鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.131『イエスの名によるしるしは創主からのもの』(10章)

2006年03月25日 | ヨハネ伝解読

~~ヨハネ伝は深いですね。
 今日も読んでみましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「私(イエス)が父の名によってしているすべてのわざが、わたしのこと(創造主の子であること)をあかししています」(10章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                     


 22節以降に入りましょう。ここで
もイエスは、むずかしいことを言っていますねえ。
 まず、ユダヤ人たちが

 「(自分は門だの羊飼いだのとおっしゃいますが)、要するにあなたは救い主なのかそうでないのか。結論をはっきり言ってくれ」という(24節)。

 ~~イエスは答えます。

 「そのことはもう言ったではないか。諸君が信じないんで結論が見えないだけなんだよ」と(25節)。

~~続いて
  「私が父なる創主の権威でもって行っていること(奇跡、しるし)が、私のこと(その父の子が地上にきた救い主であるること)を証言しているのに」と言います。

 イエスはここで「自分の行う奇跡は創造主の権威でもって行っているものなんだ」と言っている。こんなことどうして言えるんでしょうかねえ。

 その理由は、この段階では結論だけを言うことしかできませんが、言っておくしかありません。それはこれをしている方が「イエスという名」をもっていることによります。イエスの名が、悪霊の仕業かそうでないかを識別するポイントなのです。

 ここでは、その「名」に関することが隠れているのです。イエス自身がそれをしているから、彼自身がイエスという「名」をもってやっていますから、敢えてここではいわれません。

 イエスはただ、「わたしが行っていることが、創り主の権威で行っていること」とだけ、言っています。


                    



 創り主の権威が「名」にあるということは、意味深いです。
それは創り主の権威で行うことは、イエスご自身によるものだけではないことをも示しています。

 決め手は「名」ですからね。ある人が創主の名・イエスによって癒しをなした場合も、それは創主の権威、承認がその人にある、ということを示しています。悪霊によるものではないことになります。

 こういう明確な識別手段が与えられていますから、福音において、癒し、しるしを怖がることはないのです。

 とりわけ教職者は、今はしるしを現すことが出来なくとも、いつか自分を通して現れることを、望み続けるべきです。心配しなくてもいいです。癒しが出来ない牧者は、現代では圧倒的に多数派ですから。

                    

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Vol.130『いのちを与えられるのはイエス(創主)のみだから』(10章)

2006年03月24日 | ヨハネ伝解読
~~ヨハネ伝解読、すすみますね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「父(創り主)はわたし(イエス)がすすんで命を捨てるから私を愛してくださるのです。命を捨てるのは再び得るためだけれど。誰かが私のいのちを取り去るのではありません。自分からそれを捨てるのです。私にはそれを捨てる権利があり、またそれを取り戻す権利があります。これ(命を捨てて、後に取り戻すこと)は父が私に命じられたことなのです」(10章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


 「真理(創主)への登り口は、実は、私だけなのだよ」とイエスは教えました。どういう理由で彼はそういうのでしょうね。

 それはイエスだけが「いのち」を与えられるから、ということになります。「いのちエネルギー」を十全に与えて「罪無き」状態に出来るのは、自分だけだからだ、という論理です。

 「罪ある状態」とは、その人の霊にいのちエネルギーが十全に充ちていない状態をいいますからね。人は生まれながらにして、そういう状態にある、というのがイエスの教えの背景にあります。

 そこにいのちを注入して、完全充電に再生するのは、自分(イエス)しかいないのだ。そして、私はそれを、殺されることによって実現するんだよ、というわけです(15節)。


                    



 この話が、近い将来イエスが体験する十字架刑死につながっているなどとは、人々は想像もつきません。その状態で、イエスは、「しかし私が死ぬのは、自分からそうするのだ。それは、再びいのちを得る(復活する)ためなんだ」と一気に論を重ねているんですね(17~8節)。

 これじゃあ、聞いてる方はたまりませんよね。一生懸命わかろうとして耳を傾けていてもわからない・・・。

 「ウワァーッ、もう俺の頭がぐしゃぐしゃになってきたぁ~、彼は何いってるんだぁ~っ」

 こういう場合、多くの人は、語っている相手(イエス)の頭がぐしゃぐしゃだと考えます。すると自分のイメージ(セルフーイメージ)を(正常だと)守ることができますからね。

 で、その多くの人は言いました~~

「彼は悪霊にとりつかれてる、気が狂ってるんだ」
       ~~と。そして他の人たちに、

 「君たちはどうしてこんな話を聞いてンの? いい加減に目を覚ませよ」(20節)。

~~普通はそうなるでしょうねえ。この時点で、なおかつイエスについて行った人たちを、春平太は不思議にさえ思います。


                    


 現代の我々には、聖書というものがあります。そこには多数の書物が編集して納められています。その聖書でもって、この状況を全体的にふり返って理解することが出来ます。当時の人々に比べると、自分は楽だなぁと実感します。

 当時はそうではないのです。それでなおかつついて行った人々はホントに偉いもんだ、すごい頭の良さだ。いや、霊感か。とにかく感心します。

                    

<しるしは効く>

 とはいえ、人々にそうさせる強力な要因もまたありました。それは、しるし(奇跡)でしょう。イエスによるしるしを見たことからくる確信が、彼らをイエスの話に踏みとどまらせました。彼らは言います。

 「いや、正直なことろ私たちにもこの話はもう全然理解は出来ない。出来ないけれども、それでもなお、この方は悪霊につかれているのではない。それははっきり言えるよ。だって、悪霊が盲人の目を見えるようにすることはあり得ないんだから」(21節)。

 春平太が“しるし”を重視するのに対し、警告を下さった方もいました。「悪霊もしるしをする、と聖書に書いてあるではないか。危ないことだ」と。

 そのとおりです。にもかかわらず、しるしを怖がってシュリンクしていたらいけません。霊を見分ける基準を、聖句の中に探すのです。しるしは大切な福音の要素なのですから。

                    


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Vol.129『イエスは自分を羊囲いの門という』(10章:初回)

2006年03月23日 | ヨハネ伝解読


~~こんにちわ。
 前回の解読は、とてもとても大事なところです。
鹿嶋のブログは、言葉ばっかりで、理屈が多く、読みづらいでしょうが・・。

 「罪許される条件が、実は、聖句を探求しているその姿勢にある」という解読が正しかったら、福音は素晴らしいものになりますよ。こういう解読も成り立つ、ということを知っているのは、貴重なことだと思います。

 さて、本日の聖句にすすみましょう。

                                        

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「そこでイエスはまた言われた『よくよくあなたがたに言っておきます。私は羊の門です・・・(中略)・・・わたしはよい羊飼いです・・・』」(10章7~11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    
 

10章に入ります。ヨハネがここで記しているのは、福音の教えの中のベーシックな部分です。

 イエスはまず「自分は(羊)囲いの門である」と言っています(7節)。有名な宣言です。ここで羊とは、イエスの言葉を受け入れた信仰者です。彼らは、囲いの中で創造主(と天使)によって保護されているのです。

 イエスは、自分がその囲いの入り口、門であるという。それは、その門を通らなければ囲いに入れないように、自分を通してでなければ、創主に守られた囲いの中には入れないよ、といっているわけです(9節)。


                    



 ところが、この話を、イエスは自分を登場させない形で始めています。曰く「羊の囲いにはいるのに、門から入ってこないのは盗人であり、強盗だろ?」(1節)、「羊飼いは、門から入ってくるだろ?」(2節)といった調子です。

 さらに「すると門番は、門を開くし、羊は彼の声を知っているので従う。それで羊飼いは羊の名を呼んで囲いから外に連れ出すんだ」ともいう(3節)。

 「けれども他の人だったら、その声を知らないんで羊は逃げてしまうんだよ」とも(5節)。

 ところが聴衆は、どうしてこんなことをイエスは言うんだろうな、という様子だった、とヨハネは記しています(6節)。ヨハネ彼自身はわかっていたのでしょう。

 そうしておいて、イエスは群衆に言うのです。「その門とは私なんだよ」と(7節)。


                    


 後にイエスは、自分をその門から入る「羊飼い」だとも言っています。紛らわしいですね。「え?! 一体どっちなんだ?」と言いたいところです。

 「その両方である」というのが正解でしょう。イエスは、門でもあり、羊飼いでもあるのです。

 では門とはどういう意味か。それは、創主の国に行くには、私を通ってでなければ不可能なんだよ、ということであります。

 どうしてか? 創主の国に入るには、「罪」というものを処理しなければなりません。罪ある状態では天国には入れないわけです。

 その罪を「無いもの」とする力はイエス以外に持っていない、これがイエスの教えであり聖書の論理なのですね。だから、イエスを通ってでなければ、創主のもとには行かれないことになるのです。


                    

 日本には、「山の頂上にいたるにはいろんな登り口、いろんなルートがある」と言う、宗教家というか道徳家というか、そういう人がたあくさんいます。「登山口複数説」とでも称すべき理屈ですね。

 「真理にいたる道もそうだよ。仏教もそうだし、イスラム教も、キリスト教もそのルートだ。お釈迦様も、マホメットも偉かった、イエスも孔子もよくやった・・・」などともっともらしい顔をして教えています。

 こういうのが日本ではまだまだよく受けています。こういう教えをする教団が大繁盛している。教祖は大邸宅に住み、その本はベストセラーの上位にいつも顔を出しているといった状態。それは日本人の形而上学的純朴さ、幼稚さを如実に現しています。

 もっともらしい顔、というのは、聖書もコーランもみんなわかっている、と言いたげな顔でもあります。ところが実は、わかっていないのです。その基底的なところがわかっていない。

 聖書ではイエスを、たくさんある真理への登り口の一つなどとは全然教えていません。それは、今解読した聖句でもって明らかでしょう。


                    


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Vol.128『救いの条件は実は聖句探求の維持?』

2006年03月22日 | ヨハネ伝解読
~~「ヨハネ伝解読」にもどりましょう。

本日も前回と同じ聖句を考えます。
今日考えるのは、とても大事な、福音の神髄に関するところです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「イエスは彼ら(ユダヤ教の僧侶たち)に言われた
『もし諸君が盲目であったならば、罪はないだろう。
だが、諸君は、自分が見える、と言い張っている。だから諸君は有罪なのだ』」
(9章41節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  「自分が盲人である(イエスの教えが見えていない)という自覚があれば有罪ではない」という言葉は、
前回ともうすこし違った解釈もできそうです。

 前回は、「この時点で(イエスによって)有罪の裁きを受けるのではない」というふうにとりました。
これは、将来の最後の審判で有罪の裁きを受けることもありうることを含んでいます。

 もちろん、イエスを信頼して罪なしとされる可能性もありますが、ともかく、
“イエスがこの地上にいる時点で「有罪」と決定される以外のすべて”を可能性として含んでいる、
という解読を前回はしました。


                    

<自覚があれば罪許される?>

 これはもう少し積極的に解読することも出来そうなのです。
「自分はイエスの教えがよくわからないという自覚を持つものは」実際にこの時点で
「罪なき」という裁きを受けた、と解する道もありそうにみえるのです。

 その可能性もある。イエスは「罪を許す」権威ももっているのですからね。

 「マタイ伝」9章を開いてみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・
 「・・・人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。
イエスは彼らの信頼(信仰)をみて『子よ、しっかりしなさい。
あなたの罪は許されたのだ』と言われた」(9章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・

 ~~とあり、その少し後に
 
 「『・・・しかし、人の子(イエスのこと)は地上で罪を許す権威を持っていることを、
諸君がわかるために』といい・・」(9章6節)

    ~~とあります。
 すると、イエスの話を聞いて「自分は子の教えをまだよくわかってないんだ」という自覚を持つものを、
イエスはその時点で許す(罪なしとする)ことも出来ることになるんですね。


                    

<信頼の神髄に通じている?>

~~~そんなの不公平じゃない?
という声も聞こえそうですね。ところが必ずしもそうはならないんだよね。

 そもそも、福音において罪が赦される条件とは何だったでしょうか。
一般的には「悔い改めること」ですよね。で、この「悔い改める」という言葉をよく考えてみましょう。

 通常、悔いたり、改めたりするには、言われたことが「わかって」いなければなりませんよね。
わからなければ、悔いようがないし、改めようもないんですから。

 だが、そうだとするとそれはそれなりに問題が生じるんです。
「わからない場合はもう、罪は赦されないのか、救いはないのか」という問題が・・・。

 それだと、知的に恵まれていない人、あるいは、幼い子供などはどうなりますか?
金輪際救われないことになるんですね。
だって彼らは、イエスの言っていることが知的には「理解」出来ないのですから・・。

ところが「ルカ伝」18章を開きましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「創主の国(天国)は、この(幼子の)ような者の国である。
・・・だれでも幼子のように創主の国を受け入れる者でなければ、
そこにはいることは決して出来ない」(ルカによる福音書、18章16~7節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


<わからなくても感じてはいる>

~~イエスはここで、幼子にも罪赦される道はある、と明言しているのですね。
これはなんだ。どう理解したらいいんだ?
 
 イエスは許す権威を持っているんだから、何でも出来る、といったんではもうめちゃくちゃになりますよね。
なんか許す理由が成立しなければなりません。筋が通らなければいけません。解読になりません。

 で、こんなのはどうでしょうか・・・。

 「自分はまだ、教えがよく見えていない」という(素直な)自覚がある人の心理はどうなっているでしょうか。
「イエスの教えには真理がある」ということは「感じてはいる」のですね、間違いなく。

 それは、「知的には理解できなくても、霊的に感知できている」ということになるのではないかな。
するとその人はどうするか。とにかくイエスの言葉にさらに耳を傾けようとするでしょう。
イエスの行くところについて行こうとするでしょう。

 このヨハネ伝解読で前述しましたように、それがイエスのいう「弟子になる」ということでしたね。
弟子とは、まだ、理解しきれないけれどもその教えに真理があると確信して付き従い学ぶ者でしたよね。

 これはイエスの話、天の創主王国の話を無邪気に受け入れる幼子と、同じ状態ではないでしょうか。
幼子もまた霊的に真理を感知しているのではないでしょうか。

 そしてイエスは、その段階で罪を赦すのではないでしょうか。
教えることの意味が知的によく理解できなくても、そこまで行ってなくても赦す。

 しかもそれは、イエスが地上にいる間だけでなく、時代を超えて当てはまる論理ではないか。
幼子の話は、一般法則として語られているのですから。

                    


<実は幼子と五十歩百歩>

 考えてみれば、わたしたちがイエスの言葉を「理解した」と思っても、それはしれたものかもしれませんね。
いや、そうでしょう。だから、米国南部のスモールグループでのバイブルスタディも終わりがない。
検討しても、検討しても、議論は終わりません。「結論が出た、これでイエスの教えはわかった」
といって解散するのでなく、教会は存在し続けています。

イエスの教えをある程度理解したと思っている大人も、
創り主から見たら、この幼子が創主の国の話を受け入れた状態と大差ないかもしれませんね。
いや、むしろ、幼子と大差ないと自覚していることが、罪許される条件かも知れません。

 では、その自覚があるとどうなるか。イエスの言葉が記録されている聖句を調べ続けるでしょう。
逆に、調べ続けない人は、少なくてもそういう自覚がないことになるでしょう。

 すると、聖書の中のイエスの教えを調べ続ける、というのは、罪許される条件となります。
これを言い換えると聖句探求主義を維持していれば、それだけで罪許され、救いを受けられることになります。

                    

・・・そうだとすればイエスの説く福音って、ホントに深く素晴らしいものだと春平太は感嘆します。
読者の皆様は、いかがでしょうか?

                    


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Vol.16 聖書は仕合わせメッセージと確信して読む

2006年03月20日 | 永続確信のための聖書解読



~~もう一つ「ヨハネ伝解読」のインターミッションです。
以前にも申しましたが、聖書は自ら、その内容が人間を仕合わせにしようとして送られたメッセージであることを自認しています。


                    


いまの我々につながるとされる最初の人間は、アダムとイブとされていますよね。
創り主が彼らをおいた場所は、エデンという素晴らしい楽園でした。
彼らは、そこで苦労しないで生きられるように作られました。

創り主は、人間を苦労するようには作っていないんですね。
苦労というのは、人間がすべきことではないのです。

よく、人間には苦労が必要、と言いますよね。
「苦労は買ってでもしろ」ともいわれます。
でも、これは聖書的ではないんですね。

苦労なんて、買っちゃいけません。
楽しみを買うんです。

努力はしますが、それを苦しんでやるのは聖書的ではありません。
楽しんでやる、これが聖書的です。

                    


でも、現実に苦労している人間、苦しんでいる人間が多いではないか。
あまりの苦しみで自殺する人もいるではないか。
~~こういう疑問には、「それは悪魔の仕業」と応えるのが聖書です。

といっても、実際に、アダムとイブはその悪魔の誘惑に欺されて、エデンの楽園を去らねばならなくなった。
だから、以後の子孫は苦労の中で生きることになっているではないか。

~~そのとおりですね。それは聖書的ですよね。
でも、創り主は、こういう人間に対して、再びメッセージを送ります。
それを記したものが聖書だと、聖書は自認しています。
だったら、そのメッセージは人間を仕合わせにするためのものにしかなりえませんよね。

「ヨハネ伝」もそうなります。
ですから、我々はこれを、詰まるところ、我々人間を仕合わせにしようとして送られたメッセージだと確信していいわけです。そういう確信の上に立って読むと読まないとで、大きな差が産まれますよ。

                    

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Vol.127『自分はわかっていない、という自覚があれば』(9章)

2006年03月19日 | ヨハネ伝解読
~~ヨハネ伝、続けましょうね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「イエスは彼ら(ユダヤ教の僧侶たち)に言われた『もし諸君が盲目であったならば、罪はないだろう。だた、諸君は、自分が見える、と言い張っている。だから諸君は有罪なのだ』」(9章41節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 前回、イエスの、自分は「見えるものを見えなくする」という裁きをする、という聖句を考えました(39節)。

 なにが見える、見えないのか、というとそれは「創り主の真理」でしょうね。「どうしたら永遠の救いを受けられるかに関する真理」といってもいいかもしれません。

 イエスの教える真理は「人はみな罪人であり、イエスに頼らないと救われない」ということでしょう。

 一方パリサイ派の僧侶たちは、それとは違った真理観を持っています。その路線で「自分たちは真理がみえている」と思うわけです。

 そこで彼らはこういいます。

 「イエスさん、まさかあなたは、我々をその見えない者だというんじゃないでしょうね」(40節)

 ~~と。イエスはこう応えています。これが本日の聖句です。

「もし諸君が盲人であったならば、罪はなかっただろう。ところが諸君はいま、自分は見えると言い張っている。だからあなた方は依然として罪ある存在なのだ」(41節)。

 これはどういう意味でしょうか?


                    



 前半部分の「あなたがたが盲人であったなら、罪はないだろう」というのはわかり辛いですね。聖書の鉄則では、人間は皆罪人です。イエスの言うことに対して盲目であろうが、生まれながらにアダムの罪を受け継いだ罪人ですよね。

 にもかかわらず「盲目なら、罪はないだろうに」というんですから、この場合の罪は、何か別の意味でなければなりませんね。


                     


 難しいからいったん後半部分に飛びましょう。

 後半ではイエスは「ところが諸君は、自分が見えていると言い張っている。だから有罪なんだ」(41節)

  ~~といっています。

 「諸君は見えていると言い張っている」というイエスの言葉は何を意味しているでしょうね。「(パリサイ人たちは)実際には真理が見えていない、すなわち、盲目である」にもかかわらず「見えていると確信している」ということでしょう。

 するとどうなるか。もう「イエスの言っていることを検討してみよう」という姿勢は生じませんね。

 そのことの故に、有罪だとイエスはいうのです。

 イエスの見解では、いまイエスという救い主自身が、世にきて語っていることにになります。で、ユダヤ教の僧侶やユダヤ人たちにはその教えについて、考えようという姿勢すらない。

 イエスからしたらこれではもうダメなんですね。これについては「はい、それまでよ」なんですね。イエスはもう有罪の裁きをこの時点で下してしまう。後戻りできないようにしてしまう。

 こういう意味だと鹿嶋は思います。


                    


 「盲目なら罪はない」という前半の言葉も、そのつながりで解すると、聖書の鉄則と矛盾しなくなります。当人に「自分は目が見えていない(イエスの言葉がわかっていない)んだ」という自覚があれば、検討する気持がでてきます。

 その場合は、「自分はいま有罪の裁きを下しはしない」というのですね。その後どうなるかはわかりませんよ。だけど、少なくともいまは、後戻りできないようにはしない、こういう風に鹿嶋にはみえます。


                    
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Vol.126 『イエスはこの世で裁いてしまうこともある』(9章)

2006年03月17日 | ヨハネ伝解読
~~こんにちわ、鹿嶋春平太です。
 聖書はとても知恵に充ちた本ですが、「ヨハネ伝」はそのなかでも「聖書の中の聖書」と言っていい書物です。

 最近読み始めてくださった方、面白いですか?
面白くなかったら、それは「ヨハネ伝」のせいではなく、解読を書いている鹿嶋のせいです。
もっとこうしたらいい、こう書いたらいい、とお思いのところありましたら、是非コメントしてください。

~~さて、9章も終わりに近づきました。ヨハネはここで、「裁き」と「悔い改め」に関するイエスの教えを明記しています。今回は、前者の「裁き」について解読してみましょう。


                    



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私がこの世に来たのは、裁くためです。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためです」(39節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 目を癒された男は、イエスに会い、この方こそ創主の子である、と信じました。その彼にイエスは上記の聖句にみるセリフをいっています。


                    


 ヨハネ伝を通読した人は、この聖句について「おや?」と思うのではないでしょうか。この先の12章でヨハネは、イエスの「私がこの世に来たのは、裁くためでなく、この世を救うためです」という言葉を記録しています(12章47節)。

これと矛盾しませんか? ここではイエスは、「自分が世に来たのは裁くためではない」と言っていますから。


                    

 

 鹿嶋の解読はこうです。

 ~~12章での「イエスがこの世にきたのは、裁くためではなく、この世(の人々)を救うため」というのは、一般的な大原則だと考えます。イエスは、人間を救おうとして様々に語り奇跡を行う、というのが新約聖書に共通したメインストーリーです。

 そして、この9章で言っているのは、例外的で特殊な状況だと思います。
 ここでの裁きをイエスは、「見えない者(自分はイエスの説いている真理がわかっていないと自覚する者)が見えるようになり、見える者(自分は真理が見えていると思っている者)が見えなくなるような裁きだ」と言っています。

 具体的にそれはどういうことでしょうか?

 イエスは人間を救おうとしてこの世で働きます。けれども、ある点までやって、ダメな人間に関しては、そこでポンと突き放しています。突き放されたらもうオシマイ。もうその人は真理がみえなくなってしまいます。

 それが「(イエスの説く真理を)見えなくしてしまう」ということであります。イエスがポンと突き放したら、もうその人には、イエスの教えの意味が見えるようになるチャンスは無くなる、のです。後戻りできなくなる。これを指していると思われます。


                    



 こういう例があります。

 後に、イエスは、有名な「最後の晩餐」というのをいたします。十字架刑にかかる直前に12人の弟子たちと共にする夕食であります。後にイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダは、この会食を中座して出て行きます。彼はしばらくして、イエスをとらえようとする人々を、イエスのいるところに案内してきます。有名な話ですね。

 このユダが中座するに際してのイエスの言動に注目してみましょう。彼は、まず、

 「この中の一人が私を裏切ろうとしている」(13章21節)

  ~~と言います。で愛弟子ヨハネは、それが誰ですかと、イエスにたずねます(13章25節)。

 対してイエスは、

 「私がパンをタレに浸して与える者だ」(13章26節)

  といいます。(そしてユダにタレに浸したパンを与えます)
  そして彼に言います。

 「あなたがしようとしていることを、今すぐするがいい!」(27節)

 ~~と。これが突き放しです。パンを与えたという行為でその突き放しがなされました。

 この時点から、ユダはもう、悔い改めてイエスに従うということは、完全に出来なくなっているのです。もう「あともどりできない」、「あともどり出来なくされた」とことになります。


                    


 ここでの「見える者を見えなくする」というのもこれでしょう。「俺は真理が見えている」と自認する人でも「イエスの(天の)言葉を悟って悔い改める可能性が完全にない」わけではありません。「見えなくする」というのは、その可能性をゼロにしてしまう、ということであります。

 どうしてそんなことができるでしょうか。聖書の論理には、「創主から出た言葉には、現実は従う」という鉄則があるからでしょう。イエスから「あなたがやろうとしていることをしなさい」という言葉が出たら、現実(ユダの行動)は、もうそれに従ってやるしかなくなるのです。

 体も心も、もうそうなっていってしまう。だからもう悔い改めのチャンスはなくなる。それが聖書の論理であります。

                    

<それが「裁き」?>

 ではどうしてそれが「裁き」なんでしょうかね。

  そもそも「裁き」ってなんでしょうか? 有罪、無罪の結論を下してしまうことですよね。
 「もう証拠は不十分とは言えない。故に、ここに結論す」~~これをするのが裁きです。

 有罪の裁きとなれば、後はもう刑の執行があるのみです。
 無罪であれば放免です。直ちに自由の身として解放されます。

 聖書の世界では、自由の身となる、というのは、天国にすくい上げられる、ということですよね。刑の執行を受けるというのは、火の湖に投げ込まれることです。

 この裁きが有名な「最後の審判」ですよね。
これは「七年間の大艱難」も「千年王国」も過ぎた後です。
いま現在からしたら、まだまだず~と先のことです。

 一般的にはそうです。
 だが、特殊な例外もあるんですね。
 イエスがこの世にきて、目の前で自ら直接教えをし、盲目の人がみえるようになるような“しるし”を見せます。

 でもそれでも教えを真理として信頼できない人がいるのです。
そして、イエスはこれをその時点で「突き放して」しまうのですね。

 こうなったら、もう後戻りできない。というのは、もう最後の審判で有罪の裁きになることは決まったということです。だからいまこの時点でそういう裁きを下されたのと同じことになるんですね。

 聖書にはこういう例外も書かれているのであります。


                    


 他にもある?
 あります。
 
 聖書では、イエスの名を信頼してきた者は最後の審判で「裁きを免れる」としています。それはつまり、信頼した者は裁判の時以前に「天国行き」という裁きがなされている、ということですよね。このように、最後の審判のず~と前に、裁きが済んでいるケースもあるわけです。

 そして、どうしたらそういういい裁きをいましてもらえるのか?・・というのは聖書の主題そのものですよね。


                    


聖書では、人はみな、罪人としてこの世に存在していることになっています。イエスはその罪人を救うためにこの世に来た。そのために働く。冒頭の聖句の「見えない人たちが見えるようになる」ために、ということはこれでしょう。

 だからイエスがこの世にきた以上、人はみな、罪を赦される可能性を持つことになります。赦されるのは、悔い改めによってであります。これは基本原理です。

 はじめはみな、悔い改めて赦される可能性の中にいます。みな機会均等の平等の中にあります。そして、悔い改めて救いを受けることになる人も出ます。残りの者にも、機会はのこされています。

   
                    



 基本原理はそうだけれども、全員が最後の最後までそうである、ということではないよ。イエスご自身が世にきて、直接教えをし、しるしを見せても、反抗して信頼しない者は別だよ。これには「見える者が見えなくなるような裁き」をすることもあるよ、というのが本日の聖句の解読なんですね。

 イエスは、そんなときには「ハイ! それまでよ」と突き放すのです。
・・・本当なら、厳しいですね。怖いですね。イエスの時代に生まれなくてよかったですね。

 ~~ヨハネは、そういう「裁き」をも、自らの福音書の中に、書きとどめているんですね。


                    


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Vol.125『イエスが一方的に癒したのは「世の側」でない男』(9章)

2006年03月12日 | ヨハネ伝解読

~~ヨハネ伝に戻りますね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「パリサイ人たちは『どうして見えるようになったのか』と彼に尋ねた。彼は答えた『あの方が私の目に泥を塗り、私がそれを洗い、そして見えるようになりました』」(9章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                                       


 ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)で、イエスに眼を見えるようにされた男と、その両親とが尋問されたわけです。普通の人は、伝統に反しないように、尋問に応じようとするでしょうね。僧侶たちの感情を害さないように対応しようとする。

 盲目だった男の両親はそういう態度をとりました。ヨハネは、それを記録しています。

 ところが、癒された男本人はそうしていないのですね。あるがまま、思うままを正直に述べている。僧侶がいらだっても、かまわず、率直に語り続けます。

 彼はきわめて論理的に答えましたが、その結果、会堂を追い出されました。


                    


 盲目の男はそういう人間だったのですね。このことは、とても示唆的であるように春平太には感じられます。

 乞い願ってこないのに、イエスの方から癒してあげるというのは、聖書に記されているところでは、とても例外的です。イエスがそのようにしたのはそういう率直な男でした。

 春平太は考えます。もしこの男が「世」に迎合するタイプだったら、イエスは癒しただろうか、と。

 もしこの男が、見えるようにされたら、ちゃっかりと「儲かった!」と喜ぶ。それでいて、会堂で尋問されたらされたで、ちゃっかりと体制側向きの受け答えをしておく。そうやって「世的」な被害は免れる。この男が、そういうタイプだったら、イエスは乞われないのに癒しただろうか、ということですね。

 癒さなかったのではないでしょうか。


                    


 「天と世とは絶対的に対立する」というのがイエスの世界観です。
人間に対しても「天の側で生きるか、世の側で生きるか」でもって見分けていたのではないでしょうか。

 この盲目の男は、要領よく「世に生きる」人間ではない。「天の側で生きる」タイプだ。そういうイエスの人間識別鉄則とでも言うべきものが、ここに現れているのではないでしょうか。

 ヨハネ福音書は、イエスのそういう視点をよく理解した伝記ですしね。


                    

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Vol.15自己存在の認識を明確にする

2006年03月12日 | 永続確信のための聖書解読


~~ 「ヨハネ伝解読」ちょっとインターミッションをしましょう。


                     



 聖書は人間を仕合わせにしようとする本です。
 聖書のメッセージが詰まるところめざしているのは、「人間を仕合わせにすること」です。

 いま「ヨハネ伝解読」を再開していますけれど、この福音書もまた、詰まるところは人間仕合わせにしようとするメッセージです。ヨハネは難しい話を色々していますので、それを追っているうちについつい、究極目的を見失いがちですが、実はそれでは解読として不十分なんですよね。

 ヨハネは、イエスが創り主の子であることを、その伝記を書くことによって一生懸命説明しています。創り主の子は、万物を創造した父なる創造主のメッセージを受信しています。

創造主は万物を創造した創り主ですから、無限の空間、無限の時間がどういうものかも知っています。 だからイエスの教えに含まれる世界のイメージは、正確なもの、という思想になっているわけです。


                    



 イエスの教えに含まれる世界イメージとは、聖書が示している世界イメージです。(これに関する鹿嶋の解読を「聖書の空間理念」として鹿嶋は著書『聖書のことが面白いほどわかる本』などのなかで示しました)
 
 それが真理だと判断するかどうかは別としても、聖書に提供されている世界イメージはかなり明確なものです。人間個々人も、自分の頭で無限の空間、無限の時間にわたる世界についてイメージすることはできます。

 だが、やはり明確さにおいて聖書に示されているものにはかないません。のみならず、このイメージを、バイブル以上にはっきりと与える書物もないように思われます。


                    



 これを知ることによって、我々は自分の意識をしっかりさせることが出来ます。なぜなら、それは自分という存在が何であるかを明確にイメージできることにつながっているからです。明確なイメージを持つと、意識がはっきりしてきます。

自分が、この無限の時間空間の中でどういう位置にあるのか、という問題意識は、実は人間には生まれてこの方、意識の根底に横たわっています。
これを自己アイデンティティなどと言ったりもしますが、ともあれ人間は生まれてこの方、この自己アイデンティティーの意識がモヤーッとした状態できています。

このモヤーを、はっきりさせることは、人間の意識を四六時中はっきりさせる基盤なのです。そしてそれがはっきりすれば人間の頭は時と共によくなっていくのです。つまり頭を根底からよくするベースなんですね。

聖句を探求すると頭がよくなる、という仕組みは、そこにあります。
そして頭脳が明晰になるというのは、仕合わせにつながることでしょう。


                                        


また、これは老人認知症も防止してくれます。
実は認知症の根底原因も、自己アイデンティティイメージがモヤーとしたままでいることにあると思われるのです。そういう状態で人生を引きずってくると、老年になって、そのモヤーが意識の上部にも浸透し、認知症を産んでいくのですね。

ヨハネ伝を読むことも、たとえばこんな風にして仕合わせにつながっています。
 他にもつながる面は多々あるでしょうけどね。
 ではまたその解読に戻りましょう。


                     

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Vol.124『ユダヤ教とシナゴーグ』(9章)

2006年03月10日 | ヨハネ伝解読


~~今回は、シナゴーグというユダヤ教の会堂とユダヤ人社会の有様をのぞいてみましょう。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「近所の人々や、彼がもと、乞食であったのを見知っている人々が言った『この人は、座って乞食をしていた者ではないか』ある人々は『その人だ』といい、他の人々は『いや、ただあの人に似ているだけだ』といった。しかし、本人は『わたしがそれだ』といった。・・・・(中略)・・・人々はもと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った」(9章8~13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    



 盲目の男が見えるようにされた。これは一大ニュースでした。近所に住んでいた人たちは「この男は盲目だったのに!」と、驚きます。うわさは速やかに広がったでしょう。

 誰が癒したか?
こんなことをするのは、「あの男、イエス」以外にありません。

 イエスは、民族伝統のユダヤ教と違った聖書(旧約)解釈を教えていました。
その教えに目を開かれた気持ちになって、ついて行くユダヤ民衆も少なくなかった。
これはパリサイ派のユダヤ人にとって問題でした。

 加えてこの男イエスは癒しを、安息日にやりました。
安息日はユダヤ教では働いてはならない日でした。

~~ユダヤ教の常識を無視するも甚だしい。
国家宗教に挑戦するのか。
とにかく、イエスは彼らにとって問題児でした。

                    
                    


<シナゴーグ>

パリサイ派の僧侶たちは、事実確認のために癒された男をシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で、審問しました。

 (その場所がシナゴーグであったことは、後の34節になってわかってきます。そこには次のような状況が記されています~~「癒された男は、尋問に対する応答が、僧侶たちのお気に召さなかったが故に、会堂から追い出された」)

 ユダヤ人は、当時すでにマケドニアやギリシャやローマの各地にも居住していました。彼らは、3人集まればシナゴーグを建てると言われていたそうです。

 シナゴーグは第一にはユダヤ教の礼拝を持ち、聖書を読むための場所でありました。が同時にそこは彼らのコミュニティーの会合場所、情報の伝達場所でもありました。

 問題のある人間は、そこで僧侶によって尋問され、裁きを受けました。有罪となれば刑を受けたり、軽い場合は、会堂を追い出されて立ち入り禁止処分を受けたりしました。一種の村八分ですね。

 ヨハネは、そこに紛れ込んでいたのでしょう。
だから、僧侶と癒された男との会話、僧侶と男の両親との会話を、聞くことが出来ました。
それを自らの福音書に記録しているわけです。

                    


ユダヤ人は、どこの国に移住しても自民族の共同社会にがっちりまとまって生活している、といわれても、イメージがわきませんね。現代我々がよく眼にするユダヤ人は、ハリウッド映画に出てくるユダヤ人ですけから。この人たちの行動様式は、通常のアメリカ人、いわばアングロアメリカンと変わりないですよね。

 だが、彼らは「正統」ユダヤ人からしたら、外れものの例外的存在なのです。ユダヤ社会を離れたコスモポリタン(世界人)的なユダヤ人といったらいいかな、そういう人々です。彼らには、正統なユダヤ人コミュニティーから放逐されたり、自ら離れたりした人も少なくありません。

 正統派は閉鎖的なユダヤコミュニティーで生活します。それはヨーロッパ人からしたら、異質な、場合によっては異様な感じを受ける集団です。そこで欧州の諸都市では、自然に、彼らは隔離されたあ一カ所に集まって住みました。このいわゆるユダヤ人街は「ゲットー」と呼ばれていました。

 この用語は意味が拡大して、ナチス・ドイツの強制収容所を指したり、さらにはアメリカの都市で少数民族が集まって暮らす街をさしたりして用いられるようになりました。で、そういう町は、概して貧しいスラム街になりがちですので、ゲットーは米国ではスラム街をさす用語にもなりました。

                    


 がともあれ、正統なユダヤ人社会では人々は異様なほどの結合をして暮らします。その彼らのコミュニティーの集会場所がシナゴーグです。ここから放逐され、立ち入り禁止になるというのは、もう、日本で言えば村八分以上の、大変な処罰なんですね。


                      


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Vol.123『盲人の目に泥を塗ったのは?』(9章)

2006年03月09日 | ヨハネ伝解読



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「『・・・わたしは、この世にいる間は、世の光です』 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきでどろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた『シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい』 そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った」(9章5~7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエスはこの盲人をいやしますが、ここでの癒しでは変わったことをしています。

地面に唾をして泥をつくります。それを盲人の目に塗る。そして、「シロアムという池に行って洗いなさい」というのですね(7節)。

 盲人は、その通りにします。すると彼の目は見えるようになった、とヨハネは記しています。

 これについて、イエスはどうしてそういう癒し方をしたのか、という疑問を感じる人が後を絶ちません。こういう方法は、他で盲人を治すところではしていないのですから。


                  



 色々な解釈がなされています。なかなかに衒学的なものもあります。

 ~~ユダヤ教のタルムード(口伝されてきた律法を集大成したもの)には、してはならないことが色々記されている。その中に、安息日にしてはならないことが書いてある。その一つに、「目に泥を塗って癒してはならない」というのがあるそうです。

 イエスはそれを知っていて、そういう習慣律に敢えて挑戦したんだ~~という解釈。

                   



 面白いですね。春平太も私見を書いてみましょう。
 この盲人はイエスに「癒してくれ」と願い出ていませんよね、ヨハネの記述では。道ばたにいたのをイエスが見て立ち止まったように書かれています。鹿嶋はそこに着目します。

イエスへの信頼、期待を抱いて願い出ていないのにイエスの方から癒すというのは、珍しい状況です。他の場合では、病人の方にイエスへの熱烈な期待と信仰がまずあります。イエスはそれに応じて癒しています。

 長血を患った女性がイエスの衣に触れて癒されたときなどは「あなたの信仰があなたを救ったのです」とまでいっています(ルカによる福音書、8章48節)。

 ところが、この盲人の場合は、そのステップが踏まれていません。このままではこれは「信仰の故に癒される」という癒しの大原則に反するのではないでしょうか。


 そこでイエスは、彼を癒す際に、そのステップを差し込んだのではないかと思います。

 シロアムの池というのは、当時のエスサレムの街の、南のはずれのに低いところにあった池だそうです。イエスに泥を塗られたその場所からは、盲人が行くには結構距離があったのではないでしょうか。

 そうであるなら、指定されたこの池への道のりを歩いて行くこともまた、イエスへの信頼がないと出来ないことでしょう。これのいわば「信仰のステップ」をイエスは挿入した。こう考えられないでしょうか。

 この盲人は、そんなバカな・・・といって、池に行かないことも出来ます。他方、期待と信頼を十分にもって、すなわち信仰をもって、池に行くこともできます。

 彼が、イエスの言葉を信頼していく気になるかどうか、これがポイントであったように思います。


                     





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Vol.122『創主の力(栄光)は病も溶かす』(9章)

2006年03月03日 | ヨハネ伝解読

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「(この盲人が、盲人として生まれついたのは)本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したでもありません。ただ、創り主の御わざが彼の上に現れるためです」(9章3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                


 「本人の罪か、親の罪か」という弟子の質問に対してイエスは上記の聖句のように答えたと、ヨハネは記しています。


 これはどう解したらいいでしょうか。
難しいですね。


                


 一つの解釈は予定説的なものです。
 ~~この盲人の場合こうなっていて、今この場所でイエスに出会って癒されることが、あらかじめ決められていた。それによって創造主の偉大なる力(栄光)が人々の前で現れる。そういう予定のもとに彼は、盲人として生まれさせられたのだ~~と。

聖句を言葉の表面通りに、形式的に素直にとるとこうなりますね。

 ある特定の人に限ついては、そういうことも創り主は出来るんでしょうかねえ。
聖書的には出来ると解すべきか、出来ないと解すべきか、春平太にはよくわかりません。

 けれども、全ての人間について創り主はそういう風に人生をあらかじめ予定して造っているかというと、それは聖書的ではないように鹿嶋には感じられます。

 これでいくと創造主は人間たちの生涯やその彼らが織りなす歴史も予定してしまっている、という歴史観になりますよね。なんか、人間はロボットみたい。人は実はプログラムされたチップを埋め込まれていて、それに沿って動いている存在に見えてきます。これって聖書の基本路線に沿っているでしょうかね。

 たとえばそうだとすると、創主の福を受けるべく人間が意志を働かせて、自発的に努力する余地は基本的には無いことにもなります。本人は、自発的に努力しているつもりでやっていたが、実は、それも含めてすべては予定されていたのだ、ということでは・・・。

 福音伝道という活動についても何か意味が薄れてしまいませんか。伝道したって相手の対応がもうプログラムされてしまっているのなら。

 これらは、人に自由意志を与えたという聖書の基本命題に反していないでしょうか。創主は、その人が自由意志でもって選択するのに応じて、報いをされる、という聖書の大枠に矛盾いたします。



                


 話は少し横道に入りますが、この聖句に関連した見解も付記しておきましょう。クリスチャンに結構多い見解です。

 それは盲目という「病を与えたことそれ自体が、創主の栄光」というものです。病にはプラスの面もある。たとえばそういう病があるが故に、その人はイエスに頼る、信仰するという気持ちに成りやすくなる。

 死すべき肉体を持つ人間にとって、信仰こそ最も大切なものだ。病はそれに至りやすくする役割をするので、病そのものが創主の栄光だ。この盲目もその一ケースだ、と。

 春平太は過去にこの実例に遭遇したことがあります。その方は女性の信仰者でしたが、直りがたい脚の病を持っておられました。教会で、ある信徒がこの方の一進一退の病状に同情の言葉をかけました。そうしたらご本人は「いや、これは主の栄光ですよ」と応じておられました。

 春平太は、そのころまだ聖書の探求に入っていませんでしたので「へーえ、そういうもんかなあ」と思っていました。がその場面は今も憶えているほど、強く印象には残りました。

 同時に、教会で語られる福音というものは魅力の薄いものだなあ、という感じを持ちました。今ふり返ると、その感じは根拠を持つように思われます。


                



 創り主は自らの栄光を示すために、人間に病をも与える方、というのは聖書の基本論理に沿っていないのではないでしょうか。聖書思想の基本は「創主は百パーセント幸福なる方で、その幸福を人間に与えよう、与えようとされる方」というものだと鹿嶋はいま思っています。

 英語で、創り主のことをグッドネス(Goodness)ともいいます。「オ~・マイ・ゴッド!」というのを「オ~・マイ・グッドネス!」ともいう。

 創り主はグッドそのものな方なのですね。創造主は万能といいますが、実は人間に病を与える能力はないといっていいでしょう。

 では、病は誰が与えるか? これはもう悪魔、悪霊、汚れた霊の専売特許と言うことに聖書ではなっております。彼らが、罪のあるところに、不幸、病を挿入するというイメージなのです。


                



 本筋に戻りましょう。
 もう一つの解釈は、ここでイエスは一般法則の次元に話を移して応じた、というものでしょう。

「創り主はすべての病を癒す力を持っている。病は創り主の力が現れる材料のようなものだ」と。

悪魔は病を与えることが出来ます。この人を生まれつきの盲目にしたのは、悪魔なのです。しかし彼の病をも含めて、創り主は病というものを癒す力を持っています。人を病に留める以上の力を、創主は持っている。

すべての病は本来、創主によって癒されうる。その意味で、病は創主の栄光、力を現す材料になりうるものだ。病というものは、創主の栄光が現れる素材だ。この盲目の人の病もまた、そうだ。

 イエスはこの病が「この盲目の人自身の罪による」とか「両親の罪による」とかいったようなことについては、否定していないのでしょう。

 でも、そんなことは今自分が示そうとしている創り主の力からしたら本質的な問題ではない。創り主の力(栄光)は盲目の病も溶かしてしまうのだ・・・。イエスはこういう意図で病の“由来”の次元から話を移した。それを、「・・・でもなく、・・・でもない」という言葉で表現した、と解するわけです。

 そして話を創主の力(栄光)の次元に移して、「この人の盲目は、創主の力が現れるためのものなのだ」といったのだ、と。そして「私がこの世にいる間に・・・」(9章5節)といって、イエスはすぐにその盲人をいやしにかかった、と。

 今の春平太にはそれがもっとも妥当な解読なように見えます。同時にここはさらに他の解釈がでそうな予感もしています。

 あ~あ、聖書ってホントに難しいですね。


                


                
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