今回は、永続確信が、来世に行くためだけのものではない、という話をいたします。
「人間死んで終わりでない」という確信を持つことは、より幸せなこの世を造るにも貴重なプレゼントを与えてくれるのです。
<親友との再会>
最近鹿嶋は、一年ぶりに日本に帰国して二人の友人に会いました。
春平太より、ほんの少し年下です。共に60歳近い親友です。
ふたりは経済的にはとても恵まれた環境に生まれ育ちました。
どちらも従業員150~300人の中規模メーカーのオウナー創業経営者の息子です。
この点は似ていますが、その置かれた立場は対照的でした。
一人は長男で、親の会社をそっくり受け継ぎました。
両親が90歳過ぎまで会社に君臨し続けました。
ご本人は、大手企業で働いていました。
そこで部長クラスまで上り詰めていたのですが、両親の相次ぐ死によって、急きょ親の作った会社に帰りました。
トップに立って、一年が過ぎていました。
もうお一人は、三男さんで、何も受け継げませんでした。
長男のお兄さんが社長を務める会社の重役の一人として働いてきました。
親父の作った会社であるにもかかわらず、長男の意図で、60歳で定年として会社を去らねばならなくなりました。
老後を暮らす手段は、創業者の親から豊かに与えられています。
けれども、仕事に関して言えば、次に何をするかは決まっていない状態でした。
<20年間を意識するのは苦痛>
会社を継いだ方の長男友人との会話の中で、私はこんなことを口にしました。
「まあ、君はこれから、80歳まで社長をするとして、20年間あるよね。その間に何をし、何を残しておこうと思う?」
すると、彼は苦痛にゆがんだような顔をしました。
「そんなに長く先を考えたことなどない。自分は両親のように長生きできないと思っている。そもそも、何時ガンで死ぬかも知れないじゃないか。一年一年、その時その時を懸命にいきるのみさ」
親の造った会社を去らねばならない三男友人との会話でも、似たようなことをいってみました。
「このまま悠々自適で暮らすにはエネルギーをもてあますだろう。やはり、小さくても何か起業でもするとなると、その会社をやるのは20年、80歳くらいまでだろうな。その間のこと、何か考えてるか?」
すると、彼も苦しそうに顔をゆがめました。
「そこまで生きられるかどうかなど、全然わからない。まあ、還暦過ぎたら、一日一日を充実させ、気持ちの上では“明日なきいのち”を生きるだけさ」
<日本男児の心理状態>
親友の苦痛の表情は、私には予想外のものでした。
私は改めて、還暦の60歳を過ぎようとする日本男児の心理状態について考えざるを得ませんでした。
二人とも、死ぬまで経済生活には全く困らないだけ、いや、それを遙かに超えた財を親から残されています。日本では、成功した企業創業者は巨額の財をなせるようになっております。それが妻や子孫に残されます。それをうけた子孫も、財産的には、贅沢三昧をし続けてもまだ残るような状況になります。
その彼らが、先のことに想像を巡らせようとすると、苦痛に顔をゆがめました。
共にその話題から意識をそらそうとしました。
なぜでしょうか?
おもに、恐怖感が浮上するからだと推定されます。
どういう恐怖感か。
死ぬときは苦しいだろうなあ、痛いだろうなあ、というのもあるでしょう。
だが、決定的なのは死んで消滅して何もかもなくなるということへの、恐怖感です。
<一日一日を充実、は庶民の美徳>
日本人には全般的に、永続確信は薄いです。
薄いと結果的に「死んでおしまい」、という意識が強くなります。
すると、人間は、死んだ先のことを考えるのを怖がります。
その結果、本格的に冷静になって、長期視野でものを考えることが出来なくなります。
それはそれでいいかもしれません。
どうせ死んでおしまいならば、その日その日を充実させよう。
こう開き直って“明日なきいのち”を燃やすのもいいでしょう。
個人の自由は貴重です。
ただし、それは庶民にとってのことです。
リーダーの立場に立っていく人はそれではいけません。
リーダーは、長期を冷静沈着に眺めて、20年だけでなく、50年、100年に想像力を巡らせねばならない。
百年の計、といいます。
彼は「一日一日を燃えて生きる人々」を間違わない方向に導くべき立場にいるのですから。
<ダイエー、中内さん>
滞米中に、日本での印象的なニュースを目にしました。
それが上記のことに関連をもつように感じられ、記憶に残りました。
一つは、スーパーマーケットで巨額の財を一代でなしたダイエーの中内功さんについてです。
彼は結果的には、創業した企業の経営権をあまねく失ってしまいました。
最盛期には彼は小売だけでなく、ホテル、不動産・就職情報会社、プロ野球団をも統合した一大企業体を統治していました。
そして、それを自分の長男、潤さんにそっくり受け継がそうとしました。
日銀などから幹部人材を引き抜き、息子の周囲を固めるブレーン作りもしました。
こういう風に人事的に手を打っていきました。
彼は70歳近くになってからは、それにほとんど没頭した。
ということは、パブリックマインド、公共心が二の次になったということです。
いうなれば、自分のエゴを全面にむき出しにしていったのですね。
カリスマ的な創業企業の従業員は、トップに似るものです。
知らず知らずにボスを真似て同化していくのですね。
だから、トップがエゴイズム・利己心に走ると、会社のあちこちでも、社員が自分の個人的利益を主目的にして言動するようになります。
そうすると、企業はもう収拾がつかなくなっていきます。
個々の支店にも、信じられないようながらくたが、安価で陳列されるようになりました。
そんなものは売れませんが、とにかく陳列していた。
末期に向かう時期のダイエーはそうなっていました。
そして、バブル崩壊の中で、巨大な借金を抱えた、借金漬けの企業となった。
かくして人手に渡っていきました。
それは多くの社員をも苦境に陥らせています。
<西武の堤義明さん>
もう一つは西武グループ企業のオウナー経営者堤義明氏に関する情報です。
これもマスコミで大きく騒がれていた。
彼も、西武鉄道を初めとする巨大企業体のトップに立っていました。
ダイエーもそうだったのですが、西武企業集団も株式を上場し、公衆から資本を集められる体制にしておりました。
上場企業は、ボスの所有する株券の比率が、法的に制限されます。
こうして、個人の支配力に上限を設定する。
上場すると一般投資家の資金を募ることが出来ます。
そういう制度の恩恵をうると言うことは、それだけ、その会社が公共的・パブリックな存在として認められることでもあります。
そうすれば、相応の義務もついてくるのが当然です。
そういう理解で、少数者の支配力が直接及ぶ株数は西武鉄道などにおいても制限されていました。
ところが、西武では、多くの株式の名義を社員のものとして報告していました。
それらの株券は実質、堤さんのもの。
だからその、支配権は絶大でした。
彼の場合は、二代目でした。
彼は創業者の父、堤康次郎氏から、そういう体制のまま、西武企業集団をそっくり受け継いだということです。
親の代から、西武ではそういう方式をとっていたわけですね。
けれども、株券という紙の書類で、名義の件が処理されている間は、
証券取引所も、それを確認することは困難でした。
ところが、IT時代になって環境条件が一変しました。
株券の名義を、みな、電子メディアに登録しなければならなくなった。
すると、証券取引所に報告してあった株主名簿と、実際の名簿との不一致が簡単にわかってしまうようになります。
急いで実質オウナーのものとなっている社員名義の株を売却して逃れようとしました。
ところが、「もう少し高くなってから売れ」とかいう、従来の義明さんからしたら想像できないような命令が出たりして、売却も遅れた。
そうしているうちにばれてしまった。
違法行為が明るみに出て、彼は親から受け継いだ企業体の経営権を、まるごと取り上げられてしまいました。
<大企業は社会の公器でもある>
ダイエーにせよ、西武にせよ、あれだけ巨大になったら、企業は社会の公器です。
やはり、その長期視野にの基礎に、はパブリックマインド(公共心)が位置づけられてなければなりません。
これを、自分の血筋に独り占めさせようとする気持ちは、トップの心の中にどうして起きてくるのでしょうか。
<公器を強引に独り占め>
西武でとられてきた方式は、親の堤康次郎さんが考案したものでした。
この人は、滋賀県か何処か関西の出身だそうです。
先祖代々の土地を処分して、東京で巨大企業集団を作り上げた。
しかし、それは、堤家を再興したもの、というのが、康次郎さんの基本的な理解だったそうです。
どんな巨大な鉄道会社でも、ホテルチェーンでもそれは、堤家の財産です。
だから堤家の私的コントロールの下にあるようにしておかねばならない。
ところが、会社拡大のための資金は、株式を上場して大衆投資家から吸い上げている。
そういう企業は基本的に個人や家族の支配下におかれていないもの、というのが条件です。
ところがその一方で、私的支配下におこうとすれば、結局ことを裏で操作するしかなくなります。
それが延々と続けられてきた。
義明さんは、それを受け継いだだけ、と言えないこともないかも知れません。
だが、彼もそれを維持し、そこに君臨し、かつその支配権を堤家の子孫に手渡すことを望みました。
動機においては、やはり、中内さんと根っこでは共通しています。
なお、若干付言しますと、サントリーは少し条件が違います。
サントリーも大企業で、代々創業家がトップを受け継いできています。
が、株式上場していないので、一族が株の大半を保有することにおいては、法的に無理がないのです。
もちろん、サントリーにおいても、一大企業群のワンマンリーダーは、長期的でかつパブリックな視野を持たねばなりません。
それがまず第一になければならない。
そういう視野が冷静にもたれていなければならない。
息子も家族も可愛いでしょうが、その処遇はパブリックマインドともった上で考えるべきことです。
その精神を維持することだけでも一仕事です。
なのに、「強引に」自分の血族に統治権を手渡すことが主要関心事になる。
これはまずいことです。
経営視野は狭くなりますし、なによりも、思考に冷静さが欠けていきます。
<永続確信がないと、血族で継続性を造ろうとする>
お二人とも、それまで大企業集団を創業し、あるいは継承発展させ、成功裡に導いてきた有能者です。
なのに、途中からどうしてこんなことになっていくのでしょうか。
結論から言えば、それは自己に関しての永続確信がないことが基盤になっています。
自分は死んでおしまいだと思う。
日本人の大半は、そういう消滅の時が近づく中で、その自覚と共に人生を送っています。
それが、還暦を過ぎる頃にはとりわけ近くに来ている、と感じられる。
その恐怖・空しさから何とか逃れられないか。
歳と共にその意識が、段階的に強くなるようです。
逃れるための一番てっとり速い方法は、息子とか自分が精神的に同化している血族に、自分の大切にしてきたものをそっくり渡すというものでしょう。
世的な方法としてはね。
これも気持ちの“紛らわし”に過ぎないんですけどね。
だって、その息子だって、肉体は百年もしないうちに死んで消滅してしまうんですから。
その又息子だって同じです。
でもそれしか思い浮かばないから、それにしがみつく。
精神の深層がそうですから、社会の公器を長期的視野の中で考える意識などは、後退していってしまうのですね。
<日本のリーダーは総じて近視的>
見逃してならないのは、こういう性向は、日本のトップ層全般に生じていく心理だということです。
長期意識を本格的に持つことができない。
時々、ちょっとその気になったりはしますけどね。
それは、「本格的」ではありません。
鹿嶋の友人だけでない。
ほとんどのトップがそうなります。
その結果、日本では、企業や国家など、全体としての組織体にすぐれた舵取りがとても少なくなる。
ほとんどの人間集団が、長期的には非常に脆い状態になっていく。
そういう、ことになるのです。
長男後継者である友人の会社は従業員百何十人という規模の中堅企業です。
大企業集団のトップではないのだから、パブリックマインドは薄くてもいいとなるかも知れませんが、その視野の狭さ、短期性はやはり特徴的です。
薄くてもいいといっても、薄すぎるように思えるのです。
おそらくそれは、長期に視野をめぐらすことが怖い、という心理から出ているでしょう。
会社を受け継いだら、年々の利益率をもっと上げるという、短期的なことにしか情熱を注げなくなっています。
そのために、社員をあの手この手で鼓舞し、尻をたたく経営者になっています。
高い目標利益を掲げ、「それに達してないじゃないか! がんばろう!」と鼓舞する日々。
個人としてはいい奴なんですよ。
少なくとも若き日には、山本周五郎が好きで、人間愛の物語に感動する人物でした。
<人間自然なままでは永続確信は生じない>
会社を次がない方の友人には、そういう現象はもちろん現れません。
そういう違いはありますが、従来、人生その他において春平太と考えが一致するところの多い存在でした。
だから友になるのでしょう。
共通点が少なかったら、互いに共鳴し合うところが生まれませんので、友になりようがないですからね。
にもかかわらず、今、永続確信においては、春平太と大きな違いがあります。
春平太が目を見張るほどに、薄い。
なぜでしょうか。
これは自然なことなのです。
人間は、そのままなら、目に入るものから世界を、存在を考えていくしかありません。
目に入るものは物質です。
人間についても肉体だけしか見えない。
肉体は、百年もすれば必ず死んで消滅します。
だから、人間は死んでおしまい、という意識を持つしかないのです。
<永続確信を持つ方法>
にもかかわらず、永続確信をもてるのは、目に入る物理的世界以外のものから造られるイメージ世界を持つことが必須です。
そして、「永続有り」のイメージ世界とそれへの確信を強力に形成する力をもつ書物があります。
それが聖書です。
これを用いればいいのです。
第一に、具体的には、聖書(聖句)そのものを読むこと、
第二に、まずは、永続確信に焦点を当てて読むこと、
~~この二つが大事です。
これによって我々は心の中に、永続イメージを形成していくことが出来ます。
そして、永続確信に関連する聖句を繰り返し、繰り返し読みます。
物理的な世界は、毎日、我々の網膜に映り、意識に入ってきます。
それが、人間は肉体だけ、肉体は死んでおしまい、というイメージを形成し続けます。
でも、それ以上に永続確信を、強いものにしたらいいのです。
「人間は永続する」という意識を与えてくれるもの、すなわち聖書のメッセージを、繰り返し目にし、心に入れたらいいわけです。
<小グループが効力を倍加する>
第三に、出来る限り、小グループで見解を提供・検討しあいながら読むといいです。
数人の小グループは、イメージを明確に形成する力を倍加します。
そうよむならば聖書は永続確信を必ずや深く強く与えてくれます。
そうすれば、人は、百年、2百年、千年の将来を淡々と心に描くことが出来るようになります。
子供とせいぜい孫までだけではありません。
その孫、さらにその孫、百代千代に及ぶ範囲に、考察を至らせることが出来るのです。
それがあって、初めて、人はリーダーに求められる真の資質を備えることが出来るのです。
聖書は、肉体の死後だけでなく、生きているこの時点にも、貴重な確信を与えてくれる書物です。
これを「キリスト教の教典」→「宗教の本だ」→「怖い、止めとこう」といって、避けているのが、大半の日本人の状況です。
惜しいですね。
色んな教派が、聖書を色々に解釈して、自己の教理を造っています。
それが宗教です。
そんなものと、関係なく読めばいいのです。
それが最も有効な方法です。
これは本です。
本だとして読めばいいのです。
我々の多くがこの本を読んで議論を交わすとき、日本は長期繁栄に向けて、本格的に進むでしょう。
(終)