鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

イエスも7回血を流していた

2005年09月04日 | 春平太チャペル



麻薬密売人上がりのハッチ牧師の話の続きです。

彼は、人間が生きていて犯していく罪と、これを代償するイエスの血の力を探求した。それは前回話しましたね。

旧約聖書では、至聖所に入ることのできた祭司は、そこで、人民の罪を贖うためとして、子羊の血を振りかけました。聖書には7回血を振りかけるべし、という命令が書かれていました。祭司は、それに従って、カーテンなど7カ所に子羊の血を振りかけました。

 旧約聖書に書かれていることは新約聖書に書かれていることの影のようなものである。あるいは、新約で明らかにされる本物を、先んじてたとえでもって示しているものである。

 そうすれば、旧約で、子羊の血を七回振りかけよという創造主の命令は、イエスが流した血とも対応しているのではないか。そう考えたハッチさんは、イエスが血を流す場面を改めて調べてみました。

@      @      @


彼の聖書再検討の結果は、7度でした。
具体的には、次のごとくです。


①ゲッセマネ園で祈りをした時、イエスの皮膚から、血の汗が流れた。

②棘の冠を押しつけられたとき、イエスの額から血が流れた。
  
③むち打たれたとき、イエスの背中から血が流れた。

④手に釘を打ちこまれたときイエスの、手から血が流れた。
  
⑤足に釘を打ち込まれたとき、イエスの足から血が流れた。
  
⑥ローマ兵士がイエスの脇腹に槍を刺し通したとき、イエスの脇腹から血が流れた。
  
⑦様々に打たれることによって、イエスの皮膚の下では内出血した。


@      @      @

  
~~⑦については、若干の説明をいたします。

 イエスがユダヤ教の司教たちやローマ兵士に捕らえられてから、死んで墓に葬られるまでに受けた拷問を史実を調べて、正確に再現しようとしたのがメル・ギブソン監督です。

 彼は、従来のイエス映画が、その点で、正確でないと感じて、「パッション」という映画を作りました。日本でも最近上映されましたね。

 この映画では、イエスのまぶたが殴られて腫れ上がっていましたね。片方の眼がふさがれて見えにくいほど紫に腫れ上がっていました。たとえば、このまぶたの内側は、内出血しているわけです。外に血は流れ出していませんけれど、皮膚の内側では出血しています。

ハッチさんは、これも出血であると数えました。すると、ちょうど7回になりました。

@      @      @

 彼は、これで合点した。そうだ、イエスが拷問を受けて流した血は、旧約聖書の時代に、祭司が至聖所で振りかける子羊の血に対応しているのだ~~と。

 祭司は、毎年毎年、民が犯した罪を子羊の血で贖いました。毎年毎年ということは、こういうことです。すなわち、ある年に贖っても、人は又次の年に罪を犯します。その罪は、また新たに子羊を屠って流した血を振りかけることでもって、代償されねばならなかった。

 究極の生け贄であるイエスの血は、毎年流す必要はありません。だが、人は、ある罪をエスの血で贖われても、又罪を犯します。その罪も又、イエスの血で贖われなければ(代償されなければ)ならないのだ。我々は、毎日、イエスの血を必要としている。しかし、その血を想起し宣言すれば、各々の罪は代償されるのだ、と。

ハッチさんは、ますます、イエスの血の力に関する確信を、深めていきました。
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イエスの血は、この世で罪を代償する

2005年09月03日 | 春平太チャペル


牧師の皆様、ひいては、クリスチャンのなかには、
霊的な力を希求しておられる方がおられると思います。
人の病を癒したり、貧困の呪いから解放してあげたりする力です。
聖書には出来ると書かれているけれども、実際にはベニーヒンなど、
一部の人を通してでしか現れない。

 牧師をしていても、単なるクリスチャンをしていても、この世で苦しんでいる人によく対面します。
まるで拷問を受けているような苦しみの中にいる人もいる。
何とかしてあげたいと思いますが、力がないことにはどうにもならない。もどかしいです。
自分を通して力が現れたら、どんなにいいでしょうか。鹿嶋もそう思っています。


 そうしたなかで、希望を抱かせてくれそうな福音テレビ番組に、米国で出会いました。
登場した牧師さんの本を読みました。今日は、それをご紹介します。

 その人は、Larry Huch(ラリー・ハッチ)牧師です。
彼は麻薬密売人あがりの牧師です。著書は“Free at Last”といいます。


                    


 ハッチさんは、米国の貧しい地域に生まれました。家族は何代も、貧しいままでした。
貯金はいつもゼロのあたりを上下していました。
ということは、周期的にお金のない状態に追い込まれる経済状態です。
彼は若いとき、自分は経済的に余裕のある人生を送りたいと切望しました。

 そのために、一気にお金のはいる職業に就こうとしました。
まず花形のスポーツ選手になろうとしました。短期に多額のお金が入るからです。
だが、身体的限界にぶつかりました。

 そこで、麻薬の密売に手を出すようになりました。
それが徐々に高じて、南米まで行って密輸入をするという、プロにもなりました。
銃を抱いて眠るというすさまじい生活を送りました。


                    


しかし彼は、いつもいのちをねらわれる人生に疲れ果てました。そして、キリスト教に入信します。
教会では、イエスの十字架死の救いを信じることによって、人は救われ、
この世でも祝福を受ける、と説教していました。

ハッチさんは、経済的な祝福を受けたいと切望しました。
イエスが人類の罪の代償のために、自ら死んでくれた。
それによって自分たちは罪の許しを受け、救いを受けたと信じました。

 そして奥さんとともに、クリスチャンとして完全な暮らしを試みました。
主日には必ず礼拝に出席する。タイス(十分の一献金)も正確に行いました。

 ところが、彼と奥さんの生活は、一向によくなりませんでした。
彼は、なぜなのだ、どうしてなのだ、と聖書を探求しました。
 

                    


 そしてあるとき、イエスの血に関する旧約聖書の聖句に、特異な点があることに気付きました。

 旧約では、祭司たち聖職者が幕屋という聖所で罪の赦しを祈ることが、
創造主からモーセに命じられています。ユダヤ民族はその命令に従います。

 聖所の中に、至聖所という究極の祈りの場所とでもいうべき所があります。
そこには毎年、選ばれた一人の祭司が入ることが出来ます。
彼は屠られた子羊の血を、7度至聖所で降り注ぎます。
そして、この一年間にわたる、民の罪の贖いとするのです。これを、毎年行ってきました。

                    


 ハッチさんは考えました。

旧約聖書に書かれていることは、新約聖書に書かれている真理と対応している、といわれる。

 旧約聖書で血を流し、殺される子羊は本物であるイエスの影のようなものだ。
イエスを子羊でもってたとえて示している。

 だから、人の罪の本物の代償は、イエスである。
そして、旧約で子羊の血でもって人の罪を代償しているなら、その示しているところの本物の真理は、
イエスの流した血が人の罪を代償することである。

 子羊の血は、毎年流されねばならないが、イエスは本物だから、
その血は一度流されたら永遠に有効である。永遠の贖いの力を持つものである。

 人は救いを受けても、毎日罪を犯す。その罪が人に呪いをもたらす際の、悪魔の口実になる。
しかし、その罪を贖うのは、イエスが流した血なのだ。
そのことを強く主張すれば、悪魔は人に呪いを与えることは出来なくなる。
そのことへの無知が、悪魔の呪いを許してしまっているのではないか。


                    


そこで、ハッチさんは、イエスの血で自分の罪と呪いは代償されたのだ、
と祈りの中で主張するようになりました。

そうしたら、薄皮をはがすように、呪いから次々に解放されていった。
麻薬中毒、アルコール中毒、激怒症、貧困から解放されていった~~と彼は証言しています。

                    


<知らなければ真理も人を解放しない>

その体験から彼は言っています。
 「真理は人を解放する」というが、実態はそうではない。
 正確には「知った真理・理解した真理」がその人を解放するのだ、と。

彼は、牧師になりました。
そして、この方法で、多くの人を呪いからの解放に導きました。

 現在、米国に四つ、オーストラリアに二つ、教会を開き、運営しています。
オレゴン州、ポートランドにある母教会は、会員が5000人を超えるといいます。


                    


 彼は、テレビ番組も持っています。
テレビで彼の礼拝を見ていますと、礼拝終了後に、問題を抱えた人々が講壇に集まります。
彼は、一人一人、両手で頭を挟むようにして按手して祈ります。

 按手を受けた人が、必ず倒れるわけでもありません。
倒れる場合もありますが、ベニーヒン牧師のように次々に倒れるというようなとはありません。

 ところがそれで、信徒たちは、生活上の問題、呪いから解放されていくようです。
それで、教会に多数の人が集まっています。

 本日、鹿嶋は何を言いたいか。
 多くの人はベニーヒンのようなことは、とても出来そうにありません。
だが、そういう人でも、ラリーハッチさんのこの手法なら、できるんではないか。
それでもって、結果が出るというのなら、これは貴重な知識ではないか。~~これであります。


                    




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汎神論に向かう21世紀日本人の霊界意識

2005年07月18日 | 春平太チャペル

 21世紀に入って、日本では相変わらず宗教化の志向が続いていますね。
ビジネスマンや奥様族に、この傾向のものを学び始めている人が増えているみたい。

<体験的霊界論セミナー大盛況>

本屋の店頭から推察しますと、これにはオピニオンリーダーがいるようです。
まず最近売り出し中は、天外伺朗(てんげしろう)さん。
この方はソニーの研究所でCDプレーヤーやロボット・アイボなどの新技術開発をリードされた技術者(本名は土井さん)です。
その本業と論調とが科学的であることが相まって、ビジネスマンに信頼されやすいようですね。
科学的アプローチでもって、霊的な現象に論究する。
最近では、インディアンの世界に入っていって、そこで観察したことを科学的な論調で解説しておられます。
これを、ビジネスマン向けセミナーでやっておられる。
そこでは瞑想法も教えています。
参加者が多く、静かなブームなようです。

もう少し古いところでは船井幸雄さんもその一人です。
経営コンサルタント会社・船井総研の創業者です。
彼は以前から、霊的な世界のことをビジネスマンに紹介していました。
米国・カナダでの輪廻の研究を紹介した、福島大学の先生の論文を、ビジネスマンに紹介したりしていました。

この傾向はすすみ、最近「人は生まれ変わる」とかいう本を出しました。
自らも、輪廻の理論を研究し、その成果を発表したものです。

ビジネスマン世界では、相変わらずセミナーブームです。
最近は、心理学セミナーというのが流行している。
そこでの講師も、霊感的な話を多くする人が受けているようです。
衛藤とか言う先生は、その代表なようです。

<科学は経験をベースにする認識手法>

こういう現象を、ある日本のキリスト教指導者に話したことがあります。
「いよいよ日本にも福音伝道の土壌が満ちてきた」と喜んでおられました。

しかし、鹿嶋にはそう話は簡単でもなさそうだ、と思えてなりません。

霊界への「科学的」アプローチというのは、瞑想体験や霊視(霊が見えること)などの感覚的な体験を手がかりになされます。
常に、体験をベースに霊的世界を論じていくわけです。
科学というのは、そういう経験主義をベースにする認識の手法ですから。

それ故にまた、ビジネスマン・奥様族に信頼されるわけです。
上記のようなセミナー講師は、瞑想法も体験させ、受講者個々人にも霊的体験を味わわせています。
その体験につなげて、霊界論を述べますので、受講者は安心感をうるのみならず理解もしやすいわけです。
自らの体験につなげて、なるほどなるほど、と話を納得できますからね。

<聖書メソッドは「言葉から霊感へ」>

だが、こうして得られていく霊界理論と、聖書の教える霊界理論とは大きな隔たりのある点を持っています。
聖書では、霊界のすべてを統率する全能者として、創造主(英語ではゴッド)の存在を教えます。
そこでは、ものには“いのち”があることについて、否定はしませんが、それは創主を源とし、そこから放射されているもの、という認識をします。
そこで、霊界理論を学ぶ究極の目的は、この創造主を知ること、となってきます。
聖書で「知る」というのは、「体験する」という意味です。
だから、結局は体験手認識を求めるのですが、その出発点は体験ではありません。
特殊なケースをのぞいて・・。

創造主は、出発点では、言葉によってその理屈を知ることから始まります。
言葉とは、聖書の言葉です。
これを聖句といいます。

まず、聖句でもって、論理として学習する。
それによって、ゴッドのコンセプト(イメージと考えていい)を、論理的に詳細に知ります。
体験は、その後で求めます。
創造主の体験をゴッズ・プレゼンス(God's presence)といいます。
(日本では「神の臨在」などと言われていますが、これを神と言っていてはだめだ、と鹿嶋は繰り返し伝え続けています)
が、ともあれ、聖書では、まず言葉による学習、それから、体験という方向に進みます。

<人の霊感は全方位>

どうしてそんな迂回的なことをするか。
創造主は、簡単には霊感的に体験することができないからです。

人間の霊感というのは、全方位なものです。
そして、聖書では、この世には様々な霊がいる、と教えています。
そして、創主以外の霊は、みな究極的には、危険な霊だという論理です。

それもあるから、まず、霊感の方向を正しくコンセプトでもって定めることが必要だ。
それには、言葉(概念、コンセプト)の助けを得ることが必要なのだ。
それによって、明確な“人格”をもったゴッドを知るのが第一歩だ。
それを学んでいる間は、体験的な霊感は得られない。
だけど、このステップは必要。
(ニッポンキリスト教は、これがすべてだと思って、この段階でとどまっていますけどね。だから、正常な神経の持ち主は、あきれて、離れてしまっていますけどね。ニッポンキリスト教は特殊ケースです)
これが聖書の論理です。

<結局汎神論に至る>

現代日本の科学的、体験的アプローチによる霊界理論には創造主に関する明確なコンセプトがありません。
面白いことに、万物の創造者が存在することは、否定していないのです。
だけど、それはバクゼ~ンです。
だから、意識の中ではとおくにかすんでいます。
存在してもしてなくても、どうでもいいような存在。

それでいて、世の中を霊的に見ることに目覚めていますので、霊的なものは感じます。
それを自然や道具など物質に感じていきます。
すべてのモノに”いのち”(という霊的ななにかなにか)があることを感知しています。
その結果、汎神論(pantheistic view)に至っています。

汎神論とは、「すべてのものは神であり、かつ、神の中にある」という思想です。
それは「宇宙が神」という思想につながっています。

これはアメリカインディアンにとてもポピュラーな思潮です。
彼らの場合、この思想は生活・伝統行事の中での霊感体験とも融合しています。
天外さんが、インディアンの風習に傾倒して行かれるのも、納得ですね。
こういう方向は、前述したように、手応えはありますけれど、宗教思想の類型においては、汎神論という原始的なタイプです。

<多神論もあるよ>

類型にはいろいろあって、多種類の神がいるという思想もあります。
これは多神論(plytheietic view)といって、古代のギリシャに代表的に見られます。
東洋にも伝統的にこれが多いです。

<有創主論>

 聖書の教える見解は、有創造主論(theism: atheism無創主論の反対語)に含まれます。
(これを有神論と日本人は訳していますが、間違いです。繰り返し鹿嶋が述べてきているように)
有創主論とは、人格を持った創造主がいる、という見解です。
聖書では、その中でも、創主は「人間を、自ら代価を払って罪ある状態から買い戻そうとする」、そういう人格を持っている存在と考える。
そしてまた、「人間が個人的な関わりを持つことのできる存在」という思想です。
こういう創造主が存在すると前提するので、聖書のような豊富な内容を持った論理体系ができるのです。
ただ、漠然と創造主がいるようだ、という前提からは、単純な論理体系の思想しかできません。
(だからまた、懸命になって霊的体験を得ようとするのでしょうけど)


<ウイリアム・ジェームズの心理洞察>

天外さん的霊界理論に傾倒しているあるビジネスマンと、鹿嶋は話したことがあります。
彼は「これからは科学ではない。宗教でもない。宗教は、理屈だけだ。理屈で人を縛る。これからは霊的世界の科学的な探求なのだ。我々はもう一歩先を行っている。科学・宗教はもう古い!」と張り切っていました。

理屈だけの段階にとどまっているのは、宗教ではなく、現代日本の仏教やキリスト教など「官僚化し形骸化した伝統宗教」だけに対して当てはまることです。

なのに、この人にかかると、シャカもキリストも、霊界を理論でもって探求した人になってしまうんですからね。
で、瞑想による霊的体験をベースに波動理論などの科学を用いることのできる我々は、シャカやキリストより先に行っている~~となるんですから。

まあ、そんなことで幸せでいられるならば、それもいいことにするか。

「人間は、これまで気づかなかった世界に気づくと、その瞬間心地よい統一感を心に得る。そうするとしばらく、自分は世界のすべてを悟ったのだという陶酔感に浸る」

~~哲学者にして心理学者のウイリアム・ジェームズはこういう主旨のことを言い残しています(W.ジェームズ『「プラグマティズム』)

こういう段階にある人には、何を言ってもムダであります。
もちろん「時がよくても悪くても(福音を)のべ伝えなさい」というイエスの命令はあります。
福音伝道者は従うべきでしょうが、その土壌の性質をよく悟った上で行動すべきでしょう。

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永続確信が「この世で」もたらすもの

2005年05月01日 | 春平太チャペル
              



今回は、永続確信が、来世に行くためだけのものではない、という話をいたします。
「人間死んで終わりでない」という確信を持つことは、より幸せなこの世を造るにも貴重なプレゼントを与えてくれるのです。

<親友との再会>

最近鹿嶋は、一年ぶりに日本に帰国して二人の友人に会いました。
春平太より、ほんの少し年下です。共に60歳近い親友です。
ふたりは経済的にはとても恵まれた環境に生まれ育ちました。
どちらも従業員150~300人の中規模メーカーのオウナー創業経営者の息子です。

この点は似ていますが、その置かれた立場は対照的でした。

一人は長男で、親の会社をそっくり受け継ぎました。
両親が90歳過ぎまで会社に君臨し続けました。
ご本人は、大手企業で働いていました。
そこで部長クラスまで上り詰めていたのですが、両親の相次ぐ死によって、急きょ親の作った会社に帰りました。
トップに立って、一年が過ぎていました。

もうお一人は、三男さんで、何も受け継げませんでした。
長男のお兄さんが社長を務める会社の重役の一人として働いてきました。
親父の作った会社であるにもかかわらず、長男の意図で、60歳で定年として会社を去らねばならなくなりました。
老後を暮らす手段は、創業者の親から豊かに与えられています。
けれども、仕事に関して言えば、次に何をするかは決まっていない状態でした。



<20年間を意識するのは苦痛>

会社を継いだ方の長男友人との会話の中で、私はこんなことを口にしました。
「まあ、君はこれから、80歳まで社長をするとして、20年間あるよね。その間に何をし、何を残しておこうと思う?」

すると、彼は苦痛にゆがんだような顔をしました。
「そんなに長く先を考えたことなどない。自分は両親のように長生きできないと思っている。そもそも、何時ガンで死ぬかも知れないじゃないか。一年一年、その時その時を懸命にいきるのみさ」

親の造った会社を去らねばならない三男友人との会話でも、似たようなことをいってみました。
「このまま悠々自適で暮らすにはエネルギーをもてあますだろう。やはり、小さくても何か起業でもするとなると、その会社をやるのは20年、80歳くらいまでだろうな。その間のこと、何か考えてるか?」

すると、彼も苦しそうに顔をゆがめました。
「そこまで生きられるかどうかなど、全然わからない。まあ、還暦過ぎたら、一日一日を充実させ、気持ちの上では“明日なきいのち”を生きるだけさ」

<日本男児の心理状態>

親友の苦痛の表情は、私には予想外のものでした。
私は改めて、還暦の60歳を過ぎようとする日本男児の心理状態について考えざるを得ませんでした。

二人とも、死ぬまで経済生活には全く困らないだけ、いや、それを遙かに超えた財を親から残されています。日本では、成功した企業創業者は巨額の財をなせるようになっております。それが妻や子孫に残されます。それをうけた子孫も、財産的には、贅沢三昧をし続けてもまだ残るような状況になります。

その彼らが、先のことに想像を巡らせようとすると、苦痛に顔をゆがめました。
共にその話題から意識をそらそうとしました。

なぜでしょうか?

おもに、恐怖感が浮上するからだと推定されます。
どういう恐怖感か。
死ぬときは苦しいだろうなあ、痛いだろうなあ、というのもあるでしょう。
だが、決定的なのは死んで消滅して何もかもなくなるということへの、恐怖感です。
 
<一日一日を充実、は庶民の美徳>

日本人には全般的に、永続確信は薄いです。
薄いと結果的に「死んでおしまい」、という意識が強くなります。
すると、人間は、死んだ先のことを考えるのを怖がります。
その結果、本格的に冷静になって、長期視野でものを考えることが出来なくなります。

それはそれでいいかもしれません。
どうせ死んでおしまいならば、その日その日を充実させよう。
こう開き直って“明日なきいのち”を燃やすのもいいでしょう。
個人の自由は貴重です。


ただし、それは庶民にとってのことです。
リーダーの立場に立っていく人はそれではいけません。
リーダーは、長期を冷静沈着に眺めて、20年だけでなく、50年、100年に想像力を巡らせねばならない。
百年の計、といいます。
彼は「一日一日を燃えて生きる人々」を間違わない方向に導くべき立場にいるのですから。

<ダイエー、中内さん>

滞米中に、日本での印象的なニュースを目にしました。
それが上記のことに関連をもつように感じられ、記憶に残りました。

一つは、スーパーマーケットで巨額の財を一代でなしたダイエーの中内功さんについてです。
彼は結果的には、創業した企業の経営権をあまねく失ってしまいました。

最盛期には彼は小売だけでなく、ホテル、不動産・就職情報会社、プロ野球団をも統合した一大企業体を統治していました。

そして、それを自分の長男、潤さんにそっくり受け継がそうとしました。
日銀などから幹部人材を引き抜き、息子の周囲を固めるブレーン作りもしました。
こういう風に人事的に手を打っていきました。

彼は70歳近くになってからは、それにほとんど没頭した。
ということは、パブリックマインド、公共心が二の次になったということです。
いうなれば、自分のエゴを全面にむき出しにしていったのですね。

カリスマ的な創業企業の従業員は、トップに似るものです。
知らず知らずにボスを真似て同化していくのですね。
だから、トップがエゴイズム・利己心に走ると、会社のあちこちでも、社員が自分の個人的利益を主目的にして言動するようになります。
そうすると、企業はもう収拾がつかなくなっていきます。

個々の支店にも、信じられないようながらくたが、安価で陳列されるようになりました。
そんなものは売れませんが、とにかく陳列していた。
末期に向かう時期のダイエーはそうなっていました。

そして、バブル崩壊の中で、巨大な借金を抱えた、借金漬けの企業となった。
かくして人手に渡っていきました。
それは多くの社員をも苦境に陥らせています。

<西武の堤義明さん>

もう一つは西武グループ企業のオウナー経営者堤義明氏に関する情報です。
これもマスコミで大きく騒がれていた。
彼も、西武鉄道を初めとする巨大企業体のトップに立っていました。

ダイエーもそうだったのですが、西武企業集団も株式を上場し、公衆から資本を集められる体制にしておりました。

上場企業は、ボスの所有する株券の比率が、法的に制限されます。
こうして、個人の支配力に上限を設定する。
上場すると一般投資家の資金を募ることが出来ます。
そういう制度の恩恵をうると言うことは、それだけ、その会社が公共的・パブリックな存在として認められることでもあります。
そうすれば、相応の義務もついてくるのが当然です。
そういう理解で、少数者の支配力が直接及ぶ株数は西武鉄道などにおいても制限されていました。

ところが、西武では、多くの株式の名義を社員のものとして報告していました。
それらの株券は実質、堤さんのもの。
だからその、支配権は絶大でした。

彼の場合は、二代目でした。
彼は創業者の父、堤康次郎氏から、そういう体制のまま、西武企業集団をそっくり受け継いだということです。
親の代から、西武ではそういう方式をとっていたわけですね。
けれども、株券という紙の書類で、名義の件が処理されている間は、
証券取引所も、それを確認することは困難でした。

ところが、IT時代になって環境条件が一変しました。
株券の名義を、みな、電子メディアに登録しなければならなくなった。
すると、証券取引所に報告してあった株主名簿と、実際の名簿との不一致が簡単にわかってしまうようになります。
急いで実質オウナーのものとなっている社員名義の株を売却して逃れようとしました。
ところが、「もう少し高くなってから売れ」とかいう、従来の義明さんからしたら想像できないような命令が出たりして、売却も遅れた。
そうしているうちにばれてしまった。
違法行為が明るみに出て、彼は親から受け継いだ企業体の経営権を、まるごと取り上げられてしまいました。

<大企業は社会の公器でもある>

ダイエーにせよ、西武にせよ、あれだけ巨大になったら、企業は社会の公器です。
やはり、その長期視野にの基礎に、はパブリックマインド(公共心)が位置づけられてなければなりません。

これを、自分の血筋に独り占めさせようとする気持ちは、トップの心の中にどうして起きてくるのでしょうか。

<公器を強引に独り占め>

西武でとられてきた方式は、親の堤康次郎さんが考案したものでした。
この人は、滋賀県か何処か関西の出身だそうです。
先祖代々の土地を処分して、東京で巨大企業集団を作り上げた。
しかし、それは、堤家を再興したもの、というのが、康次郎さんの基本的な理解だったそうです。

どんな巨大な鉄道会社でも、ホテルチェーンでもそれは、堤家の財産です。
だから堤家の私的コントロールの下にあるようにしておかねばならない。

ところが、会社拡大のための資金は、株式を上場して大衆投資家から吸い上げている。
そういう企業は基本的に個人や家族の支配下におかれていないもの、というのが条件です。
ところがその一方で、私的支配下におこうとすれば、結局ことを裏で操作するしかなくなります。
それが延々と続けられてきた。

義明さんは、それを受け継いだだけ、と言えないこともないかも知れません。
だが、彼もそれを維持し、そこに君臨し、かつその支配権を堤家の子孫に手渡すことを望みました。
動機においては、やはり、中内さんと根っこでは共通しています。

なお、若干付言しますと、サントリーは少し条件が違います。
サントリーも大企業で、代々創業家がトップを受け継いできています。
が、株式上場していないので、一族が株の大半を保有することにおいては、法的に無理がないのです。

もちろん、サントリーにおいても、一大企業群のワンマンリーダーは、長期的でかつパブリックな視野を持たねばなりません。
それがまず第一になければならない。
そういう視野が冷静にもたれていなければならない。
息子も家族も可愛いでしょうが、その処遇はパブリックマインドともった上で考えるべきことです。

その精神を維持することだけでも一仕事です。
なのに、「強引に」自分の血族に統治権を手渡すことが主要関心事になる。
これはまずいことです。
経営視野は狭くなりますし、なによりも、思考に冷静さが欠けていきます。

<永続確信がないと、血族で継続性を造ろうとする>

お二人とも、それまで大企業集団を創業し、あるいは継承発展させ、成功裡に導いてきた有能者です。
なのに、途中からどうしてこんなことになっていくのでしょうか。

結論から言えば、それは自己に関しての永続確信がないことが基盤になっています。
自分は死んでおしまいだと思う。
日本人の大半は、そういう消滅の時が近づく中で、その自覚と共に人生を送っています。

それが、還暦を過ぎる頃にはとりわけ近くに来ている、と感じられる。

その恐怖・空しさから何とか逃れられないか。
歳と共にその意識が、段階的に強くなるようです。

逃れるための一番てっとり速い方法は、息子とか自分が精神的に同化している血族に、自分の大切にしてきたものをそっくり渡すというものでしょう。
世的な方法としてはね。

これも気持ちの“紛らわし”に過ぎないんですけどね。
だって、その息子だって、肉体は百年もしないうちに死んで消滅してしまうんですから。
その又息子だって同じです。

でもそれしか思い浮かばないから、それにしがみつく。
精神の深層がそうですから、社会の公器を長期的視野の中で考える意識などは、後退していってしまうのですね。

<日本のリーダーは総じて近視的>

見逃してならないのは、こういう性向は、日本のトップ層全般に生じていく心理だということです。
長期意識を本格的に持つことができない。
時々、ちょっとその気になったりはしますけどね。
それは、「本格的」ではありません。

鹿嶋の友人だけでない。
ほとんどのトップがそうなります。
その結果、日本では、企業や国家など、全体としての組織体にすぐれた舵取りがとても少なくなる。
ほとんどの人間集団が、長期的には非常に脆い状態になっていく。
そういう、ことになるのです。

長男後継者である友人の会社は従業員百何十人という規模の中堅企業です。
大企業集団のトップではないのだから、パブリックマインドは薄くてもいいとなるかも知れませんが、その視野の狭さ、短期性はやはり特徴的です。
薄くてもいいといっても、薄すぎるように思えるのです。

おそらくそれは、長期に視野をめぐらすことが怖い、という心理から出ているでしょう。
会社を受け継いだら、年々の利益率をもっと上げるという、短期的なことにしか情熱を注げなくなっています。
そのために、社員をあの手この手で鼓舞し、尻をたたく経営者になっています。
高い目標利益を掲げ、「それに達してないじゃないか! がんばろう!」と鼓舞する日々。

個人としてはいい奴なんですよ。
少なくとも若き日には、山本周五郎が好きで、人間愛の物語に感動する人物でした。

<人間自然なままでは永続確信は生じない>

会社を次がない方の友人には、そういう現象はもちろん現れません。
そういう違いはありますが、従来、人生その他において春平太と考えが一致するところの多い存在でした。
だから友になるのでしょう。
共通点が少なかったら、互いに共鳴し合うところが生まれませんので、友になりようがないですからね。

にもかかわらず、今、永続確信においては、春平太と大きな違いがあります。
春平太が目を見張るほどに、薄い。


なぜでしょうか。
これは自然なことなのです。
人間は、そのままなら、目に入るものから世界を、存在を考えていくしかありません。
目に入るものは物質です。
人間についても肉体だけしか見えない。
肉体は、百年もすれば必ず死んで消滅します。
だから、人間は死んでおしまい、という意識を持つしかないのです。

<永続確信を持つ方法>

にもかかわらず、永続確信をもてるのは、目に入る物理的世界以外のものから造られるイメージ世界を持つことが必須です。
そして、「永続有り」のイメージ世界とそれへの確信を強力に形成する力をもつ書物があります。
それが聖書です。

これを用いればいいのです。
第一に、具体的には、聖書(聖句)そのものを読むこと、
第二に、まずは、永続確信に焦点を当てて読むこと、
      ~~この二つが大事です。

これによって我々は心の中に、永続イメージを形成していくことが出来ます。

そして、永続確信に関連する聖句を繰り返し、繰り返し読みます。
物理的な世界は、毎日、我々の網膜に映り、意識に入ってきます。
それが、人間は肉体だけ、肉体は死んでおしまい、というイメージを形成し続けます。

でも、それ以上に永続確信を、強いものにしたらいいのです。
「人間は永続する」という意識を与えてくれるもの、すなわち聖書のメッセージを、繰り返し目にし、心に入れたらいいわけです。

<小グループが効力を倍加する>

第三に、出来る限り、小グループで見解を提供・検討しあいながら読むといいです。
数人の小グループは、イメージを明確に形成する力を倍加します。

そうよむならば聖書は永続確信を必ずや深く強く与えてくれます。
そうすれば、人は、百年、2百年、千年の将来を淡々と心に描くことが出来るようになります。
子供とせいぜい孫までだけではありません。

その孫、さらにその孫、百代千代に及ぶ範囲に、考察を至らせることが出来るのです。
それがあって、初めて、人はリーダーに求められる真の資質を備えることが出来るのです。

聖書は、肉体の死後だけでなく、生きているこの時点にも、貴重な確信を与えてくれる書物です。
これを「キリスト教の教典」→「宗教の本だ」→「怖い、止めとこう」といって、避けているのが、大半の日本人の状況です。
惜しいですね。

色んな教派が、聖書を色々に解釈して、自己の教理を造っています。
それが宗教です。

そんなものと、関係なく読めばいいのです。
それが最も有効な方法です。
これは本です。
本だとして読めばいいのです。

我々の多くがこの本を読んで議論を交わすとき、日本は長期繁栄に向けて、本格的に進むでしょう。

(終)

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京都のキリスト教的教会での事件

2005年04月09日 | 春平太チャペル

京都にある、韓国人牧師の教会で、不祥事が起きてマスコミを騒がせていますね。
牧師が、少女の信徒に対して、長年にわたって性的暴行を働いてきた。
幹部もそれを容認し、隠蔽工作に協力してきた。
そういうことが、捜査で次々に明るみに出てきています。マスコミの報道ですけれど、事実なようです。

***

どうしてこんなことがキリスト教会に起きるのか?
彼らもイエスの名を奉じてい礼拝してるのにどうしてそうなるのか。

疑問を抱かれる方も多いと思われます。信仰者には理解に苦しみ、当惑し心が混乱に陥っている人も多いように見受けられます。

理由は、結論からいえば簡明です。
「牧師は創造神から特別の権威・神格的権威を与えられた存在」という主旨の聖書解釈(教理)を作っていたところにあります。

 



<霊的活動自体に原因はない>

この教会は日本としては大きな教会になっているようです。その理由も簡明です。
日本の教会にない魅力を持っていたからです。


魅力とは、「霊的なことに、尻込みしないで、本格的に取り組む」ということです。
信徒が喜びの表情で踊ったり、恍惚、失神まがいになって倒れたりするのは、それによる一現象であって、何も奇怪なことはありません。


日本の教会にそれがないのは、そういう霊的局面を恐怖して、それに取り組むことを避けているからに過ぎません。

世の中には、霊的としか考えがたいような原因で苦しんでいる人が少なくありません。
これに、日本の教会は、全く無力です。霊的局面を避けるのだから。
だから、苦しむ人々は教会に失望します。その結果、教会は成長いたしません。

韓国系の教会には、これに本格的に取り組む姿勢を持っているのがたくさんあります。
「汚れた霊を追い出す」というのも、その一つです。これ自体は、聖書にあることであって、何も奇怪なことではありません。
異端でも何でもありません。

 



<韓国教会に多い欠陥>

しかし、韓国の教会には、概して大きな欠陥があります。
それは、米国の聖句自由吟味主義者が守り続けているような、自由吟味活動と、そこからくる原理がないことです。

(なお今日では、自由吟味主義者の大半がバプティストという名で呼ばれています。そこでここでは、これをバプティスト原理ともいうことにします)



<ソウル・コンピテンス>

聖句自由吟味(バプティスト)原理の一つに、ソウルコンピテンス(soul competence:霊的能力)原理というのがあります。

 「信徒は各々魂の中に、聖書の奥義を直接自分で探っていく能力(soul)を与えられている」
~~という原理です。

 ここでは、牧師や神父などの僧職者に別格な能力が与えられる、という認識はしません。
その結果、礼拝における牧師のメッセージが「創造神の言葉」などという解釈も、出てこないわけです。


「牧師の説教の言葉はカミ(ハナニム)の言葉だから、服従しなければならない」、と韓国ではよく言います。
こんなこと、米国のバプティストが聞いたら、仰天しますよ。そして反射的に拒否するでしょう。

牧師は説教していても、もちろん、間違うのです。
米国、特に南部では、それを前提に、みんなで教会をやっています。

 



<万人祭司>

 そこから、又、「万人祭司)(priesthood of all believers)の原理も出てきます。

祭司というのは聖職者の名前ですが~、
「牧師や神父に説教の力が与えられているというのなら、信徒はみんな祭司だ」~といっている。

それにしても「万人祭司」というのは上手い邦訳ですね。

ともあれ、だから、信徒はみんな、説教していいんだよ、ということになります。

米国の自由吟味主義地域では、バプテスマ(洗礼)も執事(信徒の代表)が授けています。
牧師の特権では全然ありません。



<韓国・日本は自遊吟味義原理に鈍感>

教会を健全に保つのには、これらの原理を自覚的に保持することが必須です。
聖句自由吟味者の祖先たちは、紀元後5世紀から16世紀にかけて、
1200年間にわたって、それを守るために殉教し、多くの血を流してきたのです。


ところが韓国の教会、信徒、牧師はこうした原理に盲目です。
日本でもそうですが、儒教の思想基盤が濃厚なせいでしょうか、韓国ではその傾向がより顕著です。

だから「牧師はカミにたてられたもの」などということを平気でいいます。
そして、牧師もそれに乗っかって自分を神格化していきます。
自分を通して信徒は創造神と交わるのだ、などと真面目に考えている牧師はたくさんいます。

これ、中世カトリック教団が、法皇をイエスの代理人として、イエスの権威を自分に延長したのと質的には同じです。
また、彼のその権威を各地の教区教会の神父に与えたのと同じ性質のものです。

同じことを、人間は性懲りもなく現代、繰り返しているわけです。

+++

中世欧州で聖句自由吟味者は、教職者の神格的権威を拒否し続けてきました。
最終的な権威は、「聖句そのもの」にある、と教皇の神格を否定し続けてきました。

そこで、教皇の名の下に出される教団の教理(聖書の一解釈)も受け入れませんでした。

そのため、自由吟味者は1200年間にわたって、総計5000万人もが処刑され続けてきた。

そういう精神統制が国家宗教(カトリック教団)によってなされた時期、
~これが後に「中世暗黒時代」と称されるようになったのです。

国家によって精神統制が行われると、文化的にも、創造性が萎えてしまう。
だから「暗黒時代」と呼ばれるのです。

そういうなかで聖書解釈の自由を守ってきた人々がいた。

彼らの信ずるところを言葉にしたのが、バプティスト(聖句主義)原理です。

その精神的な子孫たちが今でも、米国南部にたくさんいます。
彼らは教職者を神格化するような気配があったりしたら、気配を感じただけでも、即座に拒否します。
非常に敏感です。

 


<情欲の薪がどんどんくべられる>

聖句吟味主義の伝統がない韓国では、それがすっぽり抜けているのです。
そこに儒教風土も加わってか、信徒も神格化された牧師をありがたがったりします。

そうすると、もうだめです。
牧師は自分の中に、特別な神性があるなどと妄想してしまいます。
妄想もイメージの一種です。色々イメージすることそれ自体は、聖書解読の一作業としてはよろしい。

 だけど、自分に特別な神性があると思ってしまうと、その人はもう聖句と自己の解釈とをつきあわせようとする意識を失ってしまいます。

聖書に書かれているような悪魔が存在するとすれば、悪魔はそこにすべり込みます。

悪魔はそこに、物質的・世的な意識をどんどん注入していきます。

まるで、蒸気機関車の釜焚きが、石炭や薪をくべるように、ドンドンドンドンとくべていきます。

 だから、情欲もどんどんふくらんでいきます。本人も予想しなかったような異常な大きさにそれはふくれあがります。

今回の事件は、なるべくしてなった、公式どおりの、自然な結果なのです。

 



<安全策=聖句主義原理を保持すること>

では、一般の人々は、今後どうしたらいいか。
創造神とイエスと聖霊のみに神格を認める~~これを意識の中で徹底させたらいいです。

 そして、この神格イメージを自分に拡張しようとする牧師、その一端を自分に重ね合わせようとする牧師がいたら、即座に拒否することです。

これには敏感であるべきです。

いたらその教会を離れることです。そうしたらいいのです。

そのためには、今述べた二つのバプティスト(聖句主義)原理も改めて明確に知っておきましょう。

その一つは、ソウルコンピテンス(soul competence:霊的能力)の原理でしたね。

 「信徒は各々、聖書の奥義を直接自分で探っていく能力(soul)を与えられている」
~~という原理でした。

 これを正確に踏まえますと、「牧師や神父などの僧職者に別格な能力が与えられる」というような認識をしなくなります。

礼拝における牧師のメッセージを「創造神の言葉」などと、教職者や教会員が言ったら、「あほか・・・」と思うことが出来ます。

そしてその教会を即座に離れることができます。

+++

 第二はpriesthood of all believersの原理でしたね。
「万人祭司」の原理だ。

 「信徒はみな、説教者であって、牧師や神父だけに特別に説教の力が与えられているのではない」と考える。

すると、「みんな、説教していい」ということになります。

それをうけて、自らも説教する姿勢を持つことです。
姿勢だけでなく、強く意欲することです。

 そうすれば、聖書は素晴らしい知恵と力を与え続けてくれます。
信頼し続けて、まったく差し支えありません。

 

 

 

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永続への確信がもららすもの

2004年12月11日 | 春平太チャペル
<今週の賛美歌>

「我に来たれ」
リバイバル聖歌、194番

クリックすると、曲が流れます。

<今週の説教>

 (聖句)
「御子(創主の)を信じるものは、永遠のいのちを持ちます」
           (ヨハネ伝、3章36節)



+++++++++++++++


 「クリスチャンになるといいことあるのか?」聞かれることがあります。
たくさんあります。

<世俗環境的なメリット>

 まずこの世での環境的な面からみてみましょう。
 外面的なメリットといってもいいでしょうが、いろいろあります。

 今や聖書文化圏は世界最大です。この圏の人口が世界の33%。ダントツです。二位はイスラム圏で、20%、三位がヒンズー教圏で13%です。仏教圏は6%で世界三大宗教と仏教が言われることから想像できるよりも、意外に少ないです。

 のみならずキリスト教圏の国家は、世界の指導的な位置を占めています。科学、芸術、政治、経済など様々な分野での世界的な指導者も、この文化圏の人が圧倒的に多いです。

 クリスチャンになるということは、イエスの教え(言葉)への信頼を抱いている人々のネットワークの仲間に加わると言うことです。信仰者は、教会や小グループを核にしたネットワークを形成しています。それが、その人のために行動し、助けをもたらしてくれるようになります。

 これがいかに強力で有り難いか、は欧米諸国に住んでみると如実にわかります。特に米国では、ある外国人がクリスチャンとわかると、姿勢ががらりと変わります。米国人は個人主義で冷たいという声がありますが、教会で交わりますと別世界です。山本周五郎描くところの、江戸の下町人情顔負けの親密さが体験できます。

 これが私生活、仕事の両面にわたって、いかに有り難いか。クリスチャン人口1%以下という特殊な国の民、日本人にはほとんど知られていませんが、もう、大変なものです。99%はそれを知らないから、「まあ、米国人は冷たいしこんなもの」と思っていますが、それは文字通り知らないだけです。

<精神的・霊的利点>

 けれども、環境的な利点というのは、当人の精神的、内的な変化とは別のものです。それらは、考えてみれば、お金持ちになってもかなりカバーできそうなものです。

 富をつかんで豊かな暮らしをし、人に振る舞っていれば、人はよってきます。進んで交わりを持ってくれ、助けてくれ、親切にもしてくれます。「世」とはそういうものです。

 だが、そういう金銭では、代行させられがたい利点も、クリスチャンになると出てきます。それは個人の意識の内部で起きる、精神的(霊的)利点と言っていいものです。

<死の奴隷>

 その第一は、自己が永続するという観念を持ち、かつそれに深いリアリティを感じられるようになる、ということです。これは、根底的な得点です。

 前回の説教で述べましたが、人は、自然なままですと、目に入ってくる物理的なものだけから、世界に関するイメージを描くようになっていきます。物理的なイメージの世界では、すべてが変化し、消滅していきます。そこで、「世界のものは全て無常だ」という存在感を抱くことになります。

 人間についても同じです。「人間死んでおしまい」という意識を年齢とともに蓄積していきます。そういう意識は、意外に早く、5歳くらいの幼児期に、すでに漠然と芽生えているようです。

 そういう存在観をいだいていますと、将来についてどんなビジョンを描いても、「けれども、どうせ死んだらおしまい」という意識が一方から働きかけてきます。それが将来のビジョンをくじきます。

 だから、人間、心の底から本気でビジョンを描くことが出来ません。いうなれば、将来のビジョンは一応描いては見ますけれども、実際には、へっぴり腰のビジョンにしかならない。それが人間心理の実情です。   

 この状態を、イエスは「死の奴隷」と教えています。正確には「罪の奴隷」ですが、聖書では「罪の報酬(結果として与えられるもの)は死」という公式があります。詳しくはここでは説明できませんが、結論的に言うと、「罪の奴隷」はすなわち、「死の奴隷」でもあります。

 具体的には何といっているか。「死」んでおしまい、という観念に鎖でつながれて、なにごとをも真の希望を持って出来ない、そういう人生しか送れない状態ですね。奴隷は鎖でつながれています。

 ところが、イエスは、永続する世界があると教えます。そして人間も、死んでおしまいではなく、その霊が永続する、と教える。

 クリスチャンになるとこのイメージが、徐々に強くなっていきます。前回の説教で述べましたように、このイメージのリアリティ観はバプテスマを受けるのを契機に、急に上昇し始めます。

<心底意識が一転する>

 従来、無常観しかなかった心の根底に、この永続意識が種のように出来、成長し始めますと、人の意識はガラリ一転します。心の仕組み変化します。

 春平太は、「キリスト教活動の歴史」のカテゴリーで、永続意識は、「純イメージ世界」の意識だと申しました。物理的存在が網膜に移って、それから出来るイメージ世界を「物理的イメージ世界」といいました。この後者とは違うイメージ世界という意味ですね。

 永続意識は、この「純イメージ世界」意識に属するものです。人はこれを通常「夢」といっていますね。現実の物的世界に裏付けられていない点をさして、夢というわけです。

 ところがこの夢がリアリティを持ってくる、そのリアリティ感がバプテスマを受けると、一段と上昇します。

 さらにこのリアリティ感は、たとえば、ディズニーランドのような、よくできた「純イメージ世界」に身を置くと、さらに一段と上昇します。そしていったん上昇するとその状態で、レベルが下がりません。

 そして、それが時とともに大きくなっていく。これがクリスチャンの意識の特徴です。

<未信頼者の心理構造>

 この特徴は、無常観だけが意識の底にある人と比べると、明確に浮かび上がってきます。無常感者は、物理的イメージ世界の意識、「人生いずれ終わる、死んでおしまい」という意識に、自己の潜在意識を蝕まれています。自覚はできませんが、そうなっているのです。

 ところが彼も、ディズニーランドのような、大がかりな純イメージ世界に身を置くと、物理的イメージ世界から一時的に解放されます。「死んでおしまい」を放念できる。忘れる。そういう形で一時的に、永続感を得て、永続への願望が満たされます。そして元気になります。

 だが、その永続意識は、楽園を出ると、また、希薄化を開始するのです。無常観に向かって低下していく。これが無常観者の心理状況です。アップダウンの繰り返し。

<対照は年齢とともに表面化>  

 両者の状況は内的、心理的なものです。だから、最初は外側からは同じように見えます。しかし、内部は今述べたように、対照的です。

 若い人については、外部者からはその差がわかりにくいものです。しかし、永続世界のイメージがある人には意識の根底に希望の火があります。永遠の希望の火。これが年齢とともに、大きくなってきます。すると、顔を見ただけでその明るさが感知できるようになるのです。

 対照的に、無常観だけの人には、根底のところに望みのなさの影があります。これも年齢とともに大きくなってきます。若いうちは、肉体に力があり、皮膚に張りがありますから表面に現れにくいです。

 しかし、歳とともに「死んでおしまい」の意識が効いてきます。老年になると、その影がとても大きくなります。心の底が死への不安と失望の影でしめられるようになります。それが身体の表面にも現れてきます。

<低意義感症候群>

 この対象を考えると、永続への確信の種をもつということが、いかに大きなことかがわかってきます。

 人間の内にある「どうせ死んでおしまい」という意識は、実に様々な症候をもたらしています。様々ですから症候群といってもいいです。

 その大きな一つは、自分の存在に対する「低意義感」とでも言うものです。
意義とは価値と言い換えてもいいですから、「低価値感」でもいいでしょう。

 これは、日本で日常いうところの、劣等感があるとか、自尊心が低いとかいう言葉が意味するところと、重なったところがあります。でも、よく考えてみると、劣等感というのは、まだある価値を認めている心理状態ですね。その価値を物差しにして計ると、自分は他人より劣等であるのではないか、という意識です。

 つまり、これあまだ、なにか価値のあるものを認めている、という状態ですよね。対して、春平太が「低意義感」とか「低価値感」というのは、もっと根底的です。ものごと全てに積極的な意義が感じられない状態なのです。

 そのものごとの内の一つが自分であり、自分の人生であります。だから、それには自己に対する「低意義感」も症状として含まれている訳です。自尊心の低さも、「自分という存在に積極的な意義・価値を感じられない」ということから生じる症状の一つですよね。これらの症状の源、ルーツは低価値感なのです。

 病をより正確につかむには、表に結果として表れた症状でなく、その原因をつかむべきですよね。その意味で、自尊心の弱さは低意義感・低価値観として捉えるべきものです。

<実体は「恐怖」の奴隷>

 人間は意識の根底のところでみんな、自己への低意義感に苦しめられてこの世を生きているのです。
「みんな死んでおしまいなんだなあ」という自覚が、「自分も詰まるところは存在意義はない」
という意識を派生しています。

 しかし、我々は、社会の中で、まあ、なんとか一時的な意義・価値を自分にくっつけています。詰まるところはこれは、自分をごまかしているわけですが、とにかく、そうしてなんとか生き甲斐を得ています。

 ですから、主観的な意識としては、無意義ではありません。低いものならある。だから「低い意義感」なんです。生きてる以上それくらいはあるわけです。

 しかし、低い意義感ですから、それはかろうじてのものです。存在が脆弱です。だから何かの拍子で針で刺されるようなことがあると、ぺしゃんこにしぼみます。そのとき、人は、やる気がまったくわかなくなります。すると生きる意欲がスコンと低下する。そうすると鬱になります。

 鬱は怖いです。この重苦しさゆえに、自ら命を絶つ人も沢山います。

 この世では人は程度の差こそあれ、みなこれを経験しています。すると、それを今実際に経験していなくても、その可能性におびえることになります。その恐怖が、自分の心に苦い感情、苦渋感を与えます。今鬱でなくとも、その恐怖に人はいつもおびえて生きています。

 人間は、この「死の恐怖に鎖でつながれた奴隷」ですね。
イエスが「死(罪)の奴隷」と教えた人間心理の実体は、その恐怖にあります。
「みんな死ぬんだ」「死んでおしまいなんだ」という意識がルーツですから、恐怖の方がいっそう根源を言ってるわけです。

<定年近い人の根底心理>

 会社で仕事ばりばりの現役者は、「そんなことない」、とか、「何を言ってるかさっぱりわからない」、とかいわれるかも知れません。

 だが、定年が近づくと、それを知ることになるでしょう。今やリストラが盛んですから、60歳になる以前に実質定年を迎えさせられる人もいる。これも含めまして、定年近い人間は、自己の低価値感にさいなまれていくことになります。

 近々いなくなる人になるのですからね。会社が依頼する仕事も軽いものになっていきます。
つまり、意義の低い業務ですね。その変化の度合いの大きいのが、社内での「窓際」への移転です。他の社員も、その人の存在意義を低く、低く見ていくでしょう。

 それをどうしても、当人は認識せざるを得ないわけです。で、その都度傷つく。それで、毎日が低意義感に傷つく日々となります。傷は、当人の意識の重点を会社での自分、会社での仕事におきつづけている人ほどる深く、痛みの大きいものになります。時に部下の一言が激痛となることもあります。

<いい会社の条件>

 いい企業では、こういう事態への対策が施してあります。


 たとえば、年金制度を充実させて、会社にしがみつかなくてもいいようにするとか。
OB会を充実させて、退役社員を尊敬し尊重するイベントなどを周期的に行う制度を持っているとか。こうして、「あなたは意義ある存在だと今でも会社は思っていますよ」とメッセージしてくれるわけです。

 会社がこれをすると、現役社員の精神も生き生きしています。命令されなければ動かなかった「指示待ち人間」も、状況を見て臨機応変に動くようになります。これによる連携効率の上昇と、それが会社にもたらす利益には、計り知れないものがあります。

 正反対のことをしている会社もあります。そういう対策、制度が全然ない。のみならず、退いていく人間に向かって、会社の将来への情熱を語らせたり、提案させしたり、汗水流して働いている姿をアリバイとして示させたりします。自分をなげうって最後まで働いている、というアリバイを演じさせるわけですね。

 権力が集中している会社、一族会社などによくみられます。権力者が「あなた次第では、もっと会社に留まってもらうことも、あるかも知れない」という脇の甘さを一方でちらりと見せる。すると、それが退職の恐怖と組み合わさって定年近い人を突き動かす。最後の一汁まで搾り出して働く。特に、会社人間は簡単にそうなるんですね。

 働きを通して「私は、会社にとって、こんなに意義ある存在です」と懸命に訴えさせるわけです。そうしている内に本人は、退職する日が刻々と近づいてくるし、「もっと留まって会社に貢献したい」という切望がエスカレートします。

 だが、その切望が表面に出たら、権力者は突き放します。元々、留める気なんてないんだから。そのとき、当人は夢見ていたイメージ世界の逆転の中で驚き苦しみます。夢の中でいつの間にか膨張していた自分の存在意義感が、突然針で刺されてシュゥーとしぼむのですから。

 断末魔ですね。最後に断末魔の修羅になる人もいます。
 残るのは、ボロボロになって、愛し続けた会社から退いていく自分と、権力者への恨みです。

 こういう悲劇に遭うのを避ける手だてはないか。一つだけあります。知識です。人間を一番根底から突き動かしているもの、それは「自己の低意義感」だ。それが様々な症候群のルーツなのだーーーこれを知ることです。知れば、危険を避けることが出来ます。

 そして、それは聖書の知恵を借りたときに、初めてわかります。それまでは人は、本当に、ものが見えていないのです。そして聖書が言うように、まさに「知識がないことが人を滅ぼし」ます。

<死後の救い、プラス、今の救い>

 人間は、自然なままですと、自己の「低意義感」の奴隷として、それに鎖で縛られ、さいなまれる人生を送るしかありません。それが様々な症候群を派生してこの世に悲劇を造っています。

 イエスはそのことに目を開かせました。のみならず、その奴隷状態から解放され、自由になる道をも残しました。その一面は、「自己の永続者としてのイメージに、リアリティ感を与える手だて」でもあります。

 イエスの教えを受け入れると、永続のイメージ世界が自己の意識の中に出現していきます。そして、バプテスマを受けると、意識の背後にあったそれが、前面に出てきます。そして、そのリアリティ感の上昇が始まります。これは真の解放です。

 これは画期的な意識革命です。30歳になってクリスチャンになった人がいるとします。この人の意識の根底には、それまで30年の間、「死んでおしまい」「詰まるところ存在意義はない」という感覚がじっくりと育ってきています。

 そのほかの諸事にも、その感覚が浸透してきています。その結果、「低意義感」が意識全般に浸透しているわけです。

 これが、30歳を契機に、逆転を開始します。以後、彼の内には、永続意識も出現し、そのリアリティが上昇し始めます。そのなかで、あらゆる存在と、その中の自分に関する「高意義感」が育っていきます。

 3年、5年、10年とたつにつれその感覚は上昇する。そして、従来、心の中で独占的な位置を占めていた無常観、「低意義感」を圧倒するようにそれはなっていきます。他の諸事に関する感覚も変えられていきます。その結果、当人の精神は、活性化の道をたどるのです。その中で、鬱も打破されていきます。

 イエスは、人間に、死後その霊が天の王国にはいることの出来る道を切り開き、示しました。いわゆる「救い」というのはそれです。英語のサルベーションですね。

 だが、それがイエスのプレゼントの全てではないのです。この世に肉体を持って生きている今においても、人間が根底的な苦渋から解放されて生きる道、鎖を断ち切る道をイエスは残しました。

 自己の低価値感の鎖から解放されて、究極の自由をうる。Free at Last ! そして精神が活性化した状態で十全に生きられる道、これをも残してくれたーーイエスは二重の「救い主」であるのです。
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洗礼は不完全信仰での決断による

2004年11月26日 | 春平太チャペル
<今週の賛美歌>

 今週の賛美歌は「ああ めぐみ!」(聖歌、593番)です。
ああ めぐみ! (クリックすると賛美歌が流れます)


<今週の説教>

(聖句)

 「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)


+++++++++++++++++++++++

 教会に通ったり、バイブルスタディに出席したりして、聖書を学んでいる人がいます。こういう人が学んでいく間に「バプテスマ(洗礼)はいつ受けたらいいか」という疑問を持つことはよくあるようです。

 具体的には、聖書をよく知り、これを十分信じられるようにならないとだめなのか、そこまで行く前にしてもいいのか、というような疑問です。

      @      @      @

 しかし、それに答えるには、水のバプテスマというもののもつ、意味や力を考える必要があります。

 上記に掲げた聖句は、イエスの言葉です。これは
「信じる」
「バプテスマを受ける」
「救われる」

 ~~~の三つの部分からなっています。

1.まず、「救われる」です。

 これは聖書特有の用語で、「将来、最後の審判のとき、当人の霊が火の湖に送られるのはでなく、創主の王国(天国)に入ることを許可される」という意味です。

 聖書では、この宇宙は、将来火で焼かれて消滅するという思想です。そして、創主の王国である天国と、火の湖とが残ることになります(「KINGDOM原理」のカテゴリーに示した「聖書の空間理念」の図を参照して下さい。)

 そして、ミケランジェロの絵で有名な「最後の審判」が始まります。そのとき、「信じる」者は、当人の霊にある罪が、覆われて「罪なき者」とみなされます。そうして、創主の王国に入ることを許可される、ということになっています。

 後は、創主の身元で永遠に存続することになります。火の湖も永遠です。そして、そういう約束をイエスは与えたという思想です。これを「救い(salvation)」という語で表現して、救いの約束といっているわけです。

2.次に「信じる」です。

 何を信じるか、信じる対象は何か。これは一つには上記の約束です。そして、もう一つ重要なものがある。それは、イエスがそういう約束をすることが出来た根拠です。こちらは、罪なき創主の子イエス、死ぬ必要のないイエス、の身体が殺されることによって、人間の罪の代償を造った、という思想です。

 代償を受けられるというのは、人間のために準備された資格、という論理です。聖書に記された福音(よき知らせ)とは「そういう資格が準備されたよ」というメッセージ、知らせです。資格は本当だと信じて受諾しないと実現しません。

 たとえば、読者がある日突然、外務大臣に指名されたという知らせを受けたとします。ところが、そんなバカなことがあろうか、といって、本国の誰にも制約されない自由な旅をと、あらかじめ予定していた外国無銭旅行にぶらりと出かけてしまった。そうして、音信を絶ったらどうでしょうか。

 大臣の認証式はすぐに始まります。総理の小泉さんは帰国して受諾してくれるのを長く待つことは出来ません。それで、他の人を任命しますと、彼の資格は消滅します。資格は、そのメッセージを受諾しないと、実現しないのですね。

 ところが読者がそれを信じて受諾したらどうでしょうか。「田中真紀子だってしばらくつとめられた外務大臣だ。自分に出来ないはずがない」こう信じ、楽観して受け入れたらどうか。彼には外務大臣の資格が実現します。

<「信じる」意識は「確からしさ」の確率意識>

 「なら、信じた方が得だ」
 そう思うでしょうが、こういうメッセージを100%信じることは出来るでしょうか。それは無理な話でしょうね。

 「救い」の約束は、死後のことに関する約束です。だけど、将来実際にそうなるかどうかなど、自分が死んでもいない今の時点で、明らかになるはずがないではないですか。

 先を見通す千里眼があるなら別ですよ。だけど我々は、生まれてこの方、五つの感覚(五感)でしか、ものを認知できない状態で暮らしてきています。その結果、どうしても「見えるもの」を基盤にして物事を考えるようになってきています。そこに死後の約束を持ってきて、これを100%信じろと言うのは、言う方が無理というものです。

 当人が、「自分の意識は自分でわかる。私は100%信じている。バカにするな、勝手に決めつけるな」といったとしてもですよ。人間には、自分で自覚できない潜在意識というものもあります。

      @      @      @

 でも、全く信じられないわけではない。聖書のメッセージを学ぶ人は、一定の確からしさも感じてはいるわけです。そのように、救いの約束を「信じる」というのは、一定のパーセントの「確からしさ」を感じる、「らしさ」の意識、確率の感覚です。

 「本当らしさの感覚」を確率で言うならば、聖書の言葉を学び始めた出発点では10%かも知れません。あるいは、あるとき、理性的・論理思考が働いて、「見えないものが存在するかどうかの確率は、本来五分五分とみるべき」とかいって、50%になるかもしれません。論理的にはこれが出発点であるはずです。後にそれが60%に上がるかも知れません。

 しかし、それらは、どのみち、本当「らしさ」であることには変わりありません。それでいいのか、それでバプテスマを受けていいのか。これが冒頭に示した「聖書を学ぶ人が抱いていく疑問」だったわけです。

      @      @      @

 こうなると、やはり聖書と照らし合わせねばなりません。すると、その結論は、「それでいい、100%でなくてもいい」となりそうです。

新約聖書の「使徒行伝」には、初めて福音を聞いて、「これを信じた人」に、イエスの使徒たちは、即座にバプテスマをしています。信じたと言っても、その信仰は、そんなに成熟したものではないでしょう。

 同じ「使徒行伝」の8章26~39節にはこういう話も記されています。エチオピアの高官が、エルサレムに礼拝をしにきて、馬車で帰路をたどりつつ聖書を読んでいます。今や有名になっている

 「ほふり場にひかれていく子羊のように、毛を刈るものの前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。・・・」(イザヤ書53章)

 ~~という旧約聖書の中の聖書です。高官は、この「彼」が誰のことを言っているかわからず思案していました。

 他方、12使徒のなかにピリポと言う人がいます。このピリポに聖霊(創主の霊)が語りかけます。「高官に近づくように進みなさい」と。ピリポは高官に近づき、その「彼」がイエスであることを説きます。

 高官は、その解説を正しい信じます。そして道の途中でバプテスマを受けることを望みます。ピリポはそれに応じ、水のあるところが見つかった時点で洗礼を授けています。

 この時点で、高官には福音の論理構造が広く深くわかっているということはありえません。信仰も内容的には、そんなに成熟したものではないでしょう。信仰は未熟なままでいいのです。

<バプテスマの力>

3.さて最後は3の「バプテスマを受ける」です。

イエスが、「信ずるものは救われる」でなく、「信じてバプテスマを受ける」ものは救われるといっている以上、バプテスマには独自の役割があることに論理上なるでしょう。それが筋です。

 具体的には、「本当らしさ」の信頼感覚に、何かを与えるのが、バプテスマではないか。そういう推察が出来ます。その上で、次の聖句を読んでみましょう。


 「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)

 これはイエスはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受けられる場面です。              

 マルコ伝の著者マルコは、続いて、
 
 「すると天から『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である。』という声が聞こえてきた」(マルコ伝、1章11節)

 と、書いています。マタイ伝の著者、マタイも、この状況を同じように記録しています。

      @      @     @

 我々は当初これを読むと「へぇ~、不思議なことが起きるもんだなあ、やはり、イエスは違うなあ」と感じるくらいだと思われます。

 だが、次のような解読も可能です。聖書では、この世に現れたイエスは、「創主の子(Son of God)」という面と、「人の子(Son of Man)」という面との二面を持った存在です。この二つの面の相対的な関係が、水のバプテスマを境に、はっきりと変わっているのです。

 バプテスマ以前のイエスには、ダビデの子孫であり、大工の長男である、という「人の子」の面が前面に出ていました。創主の子という面は、いわばその影にありました。

 しかし、バプテスマを受け、水から上がられたイエスには、創主の子という面が前面に出ていたと見ることも出来ます。もうダビデの子孫という面は、遙か後方に退いたのだ、と。

 イエスが水から上がったその瞬間に、天から「これは私の心にかなう者」という声が下ったのは、それが「前面に出たこと」と関係していると解することが可能なように思います。

 この時だけではありません。これを境に、イエスは別人のようになります。自らを「創主の子」と公衆に宣言し、「天の父」から受けたという「天の言葉」を権威を持って教え、つぎつぎにしるしと不思議を現していきます。以後、それは、受難、十字架死、復活、昇天と、最後まで続きます。

 それ以前のイエスには、そうしたところは表に現れませんでした。こういう転換点に、水のバプテスマが位置しているのです。

      @      @      @

 これが「水のバプテスマのもつ効果」だと、春平太は解します。そして、これはイエスに関するものだけではなく、人間にも有効な一般的なもの、とみるべきではないか、と解読します。

 聖書の論理では、生まれたままの人間には、創主の子としての面はありません。世的な意識で満ちた、世的な面が100%の人間です。そのまま、自然に成長していっても、状況は同じです。

 しかし、聖書の言葉は、創主の意識を込めた、創主の王国から来る言葉です。聖書の言葉を学ぶ人間の意識には、創主の意識・思いが吸収されていきます。すると、ささやかであっても、創主の王国の意識が一面に出来ていきます。

 もう一方の面は、世的な意識の面です。人が聖書の言葉を吸収しても、当初それが形成する意識は背後に存在するのみです。前面にはこの世的な意識が出ています。聖書的にはそれが、聖書を学びつつある人間の状況と見ることが出来ます。

      @      @      @

 けれども、水のバプテスマには、この二つの面の、比重を(最低限)変化させる力がある。聖書の言葉が形作る意識の面が、前面に出て、その分、世的な意識が後方に退く、ということです。

 使徒パウロの次の聖句は、こうした推論を支持しているようにも見えます。

 「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼とともに葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ人への手紙、6章3~4節)

 ここでパウロが引き合いに出しているバプテスマは、水のバプテスマ(浸礼)です。そして受洗の際、受洗者が水に沈むのは、この聖句での「彼(キリスト)とともに葬られた」というのを象徴しているように見えます。そして、水から上がるのは「キリストが・・・死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しいいのちに生きる・・・」を象徴しているように見えます。

 また、水のバプテスマを受けた人の体験にも、それを支持するところがあります。「とにかく洗礼を受けようとして受けたのだが、受けた後、自分が変わったことを感じる」という体験談を聞いたことが春平太は少なくありません。

      @     @     @

 さらに、もしそうだとしたら、どうしてそうなるかの論理も、知りたいところですね。次の聖句を読んでみましょう。

 「水と聖霊から生まれなければ創主の王国に入ることは出来ません」(ヨハネ伝、3章5節)

   ~~~これもイエスの言葉です。これと、先に挙げた今週の聖句とを並べてみましょう。

「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)

 ここで、「創主の王国に入る」と「救われます」は内容では同じことを言っていますよね。すると、「水と聖霊から生まれる」と「信じてバプテスマを受ける」も実質的には同じはず、となります。

 故に、「水のバプテスマ」とは「水と聖霊から生まれる」ことだと解せます。つまりこれによって聖書では、水のバプテスマには、聖霊の介入がある、という論理に明確になっていることがわかってきます。

 さらに、もうひとつ、イエスがバプテスマを受ける場面の聖句(前述)を、今一度ここに並べてみましょう。

「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)

 イエスが水のバプテスマを受けると、聖霊が下っています。そして、このイエスの時ほどに強烈ではないのですが、この聖句から「聖霊はバプテスマを受けたときその人に影響を与える」という解読を引き出すことも出来ます。

 そして、これをバプテスマに内在する効果だと理解しますと、バプテスマ前後の人の変化は、説明がつくことになるわけです。

 では、聖霊はどうしてそのとき下るのか? 
これについては、春平太は説明できません。

 論理的説明が不可であること、これすなわち、神秘です。そこは、神秘として、少なくとも当面、そのまま信頼して受け入れておこうと、春平太は思っています。

 まあ、神秘があるから宗教でして、なかったら実証科学です。科学でしたら、信頼とか信仰といった意識は不要です。聖書を解読していった後に残る神秘は、春平太は信頼して受け入れることにしています。

<バプテスマには意志による選択と決断が必要>

 以上で、バプテスマを受けることに関する、知識は概略得られたと思います。
最後に、春平太は、もう一つ確認しておくべきことを記して終わろうと思います。

 前述のように、バプテスマは知識も信仰も不完全な状況で、受けるものです。そういう状況を本人が自覚していて受けるわけです。

 そしてこれは実際には、当人の「意志」がないと出来ないものです。平たく言うと、「洗礼を受けたい」という欲求(wants)と、それに基づいた決断が必須になります。

  前述した、このエチオピアの高官は、ピリポからバプテスマを受けました。彼は、ピリポの解説を信じたばかりでしたが、すぐ洗礼を受けました。もちろん彼にはこの時点で「この書物を探究すれば真理に到達するのではないか」という直感、霊感があったでしょう。

 だが、「到達するのではないか」という予感だけではバプテスマを受けようという気持ちにはつながりません。やはり、探求したいという欲求と、「今後、探求するぞ」いう決断が加わらねば不可能です。

 知識の量や「ここに真理があるのではないか」という確からしさの感覚(これが人間の、信仰という心理の中身です)だけでは、いくらあってもだめだということです。

 人間には、完全を望む動機が埋め込まれています。やはり受けるには、「もう少し完全に近づかないと、いけないのではないか」というような反省というか、罪悪感のようなものは、他方から常に与えられます。

ところが、人間の聖書知識や信仰が100%の完全なものになることはありえません。だから、完全志向の心理に影響されますと、「もうこれで完全だ」と思えないが故に、バプテスマを受けないで生涯を送ることになります。

 信仰も、知識もカラシ種ほどに小さくていいのです。その状態で、その神秘的な力、「バプテスマの神秘」を信頼し、自らにすばらしい変化が生じることを期待して、水のバプテスマは「意志して」受けるべきものであります。

++++++++

 「私が変わって、バプテスマを受ける」のではありません。
 「バプテスマを受けて、私が変わる」のです。

 天の創主の王国の豊かさは、「先を争って奪い取るもの」というのが、イエスの教えです。
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「ページを開こう!」

2004年11月16日 | 春平太チャペル
<今週の賛美歌>
「いつくしみ深き」讃美歌 312番
↑クリックすると音楽の鳴るページに飛びます。
http://promises.cool.ne.jp/newpraisemidi.shtml


 

<今週の説教> 

(聖句)
「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちより心が開けていた。彼らはパウロたちの話に熱心に耳を傾け、はたしてメッセージが真理であるかどうか、確かめようと、日々聖書の言葉を調べた」(使徒行伝、17章11節)

       @      @      @

 「私は料理素材としてニンニクを使うことを薦めません。これは呪いの食物だと聖書にかかれているそうです。カインが弟を殺したとき、その血の流れた土地に生えてきた呪いの植物だと。それで、世界のベジタリアンにも、これを食べない人が多いそうです」

 料理に長けたある女性から、こういう話を聞いたことがあります。春平太はちょうどそのとき聖書を持っていましたので、話が終わった後、「そんな記述は聖書にはありませんよ」と、お伝えしました。その箇所を読んで聞かせてさしあげました。

      @      @      @

 カインとアベルは、アダムとイブの間に最初に生まれた男の子です。弟のアベルは「羊を飼う者となり、カインは土を耕す者になった」と聖書にはあります(創世記、4章2節)。それである時期に創主に献げものをするのですが、兄の献げものには創主は目を留められませんでした。理由は、収穫物の中の最良のものを献げなかったから、という主旨が記されています。

 初子の中の、それも最良の羊を献げた弟アベルのものに創主が目を留められたのを「ねたんだ」アベルは、弟を殺します。それで、すんでいた土地を追い出され「エデンの東」、ノデの地に住み着いた、とあります。が、「弟の血が流れた土地から、にんにくが生えてきた」などという記述はありません。

 おそらく、父、母のアダムとイブが、エデンの園で、創主に対して罪を犯したときに、「土地にイバラとアザミを生えさせる」という創主の言葉が出たことと、混同しているのでしょう。

 だが、彼女によれば、このニンニクの話を本当だと思っている人は、結構いるそうです。どうしてそうなるのでしょうか。ここには、相応の信憑性を感じさせる話が仕掛けられています。一つは「世界のベジタリアンもニンニクは食べない」というメッセージです。「はたしてそうかな?」という気持ちを抱いても、そこにこういうメッセージをかませられると、「そうか、それならホントだろう」と簡単に信じ込む傾向が人にはあるのです。

 もう一つは、「聖書にある」というメッセージでしょう。聖書というのは、それなりに、何か深い真理がかかれている、というイメージを人々に与えています。だから、「聖書に・・」と一発かまされると、人々はコロンと信じてしまいます。実際、こういうカマセでもって、大学生や大学院生や弁護士、医師までに自分の世界観を信じさせ、被害甚大な社会犯罪を犯させた宗教教団の教祖も、20世紀末の日本に出ています。

      @      @      @

 では、こうした情報被害から身を守る方法はないでしょうか。あります。確かめればいいのです。世界のベジタリアンの食事嗜好を調べるのは大変ですが、聖書の記述を調べるのは、簡単です。本のページを開けばいいのです。たったそれだけのことです。

      @      @      @

 上に掲げました今週の聖句、使徒行伝の一節には、そういう弊害から抜け出せていないテサロニケのユダヤ人と、抜け出せているベレヤのユダヤ人との対照が記されています。ユダヤ人は、旧約聖書をよく学んでいる民です。そこへパウロという使徒がきて、彼らが教わってきていない、新しい聖書解釈をメッセージしました。具体的には、旧約聖書をイエスのことを証言している本として、解説したのです。

 すると、テサロニケの人は、「それが自分たちが教わってきていないものだ」というだけの理由で、話している者を襲いました。聖書に改めて当たるということなく、ただただ怒って、パウロたちを襲いました。

 ベレヤの人たちは、「果たしてそう解読できるのか、と聖書の言葉そのものに改めて触れ始め」ました。この人たちの中から、パウロの話を真理だと判断する人が多く出た、と「使徒行伝」の著者ルカは記録しています。

 しかし、信じたとか信じなかったとかいう結果をいう前に、大事なことがあります。テサロニケ人には、身の危険をも顧みず伝えようとしてきている、パウロたちの新しい聖書解読を「検討する」という選択の道が開かれませんでした。ベレヤ人は、開きました。

 もちろん、世の中には、危険なメッセージもあります。それには、耳を傾けない方が安全、というケースも多々あるでしょう。だが、聖書は2000年にわたって、世界最大の宗教を形成し続けてきた、歴史の雨風に打たれるなかで残ってきた古典です。信頼できます。

 そして、上記の話からもわかりますように、人々の思考や態度に基底のところから多くの影響を与え続けています。聖書文化圏の人口が世界の30%で量的に最大というだけではありません。いま、この圏の文化が、世界をリードしています。指導的な国、人物の大半が、この文化圏から出ています。そして、国際化の波はとどまることなさそうです。

 そうしたなかにあって、聖書の教えだと聞いても、聖書そのもので確かめない姿勢、ライフスタイルには、むしろ危険が大きいのです。今述べた「ニンニクの呪い」の知恵などは、創世記の4章をちょっと開けばすぐに確かめられる話なのです。上記の、宗教教団の危険も、聖書をちょっと開いて、確かめたら回避できた話なのです。

 幸運にも、危険に巻き込まれなかった若者も、依然として、びくびくしながら暮らしていかねばならない事には、変わりないでしょう。しかも、これからますます、そういう時代になります。

      @      @      @

 聖書を開きましょう。ページを開けばいいのです。大冊で、どこを開けばいいかわからない、かもしれませんね。そういうときには「コンコルダンス」(聖句対照表)で、カインでもアベルでも引けばいいです。すると、その章が示されます。

 書店にもありますし、インターネットに無料で引く事の出来る「コンコルダンス」もあります。
さあ、みなさん、「聖句(聖書の中の言葉)」そのものに触れましょう。恐れず、勇気を持って、ページを開きましょう。
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