1997年の神戸連続児童殺傷事件を題材に、新人賞に応募しながら受賞できずに実家に戻るが出所した犯人に恋愛妄想を抱きストーカー行為をして事件を題材にした小説でデビューする作家今日子、阪神大震災の中で産まれ犯人の美しい顔写真に憧れてファンサイトを作り追いかける莢、娘を殺され悲しみに暮れながら犯人のファンの莢に惹かれる被害者の母、名前を変えてひっそりと生きる犯人の様子を順繰りに綴る小説。
現実の犯罪を題材にした小説、というもの自体に、私は作家の創造力の枯渇と安易でさもしい心根を感じてしまいます。弁護士という仕事がら、私は、殺人犯にも守られるべき人権があることは当然だと思う。しかし、それと、殺人犯を殺人犯故に祭り上げ崇めたりファンサイトなど作ることとはまったく異なります。そういう感覚には吐き気がしますし、まったく理解できません。この作品は、そういった世の風潮も含めた現代の病理を描いているのかも知れません。作中で、事件を題材にした小説でデビューした作家今日子を醜く(姿形をということではなく)描いていることも自虐/戯画なのだろうとも思えます。でも、そうやって懺悔をしながら書いたとしても、この種の作品の醜さは正当化も薄まりもしないと、私は思ってしまうのです。
被害者の母に、犯人の現在への興味を持たせて周辺を彷徨わせたり、犯人のファンサイトを作る女子高生/女子大生に親愛の情をもたせたりすることで、殺人犯を崇める連中の軽薄さ・無神経さを免罪するその手法も卑怯なものと思います。実在の被害者の家族の心情を、私は知りませんが、自分たちをそのような勝手な/犯人と犯人側の者たちを利するような目的で歪めて描かれたらたまらないのではないでしょうか。そういう意味で、この種の小説を書く作家には、想像力の方も疑ってしまいます。作者の「ふがいない僕は空を見た」「晴天の迷いクジラ」での不幸な境遇に生きる人たちの物語に私は共感を覚えていただけに、残念に思います。
窪美澄 文藝春秋 2015年5月30日発行
現実の犯罪を題材にした小説、というもの自体に、私は作家の創造力の枯渇と安易でさもしい心根を感じてしまいます。弁護士という仕事がら、私は、殺人犯にも守られるべき人権があることは当然だと思う。しかし、それと、殺人犯を殺人犯故に祭り上げ崇めたりファンサイトなど作ることとはまったく異なります。そういう感覚には吐き気がしますし、まったく理解できません。この作品は、そういった世の風潮も含めた現代の病理を描いているのかも知れません。作中で、事件を題材にした小説でデビューした作家今日子を醜く(姿形をということではなく)描いていることも自虐/戯画なのだろうとも思えます。でも、そうやって懺悔をしながら書いたとしても、この種の作品の醜さは正当化も薄まりもしないと、私は思ってしまうのです。
被害者の母に、犯人の現在への興味を持たせて周辺を彷徨わせたり、犯人のファンサイトを作る女子高生/女子大生に親愛の情をもたせたりすることで、殺人犯を崇める連中の軽薄さ・無神経さを免罪するその手法も卑怯なものと思います。実在の被害者の家族の心情を、私は知りませんが、自分たちをそのような勝手な/犯人と犯人側の者たちを利するような目的で歪めて描かれたらたまらないのではないでしょうか。そういう意味で、この種の小説を書く作家には、想像力の方も疑ってしまいます。作者の「ふがいない僕は空を見た」「晴天の迷いクジラ」での不幸な境遇に生きる人たちの物語に私は共感を覚えていただけに、残念に思います。
窪美澄 文藝春秋 2015年5月30日発行