「ヨハネ伝解読」300回になりました。
17章は全部イエスが創造主に語りかける言葉です。
本日は9節と10節にまいります。
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=聖句=
「わたしは彼らのためにお願いします。
それは世のためでなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。
なぜなら彼らはあなたのものだからです。
わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。
そして、わたしは彼らによって栄光を受けました」(17章9~10節)
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言葉は平易ですが、ピンとこないところが多いですね。
かつて日本に「言語明瞭、意味不明瞭」といわれた首相がいましたが、
彼の言葉のようですね。(竹下登です)
まずここで「彼ら」は弟子たちです。これは明らかでしょう。
イエスはその弟子たちのためにお願いすることがある、という。
そのお願いの詳細は次の11節に出てきます。ご期待下さい。
さてイエスはその願いは「世のためではない」という。どういうことでしょうね。
イエスはこれからいなくなります。
「世」は残されます。
だが、イエスはその「世」がよくなることを願うのではない。これが「世のためでなく」の意味です。
この解読で繰り返していますが、「世」は悪魔のもので、
その権威は一時的に悪魔に与えられています。
この「世」とは宇宙のことです。その宇宙は暗闇であり、
これは悪魔とそれに従って「天の諸もろの悪霊」になった天使たちを閉じ込めた牢獄というのが、聖書の論理です。
悪魔は、その牢名主であって、そこでの権威を一時的に与えられています。
世とはそういうところです。
だからこれはイエスがいなくなったからといって、
すぐに天国(苦しむ者が誰もいない)のようなところにはなりえません。
だから、イエスは「世を天国のように一変させてくれ」とは願わないのですね。
<聞かれる祈りとは>
もちろん、イエスは究極にはこの世を愛しています。
自分がいなくなった後の「世」のことは気がかりではあります。
だが、イエスはそういう世に残していく弟子たちは守ってくれと創造主に願うのです。
それを願う際に、イエスは改めて確認しています。
「弟子はあなたが下さったもので、いまや、わたしのものですが、そもそもわたしのものはあなたのものでもあります」という。
「そういうことを自分は認識しています」と改めて明示する。
いわなくてもわかりそうなことを敢えて示している。
創造主への祈りはこのように、自分が教えをきちんと認識していることを、
くどいほどに提示して、そのうえでおこなうものなのでしょうかね。
神様はすべてわかっているのだから、黙っててもやって下さる、というのは
福音の本質に沿っていないんでしょうか。
だから、祈りが聞かれる人は、聖句をよく吟味している人に限られるのでしょうかね。
祈りも長くなるんですかね。聞かれる人って、ホントに長く祈りますもんね。
ともあれイエスはこういって「だから彼らを守って下さい」と願います
<言葉が受け入れられるのは栄誉>
さて最後の「わたしは彼らによって栄光を受けました」にいきましょう。
ここは本日の聖句で、一番難しいところではないでしょうか。
ここでの栄光は「栄誉」です。
イエスは弟子たちによって、「栄誉を受けた」というのです。
とはいえ何が栄誉でしょうか。
それはイエスの(父なる創造主より受けた)言葉を、弟子に伝え、弟子たちがそれを受け入れたことです。
(6節でイエスが語っているように)
受け入れられるのがなぜ「栄誉を受ける」ことになるのか。
それは、イエスがこの世に来た究極の目的は、「天(創造主の王国)の言葉」を「世に留めること」
という論理に関連しています。
そもそも世は悪魔の影響下にありますから、人々は本能的に反発して受け入れません。
そうしたなかで、まず限られた弟子の心にそれを留め、それが広められる
というのがイエスの方法なのです。
この「ヨハネ伝」で16章までに示されてきたイエスの努力は、つまるところはそれにつきます。
だが、弟子はなかなか受け入れませんでした。彼らも受け入れられなかった。
受け入れないというのは、語っているものからすれば恥辱でしょう。
不名誉なことでしょう。
このように裏から考えると、「受け入れること」は「語るものに名誉を与えること」であることがわかっています。
ここで弟子は「受け入れることによってがイエスに栄光を与えた」のです。
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蛇足ながら、イエスはその弟子たちを通じてその言葉、福音が
世の人々に広まることを、弟子たちにゆだねます。
だから「この弟子たちを守って下さいよ。あなたのものでもあるじゃないですか」
と力を込めて祈っている。
念入りで切なる祈りにならざるをえませんね。