鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

13.人間の永続を聖書の世界観の中で

2018年10月29日 | 鬱を打破する聖書の論理

聖書の思想の中で、うつ心理対策のため直接的な効力を持つのは「人間は永続する」という思想だ。
永続するから、それに付与する価値意識も永続的に考えることができる。
 
だが、これを示す聖句は単独ではインパクトが弱い。
これは聖書の持つ世界観の中に位置づけられると、より総合的で安定的な心理効果を発揮する。
 
 
<聖書の世界観>
 
聖書の世界観では、世界は万物の創造神によって創造されている、となっている。
これは我々が五感で認知する五感経験ベースの世界観とは180度異なる対極的なものだ。
我々の経験的世界観では、世界は「ただ存在している」ものである。
世界の説明は、そこから始まる。
 
+++

対して、聖書の世界観では、まず、万物の創造神がいる。
そして我々が五感で「ただ存在している」とみる世界は、聖書の世界観では被造物の世界となる。
「被造界」だ。

+++
 
創造神は時間的無限者、すなわち永続者だ。
空間的にも無限者で、世界はその懐のなかにある。
(論理的にもそうしかならないことによって、人類に「無限大」の理念が投げ込まれた)
 
+++
 
またこの世においてもそうだが、創った側は創られた側より絶対的に上位にある。
被造界は創造神の意志と計画の中で、つまるところは動いている。


<世界観の中の人間観>
  
人間は被造物の一つだ。

肉体の中に霊という意識体が入っているようにして創られている。
そして、肉体は死んでも霊はそこを抜け出て永続する。
将来、宇宙が消滅するときには、霊は身体となって復活する。

そして創造神の言葉を受容している霊は、天の創造神の王国(天国)に入れられて永続する。
需要を拒絶した霊は、火の湖に入って永続する。

いずれにせよ、永続する。
 
 +++
 
「人間は(肉体が)死んでも消滅しない」という人間観はそういう世界観の中にある。
そして繰り返しになるが、その存在に付与されている価値も、強制的に消滅させられることはない。
 
この思想は、生来のままの人の心の底に常駐する慢性的鬱気分を打破する力を持っている。
 
このように世界観を知り、それを五感経験的世界観と意識の中に併存させるのが、うつ心理打破政策の第一歩だ。
 
     
 
<見えない世界を100%知ることはできない>
 
この際、心に言い聞かせるべきは、「聖書の世界観が100%正しいとわかる」と思い込まないことだ。
見えない要素(神はその代表)を含む世界観を、100%正しいと認識することなど、人間にはできない。
 
できないことをしかと自覚しないと、「神様のいうことだから100%信じないと」という義務感がやってくる。すると100%信じたという誤認(聖書で言う偽善はこの意味)に陥っていく。
誤認に陥ると、自分の心を内省して、100%でないことを感触して罪悪感と恐怖を抱く。
いいことなど一つもない。
 
+++
 
悪いことはまだある。
「100%正しいとわかる」と誤認すると、五感的世界観は全く正しくない、正しさゼロパーセントとなってしまう。
そう思うと、二つの世界観が、どちらを選ぶか、という二者択一に心の中でなってしまう。

すると、聖書の世界観を併存させることができなくなる。
 
 
<確率の感覚で>
 
「五割くらい、あるいは、六割くらい正しい感じがする」でいい。
できることをすればいいのだ。
それでも併存させていると、聖書の世界観を示す聖句が効力を発する。

聖句は言葉であり、言葉は、その波動でもって影響力を発する。
 
「人間は永続する」と述べる言葉が、無常観を和らげていく。
聖書の世界観を五感世界観と併存させていること、これがうつ心理打破の第一歩だ。






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12.「永遠のいのち」は不明なままで

2018年10月28日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
「いのちエネルギー」については、筆者は思い起こすことがある。
 
かつて聖書解読をはじめて以来、「いのち」という言葉の意味がなかなか感知できなかった。

聖書の全体像が漠然と浮上してきたとき、これは物理学の「エネルギー」のような概念ではないかなあ、という思いも漠然と浮かんだ。

それで筆者はとにかくこれを「いのちエネルギー」と読み替えて、聖書解読を進めた。
その結果を『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)に記した。

 
<みんなわかってなかったんだ>

出版後、ある牧師さんからお言葉をいただいた。
~鹿嶋さんの本の「いのち」の解釈で、説教が助かっている、という会話が牧師たちの間でなされていますよ、と。

これを聞いて筆者はやはり「いのち」の語はみんなわからなかったんだ、と確認した。

その状態で、現在まで来ていたが、ではそのエネルギーとは何なのか、漠然としたままだった。

+++

それが今、そのエネルギーを「生きよう」という方向性を持った波動(の凝集体)とすることで、一歩前進した。これが「いのちエネルギー」の内容だと、筆者は察した。

同時に、その逆の方向を持った波動の凝集体を、「死のエネルギー」と定義づけられて、視野も広がった。

 
<「永遠のいのち」はまだわからん>

しかし、まだ不明な語もある。
「永遠のいのち」だ。これもまた聖書の大きなキーワードなのだが、その意味が筆者にはつかめていない。
 
「いのちエネルギー」に、永遠なものとそうでないものがあるのか。これと「死のエネルギー」との関係はどうなのか?
(そのうち、またわかってくるだろう、と思いながらやっている)
 
+++
 
こうした疑問を抱きながらも、ともかく、うつ心理の構造を定義できた。
以後、これを踏まえて、聖書によるうつ心理対策を考えていくことにしよう。
 
 
 
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11.「いのちエネルギー」と「死のエネルギー」

2018年10月28日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
波動ベースで考えると、人間もまた波動体となる。
それは意識を持っているので、意識波動体ということもできる。

ここでもう一つ、「その波動体のおのおのは一定のエネルギーを内包している」とイメージしよう。

+++

加えて、エネルギーにも、もう一つイメージを付け加えよう。

エネルギーとして凝集している波動は、同一の方向を持っている、と。
またこれは度合いで考えることもできる。つまり凝集した波動はその方向の同一性が高いほどエネルギーは強くなり、低いほどエネルギーはその分弱まる、~と。



さてこうしておいて人間を考える。
人間という意識体は、生来、「生きよう」という志向を持つように創られている。

赤ん坊の口と鼻を塞いでみると、激しく頭を左右に振って呼吸しようとする。
この事実は、人間という意識体は「生きよう」という志向を持っていることを示している。

+++

そこでもう一つ、イメージを追加しよう。
この志向を形成しているのは、意識体が内包しているエネルギーだとイメージしよう。

このエネルギー(力)は、「生きようという方向」をもった波動でできている、とする。

 
 
 
<肉体・魂・霊>

さてそこに前述した聖書の人間構造論を導入しよう。
そこでは、人間はボディ(肉体)、マインド(魂:ソウルともいう)、スピリッツの三つの要素でなっていた。

つまり、人間はこの三つがともに「生きよう」という志向をもった状態で生まれてきているという理解になる。

+++

だがそれはこれは人間を総体的に捉えた認識だ。
そこに、「人間には自由意志が与えられている」という聖書の基本思想も導入すると、理解は変わってくる。

聖書には一貫して、「人間には~天使もそうだが~自由意志をもつように創造神は創造している」という思想がある。
また、そう創った以上、創造神は人間の自由意志には決して立ち入らない。聖書には一貫してその鉄則が貫徹している。

だがこれを上記の三要素の情報に照らしてみると、そのうち自由意志の働きを創るのはマインド(魂:ソウル)となる。
なぜなら、意志とは霊情報系と脳神経系との協働領域で働くものだが、その協働領域とはすなわち魂の領域だからだ。

(このことを見るために、前回の「フロイト精神図に擬した聖書の精神図式」をもう一度掲載しておこう)



       

「いのちエネルギー」と「死のエネルギー」>

この想定によって、筆者はうつ心理の構造を次のように把握できてきた。

すなわち~、
人は生来自然なままでは「生きよう、生存しよう」という意識を持つ。
より詳細にはその肉体、魂、霊は基本的に「生きよう」という意識を持つ。

ところが魂は、与えられた自由意志力によって、その反対方向の意識をもつくることができる。
具体的には、「どうせ死んで消滅するのだから生きるに値しない」という意識も持つことができる。

意識とは意識体でもあるから、そういう意識体を魂は自らの内に創ることができる。

そして、その意識体は、「生きよう」とは逆の志向を持ったエネルギー(波動体)を放射していることになる。
「生きよう」とは逆方向のエネルギーとは、「死のエネルギー」と命名できる。

そしてこの命名をうると、同時に「生きよう」という方向性を持ったエネルギーに対して「いのちのエネルギー」という名を与えることができる。短く呼んで「いのちエネルギー」だ。
 
 

<「死のエネルギー」による「いのちエネルギー」の相殺>

このイメージを得て、筆者はうつ心理の構造の感触をえた。

つまり、魂に形成される「生きる価値などないよ」という意識は、そのうちに「死のエネルギー」を含んでいる。
このエネルギーが霊に生来ある「生きよう」という「いのちのエネルギー」に衝突し、それを相殺するのだ。
その結果、霊にある「いのちのエネルギー」は希薄化、弱体化する。

さらに強くなって「いのちエネルギー」を相殺して余りが生じることもある。

この状況が、心底(霊)のうちで鉛のような感覚を生むのではないか。

これが鬱の実体ではないのか、と。

+++

「いのちのエネルギー」については、まだ、追記したいことがある。
だが、それは次回に回そう。

 
 
 
 
 
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10.波動ベースで世界を体系的にイメージする

2018年10月27日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

存在の根源を波動だとする量子論(力学)の思想は、世界を体系的にイメージする助けになる。

筆者は次のようにイメージする~。

① 世界は波動で満ちている。

② その波動が一定レベルで凝集したものがエネルギーになっている。    

③ さらに凝集度が増した波動は、物質になっている。

+++

聖書の世界観では、万物の創造神も世界を構成している。

この存在も次のようにイメージできる。

すなわち、その方は無限大の広がりを持った波動体(意識を持った)であり、かつ自ら波動を放射する能力を持った存在だと。
その放射された波動は被造の波動であり、それがあまねく被造界に行き渡っている~と。

そして、その一部が凝集してエネルギーとなり、さらに凝集度が増したものが物資になっている~と。

この世界イメージをもとに、筆者は以後、聖書の論理によってうつ心理を打破する方法を考究していこうと思う。



 
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9.量子物理学の思想を援用する

2018年10月26日 | 鬱を打破する聖書の論理


これから、聖書の知識を活かした鬱心理の実体把握とその治療法に向かいたいが、その前にすべきことがある。
聖書の中の言葉(聖句)は、マニュアルのような順を追った説明になっていないので、そのままでは使い物にならない。使用するには、知的に理解することが必要だ。

理解できない言葉は、そのままでは「おまじない」にしかならない。
理性的に理解できないままで、「そこは信仰です!」「信じなさい!」といったり「信仰が足りない!」と叱りつけたりしても、信徒の意識の中では聖句はおまじないのままなのだ。

+++
 
知的な理解は、科学理論を援用することで可能になる。とりわけ役立つのは物理学知識だ。
難解聖句「いのち」を筆者はこれまでに物理学における「エネルギーのような概念」と霊感し、それを「いのちエネルギー」と言い換えたのもその例だ。


<存在の根源は波動>
  
最新の物理学理論である量子力学(量子論)は特に役に立つ。
この思想は独特の存在論を含めている。
それ以前の物理学では、物質は究極的には「粒子」(つぶつぶのもの)によってなっている~と考えていた。
 
具体的には~

従来、物質を構成するものとして原子が発見されていた。
次に、原子は陽子や中性子や電子でなっていることもわかった。
そこでこれらが究極の構成要素と考えられ、素粒子と呼ばれた。
素「粒子」だからつぶつぶの物質だ。
ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそう考えてきた。

+++

ところが、後に量子物理学者と呼ばれるようになる人々は、素粒子の一つである電子(でんし)についてある実験~「二重スリット実験」と呼ばれる~をした。
そしてそれは粒子でもあり、波動でもあることを発見した。
 
このあたりの知識は下記の動画(主に前半)にゆだねる。ちょっと難しいが、見てほしい。


これを先に見た方がいいかな。


+++

とはいえ「~でもあり、~でもある」というのは解りづらい。
両者の関係は、次のように理解したらいい。
すなわち、根源は波動(振動:バイブレーション)の方であって、てその波動の海の中に、振動が凝集する領域もある~と。
それが(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識されてきただろう~と。
(上記の動画で「波束(波束:波動の束)」といっているのはこの考えに近い)

その振動(波動)の海に量子(クオンタム:quantum)との名が付けられたのである。
これが量子という物質の風景だ。


 

<言葉の波動が物質に影響・・>

量子力学の思想は「見えない世界のことがら」についての物理学的に理解可能な領域を大幅に広げてくれる。
たとえば、聖書には「イエスの言葉が病人の身体を変化させた」との旨の記述が繰り返し現れている。
イエスが「歩け」と言葉を発すると脚萎えが歩き出す。
「目よ開け」というと、盲目者が見えるようになる。

これなど従来牧師さんや神学者たちは「イエス様の不思議な力によりま~す。信仰で受け止めなさ~い」などと教えてきた。
こういう風に理由もなく「信じなさい!」とやってきたわけだ。

+++

ところが脚や眼球を構成する物質の根源が波動だとなれば、物理学的に理解できてしまう。
言葉が波動であることは前からわかっていた。それは人の意識を信号にして伝える波動なのだ。
そしてイエスの発した言葉の波動は、被造物をそれに従わせる力を持った「創造神の強烈な波動」となる。

これが、脚や眼球の根源的な構成物である波動に影響したことになり。影響を受けて、脚の筋肉や眼球を構成していた波動が変化し、肉体組織が再創造された~こういう理解が可能になるのだ。
 
 
<エネルギーの実体も波動>

量子力学は、エネルギー(力)の理解も明確化してくれる。
従来、エネルギー(力)は存在するとは認識されていたが、その中身が不明だった。

ニュートンは、宇宙には重力、磁力という二つの力があることを見出したが、力の中身については何も言わなかった。

アインシュタインも、重力は空間のゆがみから生じるとはいったが、その力の中身がどういう実体かは言わなかった。
また彼はその実体が不明な状況のままで、「エネルギーと物質は相互転換しあう関係にある」とみた。
そして両者の間の量的関係を明かした。
E=MC2 (2はCの自乗をしめすため、本来Cの右上に小さく書かれるべきもの)がそれだ。
 
核爆弾の製造・実験の成功によってその妥当性は証明された。
だが、エネルギーの実体は依然として不明なままだった。

+++

だが量子論の思想を援用して、「エネルギーの実体は波動」だと考えたらどうか。
すると世界が本質的に量子でできているのなら、その世界では波動(エネルギー)は凝集して物質となり、物質は分解してエネルギー(波動)となる。つまり両者は相互に転換し合う状態にある。

アインシュタインの見出した関係は、あえてエネルギー「法則」などというまでもなく、量子論ではごく当たり前の事象として理解できるのだ。
 

「エネルギーの実体は波動」の考えの説明力も含めて、筆者は量子論の考えは、それ自体実在にほぼそのまま妥当する究極の命題でなっているのではないかと思っている。つまり、存在の根源を粒子とする理論仮説のような、比喩的な側面がほとんどない真理群だと思うだ。

以後、この思想をベースにして考究を進めよう。






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8.「見えない世界」は五分五分から

2018年10月24日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、人間が生来もっている無常観が、自己の永続意識を削いでいることを述べた。その意識が自価意識を希薄化させ、心底に鬱心理を常駐させていることを明かした。

これは人間の宿命にみえる。無常観は人間には打破できない、どうにもならないものにみえる。
 
だが、これに真っ向から対立する人間観を持った書物がある。それが聖書であって、これは「人間は永続する」という思想を一貫して明確にもっている。この人間思想を心に併存させれば、それはその分無常観を相殺してくれるように見える。



<信仰に知性を!>
 
いまからその話に入る。だがこの話は初めて聞くものには~特に日本人には~受け付けがたい。
聖書と聞くと「これを宗教の本だ」とまず受けとめるからである。
多くの人は、これは神様について本だから100%信じなければ罰せられる、と反射的に思ってしまう。
 
+++
 
だが、神様は見えない存在だ。見えない世界のことを100%認識することなど、人間にはできない。
できないのに信じねばならないと思うものだから、恐怖がやってくる。
 
神様が特有の行動を促す本だと予感してしまうのも、恐怖を呼ぶ。期待に応えないと罰せられる、という思いが恐怖を呼び起こす。
そういう心理で話を聞いていたのでは、実際上、腰が引けてまともについてこられない。
 
+++
 
こうならないためには、聖書はまず理性を働かせて読むべき本だと思うことだ。
宗教だからと言って、「理性を働かせないでただひたすら信じるもの」だと前提しないこと。
初代キリスト教の大伝道者パウロも、「信仰に知性を」と強調している。
 
 
<「まずは五分五分」が合理的>

 
理性は「見えない世界のことの真偽は、まずは五分五分」とみる。
神とは「見えない影響者」だが、この存否についてもそうだ。
 
 +++
 
現代日本は「神?そんなもの存在しないよ、笑わせるな!」というのが、かっこいい、クール(理知的)だとの通念で今日まで来ている。知識人と称せられるセンセイがたも、マスコミの論調もそうした長い流行の中にある。口に出さない人も、無神論的姿勢を物事を考える際の暗黙の前提としている。

だけどそれは感情的なんだよ。見えないものが存在しないなんて、どうして断言できるのよ。だって見えないだけで存在してる可能性もあるのだよ。もちろん存在してない可能性もそれと同じくらいある。だから五分五分なんだよ、合理的には。

それが現実実在に即していると筆者は認識してるので、ある教会を訪問して信仰確認(告白ともいう)をさせられたとき「そうですね。ロクヨンくらいでしょうか、いまナナサンに向かってるという感じです」といった。叱られたね、牧師さんに。「そんな不信仰でどうしますか!」と。だが鹿嶋春平太チャーチの読者はその姿勢でフォローしてくださることを期待する。



余談だが、そういう教育受けてるもんだから、信徒さんはみな「100%信じてます!」という姿勢をとる。だけど、そんなこともともと出来ないもんだから苦しくなる。で、それから逃れるために反動で対極に飛んでいって「もう100%信じられない、無神論に転向した」という人も出る。教会に通っていた人が、ある日突然行かなくなる、というのは大体これだ。

筆者が牧師なら、「各々五分五分からスタートして、各自のペースで比率を上げることを勧めます」とメッセージ(説教)するね。そしてその代わりにと言っていいかどうかはわからないが、説教の冒頭と終わりにこういう言葉を投げかけるね。冒頭には「こんにちわ、人間死んで終わりじゃないからね」、終わりには「では皆さん、人間死んで終わりじゃないからね、また来週、さようなら」と。

 
 
 

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7.無常観は自価意識を削ぐ

2018年10月23日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
前回、躁気分、鬱気分の分かれ目には自価意識(セルフバリュー意識)が決定要因として横たわっていそうだという仮説を示した。自価意識とは「自分は存在する価値あり」という意識だ。この価値という概念には注目すべき特性がある。

価値というものは手に取って眺めたり食べたりできるものではない。これは何かに対して抱く「大切、意味ある」といった感情を理念化したものだ。それをものにくっついている「重り」のようなものをイメージし、それに投影させ比喩的に示した理念(概念)だ。

重りのように物的に比喩した概念をつくると、我々はそれを数量的に考えることも出来るようになる。10の価値、100の価値、億の価値といったごとくにだ。


さらに数学のマイナスの概念を適用することも出来る。するとそれを「大切な」の反対の「存在しない方がいい」という意味にも使えるようになる。たとえば「ヒトラーは生まれてこない方がよかった」という感情を持っている人は多いようだが、この場合、彼の存在価値を「負の値で」考えることも出来るようになる。「彼の価値はマイナスだ」というが如くに。

このようにして単に「存在が好ましい」という感情だけでなく、より広く、存在に関する「好悪の感情」をも価値という概念は示すことが出来る。

ただしこの便利な言葉には、援用に際して留意すべきこともある。実体は好悪の感情であることを心に保ちつつ用いることがそれだ。それを放念すると、価値の思考は空転に流れてしまう。

 

<土台が消えれば価値も消滅>
 
さて、この価値に関して重要なことがある。この感情は何らかの存在物に対して抱かれるものだ。つまり価値という意識は、存在するものの感覚に付与されるものだ。従って、付与している土台が消滅すれば自動的に消滅する。そういう宿命を持っている。

前回述べた二代目企業オウナーについていえばこうだ。社長継承を予定された彼が、自由市場経済を理想としているならば、彼は将来の自分を価値ある人物として想い描くことが出来るだろう。他者にも「自分はこんなに価値ある人間になる」と標榜することができるだろう。

ところが誰か意地悪な人物が「でもどうせ死んでおしまいでしょ」という言葉を投げかけたらどうなるか。オウナー予定者は二の句が継げられなくなるだろう。

このことは、存在が消滅したら価値も消滅する、ということを明確に示している。論理的にはそうとしかならないから、彼はギャフンとなるのだ。


 
<五感認識は無常観をもたらす>
 
そして、この自己存在はいずれ消滅するという意識は、通常人の心に強固に存在する。
なぜなら、人間は五感でしかモノを認識できない状態で生きてきているので、自己の存在も目に見える肉体をベースにして考える。そして人は物心ついたときから、祖父母や近隣の人などが死んでいなくなり二度と現れないことを、繰り返し経験認識してきている。

その結果、「人はいずれ死んでいなくなるもの」という知識は強固になっているのだ。生来のままでは人の意識はそこから容易に逃れられない状況にある。

 
 
 
<諸君は「死の奴隷」なのだよ>
 
それでいて、人は、消滅しないセルフバリュー意識を持ちたいと切望している。だからベースとしての自己存在の永続を、同時に本能的に願望してもいるのだ。

だが生来のままなら、人間は死んでおしまいと思わざるを得ない。
永続意識を願うが、現実にはそれは希薄なものにしかなりえない。

この状態を聖書は「死の奴隷」といっている。イエスの言葉だ。人が必然的に「死の恐怖」に繋がれて生きるざるを得くなっている実情を彼はズバリ指摘しているのだ。
 

 
 
<鬱の苦痛を遠ざけたくて>

つまり人は生来のままなら~永続意識希薄感の故に~セルフバリュー意識欠乏症、すなわちうつ心理に陥っていくようになっているのだ。
そうしたなかで人は賭け事や刹那的快楽に没頭して鬱心理を忘れ去ろうとする。スポーツ応援似感動やタレントのファンクラブにおける熱狂のなか~多くは無自覚のうちに~鬱の苦しみを遠ざけようとする。

あるいは、社会的価値や自己目標(いわゆる「夢!」)に自分を関係づけて「かりそめの」セルフバリュー感を得て生きようとする。

   
 
<民族主義もセルフバリュー渇望から>

社会的価値とは自分を含む人間集団、家族、所属学校、所属企業、民族、民族国家、人類社会などに感じる価値である。
たとえば日本という国に価値を認め、自分をその国民として価値を分与し、はかない誇りを抱く。

そしてにこの「価値ある民族国家の一員」という自覚は、その意識を初めて抱くものには強烈なセルフバリュー感を提供する。それ故にまたこの心理は、依存症(中毒)を引き起こしやすい。一旦、大衆にこれが広がると、国は民族主義的熱狂に驀進することになる。
 
+++
 
するとこれを利用して政治権力を握ろうとしたり、既存の統率力を強固にしようとする人間が現れる。
権力維持、強化手段には他民族との戦争をするのがすぐれて有効だ。永続意識飢餓感は、こうした好戦的空気を民族国家に造成したりもする。第二次大戦以前の列強先進国の侵略戦争はこの熱狂が形をとった事象に過ぎない。

個人ベースで見ると、現在庶民に急上昇している借金地獄もこれを遠因とするところが大きい。庶民はセルフバリュー希薄感を忘れるために、小銭を借りて余計なものを買う心理状態に引き込まれやすい。
小銭借金が積み重なっての返済地獄は、日本にはとても顕著である。「死の奴隷」心理がもたらす深遠な悲劇は、他にも広範囲に及んでいる。おいおい述べていく。


<無常意識の深い風土>

ちなみに島国日本では、無常観の気風が優れて深い。異民族に征服され蹂躙される歴史を持たずに済んできているからだろう。比較的しみじみと「人の行く末」を思い味わうことが出来てきたからだろう。

だがそれは、まあ、ちょっとした特徴であって「人は死んでおしまい」という意識は人類に普遍的なものである。





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6.自価意識とセルフバリュー

2018年10月22日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

日常的常識感覚で鬱心理をもう少し追ってみよう。身近な事例を追体験をしながら考えてみよう。
 
 
<子に死なれるのが一番辛い>
 
昔のことだが筆者は実母の死を目の前にしたとき、気が遠くなって倒れた。以後世に言う「喪失感」が長いこと心に留まった。それは紛れもなく深い鬱でもあった。

倒れた私を介抱してくれた叔母がささやいた。「しっかりしなさい、母親の死は悲しいが、自分の子に死なれたらもっと辛いからね」
叔母は、ある日突然、成人していた長男を事故でなくしていた。筆者は、母の死よりもっと辛いことが起きうるのかと、人生が怖くなった。
 
実母は生前、十代半ばのいとしい娘を病で亡くしていた。筆者の少年時代に、その時の苦しみを話してくれていた。飲食物が飲み込めなくなった。意志の力でやっと飲み込んで食道に入った、といっていた。

食欲は人間の基底欲求だ。その発露さえも押さえ込んでしまうような苦しみはどうして生じるか。筆者はその構造を次のように追体験した。

 

人は我が子を深く愛するように造られている。その愛は従来体験してきたいかなる愛よりも深い。
親はその子に尽くすことが自分の最高に価値ある行為だという心理に自然になっていく。その子によって、自分の存在価値のほとんどが得られている心理状態になる。

ところがその子が死ぬと、その価値の源が突然消失する。その時、親は自らの存在価値意識を一気に失ってしまう。それが「生きよう」という肉体の本能をも希薄化させ、食物を飲み込むことも出来なくさせるのではないか。

これは人間の抱く鬱心理の極ではないか。筆者の心に、こんな仮説が浮上した。鬱心理を生成させる主要因は「自己の存在価値意識の消失」にあるようだ、と。

 
 
<二代目オウナーの苦しみ>

関連して、こんな事例も思い出した。
筆者の大学時代の親友に起きたことだ。彼は企業オウナーの息子で、父が早世していた。母親を始め親族は、彼が早く卒業して後継社長になることを待ち望んでいた。

+++

だが、ゼミナールでマルクス経済学専攻の指導教授を選び、共産主義社会を理想とする理念を抱いていった。

経済社会理念に自由市場社会(資本主義社会)理念と、共産社会理念がある。
自由市場主義の社会理念では、オウナー経営者は自己の富を増すだけの存在ではない。個人財産を投下するというリスクを冒し、世の中に富を増産し、雇用を増す存在と理解される。そういう理念は彼の存在価値イメージを高める。

+++

ところが、マルクスの思想では共産主義社会がユートピアとなる。そしてこの社会観では自由市場社会における企業オウナーは労働者の生産する労働価値を搾取する資本家となる。彼は今の自分を、将来の悪徳資本家と意識していった。
この意識は、彼の自己存在価値イメージを破壊し続けた。彼は虚無感に陥り苦んだ。まぎれもなくこれも鬱心理であった。

+++

彼は良家育ちの純真な青年だった。筆者は彼と旅行して夜通し語り合い、その苦しみに寄り添ったことがある。「子どもの頃に動物学者になりたかったんヤ・・・」とポツンと言っていたのを思い出す。

彼はこの社会理念問題を完全解決しないままで、関西にあった親の会社を継承した。「資本家になって儲けるんヤ」と冗談交じりに開き直って経営活動に入った。
そうした内部対立を含んだままの意識状態が彼の寿命を縮めたように思えてならない。彼は60代早々に病死した。

 
 
<躁鬱をわける自価意識>
 
こうした体験を踏まえ、かつ現実の諸相を追体験することを通して、筆者の心に躁と鬱を分ける根底的な要因が浮上してきた。「自分が存在価値あるという意識」がそれだ。短く言えば自価(じか)意識だ。

人はこの意識に満ちていることで爽快な心理状態になるのではないか。反対にそれが希薄化したり消失したりすると鬱状態に陥るのではないか。

筆者はこの認識を親しい人々に口頭で述べてみた。彼らは「図星」との賛同をくれた。
同時に一人の友人が「自価意識(じかいしき)」の名は、意味内容が認知しづらくインパクトが弱い、との見解もくれた。
セルフバリュー意識という日本語英語でいった方がわかりやすいぞ、との助言もくれた。
 
筆者は納得したが、自価意識という漢字もある程度意味がわかってくると、相応の効用を持ちそうだ。
そこでこの語も交えながら用いることにした。セルフバリュー意識の語は長いから、セルフバリューだけでそれを示すことにした。


 

 

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5.躁と鬱および人間の気質

2018年10月21日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
 
 
躁病、うつ病、躁鬱病>

人の気分は躁状態と鬱状態の二つに大別できるという。筆者自らの心を内省してみても、他者を追体験してもそれは事実と納得できる。そしてこれを展開した知識がすでに先駆者によって造られている。

曰く~
前者は内的な対立状態のない、いわゆる気分爽快な心理状態である。
後者は心が抑圧された感じで重々しく、心が塞いで気分が晴れやかでない。
 
+++ 
 
いわゆる心の健康な人は、この躁と鬱の二つの心理状態を適度に循環する。
だが、強い躁状態だけが単独で続くことがある。これが躁病(manic-psychosis)で、発病中は非常に気分爽快・多弁・他動となる。

筆者は看護師学校の学生からこんな話を聞いたことがある。精神病院へ実地見学にいったとき、躁病のおばあさんに話しかけられた。「あなた可愛いわね、気に入った。貯金通帳の番号教えて。一億円振り込んであげる」と。躁病はつねに爽快な夢のなかにいる。

+++

うつ病(depressive psychosiu) はその逆で、深い鬱状態が持続する。
人は本能的に爽快な気分を求めるのだが、意志を働かせても気分を躁転させられない。これがうつ病である。

+++

躁と鬱が循環はするが、その振幅が極度なケースがある。
これが躁鬱病(manic-depressive psychosis)である。
 
躁鬱病については、筆者はある知人から父親についての事例を聞いたことがある。鬱から躁に転じると、もの凄い買い物をするそうだ。一流デパートに行って高価なものをどんどん買う。後の支払いなど考えない。家族は大騒動。
 
それが終わると深い鬱に転じる。こうした循環が続くのだが、そのうち両者の状態がもの凄く深くなった。鬱の苦しみのために父親はついに自死した。
 
 
<作家に自死が多いのは>

筆者は鬱状態には相応の効用もあると認識している。
我々が五感で認知する現実には対立・矛盾を内包するものが多い。それをありのままに認識し受け入れるのは鬱心理によって可能になる。
 
作家はそうした現実を認識して人間を洞察し、描く。彼らの認識は一見ロマンチックに見えるものでも、その裏側には強いリアリズム、ニヒリズムが背中合わせになっている。

彼らは苦しみながら描いているのだ。そしてこうした精神作業を職業的に続けると、鬱への心的耐性も訓練されるが、同時に、鬱の深みに沈む度合いも深まっていく。深度の深い鬱心理が習性化し、作業中だけでなく日常にも自律的に勃発するようになると、苦痛に耐えきれず自ら命を絶とうとすることにもなる。
 
これには芥川龍之介、太宰治、有馬頼義(よりちか:直木賞作家)等々が連想される。山本周五郎は自死を図りはしなかったが、一つの作品が完了すると、編集者などを呼んでどんちゃん騒ぎの何日かを送ったという。執筆中に続けた鬱心理を躁転させようとし、それがなると次の作品に取りかかったのだろう。

 
 
<躁気質と鬱気質>
 
一般人も、躁気質の人と鬱気質の人とに分けられる、と筆者は思う。
前者は躁心理を強く好み、そういう場が大好きだ。それは鬱心理にとても弱いことにも起因する。ちょっと鬱気分になると、すぐ、人を呼んでワイワイやろうとする。

その人の顔つきは概して、目鼻口などの造作が丸っこい。肌も全体がふわふわしている感じなことが多い。昔いた大橋巨泉というテレビタレントはその代表だ。

物語の登場人物では、これも旧いが獅子文六の小説『大番』のギューちゃんなどもそれか。彼らはものごとをあまりり深くは考えない。躁心理は「楽しい、楽しい」であって、この状態では深い認識は出来ないから当然である。

対して鬱気質の人は、鬱心理への耐性が比較的強い。また、それ故もあろうが、この心理状態で事物を深く認識するのが好きだ。

顔つきは細面で長細い人が多い。前述の芥川や、堀田善衛(作家:『広場の孤独』で芥川賞)などその典型だ。宗教改革者カルバンもそうで、肖像画を見ると、キュウリのように細長い顔している。





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4.マックス・ウェーバーの追体験手法

2018年10月20日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
<自己の内的感覚がベース>
 

前回のフロイトの精神図式は、彼が脳神経系だけでなく、意識体をも視野に入れて人間心理を見ていることを示していた。そして彼は後者の「意識」に主眼を置いて心の問題を明かそうとしていく。

ではフロイトや聖書の精神理論を適用すれば、鬱心理の問題も明かされるかというとそうはいかない。理論というのはモデル(模型)ともいうのだが、これは対象のある局面を拡大してみるのに役立つメガネのようなものだ。

理論モデルを的確に使うには、それを人間心理の全体像のなかに位置づけていなければならない。そしてこの全体像をわれわれは自分の意識を内省することによって、漠然ながらも感知している。

我々は普段日常生活のなかで、そういう認識作業をやっている。その時々に自分の心を内省し、感触する。それらを一般化して、人間心理に関する種々の一般知識を得ている。全体像もまたそうやって得ている。

他者の心を知るときにも、自己の内的世界を基盤にしている。我々はそれを自分の心の場に投影させて、「自分だったらどう感じるだろうか」と思案する。自分を内省してえていた知識を手がかりにしながら推察する。
心理認識に於いては、自己の内的世界が最も確実な、第一次的な経験素材になるのだ。

鬱心理の解明に、フロイト理論を使うときにも同様だ。
理論を使うにはまず理解せねばならないが、その理解を得る場合にも、彼の言わんとしていることを自己の内的経験知識の場に持ち込むことになる。そうして自己の内にある人間知識と照応させつつそれを行うしかない。

実際のところフロイトも聖書もその理論は深淵だ。だが、自己知識がたとえ十分でなくても、それと照応させているという自覚は心に保ち続ける必要がある。その自覚を放念すると、理論を援用しているうちに、心理に関する思考は他者の造ったその理論に流されていってしまう。すると以後、表皮的で上っ面で言葉を転がすだけの運動に、思考はなってしまう。
 
 

<追体験の手法>
 

とはいえ、フロイト理論と照応させられる程に、自分の内的心理知識を洗練させていくのは容易ではない。これをなんの助けもなく各々白紙からやれ、といわれたら我々は途方に暮れる。

だが幸いなことに、その手引きを遺しておいてくれた社会経済学者がいる。マルクスと並ぶ社会科学の大物、マックス・ウェーバーがその人で、彼はほとんどストレートな内的経験感覚だけでもって人類の歴史を把握し分析した。
 
 
彼はその方法に追体験(ついたいけん)という名を付けた。歴史事象を、それに関与する人間の心理を追体験し動機の意味理解をすることによって、認識することを試みた。
そしてその手法の有用性を多大な成果でもって示した。『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』『古代文化没落論』『職業としての政治』をはじめとする諸作は読むものを圧倒するが、同時に、追体験作業の素晴らしい練習帳になってくれている。


 
<誰もが日常していること>
 
学問業績のなかで言われるといかめしいが、ウェーバーの追体験は我々生身の人間が日頃生活の中でしている心的作業だ。

我々は悲しむ人に同情するとき、その人の心に自分の心を寄り添わせて、その心理に共鳴・同化してわかろうとする。類似の内的経験をもった共鳴箱が自分の心にもあることを期待して、共鳴するのを待つ。

共鳴・同化がなったと察知すると、それを内省感触して、相手の悲しみを知る。それを日常用語で言うと「同情(情を同じくする)」となるが、追体験とはそれと同じ原理の作業である。
 
ウェーバーは、この手法を過去の歴史上の人物の心理認識に適用した。登場人物をめぐる背景の情報を収集し、自らがその中の主人公とイメージする。
彼は「シーザーを理解するのにシーザーになる必要はない」との名言を遺している。ローマ史を認識する際、ジュリアス・シーザーになったとイメージし瞑想すればよいとする。時とともに共感・同化がなっていき、その人と近似的な心理が自分の内に生成する。これを内省・感知して歴史は理解できる。彼はこの方法でウェーバー歴史学を確立した。

ウェーバーが残してくれた業績は、我々の歴史認識、人間認識の貴重な練習帳になっている。
 
 
 

<歴史小説家もやってること>
 
ウェーバーが彼の「理解の社会学」を造り上げた追体験という手法は、実は歴史小説家が常用している方法でもある。司馬遼太郎も坂本龍馬をめぐる歴史情報を収集し、そのイメージ中に自分をおいて、龍馬の心理を描いた。

歴史事象を超えて「創作した」環境情報の中における人物の心理認識も同じだ。藤沢周平も山本周五郎も、時代小説を描くに想像上の藩をイメージし、そのなかに想像上の登場人物をおいた。そして追体験手法でその心理認識をし、彼らの行動を描いた。

彼らの深い追体験に案内されて、読者は人間心情を学び、人の意志を学び、それを味わい楽しんだ。多くの人が代金を支払って、映画化された作品を見に劇場に足を運んだ。TVスポンサーはまた費用をかけて彼らの小説をドラマ化し放映した。
 
 
 
<まず追体験手法で>
 
 
鬱心理の構造をさぐるにも、まずは日常的な追体験感覚で考察に入るべきだ。誰かが造った理論を援用するにも、まずそういう準備作業があるのが好ましい。

また援用している間にも、常時、日常的「常識感覚」と照応させているべきだ。

次回には追体験的常識感覚によって、鬱心理を鳥瞰図・全体観の中に位置づけてみよう。



 
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3.フロイトと聖書の人間精神図式

2018年10月19日 | 鬱を打破する聖書の論理



<フロイトの精神図式>

現場経験の機会をもたないとわかり難いことなのだが、学問科学を生業にするものの世界(学界)では、洞察力の凡庸な人が圧倒的に多い。精神科学領域でも例外ではないのだがん」なかには洞察力を持った学者もいた。その20世紀での代表はフロイトだ。

彼は~凡庸者向けに~科学の体裁をとりながら、実質的に意識体(聖書では霊)を含めた心理理論を展開している。つまり、聖書における「霊」と実質的に重なる「意識」の概念〔潜在意識)を自らの心理図式に含めているのだ。
 



 
 
色々描かれているが、ここでは図の中の「知覚-意識」と「前意識的」と「無意識的」の三つだけを理解すればいい。
 
後者の二つは、要するに意識体だ。
 
それが二つの領域に分けられている。
「前意識的」(領域)とは、今日いう「顕在意識」領域だ。
「無意識的」(領域)とは「潜在意識」領域だ。
 
そして上部の「知覚-意識」は脳神経系をいっている。
神経系は、「顕在意識領域」には進入していて、その意識状態を受信して頭脳に伝達する。
だから脳にとってその意識は自覚可能(顕在的)なのだ。
 
だが、下方の「潜在意識領域」にまでには神経系は伸びておらず、その状態を受信できない。
脳はそれを自覚できないので、これは潜在意識といったほうがわかりやすい。だから時に流れの中で人々は自然に躁呼ぶようになった。
 
がとにかく彼は、人間の心理は、こういう意識体を含んでいる、と洞察していた。
 
 
 
 
 
<聖書の精神図式>
 
フロイトの示すこの意識体は、聖書の「魂と霊」にそっくり対応している。
聖書は人間の構造を~
    ボディ〔肉体)、マインド〔魂)、スピリッツ〔霊)
 ~の三要素でとらえている。(脳神経系は肉体のもつ器官に含まれる。それは脳と魂の活動を連結している)

このようにフロイトは、もともと知っていた聖書の思想を援用したのではないかと思える程だ。だからわれわれはこのフロイト図式を援用して、霊を明示した心理理論を造ることも出来る。鹿嶋の造った図を示そう。
 
 
 
 
 
ここでの「脳神経情報系」はフロイトの「知覚-意識」に対応している。「顕在意識」と「潜在意識」は彼の「前意識的」と「無意識的」にそっくり対応している。
 
なのに、「フロイト!」というと平伏し、聖書というと「ふん、宗教か!」と受け付けないのは、そのまま当人の愚かさを表明している。
 

 
 
<PCの情報処理構造に共通>
  
聖書の示唆する人間精神構造はパソコンの情報処理構造と共通した面を持っている。
PCでは、ハードディスクに情報を収納保存する。
情報の一部をRAM(ランダムアクセスメモリー:いわゆる「ラム」)に呼び出し、これをモニターが可視的にする。
人はこれを見て、キーボードで操作(作業)を加え、結果をHDに上書き保存する。
 
 
 
<霊はハードディスクのようなもの>
 
聖書の霊はハードディスクに相当する。
そこには、人間のもつ心理内容の情報が蓄積、保存されている。
 
魂は多くの作業をする。
霊(HD)から呼び出した情報を自覚受信し、これを頭脳で理解し、それに操作を加え、修正する。
そして修正された情報をふたたび霊に保存する。
(この作業の際に、感情、論理、意志が働く)
 
魂のこの機能にはPCの多くの器官が対応する。
霊から取り出した情報の場にはRAM(ランダムアクセスメモリー)が、それを自覚するのはモニターが、そしてその情報に操作を加えるのはキーボードやマウスなどが対応している。
 
 
<霊の持つ深遠な機能>

ただし聖書が示唆する霊は、PCのハードディスクを超えた働きも持っている。
例えば霊は魂の働きにも、意識の根底からの影響を与え続けている。

霊はまたそれ自体が意識体であり、かつ人の全意識の本体である。

さらに霊は、創造神から放射される「いのちエネルギー」(後に説明する)を吸収保存する、いわば充電式乾電池のような役割もする。

また霊は、肉体が循環運動をやめると(死ぬと)、それを抜け出して永続する。
そして、霊が肉体に戻ると肉体は生き返る。

霊にはこうした局面もあるが、ここではまずハードディスクと共通した働きの局面を示したのである。



 
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2.意識体の病なのに

2018年10月17日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

別稿でも示したように、精神医学では鬱を脳神経系の領域のみで考え、これに西洋医薬品で対処している。
 
方法は二つで~、
① 霊の意識状態を受信する脳神経系を薬で鈍化させるもの。
    
② 向精神薬で神経を一時的に興奮させ、躁状態に向かわせるもの。
              ~となっている。
ところが①は、鬱という拷問のような心理の受信を、伝達神経を鈍化させて、ごまかすだけのものだ。
②は、依存症、中毒に直結している。ヒロポンなどと同じだからだ。
 
こういう処方は、長期的に効力がないだけでなく、危険極まりない。だが、患者は医者を信頼しないわけにいかない。戦後の日本人は無自覚な科学盲信者になってしまっている。
その結果、この方法に依存して、どんどん精神病患者になっていく。
 
鬱心理が生じる領域は神経系ではなく、聖書が「霊」と呼ぶ意識体でありそうだ。神経系はこの意識体の状態を受信して脳に送るネットワークに過ぎない可能性が大きい。
 
ところが精神医学者たちは、浅薄な科学主義に陥っていて「見えない存在」を考慮の外に置く。
 
 
 
<浅薄科学に咲いたあだ花~行動主義心理学~>
 
物理学に基礎科学があって、それを応用する応用科学が存在するように、心理学でもこういう二分野が存在する。基礎科学は心理学理論であって、その応用科学が臨床精神医学だ。
 
ところがこの心理学理論の大勢が、浅薄な科学主義に陥っている。それを絵のように現しているのが、20世紀初頭に流行った行動主義心理学だ。
 
ジョン・ワトソンという人が提唱したこの心理学は、科学だから認識対象は「五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)認知が可能」なものでなければならず、意識(心)などという見えない対象をそのまま扱ってはならない、とする。また扱わなくても人の心理は把握できると考える。

そして、意識はブラックボックス(見えない暗箱)において見ないでおく。その上で人間の行動はこの暗箱にインプットされる「刺激」とそこから結果として表れる「行動」との相関関係を見たらわかる、とした。この考えで、条件反射(犬に餌を与えるとき鐘を鳴らすことを繰り返していると、鐘を鳴らすだけで胃液が出るようになるなどの現象)の研究などをしてきた。そうやって心の動きを認識外に置いた心理学が学界で流行した。
 
+++
 
この方法は、もっともらしいが、致命的な間違いを犯している。

科学というのはルネッサンス期に出た一つの認識の手法で、それは人間が五感で認知できるものに対象を限定して認識しようという、五感主義を基本原理としている。

それまで欧州人の意識を支配してきたのはカトリック教団の世界認識手法だった。教団の高僧たちや法王は霊感が働くので、創造神の真理を知っている、と自らを信じていた。こうやって「天は地上の上を廻っている」といった天動説を強硬に守って、地動説を唱えたガリレオを罰した。

ところが近代になると地動説の方が正しいことがわかってきた。それにつれてカトリック教団のように、五感で確かめられない事柄を含めて世界を認識するのはもうやめようという人々が出た。その彼らが始めたのが科学という認識手法だった。
 
だが、五感主義というのは端的な表現であって、その真意は「人間が経験認知できる要素に説明要因を限定する」というものである。そして人には五感経験以外にも経験認知できることがある。それは自分の心の内部を感触して得られる「内的経験」だ。
 
 
 
ところがワトソンは「経験的なもの」とは五感的なもの、すなわち「物的なもの」だと短絡した。彼は単純にも、内的な心の経験を見逃して行動主義心理学をつくった。そして、これが学界で流行してしまった。その結果、「心」を扱わない心理学の思想が学界で主流になってしまったのだ。
  
現代精神医学は、この心理学の影響下にありながら迷走している。
だが、そのことを指摘しているだけではもう足りない。
この迷走は日本民族のためにも、もう放置しておかれないのだ。
人間意識の構造に正面から取り組まねばならないのだ。





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1.誰も手がけてない課題

2018年10月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

長いことこの「鹿嶋春平太チャーチ」の更新が滞ってきた。怠けていたわけではない。あるテーマ、誰も手がけていない課題に取り組み、見えてきたものを文章にする試みを続けてきた。

だが、出来たと思うとまもなく不備がみつかり、またやり直すことを繰り返しなかなかゴールに至れない。そこでもう、完成してから連載を始めるのを諦めることにした。冒頭から出来たものをアップすることにした。

題名は『鬱を打破する聖書の論理』。鬱心理については、これまでも書いてきた。これまでの文章と重複するところも出るかも知れない。途中でまた不備が見つかったり、掲載に値するものが無くなって、更新停止になるかも知れない。が、とにかく始めることにした。



<加藤和彦の死>
 
年配の人ならフォーククルセダーズというフォークソングのグループを覚えているだろう。「帰ってきた酔っ払い」が大ヒットし、加藤和彦、北山修、はしだのりひこ、の三人で1年間テレビなどマスメディアに出ずっぱりだった。しかも一年たったらさっさと解散し、その後の音楽グループ解散の走りとなった。

その後、はしだは「はしだのりひことシューベルツ」という新グループを結成して歌手を続けた。北山は京都府立医大の学生にもどり、大学院卒業後精神科のクリニックを東京青山で開業したが、あるとき九州大学にスカウトされて医学部の教育研究者になった。加藤は作曲を中心とした仕事を続けた。

そうしているうちに加藤はトヨタ自動車のコロナという車のCMに出演することになった。CMは、彼をメインキャラクターとして合計五人が登場するもので、他のメンバーは松山猛(エッセイスト)、秋山育(イラストレーター)、ジミー・ネルソン(雑誌編集者)それに筆者(肥田日出生・・・本名)であった。

クルマのブランドは、新モデルで4年間続け、4年たつとモデルチェンジしてまた新しいモデルに衣替えするというサイクルで展開する。そんなわけで、筆者は加藤とも4年間仕事での付き合いが続き、それを契機にときたま交信する知り合いになった。

奥さんはヒットメーカー作詞家の安井かずみで、彼は彼女の書いた詞に曲を付けたり、ミュージカルや歌舞伎の作曲をしたりしていた。才能豊かで、振る舞いも軽やか、世の中スイスイと楽しんで生きていくと行った感の、人もうらやむ壮年者だった。

その彼が後にうつ病で苦しみ始めた。九大の精神科教授になっていた北山も、彼を救うことが出来なかった。加藤は自死した。筆者は衝撃を受け、鬱という心理がもたらす苦しみに得体の知れないものを感じ、以来それを考え続けた。
 
そして最近また、近しい人がうつ病によるって自死するという悲劇に遭遇した。ここに至って、筆者は鬱心理に関して考究してきたものを文字にせねば、という強い衝動に駆られた。
 
+++
 
うつ病に関しては、根本的な誤解が医学界に蔓延している。
精神医学者は科学の認識論を表皮的にうけとって、鬱心理の真因を見逃している。
見逃しているだけでなく、的外れな薬剤治療を施すことによって、多くの人をその犠牲にしている。
 




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