伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年から3年連続目標達成!

薬が減らせて、血糖値にもしばられない糖尿病最新療法2

2016-04-20 00:12:46 | 実用書・ビジネス書
 日本の糖尿病治療の通例と言えるインスリン注射やSU剤服用により血糖値を低く(HbA1c 6.2%未満)コントロールする方法が、低血糖を招きかえって健康への悪影響がある(死亡率が上昇する)ことを指摘し、血糖コントロールを緩めるべきことを提唱する本。
 これまでの日本での標準的な治療法、医師のやり方への批判が繰り返し書かれています。7章に分けられているのですが、章をまたいでほぼ同じことが何度も書かれている印象があり、読み物としては、頭の整理がつきにくくくどい感じがします。
 インスリン注射やSU剤をやめてどうするかというと、食事や運動を勧める部分もありますが、基本的には、(著者のような)理解のある医師の診療を受け、別の新薬を駆使しながら低血糖にならないようにして治療を続けましょうと言っているように読めます。背表紙の紹介には「インスリンも薬もやめることができた患者さんの治療例を引用しながら、新薬の効果、1日15分で効果のある運動方法、おすすめの食事など、続けられる糖尿病治療を紹介した」と書かれているのですが、食事と運動について述べている第5章は25ページで、その大半が従来の食事指導への批判と運動が糖尿病によいということを述べているもので、では具体的にどうすればいいのかは、食事では魚と野菜、乾物を積極的に食べる、食べるときは野菜を先に食べてよく噛んで食べる、運動は、とにかく歩く、運動する、1日15分のウォーキングから始めようというくらい。医師の立場からは、営業的観点をおいたとしても、医師がきちんと状態を把握しない状態で素人が生兵法をするのでは不安だという思いがあるのでしょうけれども、ちょっと期待に添わない読後感です。


岡本卓 角川SSC新書 2012年9月25日発行
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「超」集中法 成功するのは2割を制する人

2016-04-19 00:11:38 | 実用書・ビジネス書
 「さまざまなことに『コア』と呼びうるものがあり、努力をそこに集中すべきだ」ということを、全体の中でコアが占める比率は量的には2割程度であることが多く、他方で「コア」によって全体の成果や価値の8割程度が生み出される場合が多いという「2:8法則」を用いて論じる本。
 著者は、類書では、コアはどうすれば見いだすことができるのか、コアが変化したときどのように対応したらよいのかを語っていないとして、「この問題に対して解を与えようというのが、本書の目的です」(4~5ページ)と述べています。
 では、この本では、コアをどうやって見いだすかについてどのように述べているでしょうか。書類や資料のコアはよく使うもの、新しいもので、著者推奨の資料を封筒に入れて入手したときと使ったときに一番左側(端)に置くという「超」整理法で自動的に重要な資料は左側に集中すると論じています。これは正しくまた機能的な方法論だと思いますが、「超」整理法ですでに語り尽くした話で新味はありません。書籍では、目次で全体の位置づけを把握し、特に論文は結論から読み、索引で掲載ページ数が多いもの(キーワード)を見ると述べています。索引は、漫然と作ると、重要語の引用か所がやたらと多くなりますが、引用をきちんと定義部分や重要か所に絞り引用か所が多いキーワードは別の言葉と組み合わせて別項目にした方が実務的に使いやすいと思います(近年、私が編集責任者の第二東京弁護士会労働問題検討委員会編の「労働事件ハンドブック」とその追補ではそういう努力をしています)。そういう工夫をすると、著者の言う通りにはならないと思います。それに、この本の索引を見ると(索引のある本は手抜きをしていない本だということを「是非評価していただきたい」とまでおっしゃるので:112ページ)、別格の「コア」(6か所)、「2:8の法則」(5か所)を除けば、「べき乗分布」と並んで「グーグル」が堂々第3位の4か所、「ジップの法則」「フラクタル性」「ブラック・スワン」「分類」と並んで「アマゾン」「タレブ、ナシーム・ニコラス」が5位の3か所となっています。これがこの本の「コア」なのでしょうか。
 そしてこの本が主たるテーマとしていると思われる「ビジネス」でのコアの見つけ方は、ビッグデータの利用とそのパーソナルデータ利用による「レコメンデーション(お勧め)」表示という一般人は使う側には回れないものの他は、歴史書を読み教養を深める、エスセルを駆使してグラフを書く、有能な人の名人芸を見習うというのでは、類書はコアの見つけ方を書いていない、この本はそれを書くと言い切った「はじめに」での読者との約束を果たしたと言えるでしょうか。
 文章を書くときに「『これ以上削ったらまったく意味がとれなくなるか?』と考えてみましょう。そうでなければ、削りましょう。」(38ページ)とまで言っています。この本がかなりの紙幅を割いている「2:8法則」の説明なり「論証」は、ある意味でどこでも聞く話ですし、もともと厳密な数字でもないと断っているのですから、冗長な説明論証は不要だと思います。頑張って削っているというよりは、むしろだらだら膨らませているように見えます。「2:8法則」自体は数行で説明して、後は実践論に入ればいいのにと思いました。


野口悠紀雄 講談社現代新書 2015年9月20日発行
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アンフェアな国

2016-04-18 00:02:29 | 小説
 刑事雪平夏見シリーズ第5作。
 第3作及びそれに続く第4作から4年後、警視庁警務部監察官室から新宿警察署組織犯罪対策課暴力犯捜査1係に異動になった雪平が、新宿署管内で発生しすでに解決していたはずのひき逃げ事件について目撃者から犯人は別人だと言われて掘り起こしを始め、その背景にあった新宿警察署と暴力団の癒着、権力の陰謀に巻き込まれていくというお話。
 映画「アンフェア」が警察権力の陰謀をテーマとしているのに対し、原作はそれとは関係のない個人レベルの殺人鬼の話ばかりだったのが、映画に触発されたのか、この第5作では国家レベルの陰謀を初めて背景に選んでいます。タイトルは、これまでで一番ストレートで内容にフィットしているように思えます。
 雪平、安藤、林堂、平岡の関係に変化が生じ、あるいは変化の兆しが見られます。シリーズを長く書こうとする作者が、そちらでの話題でもたせようとし始めたということかなと思います。第4作までで存在感を高めていた林堂、魅力を増してきた平岡を、あまり活躍させず、普通の駒にしてしまいかねない作者のやり方には、私はあまり賛同できないのですが。
 また、第5作では、次作への続きを思わせる要素が入り込んできました。これまでは1話完結だったのが、未解決部分を残すようになりました。露骨に「次号に続く」とまでは書かれていませんが、せっかく作品の流れている間は上品になってきたのに、やはり品がないなぁという読後感になってしまいます。
 ちなみに第3作で雪平が撃たれたのが1月4日、第4作で雪平の上司の島津が殺害されたのはその年の3月初めの日曜日なのですが、第5作では、雪平が撃たれたのが4年前(20ページ)で、島津が殺されたのが「もう3年も前の話になった」(25ページ)って…この場面は雪平の新宿署初出勤直前ですから、設定上、雪平が撃たれたのは4年3か月ちょっと前、島津が殺されたのは4年1か月ちょっと前になるはずなんですが。


秦建日子 河出書房新社 2015年8月20日発行
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愛娘にさよならを

2016-04-17 00:03:35 | 小説
 刑事雪平夏見シリーズ第4作。
 第3作で打たれ瀕死の重傷を負い左腕がマヒした雪平が配属された監察官室の上司が妻とともに惨殺され、そこから始まる連続殺人事件を、自らが救えなかったと悔やむ雪平が独自に追い、警視庁捜査1課長山路から雪平につけと命じられた安藤、犯行予告と見られる手紙を受けたテレビ局への潜入捜査を命じられた林堂と平岡が犯人に迫っていくという展開です。
 犯人側の描写に工夫が見られ、なんか変だよなという思い、時期を曖昧にしたエピソードへの疑問が、最終的には無事に1点に集約されるのですが、それでもやはり、無理してる感が残ります。犯行の残虐さ、シリアスさと犯人像の非現実性がマッチしないという印象です。
 終盤は遊園地が舞台となりますが、「東京ドリームランド」の「ミッティー・ラビット」って…この種の言い換えがいつも白けるのですが、ディズニーランドを想定するなら小説なんだから「東京ディズニーランド」「ミッキーマウス」でいいだろうと思いますし、避けるのなら全然別のオリジナルの架空の名称を考えればいいと思います。
 タイトルは、あざとい印象です。


秦建日子 河出書房新社 2011年9月30日発行
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殺してもいい命

2016-04-16 00:01:48 | 小説
 刑事雪平夏見シリーズ第3作。
 第1作及びそれに続く第2作から2年後、雪平の元夫佐藤和夫が殺害され、その口に「殺人ビジネス、始めます」というチラシが差し込まれ、それから連続殺人事件が発生するという展開で、雪平が安藤、林堂、平岡を巻き込んで型破りな行動で犯人を追っていきます。
 意外な結末を狙って、犯人像・犯行動機に無理をしている様子がありありで、読み終わってストンと落ちませんが、展開の妙とスリリングさは味わえると思います。
 毎度、雪平に犯人を射殺させるか、雪平が殺されかけ、瀕死の重傷を負うというパターンには閉口します。この作者には、キャラ立ちさせ、作者を潤している雪平への愛はないのか、単なる消耗品なのかという疑問を感じます。
 「どうしてマスコミは、連日こんな報道ばかりするのだろう。その報道が、第二、第三の類似の犯罪を生んでいるという自覚はないのだろうか。間接的に、自分たちも犯罪に手を貸しているという自覚はないのだろうか。」「何かしたくても、具体的に何をすればいいのか自分では思いつけない男は世の中にたくさんいる。そういう連中に、『方法』を教えているのが今のマスコミだ」(116ページ)…そういう面はあると思いますが、残虐な殺人事件の描写で商売しているミステリー作家に、それを言う資格があるのかと、より強く思います。
 第1作、第2作についている(第4作、第5作にもついている)登場人物の一覧表が、この作品にはついていません。冒頭で、27ページまで名前を出さずに描写している雪平を、雪平と気づかせたくないためでしょうか。殺された男の名前が22ページで登場し、第1作、第2作を読んだ読者なら、それが雪平の元夫の名前だということは、登場人物の一覧表がなくてもわかると思うのですが。犯人周辺の者の紹介がしにくいからということなんでしょうか。通常の推理小説では、当たり障りのない紹介をして、問題なく登場人物の一覧表を作っているのですが。
 第1作、第2作でフォントや組みを変えたり黒い背景に白抜きにしたりの仰々しいページが入れられていましたが、第3作ではそういうやり方は改め、一部のエピソードとグレーのページにしてあります。そこは、後で読み返したくなるところなので、色が違うことで探すのが楽になっていて、本として以前よりは上品になり読者サービスにもなっていると思いました。


秦建日子 河出文庫 2011年7月20日発行(単行本は2009年10月)
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アンフェアな月

2016-04-15 01:41:34 | 小説
 刑事雪平夏見シリーズ第2作。
 第1作の「推理小説」の連続殺人事件解決直後に発生した乳児誘拐事件に、錯乱した母親の事情聴取のために女性刑事が行く必要があるとして応援に投入された雪平が、特殊班の警部補林堂航、新人刑事の平岡朋子とチームを組み、第1作からコンビの安藤一之とともに4人組で型破りな捜査に取り組むという、その後のシリーズの枠組が作られます。
 犯人像・犯行動機の設定にやはり無理があり、終盤で捜査担当者にはその仮説が見え意見が一致していたというのだけれど、いやぁそういうふうに普通見ないでしょと思います。
 医者について、林堂の台詞「努力して努力して、とうとう医者になれた自分を、世界中に尊敬して欲しかったんだろう」「でも、現実は違う。病気を治して当たり前。患者が死ねば、自分に落ち度がなくても罵られる。」(290ページ)。う~ん…弁護士やってても、自分は正しいんだから勝つのは当たり前、負けたら弁護士が悪いって言いたがる依頼者いますもんね。弁護士会で苦情受付担当とか法テラスで不服審査の担当やってると、そういう感じの人を山ほど見ます。そういうの見る度、こういう人の依頼は受けたくないなぁ、自分が当たらなくてよかったと思います。もちろん、そうでない依頼者も多数いるから、弁護士やっていけると思うわけですが。
 第1作に比べると、文章の気負い・力みが少しほぐれて読みやすくなってきています。タイトルは、ストーリーにフィットしてきましたが、「アンフェアなのは、誰か」の栞で有名になったこのシリーズになぞらえれば、アンフェアなのは月ではなく、「ちびっ子のための理科クイズ」の問題文(225ページ)でしょう。


秦建日子 河出文庫 2008年5月20日発行(単行本は2006年9月)
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推理小説

2016-04-14 22:25:18 | 小説
 「アンフェア」のタイトルでテレビドラマ・映画化された刑事雪平夏見シリーズの原作。
 テレビドラマのシナリオライターとして活躍していた作者が小説家としてデビューした作品だそうで、タイトルのみならず、文章もかなり気負っていて、力が入りすぎて少し読むのが気恥ずかしい。そして、いかにも脚本家らしく、小説としては場面転換(カット割り)が多く、その場面転換が時々時間の前後を説明せずに曖昧に展開したりして、読みにくい。同じ文章の繰り返しも、多くて、くどい感じ。
 映画を見てから(テレビドラマは見てない)読むと、映画のストーリーの警察組織の陰謀とかの権力を背景にした黒幕などとは無縁のお話で、共通点は、雪平のキャラ設定だけに思えます。独断専行、ルール無視、殺人現場で寝転び被害者が最後に見た風景を感じることにこだわる警視庁で検挙率No.1の「無駄に美人」の警部補という設定の魅力で読ませているというところでしょうか。その設定でも、検挙率No.1は、射殺した少年が恨みがましく「ずるいよ、あんた」と言ったり、人殺しの娘といじめられた小学生の娘美央が雪平に「ママは人殺しなの?」と聞いたり嫌う様を夢で見るのがいやで、不眠症になって1日20時間も働き続ける結果だとか、起きている間は浴びるように酒を飲み、汚部屋で全裸で寝るとかいうあたりは映画では採用されていないように見えますが。
 その後のシリーズも含めて、犯人像・犯行動機の設定で無理をしている感があり、本格ミステリーにはなれない、ややコミカルで、しかし犯行は残虐さを強調しすぎという印象のミステリーになっています。


秦建日子 河出文庫 2005年12月30日発行(単行本は2004年12月)
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64 上下

2016-04-10 18:57:38 | 小説
 平成14年(2002年)12月、刑事部出身の警視三上義信が広報官を務めるD県警を、昭和64年(1989年)1月に発生したまま未解決の少女誘拐殺人事件(翔子ちゃん誘拐殺人事件:通称64(ろくよん))を理由に警察庁長官が視察に訪れることになり、視察をつつがなく執り行うために実名発表問題でこじれている記者クラブとの関係を修復するよう厳命を受けた三上が警務部の上司の指示に反して刑事部から事件情報を入手しようと画策する中で、長官視察をめぐる本庁と本庁とつながるキャリア・警務部の思惑と刑事部の反発、64の遺族の不信感とD県警刑事部の秘密が錯綜し、刑事部出身で今は警務部・広報官という三上が身の処し方に窮していくという展開の警察小説。
 組織の論理が個人の信念や正義感を押しつぶし、その中で信念を貫きたい者、せめて面従腹背したい者がどういう道を選ぶか、といったあたりがテーマであり、読みどころとなります。主人公の三上を、刑事部出身で本庁・キャリア・警務部に魂を売りたくないという思いを持ちながら、しかし娘の高校生あゆみが家出をして音信不通になり全国捜索依頼中という弱みを握られて、キャリアの警務部長/警務課長に服従せざるを得ないという設定にして、度々煮え湯を飲まされるシーンを描いています。親にとって子どもはたいていは最大の弱点で(その点について、親の心子知らずであることも多いと思いますが)、それを人質に取られる苦悩を、誘拐事件の捜査/勃発と重ね合わせています。組織に押しつぶされる様の哀しさを三上だけでなく、信念を貫いて告発した者の行く末でも併せて描き(上巻304~305ページ:泣けてきます)、重みを増しています。
 様々な場面で様々な問題を二重三重に重ねて想起させながら展開し、いくつもの布石が生きてくる、ミステリーとしての読み応えのある作品です。三上の娘のあゆみの家出問題が、ちょっとその動機、その後の顛末とも今ひとつ感があるのが難点に思えますが。


横山秀夫 文春文庫 2015年2月10日発行(単行本は2010年10月)
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辺境生物はすごい! 人生で大切なことは、すべて彼らから教わった

2016-04-07 23:03:31 | エッセイ
 「科学界のインディ・ジョーンズ」と呼ばれているらしい(3ページ)「辺境生物学者」を名乗る(4ページ)著者が、北極や南極や氷河、砂漠、深海などの極限的な環境で生きる辺境生物を題材にしながら、自分の人生や研究歴、処世訓等を語るエッセイ。
 タイトルや最初の方の記述から、極限的な環境で食べ物やエネルギーを節約しながら生きる微生物の生態の紹介をメインにする本かと思って読み始めたのですが、著者の言いたいことを、様々な生物を引き合いに出して正当化するという本で、引き合いに出される生物も最初の方はタイトル通りの著者の研究対象の辺境生物ですが、後の方では普通の猿やネアンデルタール人とか何でもありになってきて、様子が変わってきます。
 最初の方の海底火山の熱水噴出口付近の環境とそこに住む生物の話とか、ダイオウグソクムシは5年間絶食しても生きていられる(34ページ)とか、興味深い話は多数ありましたけど。


長沼毅 幻冬舎新書 2015年7月30日発行
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二重生活

2016-04-06 01:50:42 | 小説
 不倫相手の男が癌で死んだことから意欲を喪失して留年を続け、就職したくなくてモラトリアムを延ばすために父親のすねをかじって大学院在学中の25歳の白石珠が、年増女優の運転手を務める卓也と同棲中のマンションの部屋から見下ろせる住宅に住む出版社勤めの男石坂史郎を尾行し続け、石坂の不倫相手澤村しのぶとの密会を記録し、石坂と妻との修羅場を監察しながら、自らはその秘密を卓也に知られまいとしつつ、その過程で卓也も女優と関係を持っているのではないかと猜疑心を持ち妄想に苦しむという小説。
 珠は、石坂を尾行することを、フランス文学のゼミで指導教授篠原弘が言及した「文学的・哲学的尾行」の概念で正当化し続けています。しかし、篠原が述べたのは、「或る人物の後をつける、ということは、その人物の人生を疑似体験する、ということと同じ意味を持ちます」(5ページ)「たとえば、街でたまたま見かけた或る人物を、何の目的も持たずに、尾行する人間がいたらどうか」(6ページ)ということで、それは尾行者が通常ならば立ち寄らない場所へ趣き通常ならば目を向けないものに目を向け通常ならば知らないことを知るという、尾行対象者の行動を通じて視野を拡大する、ということを意味し、同時に尾行の間自らの行動を尾行対象者の主導に委ねて自らを忘れ、その両者を通じて短期的観念的に彼我の人生の交換を疑似体験するというようなことだと思います。それはあくまでも、まったく見知らぬ利害関係のない対象者について、まさしく通りすがりの誰かもわからぬ相手をその相手の素性を知ることなく/知ろうともせずに、行うからこそ、哲学的行為で通俗的なストーカー行為ではないと言っているのであり、珠のように住所氏名を知る近隣の者を対象とするのは、その最初から好奇心/覗き見趣味によるものとしか考えられず、これを「文学的・哲学的尾行」などという概念で正当化しようとする/正当化できると考えること自体、神経を/思考力を疑います。
 10年前に妻(珠の母)が死んだ後5歳年下の女性とともにドイツで暮らす父親を「父はいつだって、信じがたいほど自己中心的だった」(74ページ)という珠は、妻子ある男と不倫関係を続けた挙げ句その男が死ぬと勉学をする気力を失い仕事もせずにその父に学費と生活費を全面的に頼って大学院でぶらぶらとしています。同棲相手の卓也が運転手を務める女優の息子について「ただの、労働意欲に欠けたパラサイト息子」「いい年をして仕事につこうともせず、引きこもってばかりいる息子」(195ページ)などと非難しています。ふつうならその言葉は自分に返ってくるという意識を持つと思うのですが、そういう描写はまったくありません。自分は石坂に声をかけられることを期待し、後日2人で飲みに行きながらそのことを卓也には嘘までついて秘匿し、卓也と女優の関係については邪推し皮肉・嫌みを言い続けます。作者は、このジコチュウでバランスを欠いた主人公に身勝手な理屈で自分を正当化し勝手なことを言い続けさせることで、人はこんなにも自分勝手で自分のことしか考えないものだと感じさせたいのでしょうか。
 篠原教授が、珠の尾行の告白を聞いて、実際に文学的・哲学的尾行をしたと評価し、「白石さんはそれを軽々とやってのけた」(282ページ)などというのは、心外な感じがしましたが、「尾行している側は、決して対象者と接触しようとしてはならず、また、尾行されている者は決して振り返ってはならないのだと。それがこの種の尾行の鉄則なのです」(287ページ)という下りは、やんわりとたしなめているのかも知れません。通常は、主人公の目線で物語を読むのですが、この作品では、珠の信じがたいほど独善的でジコチュウな感覚にとてもついていけないことと、中高年男という設定から、つい篠原教授の目線で読んでしまっていたので、篠原教授が、珠に誘われて、やはりやんわりと断る下りにホッとしました。


小池真理子 角川書店 2012年6月30日発行
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