伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年から3年連続目標達成!

脱常識の社会学 [第2版]

2013-05-16 00:17:44 | 人文・社会科学系
 社会学の入門書。
 まえがきの冒頭で「どんな学問も次の2つのことをめざさなければならない。すなわち、明快であること、そして当たり前でないこと、である」「社会学は、これら2つのどちらに関しても評判がよくない。その抽象的な特殊用語は悪名高い。社会学の文章は、最悪の場合、まったく理解不能なものと見なされている。そしてしばしば、読者がようやくその抽象概念と専門用語を解読してみると、実際にはほとんど何も言われていないことに気づくのである」と述べられています。率直に言って、私がこれまで社会学(あるいは政治学も)の本を読んだときの感想の大半はこの通りでしたから、このまえがきを見て快哉を叫び、この本を読もうと思ったわけです。
 第1章は、人が社会を形成することが、全体としてみると分業により誰もが利益を得ると考えられるが、個人レベルで考えればルールを守ることは合理的ではない(最大利益は、他人がルールを守る中で自分だけがルールを破るところに得られる)という論理展開で、人が社会を形成するのは非合理的な感情、儀礼と信頼に基づく連帯感によることを論じています。第2章ではその儀礼と信頼を宗教問題へと当てはめ、宗教は社会のアナロジーで神はその社会を映したものと論じています。これらの議論は、論理学的な課題演習というか、思考実験としてはなかなかに興味をそそられますが、ミクロレベルでの対抗命題(常識的・通説的論理)の否定が直ちに論証とされ、中間的な考察を飛ばしてマクロレベルの論証に結びつけられている感があり、消化不良感が残りました。
 第4章の「犯罪の常態性」で「最も常識を離れた見方」として著者が述べている自分の意見(175~185ページ)を読んで驚きました。著者の主張は、犯罪の処罰は、厳罰により犯罪をなくすためでも刑務所等での教育で犯罪者を更生させるためでもなく、犯罪処罰(捜査・裁判)という儀礼により一般公衆に法が確かに存在し犯されてはならないことを強く印象づけ結束し連帯する感情・確信を強めるためにあるというのです。私は、自分のサイトで「子どもにもよくわかる裁判の話」のコーナーの「何のために人を罰するの」というページで、「考えていくと、簡単(かんたん)じゃあないけど、犯罪が少ないよい社会を作るためのしくみがあって、もっと言えば、被害者が守られるしくみもあって、こういういいしくみ(いい社会)を守っていきたいという気持ちが生まれ、続くことでみんなが法律を守ろうという生き方をするようになる、このことが大事なんだと思う。」と結論づけています。この部分、どこかから拾ってきたのではなくて私自身の思いを書いたのですが、論理はこの著者と基本的に同じ。私は、儀礼(象徴)と信頼・連帯という意識(なんか国家主義的でいやだなぁ)はまるでなかったんですが。自分の思考を外からの光で照らされるとちょっとたじろぎますね。
 論証には飛躍を感じるところがありますが、さまざまな点で知的好奇心というか興味をくすぐられる読みでのある本です。
 原書の初版が1982年で、第2版が1992年。で、日本語版は1992年初版で2013年第2版というのは、どうよと思う。訳者あとがきの後に、日本語版初版が1992年3月に単行本として刊行されたと記載しているのは、原書第2版の出版(Amazonの表示では1992年4月2日)より先だと言い訳したいのかなと思いますが、翻訳の過程で著者への問い合わせとかするでしょうし、そうでなくても著者の関連のものにはアンテナ張ってるはずで、当然、日本語版初版の出版前に、原書第2版が準備されてるのは気づくはずだと思います。それで日本語版で原書第2版の反映をしないでおいて、11年もたった今頃その翻訳を出版というの、出版社としてどんなものかなぁと思います。それを棚に上げて訳者あとがきで、コンピュータや人工知能に関する記述はやや時代遅れと書くのも(時代遅れになったのは11年も放置した出版社と訳者のせいでしょ?)…


原題:SOCIOLOGOCAL INSIGHT : An Introduction to Non-Obvious Sociology
ランドル・コリンズ 訳:井上俊、磯部卓三
岩波現代文庫 2013年3月15日発行 (日本語版初版は1992年、原書初版は1982年、原書第2版は1992年)
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