鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.220『悪魔論解読の難しさ』(14章11節)

2008年04月30日 | ヨハネ伝解読
前回、聖書には「よきわざは創造主から来る」という思想があると申しました。
では、「悪しきわざ」はどうでしょうか?

聖句は前回と同じです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私が父(創造主)の中にあり、父が私の中におられれことを信じなさい。
それができねば、みわざそのものによって信じなさい」(14章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

 聖書では悪しきものは悪魔から~悪しきことは悪魔からくるという思想です。
こういう風に、よきもの、悪しきものの境界線がはっきりしていて、
中間の灰色ゾーンはない、というのも聖書思想の特徴です。

 とはいえ「よきもの」「悪しきもの」の由来に関するこういう認識は
日本人には結構難しいろころもあるようです。
 鹿嶋はかつて、「聖書サロン」というメーリングリストで聖書に関する
メッセージを発信し、メンバーの皆様に議論していただいていたことが
ありました。

 そこに出されたある牧師Sさんの見解をここに再録してみましょう。


                    


<S牧師の意見>

~ 「悪しきわざはサタン(悪魔)から来る」というのも、
聖書の前提思想と言いきってよいのではないかと思っているのですが、
(日本では)そのへんがあいまいな気がします。

~未信者から「神ってのは、いるかもしれないと思う。けど悪魔ってのはどうかなぁ」
という反応を受けたクリスチャンも少なくないと思います。

~クリスチャン自身にも、悪魔をどう考えるかはっきりしいないところが
あります。教会もどう考えているか、明確でないところが多い。

~福音が「悪魔の獄舎を打ち砕きて とりこを放つ」(by「諸人こぞりて」
~歌詞はうろおぼえ)ものであるなら、悪魔がよくわからないというのは、
敵を知らずに戦うようなものでしょう。

~創主についてはっきりさせると同時に、
サタンについてもはっきりさせることが必要です。

~サタンがはっきりしないと、罪がはっきりせず、罪がはっきりしないと、
救われる必要があるということもはっきりしません。

~「敵を知り、おのれを知らば、百戦危うからず」と言いますが、
悪魔も創主もあいまいというのでは「敵を知らず、おのれを知らず」
というところですね。
これでは福音の勝利も教会成長もおぼつかないのではないでしょうか?


                    

 
<ありがとうおじさんでは>

聖書における悪魔の思想を、前に述べたありがとうおじさんの世界観に
比べると、こうなります。

ありがとうおじさんでは、悪魔なるものはその存在観にはありません。

 ありがとうおじさんでは、人間の不幸はどう理解されるかと言いますと、
「不幸は自分の借金を返している状態」だと考えます。
 不幸で苦しんでいる状態でいることは、借金が減る常態なので、
これも「神様(天照大伸様)ありがとう」となります。

 自分だけではありません。親兄弟など親族が被っている不幸も、
「自分の借金返済を肩代わりしてくれている状態」だと考えます。

で、これも自分の借金を減らしてくれるので、「神様ありがとうございます」
ということになります。
どうして神様がそうされるかは、人間の知恵の及ばないところであるが、
とにかく神様のなさることを信頼して「ありがとうございます」というのが
正解という教えです。

 世界観というのは、興味深いものですね。


                    


<難しいところもある>

 「聖書では、白黒の境界線がはっきりしている」といっても、
考えていくと難しいところもでてきます。

前述のS牧師さんはこうもいっておられます。

~もっとも、悪魔は「誘惑する者」であって、誘惑に陥るかどうかは
人にかかっているというところがありますから、
切り分けの難しいところはあります。

                    



<Cさんの見解>

これに関連して、他の会員の方(Cさんとしましょう)に
こういう意見もありました。

~~聖書にたちかえれば、悪魔はいます。だがそれはなんのためかを考えると、
すべて、神のご計画にあるということがわかります。

~~新約で悪魔がでてくるところで、有名なところでは
イエスを売ったたユダの話です。

 ユダは悪い人でしょうか、違います。これはすべて神のご計画なのです。
 悪いことを使徒におわした、これもまた愛の証しなのです。

~~次の聖句を見ましょう。

「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、
サタンがはいった」(ルカ22: 3)

「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、
聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、
成就しなければならなかったのです」(使徒1.16-17)

~~ここでユダは私たちの仲間として数えられております。
彼はこの務めを受けていました。
ユダ、いやサタンなくしては、ダビデの口を通して預言された聖書のことばは、
成就しなかったのです。


                    


<悪魔無視が究極の知恵か>

 Cさんの見解は次の考えにもつながっています。

 すなわち~悪魔がいても、それは究極的には創造主の統治の内で動いている。
悪魔の仕業は、創造主が許されたものだ。
だから究極的には、何があっても創造主を信頼していくのが正解である。
『ヨブ記』のヨブのように、と。

 けれどもこの考えを推し進めますと、悪魔なんか無視したっていいではないか、
という理屈にも至ります。
そして、ありがとうおじさんの考えにも近づくのです。

 そして、そこまでいくと悪魔という存在をほとんど自覚できなくなって
「病をもたらす存在」も創主だとしか考えられなくなる可能性も出てきます。
実際、日本の教会では「この(自分の)病気は神の与えてくれた試練です」
と言う信仰者さんをみることもできます。


                    


<罪も救い主も思想から消滅>

 またそうなると、聖書での「罪」という考えはなくなってしまいます。
すると、外部からやってくるメシア、「救い主」という思想も出なくなり、
イエスが必要という考えも出てきません。

そこが難しいところであります。

 究極的には、世界は創造主の統治のもとにある。
その中で、悪魔は人間を不幸になる方向に誘惑する。
その誘惑におちるにつけては、人間の意志、信仰も契機となって働く。

・・・このあたりの関係をどう論理的に整理し把握するか、に上記の問題は
関連しているようにもみえます。


                    

<あらゆる考えを罰しないのが聖句主義>

 結論に至るのは大変でしょうが、
各々が自分の結論に至るのを許すのが聖句主義です。
あれこれ考えられます。次の問題についても考えてみてください。
S牧師さんが紹介してくださった話です。

                   

~~ある牧師さんのこんな説教を(S牧師さんは)聞いたことがあります。
・・・一人の信徒さんが日曜の朝に起きられず、礼拝が終わった頃に
やっと教会に来ました。

牧師が「寝坊したのですか」というとその人は真顔でこう答えました
「私は起きようとしたのですが、サタンの妨害のために起きられませんでした」と。
しかしこれでは「サタンも『なんでも俺のせいかよ』と怒るだろうね」・・・。

                    



 これに対してはどう考えるのが聖書的なのでしょうね?

                    



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Vol.219『信じられねば、わざで』(14章11節)

2008年04月20日 | ヨハネ伝解読




 ヨハネ伝の聖句に戻りましょう。
 本日はこれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私が父(創造主)の中にあり、
父が私の中におられれことを信じなさい。
それができねば、みわざそのものによって信じなさい」(14章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエスはここで「私が父(創造主)の中にあり、父が私の中にいることを
信じなさい」といっています。
これは前節で言ってきた「父とイエスは一つ」ということ、
だから、「イエスを見たのは父をみたこと」を別の言葉で
言い換えているところ、と考えて言いように思われます。


                    


<イメージキャップと雰囲気実体>

 続いてイエスは「そのことが信じられねば、私のなしたわざ
(父が働いてなされているみわざ)根拠にして信じなさい」と言っています。

 この二つの状況での「信じる」の中身は、異なっているように
今の鹿嶋にはみえます。
 そのことが、この数回でのべてきたことで見えるように思います。
 
 つまり、このところ鹿嶋は、人の意識を形成する二つのものを示してきました。

一つはイメージセットです。
これは人の頭脳(頭)を取り巻くようにして存在しているとイメージできますので、
イメージキャップといったほうがわかりやすいかもしれません
(その言葉も使うことにしましょう)。
キャップはcap、つまり帽子です。
イメージ要素のワンセットが帽子のように人の頭を覆っている感じです。

 もう一つは、雰囲気実体でした。
これはイメージキャップを契機にして、腹の底の方から生成してきます。
それは雰囲気で、分割できないホリスティック(全体的)なものですが、
それを生成させ感知することこそが究極の状態です。

 そして、「この雰囲気とは聖書の霊に当たる。
霊は実体であり、存在の本体なのだ」、と鹿嶋は考えました。


                    


<二つの「信じる」>

本日の聖句のはじめの「信じる」は、この霊的実体を霊感で感知する、
という意味ではないでしょうか。
イエスは、「父と私が一つであることは、その雰囲気実体を
心に生成させえたらわかるよ。そのようにしてわかりなさい」
といっているのではないでしょうか。

 そして後の方の「信じる」は、
「イエスと父が一つであることを、イメージキャップとして意識の中に
しっかり保つこと」ではないかと思われます。
これは「もし前者の状態の信じるができなければ」というのですから、
雰囲気実体は心に生成していない状態であることをも暗示しています。

 究極の認識は、雰囲気実体すなわち霊を心に生成させることです。
これによって深い確信の伴った認識が得られます。
だが、「それがまだ出来ないのなら、とにかく、イメージキャップだけは
脳神経系に形成しておきなさい」ということだろうと思います。

                    


 イメージキャップなら推論によって形成することも出来るのです。
その根拠はイエスが行ったわざです。
彼がなした「いやし」や「死人を生き返らせたこと」などのわざは、
みな肉体を持って生きる人間にとって「よきわざ」です。

 そして、「良き御わざはGOD(創造主)のみがなされる」という思想は、
旧約聖書からあるのです。
で、それをなすのだからイエスも創造主と同一の方、となる。
こういう推論でもってイメージキャップは形成可能なのです。

イエスの最後の晩餐で話を聞いている弟子たちはみなユダヤ人です。
彼らには旧約聖書の素養があります。
だからこういう推論が普通のこととして出来るのですね。

                    


<蛇足>

 付け足しですが、そういう前提思想のない日本人には、
このあたりはわかりにくいところではないかと思います。

「イエスのなさったことは、創造主のみがなさるべき事である。
だからこの方は創造主と同質の方である」
~~こういう論理はイメージに形成されがたいのです。

 でも、「創造主(God)というのは、きわめて限定的な意味を持った神
(one of gods)である」、ということをしっかり把握して
聖書を読んでいるクリスチャンにはそれは可能です。

 ところがこれを神(gods)と理解したり、そう呼んでいたらどうなるでしょうか。
この限定的な意味が、ボケてしまいます。
にもかかわらず、ほとんどの日本人信仰者は、
これを延々と百年以上もやってきています。

 Godは聖書のキーワードです。イエスの教えのキーワードです。
この概念を、“シャープに”把握しないで、聖書の教えの正確な把握をするのは
難しいです。またそれでは福音が力強く伝わることは起きにくいです。

 春平太が、「ゴッドは創造主(つくりぬし)または創主
(つくりぬし、あるいは、そうしゅ、と読む)と読むべきだよ」
と言い続けている理由もそこにあります。

これに関連した詳細は拙著『神とゴッドはどう違うか』(新潮選書)
をお読みくださいますように。

                    








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Vol.218『反復は雰囲気実体を醸成する』(14章11節)

2008年04月13日 | ヨハネ伝解読

今回も、ありがとうおじさんの余韻の中で考えてみましょう。
聖句は前回と同じです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしの言葉は霊であり、またいのちです」
(ヨハネによる福音書、6章63節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


ありがとうおじさんの方法は、正しい道、「ゴールに直結している道」を
踏み外さないようにする技術を教えてくれています。

ありがとうおじさんにおいても、人間究極のゴールは
「万物の創造主の雰囲気を心中に生成さすこと」です。

ただ、最初に創造主という言葉を持ってくると、日本人は
「きゃぁっ、キリスト教だ!」と硬直してしまう。

創造主に関する論理を学ばせたら、途中で枝葉末節の部分にとらわれて
迷路にはまってしまう。
道徳教にしたり、政治運動教にしたり、とにかくゴールからみたら
迷路にあたるところで堂々巡りしてしまう。
これが日本人だ。

そこで、とにかく、「誰に向かってか」を具体的に提示しないで、
「ありがとうございます」を繰り返させます。
これは日本人の心情を洞察した驚くべき知恵なのです。


                    


<繰り返しは雰囲気実体を醸成する>

繰り返すというのは、特有の作用を持っています。
それは、繰り返している言葉の対象を、その人の中で雰囲気として
徐々に生成させます。

宗教活動にせよ、哲学活動にせよ、精神活動の究極のゴールは
対象の雰囲気実体を心に得ることです。
だから、エッセンスを言葉にして繰り返していたら、
少なくともゴールを外れることはありません。
正しい道の上にいるのです。

そうしておいて後から時々、
「その感謝している対象は天照大神(あまてらすおみのかみ)なんだよ」
と追加してあげる。
「我々が『ありがとうございます』といっている対象はだれですか?」
と質問してきたらそういってあげます。

ここでもすぐに「ゴッドですよ」、とか、「創造主ですよ」、とはいわない。
日本人に一番馴染みの、古事記の神さんの名をもってきます。

その後で、「この神さんが実は、宇宙のすべてを創造しているんだよ」といってあげる。
「自分が創った人間が幸せになることを願い、我々を限りなく愛しておられるんだよ」

すると日本人はなんと、スムースに受け入れるんですね。
ありがとうおじさんの滋賀県の小屋を訪ねる人々の反応を聞いていると、
それがわかります。


                    


<聖書信頼者には>

では聖書に信頼を置いている人は、どうなるか。
そういう迂回ルートはたどりません。

聖書の存在論には万物の創造主は存在しますから、
直接、父なる創造主に行ってしまいます。
そしてさらに、イエスはその創造主の子である・・・と直接イエスに行きます。

羊の子が羊であり、馬の子が馬であるように、創造主の子イエスは創造主である、と。

創造主は永続者であり、いのちエネルギーの源泉、放射源です。
では、イエスがそれであることを示すエッセンスの言葉は何か?

それはこの「ヨハネ伝」の11章25節にあります。
死んで四日たったラザロという青年を生き返らすときに、
イエスの口からこういう言葉が出ています。

「私はよみがえりです。いのちです。
私を信じるものは、たとえ死んでも生きる」


ここで「信じる」の真の意味は「雰囲気実体が心に生成する」です。
「信じている」状態とは「その実体が心に生成している」状態なのです。

どうしたらそうなれるか?
ありがとうおじさんの知恵を援用するならば、
この言葉を繰り返したらいいことになります。
これを暗記して、これだけを何度も繰り返すのが正道を進む知恵です。


                    

<日本人求道者には>

聖書にはこの聖句をめぐっての、神学的な理屈が膨大に埋め込まれています。
だが、それらはその次のこととします。

これは日本人宣教への有効なヒントになっているかもしれません。

聖書を知りたい、キリスト教に興味がある
(これが若者の6割に達しているという調査結果もあります)
という日本人に対しては、この聖句だけを読ませます。

そして、これだけを暗記させ、「この言葉をいつも心で繰り返していてごらん。
他のことはその次の話だよ」と言ってあげます。

「まさか、そんな・・・」といったらサントリー創業者・鳥井信治郎の出番です。
「あの超一流企業を創業し展開させた原動力になったのは創業者のこの言葉だよ」

『やってみなはれ、やってみなわからしまへんで』

「さあ! 元気で、やってみよう!」

   ・・・と。


                    


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Vol.217『ありがとうおじさんの方法』(14章11節)

2008年04月08日 | ヨハネ伝解読

 聖書活動の究極の目的は、永続者である「父・子・聖霊」(イエス)を感じられるようになることでした。
これを確信させるもう一つの事例を今回はご紹介しましょう。

「ありがとうおじさん」がそれです。
聖句は今回も同じです。


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしの言葉は霊であり、またいのちです」(ヨハネによる福音書、6章63節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


滋賀県の山の中に「ありがとうおじさん」と呼ばれる人が住んでいます。
最近、この方のお話の録音を聞く機会がありました。

この方は、神様に「ありがとうございます」と何遍も繰り返して生きている方です。
一日に10万回繰り返すといいます。

そうしていたら、睡眠時間は3時間ほどで十分だ。
食事も、一食で十分だ、といいます。
そして残りの時間は、ただ「ありがとうございます」を繰り返して生きているのです。


                    


聞くところでは~~
そういうおじさんの滋賀県の山中の住居を訪問し、共にありがとうをとなえて、
がん細胞が消滅した人がたくさんいる、ということです。
重病で臨終近い人に、ありがとおじさんの写真を持って行ってみせたら、
回復し今は元気という人もいる、という。

そうしたはなしがだんだんと伝わって、山中の小屋に人が来るようになった。
そこで午後の1時間ほど、訪問者との問答に割くようになっている。
でも、あとは「ありがとうございます」を唱えている。
おじさん自身も、ありがとうを唱えているときが一番楽しいということです。


                    


おじさんは「ありがとうございます」という対象のかみさまは、
天照大神(あまてらすおおみかみ)だといいます。
この神様は、無限者で、万物を創造された方で、全知全能で人間の幸せを願う方だという。
この方に意識を向けて、「ありがとうございます」というのが人間の究極の知恵だというのです。

なぜか?
ありがとうを唱えていると「この神様が感じられて」くる。
これが肝要だ。言葉ではない、感じることが神様と交わることであって、これがゴールだというのです。

なぜか?
神様は、人間に与えよう、与えようとなさる方だ。
そしてその人に何が必要かを、一番よく知っている方だ。
そのひと以上に知っている。

だからその人が、自分に必要なものを「自分の頭で考えて」見出すよりも、神様の判断の方が正確だ。
自分で考えたことを願うよりも、「ありがとうございます」といっていた方が正確だ。

また、そのほうが「しんどく」なくて楽でもある。
努力して考え出したい人は、そうするのもいいだろう。
だが、自分は楽な方がいいから、ただ「ありがとうございます」を
唱えるだけでいくんだ、といいます。


                    


おじさんは「いろいろ言葉で考える」ということはよくない、といいます。
その言葉に人間はとらわれていくからだ。
ただ「ありがとうございます」といっているのが一番いい。

大切なことは、神様に「ついて考える」ことではなく、「感じること」だという。
その感じられるようになるには「ありがとうございます」を唱えているのが
一番有効な方法だ~というのです。

                    

<聖書との関係>

ありがとうおじさんと聖書との関係を考えてみましょう。
聖書では、信頼(信仰)は「聞くこと」から始めよといいますよね。
聞くのは言葉です。

対して、ありがとうおじさんは、言葉は邪魔になるからパスしてただ
「ありがとうございます」を何万回も唱えよ、といいます。

これは完全に相反する教えのようにも見えます。
だが、実際にはそうではないのです。

                    


聖書でも究極のゴールは、無限なるゴッドを「感じる」ところにあるのです。
ただ、そこにいたるに「ゴッドについての言葉を聞くことから始めて」それを経て至れといいます。

                    


<言葉を経由する利点と欠点>

聖書のプロセスはどういう利点・欠点をもたらすかを考えてみましょう。
利点は、一旦ゴッドを感じられるにいたったら、その状態が持続力を持つことです。

言葉は組み合わさって理屈(理論)を造ります。
理論は人の意識に枠組みを与えます。
そしてこの枠組みは、意識が発散し蒸発していくのを防止する働きを持ちます。

欠点はどうか?
そうした言葉が、ゴッドを感知するのに障害になる面をももっているということです。
人間は、感じられるようになる前に、考えのなかで堂々巡りする性向を持っています。

考えるとは、さらに言葉を追加していくことです。
すると、その言葉を追っている内に、人は究極のゴールであるゴッドの感知を
意識から放念してしまう迷路にも入って行きうる。
よほどゴールを自分に言い聞かせていないと、そうなりやすいのです。

このようにして、言葉はゴッド感受の障害になりえます。


                    


そういう危険を避ける一つの方法は、もう、言葉などを通さないでやるやりかたです。
そして直接ゴッド感知の感性を開こうとするのです。
そのもっとも効率のいい方法が、「ありがとうございます」を唱え続けることだ
 ~~これがありがとうおじさんの発見だったのです。

(キリスト教派の「クェーカー」も言葉をバイパスするという点では
類似の認識論を採っています)


                    


<日本人に適合するのは>

ありがとうおじさんの方法は、最近多くの日本人に歓迎されるようになってきています。
それが日本人の心理に適合するからでしょう。

どうして適合するのでしょうか?
日本には歴史的に、ゴッドに関して「言葉で適切に説明する教典、納得できるように説明する資料」が無かったからではないでしょうか。
ないから、直にゴッドを感知しようという行為にいく~~これは自然な心情ではないでしょうか。


ここに聖書民族との大きな状況の違いがあります。
聖書のある民族は、子供の頃から、ゴッドに関する言葉を学びます。
キリスト教圏では、教会の日曜学校で子供たちはその言葉に自然に触れ、学び慣れていきます。
そして、それを解して、ゴッドを感受する姿勢も学びます。
かくして「聞くことから始めて」ゴッド感受にいたる手法に、自然に慣れていくのです。

日本人はそういう方法に慣れていません。
だから、言葉が出てくると、その理屈の中にとらわれていきます。
ゴッド感知というゴールを放念してしまう傾向が大きいです。
だから、ありがとうおじさんの方法が適合するようになるのですね。


                    


<天神大神とするのも>

ありがとうおじさんは、神様は「天神大神だ」と称しています。
その名の方が日本人の心情に抵抗が少ない。
これも、日本人の慣れとつながっています。

だがおじさんは、天神大神と称しておいて、「この神様はすべてを創造した方。
無限者。全知全能者。宇宙の究極の統治者。人間の幸せを切望する方」
~~等々といいます。

 これ、聖書のゴッドと同じであります。
天神大神は、元来はそういう概念の方ではありません。
いってみれば、太陽の擬人化された方で、女神ですよ。
ところが、ありがとうおじさんにおいては、ほとんど聖書のゴッドそのものになっています。

おじさんは、密かに聖書を読んだのでしょうか。
あるいは、万物の創造主を感受する気質をもって生まれてこられたのでしょうか。
ありがとうを唱えている内に、そういう方がいることを悟っていかれたのでしょうか。

鹿嶋にはそれはわかりません。
でも、ありがとうおじさんのしておられることは、実質、聖書のゴッドを
感受することに他ならないのです。

                    


ありがとうおじさんには、癒しの力も現れて、以前には病の癒しもしていたという。
だが結局、癒してあげてもだめだ、とわかったそうです。

その人の意識が「ありがとう」にならないと、また、病気になってやってくる。
そこで、いまは「ありがとうございます」を繰り返すことだけを教えているそうです。
自らを神様と共鳴させ、病気にならない心身にすることを訪問者に教えている、
といいます。

                    


<日本人の聖書感得に応用できないか>

ありがとうおじさんを聖書の論理の中に位置づけてみます。
するとおじさんは、「こういう方法で、聖書の言葉が真理であることを証明している」、
と解することもできそうです。

この方法を、日本人の聖書信頼に役立てることはできないでしょうか。
たとえば「父・子・聖霊様ありがとうございます」と繰り返します。
一日1万回繰り返します。
これは日本のキリスト者が迷路で堂々巡りしないために、有効な方法とならないかな。

サントリー創業者の鳥井信治郎さんなら、「やってみなはれ、やってみなわからしまへんで」というところか。
皆さん、どう思われますか?


                    


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