツをのべて七ツニ御突
かせ被成候 是ハ四ツゟ八ツ迄之勤方二日之役を一日ニ相
仕廻候様之御工夫と申候 夫故肥後國ハ諸奉公人百姓ニよ
らず朝厳敷晩を詰申候
昨今大企業やブラック企業の超過勤務が問題となっているが、これはそれまでの四時間勤務を八時間勤務に倍加させるという名(迷)案である。
すなわち役所の始業の鐘を一ト時(二時間)早く打ち、終業の鐘を一ト時(二時間)遅くしたというのである。
熊本においては、役所の八時間勤務はここから始まったというが?
「くずし字教育プロジェクト」というものがあることをご承知だろうか。
私は「日本の古本屋」のメールマガジンで知った。
『アプリで学ぶくずし字 くずし字学習支援アプリKuLA(クーラ)の使い方』
飯倉洋一編 笠間書院刊 定価:本体800円(税別)好評発売中!
http://kasamashoin.jp/2017/01/kula.html
「スマートフォンやタブレットで、くずし字を手軽に学べる、くずし字学習支援アプリ"KuLA"(Kuzushi-ji Learning Application)のガイドブックで、KuLAの使い方を図説するとともに、KuLA以外の学習方法、刀剣ファンや大学・美術館関係者のアプリ活用方法やくずし字教育の現状などを紹介する。」というものだ。
「くずし字教育プロジェクト」というサイトもある。https://plus.google.com/104467959383842469455
まだフォロワーも69人しかいないところを見ると、サイト自体がUPされて間もないのだろう。
関連する記事をいろいろ読んでいるが、まずは本を読むことが第一と早速注文した。
スマホで「くずし字」の勉強ができれば、何ともありがたい限りである。皆様も如何ですか?
花粉症第一弾は目に来ました。かゆくてたまらず目をこするので、痛くて仕方ありません。
花粉症用の目薬ではないのですが、たっぷりさしてみたのですが効果は全くありません。この時期致し方ないのでしょうか。
鼻風もひいてしまいましがこちらは花粉症のせいではありません。
昨晩ドジをしてサッシュを少々開けたままで寝てしまいました。今朝ほどあまりの冷え込みに目が覚めて、毛布を巻き込んで寝たのですが後の祭りでした。鼻水グジュグジュです。
毎晩寝る前にバルコニーに出て夜空を眺める癖がついていて、昨晩もそうしたのですが、焼酎を一杯ひっかけていたせいか、閉めたはずのサッシュが20センチほど開いていました。
野宿をしたようなものですが、馬鹿ですね~。
この歳になると物覚えが悪いこと甚だしい。数日前に見た「鷹匠の扶持」が書かれていた資料の所在が判らない。
何の本を読んだのか、何の資料に目を通したのかを振り返ってみるが、それとて思い出せないからどうしようもない。
昨日届いた熊本城顕彰会発行の季刊冊子「熊本城」に村田真理氏の、熊本城の記録Scene11「鷹狩」が前回と今回にわたり掲載されていて興味深く読んだ。
その中で氏は鷹匠町の絵図に一時期「鷹部屋」が存在しないことに疑問を持っておられた。いわゆる徳川綱吉の「生類憐みの令」が影響しているのではないか。
この論考では触れられていないが、藩主の居館「御花畑」の絵図を見ると、藩主の居室に非常に近い場所に「鷹部屋」が設けられているのが判る。
「鷹狩」用の「御鷹」は参勤交代のお供さえしたという大事な存在であるということを考えると、藩主の身近なところに常時飼われていたと考えるのが妥当かもしれない。
鷹匠町からは「御花畑」南の「追廻」に一本の道がつながっており、僅かな距離である。
鷹匠たちが毎日「御花畑」へ通ってお世話申し上げたとは考えられないだろうか。
ふと「歳序雑話」と「番太日記」を読んだことを思い出した。B5ファイルがデスクの目に立っている。
「これだ・・・」と思って眺めてみると、「史料細川家文書御印の物について」を一緒にファイルしている。
その中に「御鷹師衆之覚」として17名の名前と俸給が記されていた。
頭と思える人が「御切米三拾石八人扶持 拓植九右衛門尉」である。又「拾石當年ゟ加増」とあり、決済判と思われる忠利のローマ字印が押されている。
時代が良くわからないが肥後入国直後ではないかと推察している。
また、別のページには小倉時代の資料として「はやふさのすかけ候所覚」などの記録もある。こちらは寛永三年十二月と年次もはっきりしている。
最近は鳩やカラスやヒヨドリなどの撃退のために現代の「鷹匠」が登場し、「鷹」が活躍していると聞く。
大変結構なことではある。
〇が藩主の居間 〇が御鷹小屋
昼前意外と早くPCが到着しました。Windows10がインストールされていますので少々戸惑っています。
いろいろアプリをインストールする必要があり、今日は一日これに時間を費やしそうです。
本格的に記事を発信するのは明日以降になりそうです。まずは一安心致しております。
ノートpcの不具合で仕方なくipadを使っているが不便この上ない。いきおいpcから離れての生活が数日続いている。古文書を読むのも、タイピングを並行しているから、pcが使えないとなると、こちらもお休みと相成る。それ故買い入れたまままだ読んでいない本をこの際一気に読んでしまおうと取り掛かっている。
渡辺京二✖️津田塾大学三砂ちづるゼミ 「女子学生、渡辺京二に会いに行く」
浅田秀子 「敬語で解く日本の平等・不平等」
舞鶴古文書の会 「福岡藩家老 黒田播磨(薄整)日記」
菊池市教育委員会 「菊池の松囃子」
熊本市都市政策研究所 「熊本明治震災日記」
その他故高田泰史先生の遺品、熊本市教育委員会発行の「熊本市北部地区文化財調査報告書」などである。これらを完読する頃には、pcも届いていることでしよう。メールが沢山たまっている事だろうが、こ返事は少々お待ち下さい。
今日の熊本は、昨日とは打って変わっての雨天となり、一時期は凄い風にもみまわれた。TVに写る瓦がはげた熊本城が雨にうたれて痛々しい。よくよく考えると明治10年の2月19日に熊本城は焼失してしまつたのだ。城下の人々の喪失感は如何ばかりであったろうか。現在では放火説が支持されているが、射界の清掃と称して城下町にも火が放たれ一面の焼野原となつた。細川家には事前に通告が為されたらしく、三人の姫君は慌ただしく避難のために立田邸に逃れられた。長い逃避行を経験されるか、この事には何度か触れたのでここでは省略する。
地震で壊れたお城を見上げるとき、熊本市民は一様に嘆息し涙するのである。西南戦争の前、御一新後の実学党政権はこのお城の解体を決定している。さすがに実行される事は無かったが、もし実行されていたら市民の嘆きは如何許りてあったろうかと、察するに余りある。幾多の試練を乗り越え、またお城の雄姿を仰ぎ見て深い絆を更に深めていつたのだろう。全国の皆様のさらなるお力添えを心からお願い申し上げたい。
寛永二十年二月十三日忠利公の菩提寺が完成した。十八年三月十七日、56歳で亡くなった。天草島原の乱に大將格で出陣し多くの家士の死傷者を出したが、長い戦いの結末を迎えた。これらの苦労がかれの生命を縮めた。十三日から十七日まで取越し法要が行われた。この法要に殉死者阿部弥一右衛門の者遺児権兵衛が、自らの髻を切るという不祥事を起こし誅伐された。遺族である一族が屋敷に籠り抵抗の構を見せたため、藩は討手を派遣して一族郎党ともに討ち果した。これらの事は森鴎外の「阿部一族」に詳しいが、史実にてらすと大いなる錯誤がある。
熊本地震から10ケ月かつてお世話になっていた熊本市中央公民館は、解体されてしまい今は更地になってしまった。地震直後から使用出来なくなり、その後会場はあちこち変更しながら例会を開いている。2・3月は熊本市民会館を確保したが、4月以降は改修工事が始まるらしく、また会場探しに苦労する事になる。
今回はかつてて取り上げた、長瀬真幸の紀行文「山分け衣」に登場する和歌について会員のkさんのお話を伺う。万葉集の歌なども含め解説をしただき、日頃感じない高尚?な気分にひたつたことであった。
会を終わって外に出るとお天気も良く、熊本城周辺にはかなりの人出がある。実は明日は熊本市恒例の「熊本城マラソン」が開催されるので、登録やコースの下見などの人も多いようだ。明日は天気もよさそう、おおいに賑わう事だろう。
最近の私の行動範囲はおおいに狭まって、街中にでることも少なく、少々歩いてみようと思ったりするが、疲れる事間違いなく早々に帰宅した。案の定帰りついて椅子に腰掛けのんびりしていたら少一時間うたた寝をしてしまつた。史談会があった日のお決まりの至福の時間である。