鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.269『理解できれば不信に陥らないよ』(16章3~4節)

2009年10月28日 | ヨハネ伝解読
お元気ですか?
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 本日の聖句は、前回の話の続きです。

BGMは相変わらずmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


                    
++++++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
「彼らがそうする(正義だと信じてイエスの弟子たちを殺しに来る)のは、父をも私をも知らないからだよ。
わたしが今これを言うのは、そのときが来たとき、諸君が私のこの言葉を思い起こせるようにするためだよ」
(3~4節)
++++++++++++++++++++++++++++++++
                    

これまでイエスは弟子たちに、天の王国の論理、父の論理を教えてきました。
すると弟子はそれに沿って行動することになる。
 すると人々は、正義感に燃えて、弟子たちを殺しに来るよ、と前回イエスは言いました。
(実際、回心する前のパウロも、正義のためとクリスチャンを殺しに来ることが、
「使徒行伝」に記録されています)

 今回、イエスはその理由を言っています。
この地上の人間は、創造主なる父をもその子である私をも知らない。
だから天の論理を知らない。その結果、必然的に敵意を持つのだ、と。


                    
<理解は鎮静薬>

 だけど、それが不可避ならば、言ってもしょうがないような気がしますよね。
だが、イエスはそうではないという。
そのことをあらかじめ聞いておくと弟子たちはこの話を思い出すことができる。
思い出せば起きている事態を理解できる。理解できれば、意識は混乱しないですむのです。

 「一体どうなっているんだ!」ということになったら何が起きるでしょうか。
弟子たちは動揺して、イエスの教えも、さらに進んでイエスも信頼できなくなって、不審の念を抱くでしょう。
人間とはそういうものです。

「だからあらかじめ言葉でもって言っておくんだよ」

ーーーイエスはこういっています。
凄いですね、このわかりよう。この知恵。

そして我々は、聖書を読むことによって、イエスのこの知恵も、ある程度、吸収し、身につけることが出来る。
聖書ってすばらしいですね。

                    



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Vol.268『人々は「正義のため」と信じて諸君を殺しに来るからね』(16章2~3節)

2009年10月14日 | ヨハネ伝解読
この時点の弟子たちには、とても理解できないようなイエスの仮説的な話は続きます。
 今回は、ドキッとするようなことを含んでいます。

BGMは相変わらずmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
( 今流れている賛美曲、春平太の好きな一つです)
http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「人々は諸君を会堂から追い出すよ。
実際、諸君を殺すものたちがみな、そうすることによって、
自分が創主のための働きをしている、と思う時が来る。
彼らがそうするのは、父をも私をも知らないからなんだよ」(2~3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 会堂とはユダヤ教の礼拝や説教をする教会のことで、シナゴーグと言います。
ユダヤ人は一定数が集まって居住すると、かならずシナゴーグを造りました。
もちろんイスラエルには至る所にありましたが、ローマ帝国においても、
ユダヤ人居留区があるところには、シナゴーグも又存在した。

ペテロやパウロが帝国内でイエスの教えを伝える時には、まずそこに行ってユダヤ人たちに語ることが出来ました。
イエスの教えは旧約聖書の新しい解釈ですから
~イエスがそれを教える時には権威に充ちていた~
シナゴーグでみんなが読んでいる聖書についてかたることが、
すなわちイエスの教えを伝えることになっていました。
会堂、シナゴーグはこのようにしてイエス信頼の教えが伝えられるのに、便宜を提供していました。

                    

<天と世との絶対的対立>

 イエスは、弟子たちがそこに行って伝道することを前提として話しています。
そして「弟子たちがそれを語ると会堂にいるユダヤ人たちは、諸君を追い出すよ」と預言しているのです。

 「それだけではない。ユダヤ人たちは諸君を殺そうとするし、あるものは殺されるだろう」
と驚くようなことを言います。

 イエスのこの言葉の背景には、次の認識があります。「天と世との絶対的対立」という構図がそれです。
天の創主王国の論理と、創主に対抗するデビル(悪魔)の支配下にあるこの世の論理とは、
絶対的な対立関係にある、という構図。

 イエスの教えは、この天の論理であり、シナゴーグのユダヤ人たちの聖書解釈は、この世の論理から出る解釈である。
だから、これは絶対的に対立することになるのです。

<「世」のイメージしかないと>

でも、もしユダヤ人たちが天の王国の論理は認知していれば、そうはならないでしょう。
けれども、アダムとイブが創主から意識をそらした時から、人間は天の論理を認知できないようにされてしまっている。
その結果、この世の論理だけがすべてだと思っているので、
それだけを当否の基準にしてものを考えざるを得なくなっている。


                    

 考えてみると、人間の認識能力はそういう構造になっています。
たとえばこの世で人間には女だけしかいなくて、子供は自分たちだけで自己生産できるとしますと、
彼女たちには女だという認識すらうまれません。
他の動物たちと区別して「我々は人間だ」という認識は出来上がりますが、それ以上はにならない。 
女という認識は、我々が今男と言っているような存在があって、初めて生まれるものなのです。

 人間社会には、同じようなことが繰り返し起きています。
昭和7年頃から20年までの軍国日本はそうでした。
軍部政権は、報道統制をして軍国主義に沿う情報しか国民に与えない。
米英は鬼畜で大東亜共栄圏のみが理想の幸福社会であり、日本はその頂点に立って
いずれ米英を含めた世界を全て統治するのが正義だという情報をだけを与えるという「情報たこつぼ状態」。
大敗した戦局も、わが帝国大勝利と報道した。
そういう世界では、もう他の論理は意識に昇らなくなりそれが真実となるのです。

 中世のヨーロッパでは、日本と同様な状況が形成されていました。
全欧州がカトリック教主義だけの情報しか与えられない「情報たこつぼ」状態が確立していた。
カトリックディズニーランド。
するとそれによってしか人々は正義が考えられなくなり、おびただしい数の聖句主義者を殺しました。

 筆者はこの度の欧州調査旅行でツールーズという地域も通りましたが、
そこはカタリ派と呼ばれた聖句主義活動の指導者が200人以上、順番に火あぶりで殺されていった地でもあります。
来る日も来る日も広場から人間生きたまま焼かれる臭いが流れてくるという状況を、
箒木蓬生(はばきぎほうせい)さんは『聖灰の暗号』(上)(下)、新潮社、で描いています。
このなかで作者は殺す側の人物に「正義のため」と語らせています。


                    

 話を戻します。この「世の論理」だけしか意識に出現しなかったら、それがすべてになります。
すると正義もこの世の論理だけからしか考え出されず、人々はその正義が正義のすべてだと思うしかない。

 これに対して弟子たちは、天の王国の論理をベースにしたイエスの教えを宣教します。
これはもうユダヤ人たちには、間違ったことだとしか思えない。

 「だから彼らは、自分たちは創主のために悪を滅ぼすのだ、
正義のためにそれをするんだ、と諸君を殺しにくるよ」とイエスは言うのです。

 そして、その理由は言葉で言えば簡単なことで、
「彼らは創造主なる父を知るための惟一の道である私を知らない、
だから父なる創主も認識でず、したがって天の論理も認知できてないからだよ」
とイエスはいっています。


                    


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Vol.267『聞いてた仮説が理解させるからね』(16章1~2節)

2009年10月11日 | ヨハネ伝解読
「ヨハネ伝解読」これから16章に入ります。
今回の聖句はこれです。
BGMは相変わらずmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
( 今流れている賛美曲、春平太の好きな一つです)
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(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
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=聖句=
 「私がこれらのことを語ったのは、諸君がつまずかないようにするためためだよ」(16章1節)
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「つまずく」というのは、聖所特有の用語で、「信頼を放棄してしまう」という意味です。
回心してイエスの言葉を信頼するようになった。それがまた、逆回心してしまう状態を言っています。

「これらのこと」とはイエスが14,15章で述べたことです。
それらのことには、この時点では奇想天外としか弟子たちにも思いようがない話が含まれています。
 世の人々が、弟子たちを「理屈抜きに」憎んでくる、という。
「ホントかいな?」 こういう事態は、その場に遭遇しないことにはわからないでしょう。

 さらに後になって起こることもそうです。
聖霊が下って弟子たちの口から自分でも聞いたことのないような言葉がほとばしり出る。
この様など、その場になってみないとわからない。前もってイメージせよというのは無理な話です。


                    


<理解不可 → 信頼崩壊>

 人間には、従来の体験と大きくかけ離れた事態を理解することは、少なくともとっさにはできません。
その結果混乱し、いわゆるパニックに自然に陥ります。
するともう、途方に暮れ、これまでのこともなにもかも信じられなくなる。
この時点までにイエスから教わったことへの信頼をも保てなくなります。

だがそれに一応の理解ができると、そういう事態は回避できるのです。
新事態が自分の思考枠に収められると、
それが自分のこれまでの経験、知識と関連づけられて、混乱しなくなる。
人間の心理はそういうふうに出来ています。


                    

<仮説として聞いておけ>

 イエスがここで言っているのは、弟子にとってはこれから起きることへの「仮説」です。
弟子たちはまだ体験していないから仮説以上のものにはなりえません。

 けれどもイエスは仮説にしかならないことをわかっていて述べているのです。
現に事態が生じたときに、理解が出来なくて、混乱し、イエスと創主への信頼すら失ってしまうことがないために。
仮説としてでいいから耳に留めておくのだよ。イエスはここでそう言っている。
これも考えてみると、人類史にまれな凄い場面ではないでしょうか。


                    



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Vol.266『諸君も証言するんだよ』(15章27節)

2009年10月06日 | ヨハネ伝解読
イエスが独り語り続ける場面はまだ続きますが、15章ではこれが最後です。
長かったですが、この世でのことははじめがありそして終わりがある。
人生かくのごとしでしょうか。

BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。

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今回の聖句は短いです。

                    
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=聖句=
「(聖霊だけでなく)諸君もあかしをするんだよ。始めから私と一緒にいたからね」
(15章27節)
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 「始めから」というのはイエスが宣教を始めた時から、という意味です。
イエスが「時がきた」として宣教を始めてから、十字架刑で殺されるまでの期間を
イエスの公生涯といいます。
12弟子はその最初から最後までイエスと共にいた人々なのです。

前節で、イエスは「聖霊を送る、その聖霊はわたしを証拠する」といいましたね。
ここでは、弟子たち「も」それをせよ、といっています。
その理由が「始めから私と一緒にいたからだ」という。
どうしてそんなことをいうのでしょうか?


                    
<あかしは証言>

ここでイエスが言う「あかし」は、一つには証言ということです。
彼らは、イエスの教えを宣教しますが、そのとき、
「イエスはこのような教えをされ、このような奇蹟を現されたのだよ」
「私たち、その活動の最初からイエスと一緒にいたからこの目で見ているのだよ」
と証言できる人でして、イエスはそれをせよといっています。

<もうひとつの証し>

だが実際には将来、「もうひとつの証言」を弟子たちは(結果的に)することになります。
しるし(奇蹟)を現すことがそれです。

なぜなら、イエスは弟子たちが宣教する際には、
「聖霊を送る、そしてその聖霊は自分を証拠する」と約束していましたよね。
弟子たちがイエスについて証言するのも、宣教の一環です。
ですから、弟子たちのあかしには癒しを始めとする奇蹟は伴う道理になる。
実際、後にそうなった様が、この「ヨハネ伝」の後に収録されている
『使徒行伝』という書物に記録されています。


                    

<「諸君もするんだよ」とだけいう>

もう一つの注意点。
実は、「諸君(弟子たち)も証言するんだよ」どころか、
聖霊が働くのは弟子たちが宣教することが条件です。
イエスは聖霊を「助け手」として送るというのですから。
聖霊が弟子たちの働きを超えて、自分単独でやってしまう、ということはないのです。
もちろん、天使が力づくで証拠してしまうこともありません。

ならば、「(前節で述べた)聖霊が奇跡を起こすのは、諸君が証言するのが条件だよ」
とはっきり言えばいいのに・・・。
でも、イエスはそれまでは言いません。
この時点では、まだ、そういう事態は起きていませんので、
弟子たちの心にはそこまでいってもリアリティ(実在感)が伴わないのです。

その状態でイエスは(前節で)「聖霊を送るよ、この方はあかしの御霊だよ」とはいっている。
この時点でそういわれると、弟子たちは、どうしても
「そうか、我々はもう手放しでいてやってもらえるんだ」と思いがちになるでしょう。

それでは困る。
だから「諸君も証言するんだよ」とまでは言っておこう、というのが今回の聖句です。
驚くべき配慮。この適確な状況把握には驚嘆させられます。


                    






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Vol.265『私を証拠する真理の聖霊を送るからね』(15章26節)

2009年10月04日 | ヨハネ伝解読
今回の聖句はこれです。
BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。

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(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私が父のもとから送る助け手、すなわち父から出る真理の御霊が来る時、
その方が私についてあかしをします」(15章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 前の節で、イエスは「自分は間もなくいなくなる」といいながら、弟子たちには宣教しろと命令をし、
「世は私を理由なしに憎むが故に、諸君をも理由なしに憎むだろう」という旨のことをいっています。
ならば、弟子たちは宣教は「ほとんど不可能なほどに困難」と思うしかないでしょう。

 こういう弟子たちに対してイエスは、「だけど私は聖霊を送るからね」といっているのが今回の聖句です。
聖霊は創られる霊、すなわち被造霊ではなく、父なる創主「から出る」霊、すなわち創造霊です。
後に「父、子、聖霊」という言葉が出ますが、この三つは創造霊です。
この霊をイエスは父に頼んで弟子たちのところに送ってもらう、というのです。


                    

 そしてイエスはこの聖霊を、 助け手であり真理の霊であり、自分について「あかしをする」といいます。
この意味は、次のようになるでしょう。

<あかしの御霊>

 「あかし」というのは漢字では「証し」と書き、証明するという意味です。
この方がイエスを「証明する」というのです。

で、何を証明するかというと、
弟子たちが伝える「イエスの教え(言葉)は真理である」ことを証明する。

イエスが教えていったのは、天の論理です。他方、これを宣教される人々は「世の論理」で生きています。
だから彼らは自然なままでは、弟子たちが伝える教えは、偽りだと感じます。
  「アホな話をする奴らだなあ。こいつ等は・・・」
 ところが聖霊は、彼らに「これは真理だ」と思うようにします。

 その手段は、ひとつには「しるし(その代表は病の癒し)」を現すことです。
つまり、聖霊は奇蹟をあらわすわけです。
すると、人々は、「こんな不思議が伴うのだからこの教えは真理ではなかろうか」と思うようになります。

 もう一つは、天の論理の意識波動を送ることです。
そのとき、人々はその波動に影響されて「イエスの言葉は真理だ」という
意識を持つようになるのです。


                    

<真理の御霊>

 真理の御霊、とは、天の論理をもった霊ということになります。
聖書では「天の論理が真理であり、世の論理は偽り」という思想ですから、
聖霊は真理の御霊となります。

<助け手>

 聖霊は、弟子たちの伝えるイエスの教えを「これは真理だ」と思わせることを通じて、
弟子たちの宣教を「助ける」存在となるわけです。


                    


 聖霊は、創造霊でありますので、全能者で基本的にはなんでも出来る存在です。
だが、近い将来弟子たちに送る聖霊はおもに弟子たちの宣教を助ける、
助け手としての働きをするよ、とイエスはいっています。


                    




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