鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.300『弟子に与えて世に広めさす』(17章9~10節)

2010年09月27日 | ヨハネ伝解読
 
「ヨハネ伝解読」300回になりました。
17章は全部イエスが創造主に語りかける言葉です。
本日は9節と10節にまいります。

(右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)


                      
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしは彼らのためにお願いします。
それは世のためでなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。
なぜなら彼らはあなたのものだからです。
わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。
そして、わたしは彼らによって栄光を受けました」(17章9~10節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 言葉は平易ですが、ピンとこないところが多いですね。
かつて日本に「言語明瞭、意味不明瞭」といわれた首相がいましたが、
彼の言葉のようですね。(竹下登です)


まずここで「彼ら」は弟子たちです。これは明らかでしょう。

イエスはその弟子たちのためにお願いすることがある、という。
そのお願いの詳細は次の11節に出てきます。ご期待下さい。

さてイエスはその願いは「世のためではない」という。どういうことでしょうね。


                    


イエスはこれからいなくなります。
「世」は残されます。

だが、イエスはその「世」がよくなることを願うのではない。これが「世のためでなく」の意味です。
この解読で繰り返していますが、「世」は悪魔のもので、
その権威は一時的に悪魔に与えられています。
この「世」とは宇宙のことです。その宇宙は暗闇であり、
これは悪魔とそれに従って「天の諸もろの悪霊」になった天使たちを閉じ込めた牢獄というのが、聖書の論理です。

悪魔は、その牢名主であって、そこでの権威を一時的に与えられています。
世とはそういうところです。

だからこれはイエスがいなくなったからといって、
すぐに天国(苦しむ者が誰もいない)のようなところにはなりえません。
だから、イエスは「世を天国のように一変させてくれ」とは願わないのですね。


                    

<聞かれる祈りとは>

もちろん、イエスは究極にはこの世を愛しています。
自分がいなくなった後の「世」のことは気がかりではあります。

だが、イエスはそういう世に残していく弟子たちは守ってくれと創造主に願うのです。

それを願う際に、イエスは改めて確認しています。

 「弟子はあなたが下さったもので、いまや、わたしのものですが、そもそもわたしのものはあなたのものでもあります」という。
「そういうことを自分は認識しています」と改めて明示する。
いわなくてもわかりそうなことを敢えて示している。


                    

創造主への祈りはこのように、自分が教えをきちんと認識していることを、
くどいほどに提示して、そのうえでおこなうものなのでしょうかね。
神様はすべてわかっているのだから、黙っててもやって下さる、というのは
福音の本質に沿っていないんでしょうか。

だから、祈りが聞かれる人は、聖句をよく吟味している人に限られるのでしょうかね。
祈りも長くなるんですかね。聞かれる人って、ホントに長く祈りますもんね。

ともあれイエスはこういって「だから彼らを守って下さい」と願います


                    


<言葉が受け入れられるのは栄誉>

さて最後の「わたしは彼らによって栄光を受けました」にいきましょう。
ここは本日の聖句で、一番難しいところではないでしょうか。

ここでの栄光は「栄誉」です。
イエスは弟子たちによって、「栄誉を受けた」というのです。

とはいえ何が栄誉でしょうか。
それはイエスの(父なる創造主より受けた)言葉を、弟子に伝え、弟子たちがそれを受け入れたことです。
(6節でイエスが語っているように)

受け入れられるのがなぜ「栄誉を受ける」ことになるのか。

それは、イエスがこの世に来た究極の目的は、「天(創造主の王国)の言葉」を「世に留めること」
という論理に関連しています。

そもそも世は悪魔の影響下にありますから、人々は本能的に反発して受け入れません。

そうしたなかで、まず限られた弟子の心にそれを留め、それが広められる
というのがイエスの方法なのです。
この「ヨハネ伝」で16章までに示されてきたイエスの努力は、つまるところはそれにつきます。

だが、弟子はなかなか受け入れませんでした。彼らも受け入れられなかった。
受け入れないというのは、語っているものからすれば恥辱でしょう。
不名誉なことでしょう。

このように裏から考えると、「受け入れること」は「語るものに名誉を与えること」であることがわかっています。
ここで弟子は「受け入れることによってがイエスに栄光を与えた」のです。

+++

蛇足ながら、イエスはその弟子たちを通じてその言葉、福音が
世の人々に広まることを、弟子たちにゆだねます。
だから「この弟子たちを守って下さいよ。あなたのものでもあるじゃないですか」
と力を込めて祈っている。
念入りで切なる祈りにならざるをえませんね。


                    





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Vol.290『信じることによってしか知りえないもの』(17章7~8節)

2010年09月19日 | ヨハネ伝解読
ヨハネ伝解読17章に戻ります。
この章は前篇イエスが創造主に語りかける言葉です。
本日は7節と8節にまいります。

(右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。
彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出てきたことを確かに知り、
また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」(17章7~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


いろんな言葉がでてきますね。
ここはまず、弟子たちが「いまや知っていること」を取り出しましょう。
それは次の三つです。


                    

<弟子たちが知るに至った三つのこと>

①「あなた(父なる創主)がわたし(イエス)を遣わされた(この世に)」こと(8節)。

②「あなたがわたしに下さったものはみな、あなた(創造主)から出ている」こと(7節)。

具体的にどうかというと、たとえば前の6節では、「創造主は弟子をイエスに与えた」とありましたね。
 この弟子は被造物で、被造物は根本的に創造者のものです。
創造主なる父は、これを世から取り出してイエスに与えた。このことも前の節の解読で示しました。

他の代表は、癒しを行う権威でしょう。これは癒しを実現する「いのちエネルギー」といってもいい。
これらはみな創造主から出ているということですね。

③「あなた(創造主)がイエスにことばを与えた」こと(8節)。
これはつまり、「イエスが語る言葉は創主から出たもの」ということですね。


                    

<鍵は「言葉」に>


本日の聖句を整理する鍵はこの「言葉」にあります。

③の「言葉」は①も②も内容に含んでいます。

そしてその言葉を弟子たちは受け入れた(8節)という。

 それによって、①②③は真理だということを「知った」とここではいっています。
どういうことでしょうか?

                    

<「信じる」と「知る」>

ここで留意しておくべきは「信じる」「知る」との関係です。

結論から言いますと、 ここでは「信じる」と「知る」とは一体になっているのです。
なぜなら、
右の①②③が真理であるかどうかを人間は、見たり聞いたり触ったりして知ることは出来ません。
これらはもう人間の経験認知能力の外のことだからです。

だが、それを知る方法はあるとイエスはいっているのです。
それは「信じることによって知る」という方法だ、と。

世界には「信じることによってしか知ることの出来ないものがある」ことを
ここでイエスは明示しているのです。
ここはもう「信じる」ことによって知るしかないところです。

では信じるとはどういうことか。
それがここでは「父なる創主がイエスに与えたことばを受け入れること」となっています。

これも一つの奥義です。
そういう奥義を創造主の前に出して、イエスは語りかけ祈っているわけですね。




                    




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<臨時版>聖書ある生活3

2010年09月15日 | ヨハネ伝解読
本日は「学ぶべきものは天然」ですが、前回の記事への追論を少し述べます。

                    


<創造主なら持つべき属性>

前回、鹿嶋は聖書の創造論だけが「存在するもの」が存在する理由を示す、といいました。

するとこういう声も出そうです。
「そんなことないよ、この世のものを造った造物者のようなものがあるのではないか、
という思想は他にもあると思うよ」と。

たしかにそうです。「のようなものがあると思うよ」程度の思想なら、子供でも抱くでしょう。

だが、聖書は違う。
それは創造主に関するディテール(詳細)を述べる聖句も含めているのです。
たとえば、創造主は時間的無限者という思想を込めた聖句がある。
空間的無限者の思想も含んでいる。

そしてそれらの思想は論理的に妥当なのです。


                    

たとえば、自分以外の全ての存在を創造するのなら、
創造者は限りない過去から限りない未来に渡って存在する方でなければならないでしょう。

これに聖句はきちんと論理的に応じています。
「永遠」という概念(無限大という概念の一つ)を用いて応じている。
万物の創造者は「永遠の過去から永遠の未来に渡って存在する無限者」
という属性をもつことを示しているのです。

 空間についても同じです。
 空間は無限です。
自分以外の全ての存在を創造したのなら、創造者は自らも無限の広がりを持った方でなければならないでしょう。
聖書はそうして空間的無限者であるという属性も聖句で示しています。

このようにして、万物の創造主ならば持つべき論理的な属性をに内蔵している本が、
他にあるでしょうか。鹿嶋は知りません。


                    


<学ぶべきは天然>

 さて「学ぶべきものは天然」に入ります。
これは、前後にある「労働すること」と「聖書を読むこと」との両方に関わっています。
両者を共に助けるのです。

                    

<労働への貢献>

まず労働から。
労働とは天然物に人間が手を加えることですよね。
ただし、直接手を使って土をほじくり返すことはなどでは効率が悪い。
手を加える対象である天然物をよく学び、それをもとに道具を造って使うと
同じ労力を投入してもより多くの生産物を得ることが出来ます。
こうして食物もよりたくさん生産することが出来ます。

だから「学ぶべきは天然」と内村は言うのでしょう。


                    

<「聖書を読む」への貢献>

「天然を学ぶこと」は「聖書を読む」に対しても助けになります。
聖書の世界観は深遠にして広大です。
それは見える世界(物質界)だけでなく見えない世界(霊界)にまで及ぶ
壮大にして内容豊かなものです。

ここで述べられる霊界の論理は、人には霊が見えないが故に、理解が困難です。
だが、天然を学び、その知識があると、
これをもちいて霊界の理屈をより明確に理解することが出来るようになります。


                    

天然を学んで得られる知識の代表は、物理学、化学の知識です。

 たとえば聖書には「いのち」という概念が出てきます。
これは物理学のエネルギーになぞらえるとイメージがはっきりしてきます。
鹿嶋などは「いのちエネルギー」と言い換えています。

また創造主のなす創造のわざは、物理学の「エネルギーと物質は相互に転化しうる」
という知識を援用すると、より明確に理解できます。
創造主はいのちエネルギーの源泉です。

このエネルギーを創造主は自ら描くイメージを用いて物質に転化させることができる。
それが被造物を創る創造のわざではないか、と理解することが出来る。

このように「天然を学ぶ」ことは、「聖書を読む」ことの助けにもなるわけです。


                     


<自然でなく「天然」であることについて>

 なお、ここで内村は自然でなく天然という語を使っています。 
自然という語は、聖書の世界観に沿ってないからです。

「然」は「ぜん」とも「ねん」とも読みますがいずれも「その状態で存在する」という意味です。
「学生然としている」といえばそれは「学生そのものの状態でいる」という意味になります。
「自」は「みずから」「じぶんで」の意味です。

そこで自然は「みずからその状態で存在するもの」という意味を持つことになる。
だが、それが指すものは聖書では被造物です。
被造物は創造主によって創られた創造主あってのもので、「自ら存在する」ものではありません。

自然という漢語は、聖書の思想には反する言葉なのです。

では「天然」という語は聖書の思想にぴったり適合しているかというと、そうでもなさそうです。
それは「人の手が加わってない」とか「生まれつきのもの」という意味を持つだけです。
「天然パーマ」などに見られる如くです。

けれども「自然」ほどにはっきりと「自ら存在する」というニュアンスは持ちません。
とはいえこれを「被造物」にして、「学ぶべきものは被造物」というのも変です。
だから内村は天然の語を用いたのでしょう。
「天(創造主)が『その状態で存在するようにせしめたもの』と自分で思うことも出来ますし。
日頃も天然で通していたのではないでしょうか。


                    

 ともあれ、この世の人生を仕合わせに送るに必要なのは、
天然を学び、労働をし、聖書を読む、という三つだけだったのですね。


                    



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<臨時版>聖書ある生活2

2010年09月14日 | ヨハネ伝解読
<パンと自価意識>

前に戻って一番目の「聖書」にいきます。
内村は「読むべきものは聖書」という。
あまたある書物の中で、なぜ彼はこの一冊を内村は「読むべきもの」としてあげるのでしょうか。

この言葉を聞くと鹿嶋には聖句「人はパンのみによって生きるにあらず・・・」が浮かびます。
この聖句では、生きるのに必要なパンの他のものは「創造主から出る言葉」となっています。

でも、これだけではよくわからんですよね。その「言葉」が「生きていく上でどのように必要なのか」を知りたい。


                    


 鹿嶋は、生きていくのにパンに匹敵して必要なのは、
「自分が存在するに値するという意識」だと考えています。そしてそれを短く「自価意識」といっています。
 これがなくなると、人間からは「何かをしようという意欲(やる気)」だけでなく、
食欲という生理的欲求すらも消滅してしまうのです。つまり生きていけなくなる。


                    

なぜでしょうか?
幼子と親を考えましょう。

 わが幼子はあまりに可愛いので、親はひたすら愛します。
そうしているうちに、親は自分の存在価値をその子の成長、仕合わせに役立つ面においてだけで
意識するようになります。
 
 その状態で、その子が消滅したらどうなるか。親は自分の存在価値の全てを意識出来なくなります。
つまり自価意識を喪失する。その結果、食欲すらも消滅してものが食べられなくなる。
つまり生きるのが困難になってしまうのです。


                    

<自価意識は自分を世界観に位置づけることによって>

もう少し考えましょう。
愛しい子から自価意識を得る心理過程はどうなっているのか。
まず直接には情感として自価感覚を得ます。
だが人間はもう少し知的な精神活動もします。親は心にイメージも描くのです。

たとえば「可愛い我が子の、成長と仕合わせに役立つ自分」をイメージする。
あるいはそれはより広く、「我が子のいる家庭・家族」、「我が子のいる社会」、
「我が子のいる世界」であるかもしれません。

いずれれであってもいいのですが、とにかく親はこのイメージした世界(とても価値ある)を描き、
その中に自分を位置づけています。そうやって自価意識を得ています。

 人間は知性を働かせてこういうイメージ世界、それを思想といってもいいでしょうが
とにかくそういうものを心に描く。これが動物と違うところです。


                    

動物は情感だけを持ちます。情感は浮かんだり消えたりします。
だから猫などは乳を飲ませていた生まれたての子供を取り去っても、
ちょっとの間寂しがりますが、すぐに忘れてしまいます。

 人間はそうではない。情感として自価感覚をもつとともにイメージも心に描く。
イメージには知性が働いていますので、持続的になります。
このイメージの中に自分を位置づけて自価意識を得ます。

その状況で幼子を失うと、現実がイメージを傷つけていきます。
すると自価意識がえられなくなって苦しみます。

こうした世界イメージを英語ではパースペクティブといっています。
日本語では全体観とか鳥瞰図という言葉が当てはまるでしょう。
そこで、人間は価値ある世界観・価値ある鳥瞰図の中で自分を位置づけることによって自価意識を得る、
ということもできます。

この鳥瞰図は壮大なものでなくてもいい。
愛しい子のいる家族だって~それ以外の何もイメージに加わって来ていなくても~一つの世界イメージ、世界観です。

                    

 ただしそのイメージ世界は、より広大で深遠なものであるほど、豊かに価値意識を供給します。
(精神世界が深いというのはそのことです)
 また確実感が強く、確固としたものであるほど、(そこから得る)自価意識は壊れにくくなります。

                    


<「存在」の理由>

内村の「読むべきは聖書」はこの確実感の強さに関係してきます。
聖書の言葉は、この確実感を強くする決め手のようなものをもっているからです。
決め手は具体的には「創造論」です。これを少し詳しくみてみましょう。


                                        

振り出しから考えます。
世界観とは「世界はこれこれになっている」というイメージですよね。

さて、世界って存在物でなっていますよね。
世界イメージとは存在するもののイメージでもある。

 そして「存在するもの」について、人間は「なぜそれは存在しているのか」
という「存在の理由を問う意識」を抱きます。
これは本能的に抱く。小学生でももう抱きます。

もっとも小学生の場合は、自分はなぜ存在するか?というように、
もう少し具体的なレベルで考えるかも知れないが、とにかく疑問を抱く。
自分がなぜ存在するかの答えがなければ、何のために生きるべきかを考え始めることも出来ない。
なぜ存在するかは「自分を考える出発点」なのです。


                    

あるいは早熟な子供は、これを自分や、校舎やグランドや親や先生等々と一般化して、
こういう存在一般はどうして存在するに至ったのだろうと考えるでしょう。

これへの答えがなかったら、世界イメージも確実にならない。
世界イメージが確実でなければ、そこから引き出す自価意識も確固たるものになりません。

 この答えを、人間は自力では出すことができません。
だが聖書は明確な見解を提供してくれているのです。具体的にはその中の創造論が与えます。
それは、万物は創造主によって作られたが故に存在する、という回答を提示します。


                     

 この回答は「絶対に正しい」と信じなくても効力を発揮します。
一つの見解として知っているだけでも有効だ。

創造論がなければひとは世界(存在物)について
「まあ、よくわからないけどとにかく存在するんだよね」となるしかありません。
世界イメージを描くにも、「そのへんのところはまああまり深くは考えないでさ・・」
という状態で出発するしかありません。

すると、その世界観はいつも雲の上をふわふわ漂うようなものに、実際なります。


                    

そういう確信の薄い鳥瞰図には価値を強く抱く気持は出ない。
するとそういう世界観に位置づけて得られる自価意識も弱いものに留まらざるを得ないのです。
 (これは実は、現代日本の弱点であって、そこから様々な社会問題が生み出されてきています)

 ところが創造論を知っていると、当面でもそれを用いて考えを作ることができる。
存在根拠ある存在物をイメージし、イメージ世界を描くことができる。これは貴重なことです。


                    

 人が生きるには、パンだけでなく自価意識も必須です。
そしてできれば強い自価意識を持って、活き活きした人生をこの世では送りたい。

そのために聖書を読む生活は、まさに実践すべきものなんですね。

次回は最後、「学ぶべきものは天然」です。


                    


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<臨時版>聖書ある生活1

2010年09月13日 | ヨハネ伝解読
今回は、臨時版を挿入しましょう。
(右上に「文字サイズ変更」機能があります。クリックすると、文字が大きくなります)


                    

内村鑑三の言葉にこういうのがあります。

 「読むべきものは聖書。学ぶべきものは天然。なすべきことは労働」

 これは単に聖書を読みましょうというだけでなく、
人間が生きていく中で聖書を組み込んで生活実践していく姿を総合的にイメージさせてくれる
よい言葉に鹿嶋にはなっています。

私流の吟味を一つ一つしてみます。

                    

<なすべきことは労働>

 三番目の「労働」から始めます。
人はこの世では肉体を持って生きていきます。
で、これを維持せねばならない。
そのためには、糧(食物)を与えていかねばならない。

これを可能にするのが、労働です。
だから「なすべきことは労働」となります。

労働は、他者に誉められるため、等いろんな目的のためにもなされえます。
だが基本的な役割は食物を得るための行為だということを、内村の言葉は再確認させてくれます。




                    

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