鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

19.「信仰」は「霊識」に

2019年08月14日 | 西洋を知る基督教再入門

 

前回、聖書の記述を物理学的にイメージさせてくれる新しい存在論~量子力学~を導入しました。

今回は、もう一つ、前もって吟味しておくべき重要事項を考えますね。

それは「信じる」という言葉です。
これは英語のビリーブ(believe)の邦訳語として、長いこと使われてきています。

前述しましたように、日本は「神イメージがほとんど宿物神のみ」できている国です。

で、宿物神イメージの中身はどうかというと、これは物質に触発された「神秘的な感情・感慨」のみです。
そこには神を説明する理屈、言葉がありません。
たしか、前の第6、7回あたりでそれを示しましたよね。

そしてこういう無論理な中身の神イメージに対しては、人間は、それを「全体として受け容れるか、受け容れないか」という姿勢しかとれません。
そこで、我が国のように「ほぼ宿物神イメージワールド」では、「信じる」という語は、「何も考えないで心に受け容れる」という意味にしかならないのです。


<イエスの「あとでわかる」>

だけど、これは聖書の邦訳語としては、致命的な欠陥を持っていますよ。

だって、聖書での神イメージの主役は「(万物の)創造神」でしょ。
この神概念は広大にして深遠な論理内容をもっていますよ。

これは聖書で「徐々に示されていく」神イメージであって、読者も聖句を手がかりに「思考・探究を続け、認識を深めていくべき」性格のものです。
それはイエスの言葉「(いまはわからなくても)あとでわかる」が代表的に示しています。

 

望「つまりbeliebeは日本語での「信じる」とは対極的な概念ということになるのでしょうか?」


~ですよね。だからこれを「信じる」と言っているのでは、もう最初から、聖書の世界観の探究を放棄しているようなもので、全然話しにならない。
これはもっと前に、対処しておかねばならない事柄だったのです。


 
<「ビリーフ」は「霊識する」>


望「そんなこといっても、この日本語は長いこと使われてきていて、もう、常識ですよ。最近出席した礼拝でも、牧師さん“信じる”とか“信じなさい!”とか叫んでましたし・・・。いったい、どうしたらいいのですか?」


~これはもう結論からお話したほうがいいでしょう。

鹿嶋は色々試行してきました。そして、現時点では「霊識する」がいいと結論しています。
「霊識」は文字通り「霊的に認識する」という意味を持っています。

イエスの「創造神は霊ですから・・・」とのみことば(聖句)が示しているとおり、その認識は「霊的」でなければなりません。

また、「識」は「認識する」の識で、これは「探究を続行している」というニュアンスも含んでいます。


望「存在を受け容れたら“もう考えてはいけない、あれこれ考えたらばちが当たる”というものではないのですね」


それは宿物神に対する姿勢です(笑)。


 
<ゴーイング・コンサーンで>

ただしここでちょっと難しいけれど、留意しておくべきことがあります。

この「霊識する」という認識活動は、通常言うところの~「客観的(科学的)認識」活動ではありません。

科学は基本的に「対象(創造神)と心理的に距離を置いて」なす活動ですが、「霊識する」は対象(創造神)の存在を基本的に心に受容した上で深めていく認識活動です。

敢えて言えば、「愛をもって」する探究活動です。


望「愛をもって・・・ですか?」


~そう。愛をもって受容しながら、同時に探究は続けているといいう認識状態です。

英語ではこの状態をゴーイング・コンサーンといっています。
日本では「活動態(かつどうたい)」と訳しています。

 
 
<「信仰」は「霊識」>

望「う~ん、飛躍した直感で申し訳ないのですが・・・、そうすると“信仰”なんてのも問題になりませんか? 先だっての礼拝でも、“信仰が足りない!”って牧師先生が信徒さんを叱っておられましたけど・・・」


~いや、飛躍じゃないよ。「信仰」は「信じる」と背中合わせの用語だ。

この語の英語は、ビリーフ(belief)とフェイス(faith)なのですが、この邦訳語も、「信仰」では全然ダメです。

だって「仰ぐ」というのは上方の高貴なる方を「考えないで拝する」というものでしょ。
「信じる」だけでも無思考状態なのに、さらに「仰いでいる」のでは、重ね重ね「識」がない。

信仰もまた宿物神の神イメージだけに適用されるものなのです。
やはりこれも「霊識」とするのがいいでしょう。

このシリーズでは、「信仰」を「霊識」に一貫して置き換えていきますよ。

慣れるまでは違和感があると思いますが、実践しなければなりません。
聖書の思想を対極から否定するような用語を使っていたんでは、「出発点から闇の中」ですからね。


望「基督教再入門だ、まさに・・・」


~茶化すんじゃないよ。


 
 
 
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18.量子力学が「創造」の物理的イメージを可能に

2019年08月03日 | 西洋を知る基督教再入門
 
 

脇道に入ってたので、これまでの流れを回顧してみましょう。
 
基督教再入門のために、鹿嶋はまず~
 
①「創造神」の概念を今まで以上に入念に吟味したよね。次に~
 
②聖書の話は、まずは「世界観の一つ」として認識するのがい、といった。そうしたら~
 
③世界観というものが、人間の意識にもたらす効果も考えないでおられなくなった。
特にそれが民族間戦争を誘引する構造を無視できなくなって、ついつい立ち入ってしまったのだったね。
 
~だけど、もう本筋に戻らないとね。
 
「聖書の世界観」の具体的な解読を進めましょう。
 
 
 
聖書の提供する世界観は、創造神とそれによって創られる被造界で構成される世界イメージです。

聖書の最初の書物『創世記』をみると、創造神が「光あれ~」といって光を出現させ、天地と海を創り、そのなかに植物動物を創り、最後に人間をつくっています。
 
男と女に造り、「生めよ増えよ地に満ちよ、全ての生きものを支配するように」といっている。
 
~ここで世界創造の記述は一段落です。



<言葉を発して創造>

 
ここで創造神は、被造物の創造を「言葉を発する」ことによってなしています。
 
光(光子という素粒子)も「光あれ!」という言葉を発することによって、創造され、現れます。
 
従来「それは、カミサマのなされる神秘的な現象」と人間(読者)は受け取ってきました。
 
 
だが、それを物理学的にイメージするのを可能にする最新の理論が、物理学の世界に出現したのです。
 
量子論(量子力学ともいう)がそれです。
 
 
 
<古典物理学の存在論>
 
この思想は独特の存在論を含めています。
 
それ以前の物理学では、物質は究極的には「粒子」(つぶつぶのもの)によってなっている~と考えていました。
 
具体的には~

物質を構成する「つぶつぶ」のものとしては、まず原子が発見されていました。

次に、その原子は陽子や中性子や電子でなっていることがわかりました。

そこでこれらが究極の構成要素と考えられ、素粒子と呼ばれました。

素「粒子」だからつぶつぶの物質のイメージなんですね。

ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそう考えてきました。

 
 
<二重スリット実験>

ところが、後に量子物理学者と呼ばれるようになる人々は、素粒子の一つである電子(でんし)についてある実験~「二重スリット実験」と呼ばれる~をしました。

そしてそれは粒子でもあり、波動でもあることを発見したのです。
 
このあたりの情報は下記の動画(主に前半)を参照して下さい。

 
わかりにくい場合は、これも見て下さい。二重スリット実験を、ビジュアルに(動画で)示してくれています。

 
 

 
<根源は波動>

さて、この「粒子でもあり、波動でもある」というのは解りづらいですね。
両者の関係はどうなんだ?とね。
それは次のように理解したらいいでしょう。

すなわち~、

根源は波動(振動:バイブレーション)の方であって、その波動の海の中に、振動が凝集する領域もある~と。
それが(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識されてきただろう~とね。

+++

上記の動画で「波束(波束:波動の束)」といっているのはこういう情景をイメージしての用語だと思うよ。

ともあれ、その振動(波動)の海に量子(クオンタム:quantum)との名が付けられた。
これが量子という物質の原風景です。
 
 
 
 
<言葉の波動が物質に影響・・>
 
量子力学の思想は「見えない世界のことがら」についての物理学的に理解可能な領域を大幅に広げてくれますよ。
 
たとえば、新約聖書には「イエスの言葉が病人の身体を変化させた」という旨の記述が繰り返し現れています。

イエスが「歩け」と言葉を発すると脚萎えが歩き出します。
「目よ開け」というと、盲目者が見えるようになりますからね。

これなど従来牧師さんや神学者たちは「神様であるイエス様の不思議な力によりま~す。信仰で受け止めなさ~い」などと教えてきました。
こういう風に科学的理由なしで「信じなさぁ~い!」とやってきたわけです。

+++

ところが脚や眼球を構成する物質の根源が波動だとなれば、この「奇跡」が物理学的に理解できてしまいますよ。

言葉も波動であることは、前々からわかっていました。言葉は「人の意識を信号にして伝える波動」なのだ、とね。

そこで、創造神の子イエスの発した言葉の波動は、被造物をそれに従わせる力を持った「創造神の強烈な波動」とイメージしましょう。

するとこれが、脚や眼球の根源的な構成物である波動に影響した、と理解できるでしょう。

かくして~

その強烈な波動の影響を受けて、脚の筋肉や眼球を構成していた波動が変化し、肉体組織が再創造された

~というような物理学的理解が可能になるのです。
 

 
<エネルギーの実体も波動>

ついでに、物理学のもう一つの鍵概念、エネルギー(力)も量子論的に理解しておきましょう。
 
従来、エネルギー(力)は存在するとは認識されていたけれど、その中身は必ずしも明確ではありませんでした。
 
ニュートンは、宇宙には重力、磁力という二つの力があることを見出しましたが、力の中身については何も言い遺しませんでした。

アインシュタインは、重力は空間のゆがみから生じるとはいいましたが、その力の中身がどういう実体かは、やはり言わなかった。
 
彼はその実体が不明な状況のままで、「エネルギーと物質は相互転換しあう関係にある」とみました。
 
そして両者の間の量的関係を明かしました。

E=MC2 (2はCの自乗をしめすため、本来Cの右上に小さく書かれるべきもの)がそれです。
 
核爆弾の製造・実験の成功によってその妥当性は証明されました。
けれども、エネルギーの実体は依然として不明なままでした。

+++

ところが量子論の思想を援用して、「エネルギーの実体は波動」だと考えたらどうなるでしょうか。

すると~

世界が本質的に量子でできているのなら、その世界では波動(エネルギー)は凝集して物質となり、物質はまた分解してエネルギー(波動)ともなる。つまり両者は相互に転換し合う状態にある

~とイメージできてきます。

アインシュタインの見出した関係も、あえてエネルギー「法則」などというまでもない、ごく当たり前の事象として量子論では理解できるのですね。
 
 
個人的な考えですが、私は~

量子論の考えは、それ自体で実在にほぼそのまま妥当する究極の命題でなっているのではないか~と、感謝も込めて、思っているよ。

つまり、存在の根源を粒子とする理論仮説には、比喩的なニュアンスがつきまといます。だけど量子論には比喩的側面がほとんどない、そのままの真理群だと、ね。

入れ込みすぎかな?

望「そんなことないと思います。すごくわかりやすいです」

~そうか、では以後、この存在論思想をベースにして考究を進めることにしましょう。






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17.民族国家という世界観と先進国間戦争の仕組み

2019年07月21日 | 西洋を知る基督教再入門


~今回は、世界観と民族主義、および、民族間戦争の関係について考えましょう。



<関ヶ原以来の人口推移>

~突然ですが、望君に一つ質問します。

日本では関ケ原の戦の後、江戸時代がスタートしますが、その頃の推定人口は大体2500万くらいだそうです。
当時は、いまの国勢調査のように、直接頭数を数えてえられるような人口データはありません。

そこで人口学者たちは、当時の米やあわやひえなどの穀物生産量のデータから人口を推定するそうです。
で、その推定数は諸説ありますが、まあ2500万くらいといったところなようです。

では、江戸時代の終わり、明治維新時にはどうかというと、3000万くらいでした。つまり、250年間に500万人くらい増加しているんですね。

+++

では明治維新から100年後の1968年(昭和43年)にはどうか?
1億人以上になっています。100年間に7000万の増加です。

望「維新以来急増しているのでしょうか?」

~ですね。関ヶ原以来の人口を時系列グラフに書けば、明治維新の時点以降、人口カーブは急上昇を描いています。

どうしてこんな変化が起きたのでしょうか?




<食糧が人口の上限を決定する>

望「江戸時代にはあまり子どもが生まれなかったのかな・・・」

~いや、子供はどんど生まれました。一組の夫婦が10人以上生んでます。江戸時代の状態は明治維新後も続き、第二次大戦での敗戦のしばらく後に止んでいます。
以来、一組の夫婦が子どもを二人とかせいぜい三人生むようになるのですが、維新から敗戦までの期間が急増時代なんですね、

望「江戸時代には沢山産まれていたなら、人口があまり増えてないのはどうしてでしょうか?」

~経済が貧しかったからです。生産力が弱かった。

食糧生産量が、人口の上限を決定していたのです。


望「つまり、食べられなくて死ぬ人間も多かったと言うことですか?」

~江戸時代までは、庶民は極貧の生活をしていました。
栄養は悪く、医療の知識も技術も低く、平均寿命は20歳代でした。

長く生きたといわれる人も50歳くらいで死にました。
生まれてまもなく死ぬ子もたくさんいました。

だから沢山生まれても、人口はあまり増えなかったのです。



<産業革命~Industrial Revolution~>

望「明治維新で何かが起きたということでしょうか?」

~その通り、西欧で起きた産業革命が導入されはじめたのです。

産業革命とは、一口で言えば、生産の機械化ですね。
これで農業生産の道具や機械も急増産される。肥料生産も効率よくなるのです。

すると食糧生産も急上昇を開始します。

江戸時代に人口数の上限を決めていたのは食物量でしたね。これが上向きになれば、人口も急増を開始するわけです。

+++

これは欧米でも同じです。

産業革命が起きるまでは、庶民は、いつも食糧不足のなかで、死と非常に近い背中合わせの状態で生きていた。

そのなかで身体の比較的丈夫な者だけが、30,40まで生きる、という状態でした。

望「税金も高かったんと違いますか?」

~そうだね。人口の一割くらいを占める支配階級の武士たちが、五公五民とか、六公四民とかの比率で農民の生産物を吸い上げていました。



<飢餓が常態の人間を追体験する>

望「庶民は哀れなものだったんだ・・・」

~そう、彼らの日常は、いつも腹へらしていて、力のない状態です。

こうなると人間の精神状態はどうなるか、を想像するのは、今の我々には容易ではありません。

だけど、ここは産業革命後の庶民理解の鍵です。瞑想の時間をとってでも追体験しなければなりません。

飢えが常態になると、人間は頭がボーとしてるのが、常態となるのです。ただ、弱々しい食欲があるだけの心理状態です。

+++

こういう状態にいると、世界観といっても、自分の家族からせいぜい親族までの世界のことがらだけのものとなります。

まあ、それも立派な世界観ですけどね。

だけど、自分と家族の等身大を超えた空間視野での世界イメージなど描けません。

人生観といえば、その家族に生まれて順番に死んでいく、というだけのものでした。

 

<精神生活は支配層だけのものだった>

そうしたなかで、日本では武士、西欧では騎士階級以上の少数者だけが、等身大以上の広がりを持った世界観を持って暮らしていました。

その広がりは、西欧では領主の君臨する領国空間、日本では藩ですけどね。
それらの空間が彼らの世界観に入っていました。

そして、その中で、彼らの人生観も出来ていました。
欧州では騎士道、日本では武士道がそれですね。

これが産業革命以前の、人間の世界観のありようでした。



<産業革命は文字通りの「革命」だった>

さてそこに産業革命が起きると、庶民はどうなるか?
彼らにも、満腹できる日々のある人生が始まります。

彼らにも家族親族を超えた世界観を持つ余裕が生まれ、精神文化をもつ余裕も生まれます。


望「そうか。だから明治維新後日本に様々な庶民文化の花が開いたのですね」

~お察しの通りです。
だが、産業革命以後の経済は市場の機能を生かした資本制経済です。このシステムでは景気循環の波が大きいです。
庶民は、不況時に再び十分食べられない状態に陥ります。

産業革命前にはこの状態は庶民に「非常に苦痛」というものではありませんでした。
生涯、毎日がそうだったですからね。そういうもんだと思って生きていたから・・・。

だが人間は、いったん満腹を知ると、激しく空腹からの脱出を欲望するようになります。
人間とはそういうものです。

そこで国民の中で、「弱小の隣国の富を奪ってでも、空腹から逃れたい」という機運が湧き上がります。

これは良し悪しの感情を超えて強烈に頭をもたげてくるのです。

 

望「その気持ちは、わたしにも追体験できる感じがします」

~それはいいなぁ。

国家の戦争力は、武器技術が一定ならば、戦う人間の数が多いほど大きくなります。
そこで人民は、集団の規模を同一言語を話す人間、すなわち民族の数いっぱいにまで広げようと願望します。

この人民心理は、同一民族の国家という世界観を抱く動因を庶民の心に強く作ります。

そこに民族主義の世界観を指導者が投げ入れてあげるとどうなるか。

庶民はその中に、自分を位置づけることができてしまいます。

こうして、生まれて初めて、自価意識も積極的に持てるようになります。

それまでは、そんな価値はお侍さんたちや「偉い人たち」が持つものでした。
取るに足りない自分たちなどにとても持てるものでなかった。

ところがそこに自分の民族へ誇りを宣伝されたらどうなるか。

自分の意義、価値の意識を生まれて初めて積極的に抱けるようになるのです。

 

<ジェイムズの洞察通りになる>
 
これによって突然生じる快感は、前回に紹介したウイリアム・ジェイムズが示した通りです。

庶民は狂喜、興奮の中で、精神的に民族「国家」の一員となり、「国民」となります。
(この状況は、ナチスドイツと人民たちの恍惚常態の映像が、今も示唆しています)

望「う~ん、そういうことだったのか・・・」

~そういうことです。

その結果、庶民の成人男子徴兵制への抵抗感が薄くなります。

従来は戦争は、支配階級(武士)だけがするものでした。
そこに庶民も加わる条件が完成します。

こうして「国民国家」が誕生します。

+++

国民国家を実現した国は、戦も強いですよ。
そこで産業革命を成し遂げた先進国は、競って国民国家の創成に走ることになります。


望「日本の版籍奉還、廃藩置県もそれだったのか・・・」

~ですね。西欧列強との対抗上、やらねばならなかったのですね。

がとにかく、欧州でも先進国はこぞって国民国家を実現します。

彼らはみな、未開発国、弱小国に戦争を仕掛け、富を収奪しようとします。

人間集団が、そういう性質を濃厚に帯びていくのです。

+++

さすれば、これらの国はまた必然的に、植民地の確保争いに至ります。

これが、先進国間の戦争に繋がっていきます。

さらに、これが世界規模で二グループに分かれて戦う状態に展開したのが、第一次、第二次世界大戦だったのです。


望「すると、また、第三次世界大戦も起きる可能性あり、となりますか? 怖いなあ~」

~二つの大戦の後、その心配は大幅に減っているのですが、その仕組みの話は、またにしましょう。

~とにかく現世の話は、まずはこれまでにして、次からは本来の聖書の世界観、『創世記』の解読にもどりましょう。








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16.世界観の共有と共同体の拡大

2019年07月07日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

前回、世界観は自分をそのなかに位置づけて理解させ、心を安定させてくれる、といいました。
すると、自分に一体感、統一感も増す、といいました。

今回は、世界観のもう一つの働き、機能を考えましょう。



<事象の解釈ももたらしてくれる>

それは、自分だけでなく、自分が認知する様々な事象も、その中に位置づけて、その意味を解釈させ、理解させる働きです。

たとえば、貧しい若者がたくさんいるという事実を知ったとします。
世界観はそのことにも「理解」をもたらしてくれます。

+++

マルクス思想の世界観は、それを資本家の搾取の故、と理解させてくれます。
資本家が悪であり、「それを世の中からとりのぞかねばならない」、という実践意識にもそれは展開します。

他方、「世界には神様がいて、その方は人間をこよなく愛してくださっている」という世界観は別の理解をもたらします。

神様はいま、その若者たちを、幸せになるように訓練されている、というようにね。
そういう「理解」ももたらすのです。

望「世界観は事物の理解も与えてくれる、ということか・・・」

~そして、その理解の仕方もまた、世界観によって異なるということですね。




<共有すると共同体をつくる>

もうひとつあります。
一つの世界観を複数の人が共有すると、共有者の間でのコミュニケション効率が飛躍するのです。

なぜなら、共有する人々の間では、ものごとの理解や評価の仕方が同じになるからです。

すると、自分を通して、相手を理解できてしまえるのですね。

望「自分と似ているから、即座にわかり合いができるようになるのでしょうか」

~それだけでなく、物事への感動の仕方も愛憎の念も似たものになりもするでしょう。

人間、そういう相手には、特別な安心感を持ち、愛情を持ちます。
すると相互に深い一体感が生まれます。

望「それは気持ちいいでしょうね」

~そう。だから、この人たちは出来るだけ多くの時間、互いに一緒にいたいと思うようになる。
そしてそれが常態化して、自然にコミュニティが出来上がっていきます。

世界観は、それを共有する人たちは、相互に特別扱いしあう共同体を作っていくのです。

 

<共同体拡大の壁>

望「そういう共同体世界って広がっていくものでしょうか?」

~外部の人がその世界観を取り入れば、理解し合える人々になる。だから原理的には広がっていきますが、壁もあります。

望「壁って?」

~現実にコミュニケーション効率が共同体を産むくらいに大きくなるには、大前提があります。

共有言語があることがそれです。
使う言語が違うと、コミュニケーションは劇的に劣化し、それが壁になります。



<始皇帝と信長>

中国の秦の始皇帝はそれを見抜いていた天才的洞察者でした。

古代の中国史には春秋戦国時代という時代がありますよね。
その時代、中国では小部落国家にまでしか広域化できなかった。

広域的にコミュニケーションできる言語がなかったからです。
そこで、部族国家間に利害対立が生じると、戦争で結論出すしかなかった。
それで頻繁に戦争が起きていました。

広域的にコミュニケーションできる言語がなかったからです。


望「同じ漢民族なのに、共通言語がなかったので、広域的に相互理解ができなかったのですね」

~そう、それで戦争が多かった。
そのことを早期に洞察し、一大漢民族国家を実現させようとしたのが、秦の始皇帝です。

当時、漢民族でも南部と北部では言葉が大きく異なっていて、互いに通じ合わなかった。

始皇帝は、それを強権でもって統一させました。
それだけではない。度量衡も一つに統一しました。これで広域的な商取引も可能になった。

始皇帝は長生きしなかったけれど、この基盤作りのおかげで、後に漢民族は大国家になることができました。
漢、唐、宋などがそれです。

望「ということは、いまの中国も始皇帝のおかげで大国家になり得たことになるか・・・」

~現代中国でも、漢民族は全体の九割以上を占めてます。
これが一つになれているのも、始皇帝によるところが大きいでしょう。

日本の織田信長は始皇帝を尊敬していました。
それで日本を統一国家にしようとしました。

望「そうか、それで信長の行動がわかってきました。日本を一大統一国家にしようとしたんですね」

~そのために強烈な政策をとるところも似ていますよね。

始皇帝は、儒学者をみなごろしし、儒学の本を焼いてしまった。
大国家実現にその思想がマイナスになったからでしょう。

望「信長も比叡山の僧侶を皆殺したなあ・・・強烈だなぁ~」

~信長の試みは、暗殺されて中座してしまったけどね。

 

いやあ、話がどんどん広がってしまった。

次回には、民族主義国家と戦争の問題に話を収束させましょう。





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15.世界観の効用

2019年07月01日 | 西洋を知る基督教再入門

 


~前回の続きです。

世界観(全体観・環境観といってもいい)というのは人が生きていく上で大きな役割を果たしてくれます。



<世界イメージはその中に自分を位置させてくれる>

人間というのはね、「自分は何ものだろう」「何のために生きてるだろう」「死んだらどうなるだろう」という気持ちを、結構幼いうちから抱いているものです。

もちろん、幼い頃は漠然とした問題意識で、言葉にはならない。
けれども、やはり抱いている。これは意識の根底にくすぶり続ける続ける思いで「人生の基本問題」と言ってもいいでしょう。

そしてその答えを得るのに、自分が属する世界のイメージ~世界観だな~これが役立ってくるんだ。

その世界イメージの中に、自分を位置づけると、「自分は何ものか」の思いを心に形成することが出来るのです。

+++

たとえば、「この世界、怖いカミサマが空から見ていて、悪いことすると死後、地獄に落ちて鬼に苦しめられる」という世界観を持ったらどうなるか。

そのイメージ中に自分を位置づけることが出来るでしょう。

「私はそういうカミサマが上からみている世界の中で、生きているんだなぁ」と自分を位置づけられるのです。



<自価意識>

余談ですが、そのとき「自分は正直に生きてきている」との自覚があれば「カミサマが自分の価値を認めていてくださる」という思いも持てます。

「自分の存在は価値(意義)ある」という思いだね。これをわたしは「自価意識(じかいしき)」といっているが、これが増すのも気持ちいいことです。

とにかく世界観の中で自分の「位置づけ」ができると、人間の気持ちは突然安定化します。
環境観ほとんどなしで宙ぶらりんだった時に比べると、劇的な心理変化です。

さらにその位置づけで自価意識が増すときには、気分がさらに「快」になり、やる気や生きようという気持ちが湧いてきます。

 
    

<ジェイムズのプラグマティズム哲学>

こういう心理は、人間が昔から日々の生活の中でもってきたものです。人はそれに気付いてはきました。

だがその知識は日常的な知恵、断片的な知識の状態に留まっていました。

それが一つの心理哲学の要素として本格的に扱われたのは、人類史の中では、ず~と最近の、20世紀の初めです。

米国のウイリアム・ジェイムズという心理哲学者がその境地を開きました。

彼はプラグマティズム哲学の集大成者と言われています。

彼の言のひとつを引用しましょう~


・・・・・・・・・・・・・・
「若い人が、全世界は一つの偉大ななる事実を形づくりそのすべての部分はいわば相並び組み合わさって動いているのだという考えにはじめて思いつくと、
彼はまるで何か偉大な洞察力でも恵まれたような気になって、
まだこの崇高な概念に達していないでいるすべての人々を傲然と見下すのである」
      (ウイリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』桝田(ますだ)啓三郞訳、岩波文庫、p99)
・・・・・・・・・・・・・・





<世界イメージに自分を位置づける快感>
 

彼がここで「全世界は・・・相並び組み合わさって動いているのだという考え」といっているのは、すなわち世界観です。
彼はそれを宇宙観とかパースペクティブ(全体観)と言っていますが、世界観です。

このフレーズ自体は、彼が事実を体系的に繋げた「体系的・法則的知識」と個々バラバラなままな「事例的・百科事典的知識」を比較して、知識(の価値)を論じている文章の一部です。

だがそのうち、前者の体系的知識は、ここで筆者の言っている世界観でもあります

ジェイムズは、「人はその世界観を思いついたとき、まるで何か偉大な洞察力でも恵まれたような気」になるといっているのです。
つまり、あたらたな世界観を得たときには、人は鮮烈な気分をうるのですね。

どうしてか?
自分をその中に「新たなかたちで」位置付けることが出来るからです。

位置づけるはすなわち「理解出来る」と言ってもいい。
従来にないかたちで自分が理解出来ると、ひとはさらに心の安定を追加できます。

そのとき目が開かれてうろこが落ち、鮮烈な気分に浸るのです。

 


<「身が引き締まる」思い>

ジェイムズは「まだこの崇高な概念(世界観)に達していないでいるすべての人々を傲然と見下す」とまで言っています。

そのような観察を彼は人間についてしてきたのです。



望「そうか。それって『身の引き締まる気持ち』と日本人が言ってるのと違いますか?」


~その通り、勘がいいね。

新たな世界観をえて、自分をその中に位置付けられると、不思議に精神に一体感・統一感覚がやってくるんだな。

セルフイメージに一体感がえられると、それは身体にも連動して心身共に一体感が得られるようになる。

「身が引き締まる」というのは、その感覚を言っているのです。



望「心身の統一感、一体感は、従来味わったことのない鮮烈な快感を人にもたらすのか・・・」


~世界観は、そういう効用を持つのですね。

聖書の世界観も、例外ではありません。
身につければ安定感が増し、快感をもたらしてくれるのです。



望「そうか、そうなんですね。でも聞いていて、そういう快感ってなにか危険でもあるような気がしてきました。
戦前の国家観も一つの世界観ですよね。
これが与える快感は、民族主義とか国家主義気分とかを造りませんか。
そしてそれが戦争に向けての国民操作に利用されたなんてことはなかったのですか?
どうもそういう気もしてきました・・・漠然ですけど」

~望君は分裂気質なんだね。直感が遠くに飛ぶ。
でも全く的外れというわけではない。

望「その話も聞きたいんですが・・・」

~いいけど、いまそれを続けると聖書の話から離れすぎるような気もする。

望「いいじゃないですか。鹿嶋プロフィールには聖書学者でなく、宗教社会学者と書いてあるし・・・」

~う~ん、まいったな。よしっ、次回にはそれを考えてみるか。





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14.冒頭から創造のわざが述べられる

2019年06月29日 | 西洋を知る基督教再入門

 

この「基督教再入門」を筆者鹿嶋は、話し言葉で書いています。
実は、ある若き青年に語りかけているからです。

彼の名は北上望(きたがみのぞむ)君と言います。

この春高校を卒業しました。現役生として大学を受験しましたが、第一希望の大学に合格できなかった。
まだ若いから、と、いま浪人一年生です。

好奇心の強い青年です。途中確かめたいこと、疑問なことがあると、率直に質問します。

話の進行を気遣うことほとんどなく発言する、「空気読めない人間」ですが、それも若さです。


いま筆者は聖書の話に入りました。

 


~聖書は前半が旧約聖書で、後半が新約聖書でなっています。
旧約聖書の冒頭に収められている書物が『創世記』でして、それは次の言葉(聖句)から開始されています。

・・・・・・・・・・・・・・
「はじめに創造神は天と地を創造された」
  (創世記、1章1節)
・・・・・・・・・・・・・・

このように聖書では、初っぱなから、創造神が登場します。

そしてその方が天と地と海を創造される光景から話が始まっています。



<人間が生きられる環境を創る>

創造神は、海には魚を、空には鳥を、そして地には植物、動物を創造します。

これらは人間が生存できる環境です。それを整えた後に、その環境の中に創造神は人間を創ります。

つまり、この「天と地の創造」は、人間に焦点を当ての創造です。

創造神は、人間を男と女に創造し、「生めよ。増えよ。地を満たせ」といい、さらに「全ての生きものを支配せよ」といっています。

+++

これらの創造活動を6日間かけてなし、7日目には創造神は休まれます。

そして、その日を「聖」と定められます。



<世界観の一つとして>

望「奇想天外なことが連続して起きる物語ですね」

~創造神が起こすんだからね、とりわけ日本人にとってはそうでしょう。宿物神イメージしか持たない自然なままの人間が多いからね。

でも、基督教の教典である聖書にはそう書いてあるというのは事実だ。とにかくその事実から出発するのが正解でしょう。


望「こんな話をわれわれはどう受け取ったらいいでしょうか」

~そうだね。答えは「まず世界観の一つとして聞く」だろう。

世のなかには世界観が色々あります。

「人間社会には、資本家と労働者がいて、資本家が労働者を搾取している」というのもその一つだ。


望「それって経済社会だけをみた社会観ですね」

~近代社会の経済面の話だが、経済に焦点を当てていようが、近代に時代は限定されていようが、それも一つの世界観だ。

「こういう社会はいつまでも続かなくて、いずれ革命が起きて平等な社会が実現される」という見方が付け加わってもいい。
それもまた世界観。

もちろん「こういう搾取関係は永遠に続く」であってもいい。それも世界観だ。

とにかく人間である自分を含み、その自分を取り巻く環境世界のイメージは、みんな世界観だ。
ちなみに世界観を全体観と言うこともあるよ。


望「だったら、『世界には怖い神様がいて、悪いことすると死後地獄に落ちて鬼に苦しめられる』というのも世界観ですか?」

~ああ、立派な世界観だ。「生きてる間にウソをついてたら、地獄で閻魔様に舌を抜かれる」というのが加わっても、やはり世界観。

聖書の世界観も、まずはその一つとして知識に加えたらいいだろう。


望「そんな程度の受け取り方でなにかいいことあるんですか?」

~そうだなあ、深い質問やなあ、では次回はそのことを話そう。





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13.理性認識と感性認識

2019年06月25日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

創造神を認識する方法について、少し詳細に考えておきましょう。
 
筆者は~
「端的に言えば、宿物神は「感慨の神」であり、創造神は「理念の神」
              ~と前述しました。
 
 
ですけど詳しく言うと、この「理念の神]は、創造神を認識する初めの時点の状況についてのべたことです。


 

<納得できる認識とは>
 
創造神の理解は、理(筋道)による理性を用いての認識に始まります。
 
だが、人にはもう一つ、感性という認識能力も与えられています。
 
創造神認識も、進むにつれて感性認識が加わらねばなりません。
感性にドシーンと手応えのある認識ですね。

理性と感性の両方を用いた認識でもって、人は納得のできる認識に達するのです。
 
詰まるところのゴールは、それですね。

ちなみに、霊感は感性能力の一つです。
 
+++
 
 
例を挙げて考えましょう。
 
創造神を理(筋道)によって認識する方法は、例えば「時間空間的無限者」、「唯一者」といった把握に現れています。
 
言葉による認識ですね。
 
では、感性認識はどうか。

例えば、戸外に出て上方を見上げてください。
この空も、その下にある全てのものをも、創り出した神を思って、見上げてください。

そのとき、漠然ながら感じられるお方(存在)が、感性(霊感)で認識した創造神です。
 
 
    

<感性認識の弱点>

だが、感性認識には、正確さにおいて弱点があります。

創造神を思って見上げていても、その神様は、空の「中におられる」方とも感じられてくるでしょう。
そのとき、我々は、いつのまにか在物神(空という物質の中に存在する神)である神を感じています。
 
このように、感性による認識は、創造神的になったり、宿(在)物神的になったり、と揺らぎます。

 
 
<言葉の枠に収める>
 
そういう弱点を持った感性認識を、揺れないように「型枠にはめこむ」のが理性(筋道の能力)です。
 
「自分以外の万物を創造した方」「空間的に無限に大きい方」などの枠を与えます。
 
筋道は言葉で与えられます。
言葉は筋道(理)を含んだイメージ形成手段です。

 
 
<福音は「聞くこと」から始まる>
 
最終的に目指すべき創造神認識は、理性認識と感性認識が協働した認識です。
 
そして、その協働のプロセス(順番)を言うと、最初は言葉による理性認識です。

聖書で、「福音は聞くことから始まる」というのは、それをいっています。

創造神という実在の認識は、まず、言葉による理性認識から始まるのだよ、というのです。

そして、その言葉を沢山受信していると、感性認識も湧き上がってきて実在感が増す。
 
具体的には、霊感が動き出します。
霊感は感性のなかの一つの能力です。
 
そこに偉跡(聖書用語では「しるしと不思議」)が起きて実在感は飛躍する。

~これが聖書の示唆する創造神認識の手順です。

 



<聖書の冒頭から>

 
創造神を知る最初の手がかりである言葉は、聖書の冒頭から記されています。

聖書は旧約聖書から始まるのですが、その冒頭の書物は『創世記』です。

それは「初めに創造神が天と地を創造した」という聖句から始まっています。




 
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12.創造神理念は基督教本道の必須基盤

2019年06月17日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

明確な創造神理念は、基督教の核心を保つためにも、決定的な役割を果たしています。
 
 

<福音宣教の二本柱>

先取りして言うと、基督教の究極の教えは、結局はイエスの教えになります。

イエスはイエス・キリストとも言いますね。
イエスは創造神の御子の名です.

キリストは人類の「救い主」という、職分を示す名です。
創造神から御子イエスだけに与えられた職分です。

だからキリスト・イコール・イエスとなり、基督教はイエスの教え、となるわけです。
 
旧約聖書はその背景を描く書物です。

 

そのイエスの教えを福音(グッドニュース:良い知らせ)といいます。

その知らせのエッセンスは~

「『イエスを創造神の子で救い主』という知らせを否認しないで受容すると、その霊はいのちをもって永続する」

~というものです。

その知らせ(福音)を伝える働きを、イエスは弟子たちに命じるのですが、それは二本の柱でなっていました。

① 福音を宣教すること。

② それを「しるし」で証明すること。

~がそれです。

そのことはたとえば次の聖句に現れています。
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「それからイエスは弟子たちにこう言われた。
『全世界に出て行き、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。
・・・(中略)・・・信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名の中で悪霊を追い出し、
・・・・(中略)・・・、病人に手を置けば病人は癒やされます』
・・・(中略)・・・そこで彼らは出ていって、いたる所で福音を宣べ伝えた。
主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしをもって、御言葉を確かなものとされた」
(マルコによる福音書、16章15~19節)
・・・・・・・・・・・・・

 
ここに、①宣教せよ、②それをしるしで証明せよ、という二本柱が示されています。

「しるしをもって確かなものにされた」というのは、実際には「そう命じられ、弟子が従って、働かれた」ということです。(この詳細は後述します)

それはまた、弟子たちに宣べ伝えられて福音を受容し、みずからも宣教するようになった人々にも適用される命令です。

この、②「しるし」でもって証明しながら、①教えを宣べ伝えていくところが、一般の宗教と一線を画する基督教の特質です。
 
 
 

<「しるし」は「証拠」>


「しるし」は、聖書では「しるしと不思議」とも記されますが、日常語では「証拠」です。

 証拠と聞くと、ストレートには「(弟子たちが語る)見えない世界の事柄」を、見えるようにして示すこと、が想像されるでしょう。

それを聞く人に幻や映像をみせるなどしてね。

だがそんな幻は、イエスも見せなかったし、弟子たちも見せませんでした。



<御言葉の証拠とは?>


代わりに彼らは、超自然な事象を現しました。

その代表例が、病の超自然的な癒しです。

「悪霊追い出し」もありますが、ここでは神癒(しんゆ:創造神がなされる癒し)を主にとりあげます。

+++

超自然な癒しは、観察する人々の心理には「しるし」(証拠)になるのです。

人間は、超自然現象に直面すると、それを現す人が、見えない世界にあるスーパーパワーをもった神に通じていると、直感するからです。

それは、聞く人々の心から「口だけなら何とでも言えるサ」という気持ちを吹き飛ばします。

そして語られる教えに、文句なしのリアリティ(実在感)を感じさせます。
そういう意味で、証拠(しるし)になるのです。

 
 
<創造神理念の不明確な人にも効くが>

この心理(感情)は、「万物の創造神」という理念を明確に持たない人の心にも、一応生まれます。

だれでも、巨大なパワーらしきものを感じたら、一瞬素直になりますからね。

「笑わせるな」と思って聞いていても、その瞬間には姿勢を正します。

+++

だが、出来上がる心理は「バクゼ~ン」とした感情のままです。

不思議事象が「奇跡」として受け取られるからです。
奇跡とは、理解できない「奇異な出来事」です。

心理はそれ以上に進展することなく、認識は漠然としたままで、時とともに、その感覚は薄れていきます。

 
+++

もし宣教が受け容れられ、そこで基督教活動がなされるとしても、概してそれは枝葉的な要素が満載なものなります。

愛、倫理道徳、敬虔な人生などが主要テーマになったり、人格形成のための修養、美しい賛美歌、楽しいサークル活動などが主要活動になったりします。

日本の基督教活動は、概ねこの状態にあります。

それ自体、悪いことではありませんよ。

だが、道徳や人格形成だったら、もっと丁寧に縛ってくれて教えてくれる宗教は他にありますよ。

だから日本の基督教は普及しないのです。

 
 

<創造神概念が明確にあると>

けれども、万物の創造神という概念が明確に意識にある場合は事態は異なります。

万物の創造神は、天国も、宇宙も、そのなかの空も海も全て造ったスーパーパワーの持ち主です。

その方にとっては、例えば、一人の人間の脚萎えを治すなど、人が手の平にのせた髪の毛を吹き飛ばすよりも楽なことです。

衰えた筋肉を再創造してあげるだけのことですから。

創造神の創造のわざは、「創世記」の冒頭に描かれた時点に限定されないものですから。

~そういう理解が可能になります。

+++

この場合、弟子たちの宣教に伴う不思議事象は「奇跡」(奇異な出来事)ではなくなります。

「偉跡」(いせき:現れるべくして現れる偉大な出来事)となります。

『使徒行伝』には弟子たちの宣教活動にともなうしるしが記録されていますが、それらをすんなりと「事実を述べたもの」と受容できるようになります。

そういう「理解」のともなった認識になるのです。

+++

すると、上記「マルコによる福音書」の聖句が示す事態の実現に向けて、正道を進めるようになります。

詳しくは後述しますが、実際の話、当初は②の「しるし」はほとんど現れません。

にもかかわらず、実現を求めて聖句を探究・吟味する道を進む姿勢が生まれる。

そして、実際、続けるとあるとき、①宣教に、②しるしが伴う、ようになります。

+++

証拠は、宣教するのに有効なだけではありません。

宣教を受けて福音を受容した人が、受容当初の霊識を維持するためにも、役立ちます。

人間は当初の衝撃を忘れますから、以後もしるしは必要なのです。

イエスも、弟子たちの前で何度も偉跡を示しています。
 
+++

がともあれこのように、明確な創造神理念は、福音宣教の本道を進むために不可欠な要素となるのです。

 
 
 
 
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11.「ノアの大洪水」が"理解”できない

2019年06月15日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

本文に戻り、創造神の話に戻ります。

~えっ? まだ創造神?
創造神の概念を、どうしてそんなに長々と語るの ?

~そうお思いかも知れませんが、続けます。

この概念を明確に意識に住まわせていることが、基督教の本質を知るのに不可欠だからです。





<ノアの大洪水>

聖書では、一般の神話をはるかに超えた、大スケールの出来事がたくさん語られます。

たとえば、何日も大雨が降って、地球の全表面が水で覆われてしまい、ほとんどの生きものが死滅してしまう、という事件も記されている。

「ノアの洪水」と言われる有名な出来事です。

 
 

<在物神感慨で認識>

これなど、この世の全てを被造物として創った創造神の概念を明確に持っていてはじめて、イメージがついていきます。


宇宙の全ても造った、無限の広がりをもった創造神だ。宇宙のなかの小さな点にも充たない地球を水で覆うなど、何でも無いことだ、現実的なことだ~とイメージできます。

ところが、万物の創造神の理念が明確でないと、そうならない。

そういう、筋(理)がわか(解)るということが心起きません。

「理解」が生じない。

+++

するとどうなるか?


~ああ、なんか、カミサマだから不思議なことをなさるんだろうなぁ・・・としか思えない。

心に生じるのはそういう感慨のみです。


だったら、在(宿)物神宗教やってるのと変わらないでしょう。


日本のキリスト教の大半は、そういう現状です。

だけどそれなら、わざわざ基督教を学ぶ意味はなくなってしまうのです。


(続きます)




 
 
 
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(緊急訴求!)「死んでおしまい」の拷問から子孫を守る

2019年06月04日 | 西洋を知る基督教再入門
 
 
 
(臨時版です)
 
 
「引きこもり中年」による事件が立て続けに起きています。

こいう事件は、まずはテレビが大きく扱って世論をリードします。

だが、NHKも含めたテレビ放送で発せられるコメントには目を覆うばかりです。


人間の根本的な心理的構造にあきれかえるほどに盲目なのです。

この報道自体が、この問題が含む病根を体現してしまっているのです。

+++

結論的なことから言うと、問題は次の思いから発しています。
すなわち~

「人間死んでおしまい」なら、人の全ての営みは、つまることろ、価値はない、無価値だ」

「だったら、オレはいま生きてても価値はない。他の人間も同じだ。いつ死んだって同じことだ・・・」

~この心理です。

 

<飢えの恐怖に変わって出現するもの>


敗戦後の日本の歴史は、「飢えへの怖れ」からの解放されたい、という思いに牽引されてきました。

高度成長政策の根底動因もそれでした。

飢えの恐怖がある間には、身体がもつ「生きよう」という欲求が、上記の人生哲学「死んでおしまいなら生きることは無価値だ」を圧倒してきました。

「腹が減る苦痛」の方が大きかったのです。



だが、国民の多くに“飢える”ことがなくなると、次に巨大な問題が現れます。

飢えの恐怖がなくなると、子供達は、「生きたって価値ない」という思いにまともに襲われるのです。

 +++

肉体だけ見ていたら、「人間は必ず死んで消滅する」という知識は蓄積していきますよ。
「おじいちゃんも死んだ、お祖母ちゃんも死んだ、そしてもう帰ってこない」・・・それを幼少時から体験・観察するので、「死んでおしまい」の意識は自然に育つのです。

1980年代にすでに、子供達は、その「死」の意識に抑圧(depress)されるようになっていました。

 
 
 
<技術能力だけが突出した民族>

 

だが日本の大人はそのことに、鈍感でした。


その鈍感さは、驚異的でした。

日本人は、現世的な技術能力だけが異常に突出してる民族です。

だから、1868年の明治維新以来、瞬く間に西欧の科学技術、社会技術を模倣吸収し、列強に対抗する軍備を備えてしまいました。

+++

だがその反面、哲学能力の資質は驚異的に幼稚です。

だから大人は、子どもを襲う「死の抑鬱」を霊感出来ない。

そういう、「哲学のない」大人たちが、世の常識価値に気を紛らわしながら、心理的にはかろうじて生きてきた。

これが、戦後日本の歴史なのです。



 だが、飢え(身体的死の恐怖)のなくなった子どもたちの心理には、幼いときから「死んでおしまいなら人生無価値」という哲学が漠然と浸透してきています。

「世の常識価値」の追求などにごまかされない、紛らわさることのない虚無感が心を侵食しています。

 

この心理は「抑鬱」です。

日本でうつ病をいう、その「鬱」そのものです。



 
 
<抑鬱は拷問の苦しみ>

 

抑鬱の苦しみは、拷問の苦しみですよ。

身体的拷問も、究めると、爪の根元への痛みとか、身体の心奥部分の痛みを与えていくようになるでしょう。

抑鬱の苦しみは、心の根底での心奥の拷問です。

人の身体は「生きよう」という生来の志向を素直に持ったままです。

その根底的な思考を、「死んでおしまいだから生きても無価値」という意識が、上からじわじわと押さえつけるのです。

身体と違って、心奥のものには、人工的に工作を施すことが全く出来ません。

これは、拷問の極なのです。

+++

これに根底から対抗できるのは「人間死んでおしまいでない」という人間観のみです。

漠然とした気分としてなら、人間はそういう意識を持っていますよ。

だから、日本人も葬式をするし、位牌を家に飾ったり、墓石を作って拝んだりしてきています。

だが、それは「バクゼ~ン」なのです。

それでは力が無い。


 
力ある考えは~

 

「人は肉体と霊とからなっている」

「肉体は百年もすれば死んで消滅するが、霊はそれを抜け出して永続する」

~これを骨子とした、論理的に詳細で、理性も”しかと”納得するような、人間理論です。

 


<馬鹿にしているときではない>

そして、それを理性的に、詳細に教えてくれるのは、聖書という書物のみなのです。

こう言うと戦後の大人たちは、「宗教か」「鰯の頭も信仰か」「笑わせるな」といってきました。

だが、もうそんなこといってる時ではないのです。

 

この書物を大人達は、馬鹿にしないで、すなおに、率直に吟味検討すべきだ。

そうしないと、もう、日本は国民の心理から腐食し、崩れていくのです。

 

 

ただし、その気になっても、日本の教会には行かないことです。

残念ながら当面、日本の牧師さん達には、霊という要素に、正面からら取り組む度胸も、知力もないです。

で、もっぱら「愛、愛」と教えている。

確かに愛も聖書が教える大事な要素ですよ。

+++

だがいま必要なのは、聖書の教えのなかの、「人間構造論」です。

聖書は、その理論だけでなく、それが事実であると、人間が、奇跡(超自然的、霊的事象)で証明する方法をも教えています。

 奇跡は偉跡とも言い、その主要事象は病の「癒し」ですが、その力を得る方法も教えています。

(そして、それは実際にできます)


 
 
<救うのは会社人、役所人たち>

会社、役所ではたらく、あなたたち大人が、直接この解読に取り組むのです。

 

まず、一人でやります。

個人の聖書解釈自由の原則に立って、怖れずに吟味検討します。

そして同じ活動をする人々と、数人の小グループをつくって吟味会をします。

 +++

「う~ん」なんて言ってるときではありませんよ。

これを始め、続けるしか、「引きこもり⇒凶暴化」の種を打破する道はないのです。

 

 

 
<本も知的充足だけで終わった>

筆者、鹿嶋は、その解読の手引き書を書いてきました。

膨大な聖書内容に途方に暮れることを避けるために、まず、一時的な手がかりになる、解読を書いてきました。

幸いにして、本にして出版してくれる出版社(編集者)も出ました。

+++

だが、読んだ人々は、それで一時の知的充足を得るだけでした。

それ以上の受け止め方は、しませんでした。

その結果、一時的に小さな流行本になった後、いまはみな、古本になってしまっています。

新潮社の『聖書の論理が世界を動かす』『誰もの聖書を読むために』『神とゴッドはどう違うか』などは、みなそうです。

+++

だが、人間の構造を図によってわかりやすく示した本も、中経出版さんは発刊してくれました。

『図解・聖書のことがよくわかる本』がそれです。

この会社は、その文庫本をも作成しました。

(いまは、株式会社KADOKAWAと合体しています)

タイトルは

『聖書が面白いほどわかる本』(中経の文庫)となっています。

こちらも、中古本しかありませんが、kindle版の電子ブックも出されています。

紙の本はどちらも中古本として、いまも、アマゾンで、少数ながら手に入る状態にあります。

+++

これを右手に、バイブルそのものを左手に、聖書の自由吟味に乗り出してください。

並行して解読者で小グループを組んでの吟味会をすれば、理解は倍加します。


 
<子孫を拷問から守るため>

「ひきこもり」はあなががた大人だけの問題ではありませんよ。

あなたの幼い子、孫が、このままでは、「死の抑圧(depression)」の拷問危機のもとでいきることになるのです。

この意識波動を受けたら、拷問され、ひきこもりになり、凶暴化するのです。

あなたがた夫妻も、恐ろしい家庭暴力の恐怖の中で生活することになるのです。

+++

「死んでおしまいなら、今死んだって同じことだ!」

「それはオレにだけではない。あの、スクールバスで通学している子供達にも同じことだ」

「彼らも、今死んだって同じことなのだ!」

この考えは、「人間死んでおしまい」の考えからは、ごく自然に出てくるものなのです。


@@@@@@@

(追伸)

この(臨時版)には関連記事が、下記にあります。


 

タイトルは「イエス最大のプレゼントは永続確信」です。

そして、それに続く七つの記事が、そのまま下に向かって降順で読めるようになっています。

(永続確信1~7の記事です)

ご参照ください。
 
 

 
 
 
 

 
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10.創造神は「唯一者」

2019年06月03日 | 西洋を知る基督教再入門


この機会に、万物の創造神には、もう一つ「唯一者」(ただお一人の方)という属性も「筋として」出てくることを見ておきましょう。


 
 
<唯一者>

それは「二人以上いたのでは、筋として成り立たない」ことをみればわかります。

たとえば、「オレは自分以外のすべての存在を創造した創造神」だ、と主張する存在が、A神様とB神様の二者いるとしたらどうなるでしょう。

A神からみたら、B神は被造物になります。
ところがB神からしたら同様に、A神は被造物となってしまうのです。

つまり、「自分以外の万物」を創造した創造神が二人以上いるというのは、筋として成り立たないのです。

ごく当然になりたたなくなる。
創造神は、唯一者となるべくしてなっている唯一者なのです。



@@@@@@@@

(ここからは聖句に慣れていない人はスキップしていいです)



<聖句照合>

この推論に呼応している聖句は、たとえばこれでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「まことにこの主(創造神)がこう仰せられる。
"わたしが主である。他にいない"」
 (イザヤ書、45章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

もしも、反対の意味を持った聖句、例えば「私の他に創造神はもう一人いる」といったような聖句しか見つからなかったら?

どうしてもそれしか見つからなかったら、筆者はその推論を破棄します。
そして再吟味します。



<聖句主義(Biblicism)>

このように最終権威を推論(解釈)でなく、聖句に置くという生き方を、バイブリシズムといいます。

米国南部のバイブルベルト、と呼ばれている地域の教会の用語です。

筆者はそれを聖句主義と邦訳しました。
そして筆者もまたその立場に立って、この基督教再入門をすすめています。

バイブリシズムについては、後にもう少し詳しく説明いたします。

@@@@@@@@

 
 

<ニッポン知識人の愚かさ>

(ここからは全てが読んでください)

余談です。
神概念をよく考えることもしないで、格言の如くに公言されているフレーズが日本にはあります。

「西洋の神は他の神を認めない独善の神だから、西洋人は寛容の心がうすい」とか、
「それに対して日本人は多神教だから寛容だ」とかがそれです。

あちこちでまき散らされている言葉ですから、読者も見聞したことあるでしょう。

だがそれは事態の構造を見ていない。
事象の上っ面をみているだけの妄言です。

悲しいことに、こういう妄言を、日本では、知識人と言われる人々がヌケヌケとマスメディアを通して公言している。

マスコミ人もそれを恭しく拝聴して報道しています。

~それによって、日本の国際政策も、日本人の国際行動も、的外れになってしまっている。
その結果、被らなくていい損失を被り続けています。

なんと愚かなことでしょうか。

民族のこういう愚かさを無くすためにも、創造神概念を入念に知っておくことがいかに大切か。

そのためにも「基督教再入門」はなくてならないものなのです。

(続きます)





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9.創造神は「時間的無限者」

2019年06月02日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

前回、創造神は空間的無限者と申しました。
これと同じようなことが、時間についても言えます。



<永遠の過去から>

万物の創造者は、無限の過去から無限の未来に渡って存在する、時間的無限者であって、はじめて筋が通るのです。

なぜなら、もし、過去の存在に出発点があったら、それ以前のものは「オレが創った」とは言いがたいでしょう。

「万物」はそれ以前にも存在した可能性があるからです。
それも含めて、「オレが創った」と言えるためには、自分自身が無限の過去から存在していないと、筋が通らなくなります。



<永遠の未来へ>

未来についても同じです。
自分が未来の一時点で存在しなくなるのなら、それ以後に出現するものは「おれが創った」とは言いがたい。
 
だから、「万物の」創造神であるのなら、未来にも無限に渡って存在するのが筋となります。

+++

そしてこの2つのイメージを合体させると、創造神の属性である時間的無限者のイメージはできあがります。

 

 
<永遠イメージを創成する>

「時間空間的に無限」というイメージも、心に作ってみましょう。

まず、「無限の過去」のイメージから。
 
最初に、いまより過去の一定期間を意識します。
それには「はじまり」の時点があるでしょう。
 
この期間をさらに、さらにと過去に押し広げます。
「はじめ」の時点は遠ざかっていきます。

それをどんどん続けます。

黙想(瞑想)を加えていきます。

すると「はじめ」の意識が薄らいでいきます。
そして無限の過去イメージだけが残っていきます。

こうして「永遠の過去」のイメージは出来上がります。

+++
 
「無限の未来」のイメージの作成も、「無限の過去」のイメージと同様です。

未来の一定期間をイメージすると、最初はその終わりの壁が意識に現れます。
それをどんどん先に広げていきます。

瞑想(黙想)を加えて続けていくと、壁のイメージは希薄化し、無限の未来イメージができていきます。
 

そして、この2つのイメージをつなぎ合わせると、創造神の時間的無限者イメージはできあがります。

 
 
 
<イメージ形成を助ける賛美歌>

賛美歌にも時間的永続者のイメージ形成の助けになるものがあります。
賛美歌497番などはそうでしょう。
 
歌詞の1番は、こうなっております。
   (括弧内にその意味を記します)
 
 
天(あめ)なる日月(ひつき)はまきさられ、
   (天にある太陽も月も風化して) 
 
土なるものみな崩るとも
   (地にある全てが崩壊しても) 
 
常世(とこよ)にわたりて統(す)べたもう。
   (永遠にわたって統治される)
 
主イエスぞ常磐(ときわ)にかわりなき。
   (主イエスは永遠に変わりがない)
 
 
(以下はリフレイン部)
 
あめつち跡なくくずるとも
 
主イエスぞときわにかわりなき
 
かわりなき、かわりなき、
 
主イエスぞときわにかわりなき
 




YouTubeで聞くことも出来ます。

 

+++

聖書ではイエスは創造神の子です。

馬の子が馬であるように、創造神の子も創造神です。

つまり、これは創造神が時間的無限者であることを歌っているのです。



<聖句照合>

聖句との照合もしておきましょう。

時間的無限者という筋には、たとえば次の聖句が呼応しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主は永遠の神」
 (イザヤ書、40章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

(続きます)





 
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8.創造神は「空間的無限者」

2019年05月31日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

前回、創造神イメージは、理屈(筋道)を含めた神イメージだと申しました。


端的に言えば、宿物神は「感慨の神」であり、創造神は「理念の神」なんですね。



<空間的無限者>

理念はそれにつながる理屈を次々に産み出していきます。

理性がその理屈を活かし~

「万物を創造している方」であれば「空間的無限者」だろう、という筋道(理屈)を産んでいくのです。
 
+++

どういうことか、といいますと~

もし空間的に有限な方だったら、その境界線の外側のものを「オレが創った」というのは、筋が通らなくなるでしょう。

境界線の外側にも、ものが創造され、現れる可能性は常にあるからです。

外に現れるその「もの」も「万物」の一つです。

そして、そういう創造がなされる空間が「自分の懐のうち」になかったらどうか。

「それはオレが創った」とは言いがたくなるでしょう。


 

であればその有限者は「万物の」創造者ではなくなります。

ですから、万物の創造神は空間的に無限な広がりを持った無限者でなければなりません。

空間的無限者であって、はじめて筋が通るのです。




<聖句照合>

(ここは、聖句に慣れていない人はパスしていいです) 

では、この推論に、聖句は呼応しているかを見ましょう。

聖書にはずばり「無限大」という用語はありません。

無限大というのは「限りなく大きな存在」という意味を持った聖句に触発されてできた数学用語の性格が濃いです

聖句では次のような言葉が、「創造神は空間的無限者」なる思想に呼応していると思われます。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは有りて在るもの(自存者)
 (出エジプト記、3章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
「有りて在るもの(I amu who I am)」とは、「存在するのにいかなる前提も条件も要しない、自分だけで存在しているもの」という意味で、自存者とも訳せます。

(被造物はすべて、創造者という存在があって~その存在を前提にして~はじめて存在できるものです)

この自存者なる存在は、他の全てを自らの懐に含む、無限に大きい存在と考えられるわけです。

+++

他にもこんな聖句が呼応していそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「創造神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も諸天の天も、あなたをお入れすることはできません」
 (第一烈王記、8章27節)
・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたは諸天の天と、その軍勢、地とその上のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます」
 (ネヘミア記、9章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・



<無限空間イメージの創成>

創造神イメージは、自然発生してくれないものです。

その属性である空間的に無限というイメージもそうですので、ここで、この無限空間イメージを、意図的に意識につくっておきましょう。

まず、自分の身体の上下左右の空間を意識します。
外側には壁が意識されるでしょう。

次に、それを上下左右に向けて広げていきます。
そういう状態をイメージします。

広がっても、当初はやはりその外側に壁があると意識されます。
だかまわずどんどん広げます。

黙想(瞑想)を加えていきます。

するといつのまにか、壁の印象が薄れて、限りなく広がり続く空間イメージになるでしょう

上手くいかない人はそれでいいです。
時の流れの中で、無限空間のイメージは得られていくでしょう。

(続きます)



 
 
 
 

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7.創造神イメージには「理屈」がある

2019年05月29日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

前述したように、宿物神イメージの中身は、物質に触発された「神秘的な感情・感慨」のみでした。

そこには、神を説明する「言葉」は含まれていません。


社殿の奥を拝んで「ウーン」と念じても、お地蔵さんや仏像に手を合わせても、人の心に生じるのは漠然とした感慨のみです。
最近、天皇陛下の退位とかで、涙で手を合わせている人民の姿がテレビで繰り返し放映されましたが、彼らの心理もそうでしょう。

感慨・感情は心にジーンとくるような「実感の重み」のようなものは与えますが、「この神とはこれこれのものだ」という言葉による定義や説明はないのです。

言葉がなければ、「理解」もありません。

いってみれば、宿物神(在物神)は自己説明をしない「感慨の神」なのです。

では、創造神イメージはどうでしょうか。
今回は、それを考えましょう。



<創造神イメージには当初実感がない>

創造神イメージの形成プロセスは、つぎのごとしです。

① まず(万物の)創造神という言葉を投げかけられます。

② 創造神という名(言葉)は、「自分以外の万物を創造した神」という属性の説明を、自らの内に(当初から)含んでいます。

③ それを受信すると、心にそのイメージが理念として形成されます。

④ そのイメージは、抱く当人に、当初は何の感慨も与えません。

⑤ その実在感は、事後的に増大させうるものです。


 

余談です。

上記で、理念の「理」とは「筋道」です。

「念」は「深く意を注いだ思い」です。

「念を込めて」といいますね。
「念力(深い思いが発揮する力)」ともいいますね。

~あの念です。

だから理念とは「筋道だった深い思い」となります。



ついでにもう一つ余談を。

こういう流れの話を聞くと、「ああこの著者は、自分がクリスチャンなものだから、創造神イメージの方に読者を持って行こうとしているな」との心配をする人も出るでしょう。

心配ご無用。

「神について理解なんていらない、神の本質は神秘的な感慨だ」という思想もれっきとしてある。
これを、神秘主義といいます。

それがいいという人は、堂々とそっち(宿物神イメージ)を選んで人生を歩めばいい。

大切なことは、対極的な姿勢をも知ることです。

両者を知った上で、一つを選んだらいいのです。



<代わりに理(筋道)がある>

話を戻します。

理念で出来ている創造神イメージは、当初心にジーンとくる感慨は引き起こさないのですが、その代わりに、心の中には言葉で説明された「理屈」を含んでいます。

「この神様は自分以外の万物を創造しているのだよ」というような「理屈」ですね。

+++
 
理屈とは、「筋道」だった思想です。

先ほど理念は「筋道」だった「念」だと言いましたが、念より「思想」の方がもう少し具体的なニュアンスを持っています。

+++

筋道のことを、漢字で「理」とも書きます。
 
よく、「人間には感情とともに理性が与えられている」といいますね。

この「性」は「能力」を意味しています。
つまり、理性とは理(筋道)をイメージに描く能力なのですね。

だから「感情と理性が与えられている」という上記のフレーズは、「人間には物事に対して、感情を抱く能力とともに筋道を描く能力も与えられている」よ、といっているわけです。

         

この筋道能力が創造神イメージには大いに関与しています。

だが、どう関わっているか、というあたりはもう少し具体的でないと、わかりづらいですね。

次回に具体例を挙げて示しましょう。
 
(続きます)




 
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6.宿物神イメージ、恐れ、仲介者、神官。

2019年05月28日 | 西洋を知る基督教再入門

 

ここで宿物神(在物神)と創造神 ~この二つの神イメージが人間の意識のなかでどうなっているか、その心理状況について、今一歩踏み込んで考えておきましょう。

人の心理は複雑ですが、まずは単純に、感情と理性の二つで成っているというメガネを通して吟味しましょう。

今回は、宿物神イメージについて。



<宿物神イメージの中身は感情と感慨>

宿物神イメージの中身の特徴は、フィーリング(感情)だけで理論がないことです。

それは次のようなプロセスで形成されます。

① まず物質を認知します。

② その物質の内に、「自分に影響を与える見えない存在」が、オートマチックに、理屈抜きに意識に浮かびます。

③ その影響に「善きもの」と「悪しきもの」との両方を漠然と予想し、前者に「期待」の、後者に「怖れ」の感情を抱きます。

④ その存在に「崇高」「拝すべき」といった感情も抱きます。

⑤ それらの感情を集合・併存させて、意識に(宿物)神イメージを形成します。

 
   
 
 
<「恐れ」の感情を内包する>

ちなみに宿物神イメージはそういうものですから、「怖れ」の感情を必ず含んでいます。

「悪しき影響を及ぼしてくる」ことへの恐れですね。

このイメージの中身はすべて「感情」ですから、人はこれを理性的に~論理でもって~処理することができません。

だから神イメージが在物神イメージだけの人は、漠然とした恐怖を心に内在させながら、生きることになります。

 
 
<仲介者が現れる>

こういう状況では、「この神を知ってるよ」というジャスチャーをとるものが通常現れます。

すると人々は、彼に神と自分との間の仲介を依存するようになる。

こういう依存者が、一定の地域や国の中に増えると、彼は容認された、神との仲介者になります。

祭司・神官の出現がそれです。

彼らは、人々への精神的支配力(権)をもっていきます。

それにつれて多額の富も、彼らのもとに集まってきます。


(続きます)

 

 

 

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