二月晦日追而書案(細川家史料十一・605)は忠利が三齋側近・魚住傳左衛門尉に宛てたものである。
追而申上候、此松露進上申候、爰元之者は、松露を取申事不存候
我等者波邊にて見付申候條、上申候、此旨可有披露候、恐々謹言
(寛永十年)二月晦日
魚住傳左衛門尉殿
「熊本の人は松露を取ることを知らない」と忠利は言っている。家臣が海辺で見つけたというのだが、この時期忠利は熊本に居るのだが、どこの海岸なのか、
松林がある海岸と云うのは現在ではあまり見受けられず予想もつかない。
松林が少ないから松露のことをよく知らないということにもなろうが・・・・
現在でもよく知っている人はそう多くはないだろう。時折天草で「マツタケ」の収穫があったことが報道されるが・・・
肥後入国後の二月の晦日、380年まえの今日の話である。
■三十人の内城にて鉄炮能放、敵を打しらしめ申衆
一、岩田新蔵 以下いつれも小倉ニ而知行拝領す
一、樽井鶴助
小倉にて橋口の矢蔵を拝領被成候、小倉一番の大男しこふつものなり、知行拝領、作五左衛門祖なり、樽井家記には三齋君より鶴之助と
御つけ被成、御近習相勤、高麗陳ニも御供、関ヶ原陳数度相働候ニ付、御懇志を以御腰物拝領、今以所持仕候、慶長六年御知行百三十
石被下、御城内安国寺と申所之御櫓御預被成、元和三年病死仕、其子作右衛門ニ百石拝領、其子作右衛門も同様相続、有馬に御供仕
相働手を負申候、右鶴之助祖父は樽井大和と申候て樽井の宿の国士の由、其子左門次に幽齋君より七人扶持被下置、其子鶴之助なり
一、岩間清次
慶長六年十月御知行百石拝領、家記ニハ清次九歳の時丹後にて御児小姓ニ被召出、岩間滝右衛門と申候て沼田上野介にて三百石弓
頭いたし候者の二男と有之、本文ニは三十人衆と有之、今の岩間清次か祖なり
一、塀利久八 一ニ垪和又■(土へんに井)和
一、吉岡弥三郎
後号万介、一ニ百介、関ヶ原の所ニ詳ニ出
一、村田半右衛門
一、荒見仁右衛門
御知行被下、当仁右衛門祖也、荒見家記ニハ前以御知行被下置、岐阜関ヶ原に御供仕候様に見へ申候
一、友田新之允 新五郎親
一、庄村五郎右衛門
豊前にて御知行百石被下、今の五郎右衛門祖也
一、矢野六内
一ニ兵内、後号六左衛門、才八介病に留られ候ゆへ先に参候へとも城へ付不申候
一、同 計助
一ニ牛助、又平助共、六内同前
以上
■与一郎様任御意御傍ニ居申候衆
一、清水市右衛門
左太郎親、伏見の脇小幡の並の清水なり、丹後で三百石、豊前にて六百石
一、松山兵左衛門
元直、一ニ兵右衛門元真或は元貞とも有、権兵衛元重親、若狭侍なり、丹後にて三百石、豊前ニ而六百石
一、江守孫右衛門
一ニ孫左衛門、一ニ絵左衛門
一、西郡大炊(ィ・介)
清忠、天正年中於丹後被召出五百石、鉄炮三拾挺頭、勢州亀山攻の戦功五百石、岐阜・福智山の戦功によつて千石加増、都合弐千石、
御小姓頭御番頭、多分大炊と云違るとて後に刑部と改候、一書ニ初堀久太郎家来と有はあやまり也、親三河守も丹後にて育被置、大炊
は初より御家士なり、大炊二男西郡要人家督相続、要人死後断絶、子供ハ様子有之、他国いたし候由、後に別録百五十石被下、今の又
右衛門か祖なり
一、魚住与助
後休齋様ニ而与兵衛と云、右衛門兵衛か二男なり
一、牧 新五
天正十九年詳ニ出
一、一宮彦三郎
当一宮儀兵衛先祖附の内ニ寺井庄三郎二男を一宮儀兵衛養子ニ仕、彦三郎と申候、元禄比の事なり、其孫も彦三郎と申候、右儀兵衛
親は善大夫と申候、本国若狭ものにて於青龍寺被召出、慶安四年病死と有、此善大夫初の名彦三郎と申候て岐阜・関ヶ原にも働候なる
へし、尚考へし
一、稲留伝右衛門
伊賀守弟なり
一、杉原三平
始は筒井順慶家来なりしか傍輩と果んと出合首尾能しとて、玄蕃殿御肝煎にて御家に奉公、のち井伊直孝に奉公
一、乙部左兵衛
一、明石孫右衛門
謙信感状二ツ三ツ持しものなり
一、沼田藤左衛門
清延、嫡子小兵衛兄 一ニ弟と有、福智山にて討死、始ハ太閤に仕、若州熊川にて四百石拝領
一、住江小右衛門
始は明石左近家来にて三百石取しを、先知にて被召抱候、左近身体果候時玄蕃殿御肝煎にて魚住右衛門兵衛・鯛瀬善助と共に三人
被召出候、子細は太閤の御意にて播磨におゐて六ヶ敷城を云付られしかハ、此三人の者忍ひて乗取し故なり、関ヶ原御帰陳後六百石
御加増、其後弐百石御加増、丹後にてハ十五挺頭、豊前にてハ三十挺頭なり、求馬か親甚兵衛ハ小右衛門か養子聟にて別録なり、当
甚右衛門・八右衛門等か祖なり、小右衛門知行は死後上知に相なり候なり
一、西 九助
一、山田伝助
新十郎か下ニ詳なり
一、野村源之允
一、杉原少三郎
一、三宅与平次
重利、後号藤兵衛、明智左馬助子、御家を立退寺沢家に奉公、天草一揆の時討死、其子藤右衛門も寺沢家にて武功有、彼家を浪人の
後光尚君に被召出候、今の栄蔵祖也、家系詳なり
一、鯛瀬善助
播磨者なり、住江小右衛門か下に見ゆ、丹後にて弐百石、豊前にて四百石、一ニ六百石共有、家記に本名ハ吉田にて候処、丹後にて三
齋君御意を以鯛瀬を拝領の由、今の善助祖なり
一、岩崎新六
一、森新十郎
後号山田采女、清巌和尚兄なり、玉峯和尚の元ニて手習せしを玉峯被仰にて十六より奉公、近江大石殿なり、山田伝助は清巌の兄実堂
の親なり、初は伝蔵と云、大坂へ籠城し大手柄して討死、親は加賀の大聖寺にて討死
一、喜多与六郎 前に出す
一、国分左助 御右筆なり
一、西郡半助
大炊か弟也、小倉より立退しか、大坂に籠城し、落城の時乃美主水か生捕て助しなり
以上
右穿鑿念を入仕候、働之高下ニより点を懸申候
八月六日
矢野采女
十日も以前に沼田小兵衛右馬に踏れ足を痛城へ着不申儀各存候、丹後にて百石、豊前にて弐百石、矢野勘右衛門親也
舞鶴市から「細川幽齋と舞鶴」が発刊されました。詳しくは舞鶴市のサイトからどうぞ・・・・
http://www.city.maizuru.kyoto.jp/modules/sangyoshinp/index.php?content_id=315
まだ正式では有りませんが・・・・細川家文書が国の重要文化財に認定されます。喜ばしいことですが詳細は明日の報道からご紹介します。
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細川家文書266通を国重文に 文化審が答申2013年02月28日
熊本日々新聞から
国の文化審議会(宮田亮平会長)は27日、織田信長が細川家に宛てた朱印状などを含む「細川家文書」(266通)を国重要文化財に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。公益財団法人永青文庫(東京)の所蔵で、大半が熊本大付属図書館(熊本市)に寄託されている。永青文庫は、細川家に伝来する鎌倉時代~江戸末期の8万点を超える文書類を所蔵。うち国重文指定対象となったのは、室町時代や安土桃山時代を中心とする最も古い中世文書で、信長や豊臣秀吉、徳川家康らが細川家に発給した文書や、同家の遠祖とされる「和泉上守護[いずみかみしゅご]細川家」に関する文書が含まれる。
中でも信長と秀吉の政権期(織豊期)の文書が豊富。信長発給文書は59通に上り、文化審議会は「質量ともに圧巻」と評価。長篠[ながしの]の戦いや安土城の普請、本能寺の変、関ケ原合戦など歴史的な出来事の緊迫した状況を伝える文書も多数含まれ、「学術的価値の高い貴重な史料」とした。
一大名家の史料として系統的に保存されており、和泉上守護細川家の文書群が細川家の由緒や室町期の典型的な武家文書の様式を伝えていることも文書全体の評価を高めた。
文書群が指定されれば、県内の国重要文化財は36件(うち古文書は4件)となる。答申ではほかに鎌倉時代に活躍した仏師・運慶の木造不動明王立像や快慶の木造騎獅文殊菩薩像[きしもんじゅぼさつぞう]などの3件を国宝に、49件を国重文に指定することも求めた。
大手門脇の屏へ付申衆
一、米田与七郎 歳十五
一、若林平四郎
一、清水左太郎
市右衛門子休無様 一ニ齋 に付てありきし也、清須にて明日岐阜働と云時加藤左馬殿の肝煎にて被召加、時ニ廿一歳
一、遠山勘右衛門
清須にて五日六日程前の御奉公に出候也、武藤つふらにて面に疵を蒙り候をいたミやかて死す、三百石を領す
松井新太郎者
一、松井新太郎
安秀、後号采女、助左衛門親也 ィ・大手一番ニツク
同
一、明石半四郎
重方、後号助兵衛、五郎兵衛親也 ィ・大手一番ニツク
同
一、松井長助
定勝、後号織部、入道之後正清、角左衛門親也、竹田梅松軒嫡子也、康之名字を遣、母ハ自徳院 康之妻 姉也、竹田永翁ハ弟也
ィ・大手二番ニツク
同
一、坂井喜運
一ニ酒井喜雲、子孫無之 ィ・大手二番ニツク
同
一、一色又七郎
範勝、藤長嫡子なり、後将軍家へ被召出左兵衛尉、寛永六年従五位下、任式部少輔
同
一、湯川八右衛門
同
一、麻生新三郎
後吉右衛門と云、七百石を領す、飯岡豊前聟也、観世又次郎弟子にて鼓を打、親は田辺ニ而働有之、麻生吉右衛門なり、一ニ吉左衛門
同
一、石寺太郎兵衛
米田与七郎者
一、中村市助
同
一、安威弥三郎
同
一、山本又七
一ニ又三と有、考ニ又三は丹後宮津に留守いたし居候て田辺にいつれも引取候時逐電すと米田家記にも有之、又七といふ者又三か子
歟、兄弟なとに有之たるか、猶考へし
同
一、山崎清三(ィ・七)
田辺衆
一、多羅尾五助
伊織か若名なるへしとあり
以上 市村半右衛門判
同矢蔵の南のひらへ付申衆
一、松井新太郎
出丸より筋かへて左の頭を鉄炮にて打ぬき冑ニ手こふしの入ほと穴あき候也、去により手も筋かへて負
新太郎内
一、佐藤平左衛門
手負子孫断絶
同
一、田口弥助
同
一、粟坂平助
守政、後号市太夫、一ニ助太夫
同
一、中路助十郎
与一郎様衆
一、毛利忠三郎
後号又兵衛、父は毛利和泉と云て若州逸見家ニて千石を領、鑓毛利と云れしとなり、忠三郎嶋原にて討死、男子なく家断絶、忠三郎
姉は有吉立行妻なり、立行死後縁寿院といふ
一、入江平内入道真齋
淡路弟、弐百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君
へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候、立のほる煙の末はなきものをつきせす落るわかなみだ哉 忠利君より被
為拝領候御書于今本家に持伝候、真齋子孫有之哉、不分明
以上 松井新太郎判
詰の門へ入ハ左の矢蔵下ニ付申衆
田辺衆
一、杉生左兵衛
西岡の者此ものを目付石にして何れもの居所を段々にきはしめ給ひしなり、豊前にて八百石、本明智光秀に奉公、山本仙入と云、牢
人の後大坂籠城打死、親を山本弥太郎と云
同
一、逸見次右衛門
本は若狭侍の歴々なり
同
一、同 一人
壱人入申候
同
一、山口藤左衛門
同
一、植村(ィ・松)弥兵衛 一ニ柘植
同
一、本間少兵衛
以上 杉生左兵衛判
慶長五年(1600)の岐阜攻めにおける功名の人達の一覧である。
一、忠興君岐阜戦功の奉行を玄蕃殿へ被仰付、篠山与四郎・加々山半右衛門・工上三大夫・窪田源兵衛を吟味人と被成候
首取申候衆次第不同
一、沢村才八
一、柳田久四郎
五郎助共云、即番生駒平三郎か首をもらいに来りし故、名をもいちしるしく有之候、平三郎ハ中納言秀信共蜂須賀阿波守家政とも従兄弟
なり、久四郎か親ハ柳田鶯之允 後号立庵 と云、始ハ逸見内ニて用ニ立し者なるか、田辺籠城時立退しにより久四郎か何程働てもやくに
たゝぬ事か一ツ有と云しハ此事也、後ニ池田輝政に奉公大坂陳ニてもよかりし也、後加賀利光に仕へ柳田半助と云、柳田久三郎か弟也
一、有吉与太郎
田辺衆
一、小原庄(ィ・小)次郎
与十郎殿江御奉公、後号縫殿、其後立退て加藤肥後守に仕平大夫と云、忠広身体果て候て入道し道有といふ
同
一、荒木左助
高(ィ・元)則、後号山城、助左衛門并外齋等か親なり、今の助十郎・小助・運次等か祖なり、高則ハ高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末
故有て浪人いたし播州にて病死、外齋とハ助左衛門弟次郎大夫か事なり、三百石被下置候処、御暇被下松平越中守へ有付候へとも又
致浪人、後小笠原備前にかゝり病死いたし候
嶺山衆
一、藤木平三郎
田辺衆
一、野尻又左衛門
与十郎殿に付而田辺に居、後号隠岐、其後紀州へ千五百石にて召抱らる
同
一、中路庄五郎
与一郎様衆
一、中村茂助
新助子、忠興君御乳おとゝい也
白杉庄助組
一、中尾与助
同
一、藤田左助
有吉与太郎者
一、田井助八
福智山の所に詳なり
同助兵衛者
一、市瀬喜三郎
与一郎様衆
一、野村新右衛門
野村又助子也、与一郎様へ初より付居たりし者也
卅人衆
一、市川兵右衛門
一ニ兵左衛門、御側筒の者也
以上十五人
城ニ付申衆次第不同
大手の門口、此門は鉄の門つめの城の入口やまのてへん也
一、菅野勝兵衛
輝宗、後ニ荒川ニ改、武衛家也、義昭公の時六条合戦ニ鑓を合す、光寿院様の甥なり、父は荒川治部少輔時宣
一、白杉庄助
一、加々山忠助
隼人一門也、豊前にて四百石、兄は国見超の主なり
一、竹田半三郎
一、八木田新右衛門
後号宗円、本知弐百石、為御褒美御加増弐百石、父ハ八木田新三郎入道宗真、於青龍寺被召出、丹後ニ而嶋森御城代
一、中嶋甚之允
一ニ中嶋左近甥、中嶋備中弟と有之候へ共、中嶋左近か下の小書と相違有、猶可考
一、戸川平作 一ニ戸山平助ハ誤なり
御馬廻の手に合たる者を中津にて御振廻被成、また若等迄に御褒美を被下しに何としてはつれ候哉、加々山・牧に歎申候を
無是非事とて御前へ申上候ヘハ、馬場に御出被成候時、御脚を下賜り外聞よかりし也、晋州にて討死したる平作か為にハ甥
也、丹後にては百石、豊前にて百五十石御加増被下候、後ニ御暇被下候
一、的場甚四郎
与一郎様御小姓也、後治兵衛、的場甚右衛門か養子也、青龍寺より御奉公、大坂にて藤本勘十郎と喧嘩して打果なり
一、佐川弥一郎
木村常陸に奉公せし時矢を射つけられ片目に成し者なり、番頭七百石
嶺山衆
一、沖六之允
与一郎様衆
一、今井九右衛門
嶺山衆
一、片山平次
田辺衆
一、加々美又六 長貞
少齋嫡子、後小笠原備前長元
同 クシロ
一、久代市右衛門
一ニ九代、後号喜助、其後木下右衛門大夫ニ奉公主水と云、又一ニ久村、又久井ともあり
同
一、長岡久五郎
同
一、喜多与六郎 公信
後改大草、大舘隣齋子家高也、入道後紹意、大草弥右衛門公利親なり
田辺衆
一、中路久六
松井新太郎内
一、生田鵜兵衛 子孫断絶
同
一、本嶋又三郎
後弥五右衛門入道不携
平左衛門者
一、北谷久兵衛 一ニ小谷
同
一、市野彦兵衛
長岡右馬助江戸へ証人ニ被参候時家老ニ被仰付、忠興君より知行弐百石被下候
同
一、小林七兵衛
篠山与四郎者
一、南波九四郎
同
一、加川半三郎
米田与七郎者
一、小森六右衛門
菅野少兵衛者
一、日置甚四郎
同
一、萩野与作
以上
篠山与四郎 判
加々山半左衛門 判
工上三大夫 判
窪田源兵衛 判
俳句で綴る 変哲半生記 | |
小沢昭一 | |
岩波書店 |
最近なくなった、俳名・変哲(小沢昭一)氏の半世紀だとある。
少なからず私が俳句に興味を持ったのは、変哲氏が所属する「東京やなぎ句会」の「友あり駄句あり三十年」や「五・七・五 句宴四十年」を読んでからである。
久保田万太郎が好きになったのも、変哲氏の言によるところ大である。
俳句というと「結社」などという、なんとも不可思議な組織が気に入らないし、こんなことは変哲氏のように自由気ままが一番良い。
まずは自分自身が楽しめれば、句の巧拙などどうでもよいと思っている。
そう思いながらも私は全くのスランプに陥っていて、最近はまったく句を作ることができないでいる。
変哲氏のご託宣に触れようと思い、 少々高いが購入を手配した。
細川家においてのキリシタン殉教は、小倉時代の加賀山隼人(元和五年十月)と、熊本時代の小笠原玄也(寛永十三年一月)一族の死において特筆される。
加賀山隼人 http://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20081219_kagayamahayato.php
小笠原玄也と一族 http://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20090222_ogasawaragenya.php
加賀山隼人小笠原玄也にとっては岳父であり、加賀山・小笠原一族の殉教と云っても良い。
細川家史料を読むと、ひたひたと押し寄せてくる状況が見えていたたまれない。
■寛永十年五月十一日書状案(十一・634)
長崎、事之外きりしたん改つよく御座候付而、所之はてれん方々へ逃候を、訴人出、鍋嶋國なとゟも、はてれんをつかまへ候而参候由申候、
下地不法法度成國にて御座候間、當國之儀気遣仕候、其許之儀為可被仰付申上候、八代へもはてれん参候由訴人申候處、又糺問之上偽
に罷成安堵仕由、従又左(曽我古祐)被申越候事
■寛永十年五月廿七日書状案(十一・637)
尚々、長崎きりしたん改、事之外きつき由申候、必當國へはてれん参候而居可申候、随分改候へ共、只今まてハしれ不申候、其元之儀も、
町之儀は知申間敷と奉存候、以上
■寛永十年五月廿八日書状案(十一・638)
一、與三郎(小笠原長定・玄也)事、重々不届次第、猶以承届候事
一、與三郎儀ニ、起請を書上候寫被下候、はしらせ申間敷と書申候故、國にて之罪科ハ如何様にも可申付候、右之御扶持方迄にてハ、子共
多成、飢候ハゝ、若無理にも身を隠候ヘハ、我等迷惑ニ極候、左様ニ候ても、かくし候てハ少も合力罷成さる書物仕上付申上候、御談合之
様ニ申上儀も、又如何と奉存、如右申上候、更共如何可被越を不奉存候故、日本紙于今不申渡候、彌遣申間敷候、不謂不調法仕、迷惑
仕候、此等之趣可有披露候、恐々謹言
■寛永十年六月九日書状(十一・642)
態左近右衛門尉(道家立成)進上仕候、長崎ゟ熊本町ニも伴天連参候由、不慥成候へ共、先申越由申来、只今せんさく仕候、就其、長崎中
如此ニきりしたんをころひ申ものニ書物をさせられ候間、爰元もか様ニ申付候へと、内證にて被申越候間、若其元もかやうの書物可被仰付
かと、寫進上申候、書物はかやうニ被仰付、長崎御奉行衆ゟ此書物参候とハ、無御沙汰様ニと奉存候、我等なと存寄もなき文言共にて御座
候間、又重而か様之書物申付候ハゝ、若つかへ申ものも御座候ハんと奉存候、先度申上候者之儀、如何可被仰付哉、若口上ニ被仰越候事
も御座候ハんかと、左近右衛門尉進上申候、左近右衛門ニハ、何とも不申聞候、此等之趣宜有披露候、恐々謹言
■ 同上 添状案(十一・643)
此きりしたんをとし候案文、竹中(重義)儀なと御座候、此書物之寫を請、此方にて申付候へと被申越候、其上、きりしたんのいやかり申候
文言存間敷候間、書物給候由被申越候、以上
■寛永十一年九月廿一日書状案(十一・762)
一、きりしたんせんさくにて、國廻も延申候事、其元へ申上わけにてハ無御座候、豊後ハ、大友殿きりしたん故、はて連も可有之か、又隠候きり
したん可有御座と申ニ付而、せんさくニ人を遣、大勢つかまへよせ、其内入満なと御座候而長崎へ遣申候、其外、知れぬきりしたん他國ゟ
参候をつかまへ、是も長崎へ遣申候、又長崎ゟ今日も、伴天連熊本ニ居申候由ニ而人参、つかまへ遣申候、是ハ伴天連にても無御座候、
夕卩も玉名郡に伴天連御座候由、長崎ゟ申来、夜中ニ馬乗共大勢遣候、近所ハ道留・舟留なと申付、晝夜隙無御座候、此儀ニ懸て居申
候事
一、我等、上方ゟきりしたんのせんさく、彌念を入候へと申下ニ付而、國中へふれ申候、又書物なと取申候、八代ハ郡奉行、立允知も不残給人
なみニ郡之奉行申付候事
一、伴天連・入満・同宿、訴人ニ出候ヘは、かねを可遣と、御札を國中ニ立させ申候刻も、八代郡にも立申候、御構之内ハ其元ゟ立可申由ニ付
而、此方ゟハ立不申候由申候事
一、侍ハ不及申、町人も日々新参御座候付而、至今日改之止申隙ハ無御座候、更共、別ニ可仕様無御座付而、㝡前之如改、日々念を入申迄
ニ御座候、未無念ニ御座候故、はて連なとの事も申来、迷惑仕候、彌其元も其段被仰付候ハてハ不為成儀と奉存候事
一、とかく落申候きりしたん、うたかハしく御座候間、此書物をさせ可申と奉存候、此外もいやかり候事被聞召候ハゝ、御書加可被成候哉、此等
之趣可有披露候
別紙案
いにしへきりしたんにて、未うさん成者ニハ、か様ニ書物をさせ可申かと存候間、案文懸御目候、是ハきりしたんのいやかる事と承候間、我
等文言をたくみ申候
起請文之事
我等儀、彌いかやうのすゝめにても、二たひきりしたんに成返り申間敷候、此儀違、立返候ハゝ、天道の御罰を蒙り、いんへるのに永落、浮事
御座有間敷候、惣別きりしたんハ邪法にて御座候、御影もくるすも我心にてふみ可申候、仍如件
(続く)
今日は所要で南阿蘇に出かける。すごい黄砂(だろうと思う・・)でせっかくの南阿蘇の眺望がかすんで見えず残念。
それでも用事を済ます頃には少しは景色も見えてGOOD・・・現在は南阿蘇市となった旧久木野村、別荘が立ち並ぶすばらしい町になっている。
また大都市で過ごしたシニアの人達が財産を処分して移り住まれる人が多いという。熊本で新たに家を建ててもお釣りがくるという算段である。
ここ半月ばかり、或る施設を建設するために、あちこちの土地を見て歩いている。
話に聞くといろんな企業が太陽光発電施設建設のために、広大な土地の取得のために走り回っているという。
同行した不動産業者の携帯電話は鳴りっぱなしである。ちょっとした不動産バブルが田舎を襲っている感じがする。
昨日は柳生流の「梅原九兵衛」の召しだしについて書いたが、今日は雲林院(うじい)彌四郎についてである。
寛永十三年八月四日の忠利から三齋に宛てた書状案(十二--837)である。
戸田流之なかれか、柳生流をつかひ候ものか、御慰ニ子共ニ、御つかわせて候て、可被成御覚候間、進上可申由、此町ニ遣有候彌四郎と申者、
牢人にて柳生流を少つかひ申候、戸田流ハ無御座候、(以下略)
八月四日
佐方與左衛門尉殿
尚々、兵法つかひ候もの早々進上可申を穿鑿仕、遅進上申候、以上
同八月五日三齋の返書(六--1437)
書状披見候、先日兵法つかひ之儀申候処ニ、柳生流つかひ候者給候、一段満足申候、則今日召出、兵法見申候へ共、今日は黒日・帰忌日に当
り候、兵法之儀ニ候間、明日寅之日ニ候条、召出見可申と存候、云庵御知候者之由候、親より兵法つかひ候由、加々山主馬所より由緒懇ニ申来
候、無調法なるハ卒度もかまひ不申候、今ハ鷹野も無之内ニ迄居申ニ付、小姓共腹病迄ニ成申候、稽古させ可中と存候、我々気合同前ニ候、気
ハさのミわるく無之候へ共、曽而食事成不申候、去年江戸にて発候時分にて候故と存候、明日兵法見申候而、慰可申と存候、恐々謹言
八月五日 三齋宗立
越中殿
御返事
同じく三齋の書(六--1440)においては(抜粋)
彌四郎兵法存之外見事ニ候而、柳生弟子ニ是程之は終ニ見不申候、これをつかはせ小姓共成かね候所、我々立て遣候て見申候か、一段薬と覚
申候
同八月九日の忠利書状には
彌四郎兵法能御座候由、久敷つかいてニ而御座候、就夫、弟子共成兼候所、折々被成御立之由、御気も晴、御積ニ所残御座有間敷候、此等之
趣可有披露候、恐々謹言
八月九日
そして八月廿九日の三齋書状(六--1443 抜粋)
彌四郎儀此中毎日ほねをおらせ申候、気魂成者ニ而、先日も如申候、存之外柳生流巧者にて候、我々小姓、兵法今度初而にて候ゆへ、一切合
点不参候間、又春ハやとひ可申候、此由留守居共に被申付置可給候、打大刀も初心ニ候へ共、りきミのなきつかひにて候、猶期後音候
恐々謹言
八月廿九日 三齋宗立
越中殿
進之候
三齋が彌四郎の兵法を絶賛していることが判る。
横手町の禅定寺にこの雲林院家の見事なお墓がある。一時期都市計画道路の施工にあたり移転の危機にさらされていたが、どうやら熊本県の英断により計画の変更が検討されており難を逃れる希望が見えている。
光尚逝去後、十七才の松井寄之を後見し、幕府に対して六丸(綱利)への遺領の相続を迫った、袖引き九兵衛の異名をとった梅原九兵衛の召出しに関わる記事がある。
寛永十三年八月十日光尚宛て忠利書状(十三・1189) 尚々書
梅原事、三百石と候ヘハ、四百石も五百石も遣候由、(波多)中庵所へ自筆にて被申越候、それハ何とそ柳生親子(宗矩・三巌)か兵法の上手か、わけ可
在之候、慥ニ中庵使仕候、柳生殿へ之めんひ(面皮)ニ知行遣事少も成間敷候、左様之わけもなき様ニ家成下候ヘハ、口惜儀候、約束之知行いやかり
候ハゝ、追遣候て可然候、又兵法をつかひあけ、其方ためにも可然事候て、重而知行可遣ハ、誰之にても左様ニ可在之事候、左様之事ニて取候知行取
もはぢにて候、遣候者も同前ニ候、左様之所ハ、何ほと身持ニよく候共成ましく候、此所ハ能々分別可然候、か様之少之儀にても、作法をやふり候事ハ、
他家ニ何ほと仕候共、堅我等家ニハ可被禁候、中庵承候通、其方へ返事申候へと申候書付可参候、已上
肥後殿
進之候
高禄にて九兵衛を召し抱えようとする光尚に対して、柳生家への面皮にて知行を遣わしてはならない、新参を召し抱えるについては作法を破ってはならないと諭している。先に書いたように九兵衛は、綱利への跡目が相違なく行われたことで、光尚に対しての面目を施している。
林新九郎家のご子孫と先祖附の読み下しなどを通じてご厚誼をいただいている。
林家は近代において、高見家(阿部一族誅罰の指揮をとった権右衛門のご子孫)や、漢学者である宇野哲人、郷土史の大先達・宇野東風先生の宇野家
と縁戚関係がある。今般正確な系図を作るうえでいろいろお調べいただいたところ、宇野家と田屋家の詳細な関係も判った。
そんな中、田屋家の素晴らしいサイトをご紹介いただいた。
http://www1.bbiq.jp/ymisao/tayake/tayaindex.htm
この内容には脱帽であるが、これは一太郎で作成されたのだろうか。見習わなければならない。