「人はパンのみによって生きるにあらず、創造主からでた言葉によって生きる」
という聖句があります。(マタイ伝、4章4節)
イエスが語った言葉ですが、聖書ではイエスの言葉はすなわち父なる創主の言葉です。
(イエスは「私の語る言葉は父から聞いた言葉をそのまま語るもの」との旨をいっています。~マタイ伝、4章4節~)
それを記録したのが聖書という思想ですから、聖書には創造主から出た言葉が沢山収められていることになり、
それによればいいわけです。とはいえ、この「それによる」とはどういうことでしょうか。それは
「創主から出た言葉によって『生きる』」
とはどうつながっているでしょうか。
この聖句は「人は肉体と霊(霊体といってもいい)からなっている」という聖書の論理を背景にしています。
そして 肉体の糧は、物的な食物と水ですが、同じように霊にも糧がいるんだ、という。
その糧は、聖書では「いのち」と表現されているものです。
鹿嶋はそれをエネルギーのような概念と解していますので、
わかりやすさのために「いのちエネルギー」と言い換えています。
霊は、このいのちエネルギーを吸収しないと死霊になっていくとイエスは警告しているのです。
(霊を充電式乾電池のようイメージしたらいいでしょう)
聖書の思想では、このいのちエネルギーは創主から放射されています。
創造主はいのちエネルギーの源なのです。
またエネルギーは波動を持っていますから、このいのちエネルギーも特有の波動を持っている。
そしてその波動の形は「思い」「意識」によって決定されている。
そして人間の霊がそのエネルギーを吸収するには、創造主の思いに近似的な~出来れば同じ~思いを持つ必要があることになる。
聖書では霊は意識の本体ですから、それは思いを持ち、その思いが相応の波動を発していることになっています。
人間がこれを吸収するには、その思いを創主の思いと近似的にして意識波動を創主のそれと近似的にせねばならない。
そうすれば、いのちエネルギーは自分の霊に吸収され、霊は生きた活霊になっていくという道理なのです。
そのためには、創主から出た言葉を自分の意識に入れねばなりません。
言葉は意識、思いが凝固したものですから、創主のそれを心に抱き、それを心の温気で溶かしていれば、
創主と波動が近似的になって、いのちエネルギーは自分の霊に充電されていきます。
上記のイエスの言葉は、それを言っています。
欧州修道院調査旅行もあって、ヨハネ伝に記録されたイエス(創主)の言葉を
鹿嶋流に解読して溶かして示す活動が、中断しておりました。
霊の糧を供給する手助けが途絶えておりました。
これまでのところに続く聖句は~
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、
その御霊がわたしについてあかしします」(15章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
です。次回からまた、これを共に吟味して参りましょう。
という聖句があります。(マタイ伝、4章4節)
イエスが語った言葉ですが、聖書ではイエスの言葉はすなわち父なる創主の言葉です。
(イエスは「私の語る言葉は父から聞いた言葉をそのまま語るもの」との旨をいっています。~マタイ伝、4章4節~)
それを記録したのが聖書という思想ですから、聖書には創造主から出た言葉が沢山収められていることになり、
それによればいいわけです。とはいえ、この「それによる」とはどういうことでしょうか。それは
「創主から出た言葉によって『生きる』」
とはどうつながっているでしょうか。
この聖句は「人は肉体と霊(霊体といってもいい)からなっている」という聖書の論理を背景にしています。
そして 肉体の糧は、物的な食物と水ですが、同じように霊にも糧がいるんだ、という。
その糧は、聖書では「いのち」と表現されているものです。
鹿嶋はそれをエネルギーのような概念と解していますので、
わかりやすさのために「いのちエネルギー」と言い換えています。
霊は、このいのちエネルギーを吸収しないと死霊になっていくとイエスは警告しているのです。
(霊を充電式乾電池のようイメージしたらいいでしょう)
聖書の思想では、このいのちエネルギーは創主から放射されています。
創造主はいのちエネルギーの源なのです。
またエネルギーは波動を持っていますから、このいのちエネルギーも特有の波動を持っている。
そしてその波動の形は「思い」「意識」によって決定されている。
そして人間の霊がそのエネルギーを吸収するには、創造主の思いに近似的な~出来れば同じ~思いを持つ必要があることになる。
聖書では霊は意識の本体ですから、それは思いを持ち、その思いが相応の波動を発していることになっています。
人間がこれを吸収するには、その思いを創主の思いと近似的にして意識波動を創主のそれと近似的にせねばならない。
そうすれば、いのちエネルギーは自分の霊に吸収され、霊は生きた活霊になっていくという道理なのです。
そのためには、創主から出た言葉を自分の意識に入れねばなりません。
言葉は意識、思いが凝固したものですから、創主のそれを心に抱き、それを心の温気で溶かしていれば、
創主と波動が近似的になって、いのちエネルギーは自分の霊に充電されていきます。
上記のイエスの言葉は、それを言っています。
欧州修道院調査旅行もあって、ヨハネ伝に記録されたイエス(創主)の言葉を
鹿嶋流に解読して溶かして示す活動が、中断しておりました。
霊の糧を供給する手助けが途絶えておりました。
これまでのところに続く聖句は~
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「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、
その御霊がわたしについてあかしします」(15章26節)
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です。次回からまた、これを共に吟味して参りましょう。